第1話 異世界への扉・ナポリタンの記憶
午前十一時。東京の下町にひっそりと佇むパスタ屋「男のパスタ道」の扉が開く音がした。店主・佐伯大輔は、厨房の奥から顔を出した。今日は特に仕込みに手間取ったため、開店準備がギリギリになっていた。
「いらっしゃいませ!」
大輔の声は、どこか力強く響く。彼が生まれ育ったこの地で、自分の理想のパスタを作り続けて早十年。大輔はイタリアで修行を重ね、帰国後夢だった自分の店を構えた。だが、都心から離れた路地裏の店に客足は少なく、日々の売上に頭を悩ませていた。それでも、「自分の道を貫く」ことこそが大輔の信条だった。
今日の最初の客は、常連のOL・真理子だった。彼女はナポリタンを注文し、雑誌を読みながらゆっくりと過ごす。大輔は淡々とパスタを茹で、お馴染みのソースを手早く仕上げた。にんにくの香り、トマトの酸味、ソースを吸った麺。テーブルに運ぶと、真理子は「やっぱり最高!」と小さな声で呟いた。
「ありがとうございます。今日も変わらず、“パスタ道”を守ってますから。」
大輔は厨房に戻り、洗い物をはじめる。その時、店の端に設けた小さな収納スペースが妙に気になる。昨日の夜、ゴミ箱を動かそうとした瞬間、奇妙な輝きを見たような記憶が蘇る。念のため覗き込んでみるが、何も変わった様子はない。
「きっと疲れてるんだな……」
営業終了の午後二時。今日も静かな午後。片付けを終え、店主は休憩時間にコーヒーを淹れていた。再び収納スペースに目をやると、ほんのわずかに扉が開いていることに気づく。重い扉のはずなのに、自分で閉めた記憶があるのに。
胸騒ぎを覚えつつ、大輔はゆっくりと収納スペースの扉に手をかける。ギギ……と古びた蝶番の音を立てて扉が開くと、奥には見覚えのない闇が広がっていた。
「なんだ、これ……?」
まるでブラックホールのように吸い寄せられる感覚。大輔は思わず足を踏み入れてしまう。すると──世界がぐにゃり、と歪んだ。
***
「……?」
目を覚ますと、そこは不思議な空間だった。床は石畳、壁は木造。空気にはほのかに牧草と土の匂いが混じる。見回すと、自分の店の内部のようでもあり、違うようでもある。窓から見える景色は、見慣れた東京の町とは明らかに違っていた。
「お帰りなさいませ……ご主人様?」
まるでメイドカフェのような台詞が響く。振り向けば、耳の尖った少女が一人、恭しくお辞儀をしていた。年は十六七、亜麻色の髪と深い緑の瞳。
「な、なんだ君は……?」 「わたし、エルフのリーシャと申します。この村の精霊に言われて、“男のパスタ道”の新しいご主人様が現れると聞いて……」
状況が飲み込めない大輔。だが、少なくとも危害を加える様子はない。店内をよく見ると、自分の店とそっくりだが、どこか手作り感のあるカウンターや椅子、棚には木製の皿と素焼きのコップが並んでいる。厨房には持っていたはずの調理道具はなく、見慣れない鉄鍋や焚き火があるだけだった。
「ここは……どこなんだ?」 「はい、エストリナ村の外れ、“パスタの家”と呼ばれる場所です。精霊様の言葉では、“時を超え、異世界から偉大なる料理人がやってくる”と……」
リーシャは緊張気味に、だが確かな目で大輔を見つめていた。
「冗談みたいだな……」 「ご主人様は、こちらの世界で美味しいパスタを作ってくださる方なのですね?」
大輔は無意識にうなずいていた。混乱はあったが、不思議と心は落ち着いていた。厨房を見渡して、材料を確認した。小麦粉、卵、牛乳、そして地元で採れた新鮮な野菜。思わず職人の血が騒ぐ。
「……とりあえず、できる物を作ってみようか。」
簡素な厨房。けれど、何もないわけじゃない。これが本物の「男のパスタ道」──どんな状況でも自分の作る道を進む、それが自分の流儀。そう、たとえここが異世界でも。
目の前にあるもので、生まれたてのパスタを打つ。エルフの少女・リーシャは、興味津々でその様子を見ている。
「すごい……! まるで魔法みたい」
麺ができあがり、鍋で茹でる。地元のトマトでソースを作る。香りが立ちこめ、店内に新しい風が流れる。
「おまたせ。これが、僕の“男のパスタ道”──最初の一皿だ」
リーシャはそっとフォークを手に取ると、一口、口に運んだ。
「美味しい……こんな味、食べたことありません!」
笑顔が咲いた。その瞬間、大輔は確信した──これが、自分の新しい道だ。現代から異世界へ。「男のパスタ道」は今、二つの世界を繋ぐ冒険を始めたのだった。
「美味しい……!」
リーシャの大きな瞳が、感激の色で一層輝いた。今まで見たこともない料理が、彼女の目の前に置かれている。少し太めの麺はうっすらと艶やかで、上には赤々とソースがまとっている。畑で取れたばかりの野菜がたっぷり散りばめられ、仕上げのパルメザンチーズが仄かに香る。それは、大輔が自分の店でもよく作っていた、“昔ながらのナポリタン”だった。
「この味、どうやって作っているのですか?初めて食べるのに、どこかほっとします……」
リーシャはフォークさばきもぎこちなく、けれど一生懸命に、ナポリタンを口に運び続けている。大輔はその姿に温かなものを感じた。
「これがナポリタンっていうパスタだよ。日本生まれのオリジナルレシピなんだ。イタリアンとは少し違うけど……俺にとっては、特別な一皿なんだ。」
大輔は小さく笑い、リーシャが興味津々の眼差しを向け続ける中、自分自身の記憶を辿り始めていた。
***
子供の頃、大輔の家は決して裕福とはいえなかった。両親は共働きで、家に帰ると時折父親が夕飯を作ってくれた。その父親は、料理が得意というわけではなかったが、不器用ながらも「オレの必殺メニュー」と言って何度も食卓に出してくれた料理があった。
それが――ナポリタンだった。ケチャップの酸味と甘みが絡んだ太めの麺。ピーマン、玉ねぎ、時々ハム。香ばしいバターで炒めあげると、食欲をそそる独特の香りが家じゅうに広がる。
「これが父さんの“男のパスタ道”だ。」
父は冗談っぽく胸を張り、大輔はそれに素直に笑っていた。決して洒落たレストランの味ではない。けれど、自分のためだけに作られた物、家族が囲む温かい食卓、そのすべてが大輔にとっては一番美味しいご馳走だった。
やがて、父が亡くなってから――大輔は料理を志し、父と同じく「自分の道」を持ちたいと強く思うようになった。イタリア修業の後、店を開くとき、メニューに迷いもあったが、父のナポリタンだけは必ず載せると決めていた。それが、自分の“原点”だからだ。
***
「……このソースは、トマトという野菜を使って作るんだ。君の村にもトマトはあるよね?」
「はい! でも、これほど濃いソースは初めてです。それに、とっても滑らかで、麺にすごくよく絡みます。魔法みたい……」
「魔法じゃなくて、技術ってやつかな。ケチャップだけだと甘すぎるから、生のトマトや煮詰めたトマトを合わせてる。それと、麺を仕込む時にも少し工夫があるんだよ。」
大輔は、地元の小麦粉をブレンドし、手作業で麺を練り、できるだけ太めに切った。村の卵、搾りたてのミルクを加えると、自然なもちもち感が出る。麺を鉄鍋で軽く炒めて香ばしさを足し、地元の野菜とあわせて「この世界だけのナポリタン」に仕上げたのだ。
「本当にすごいです。村長にも、みんなにもこのパスタを食べてほしいです!」
リーシャは、興奮した声でそう告げた。その気持ちは、大輔にも伝わる。料理は人と人とをつなげる。彼はそれを、父のナポリタンで知っていた。
「それなら、みんなを呼んでごらん。でも……材料が続くかわからないから、少しずつだぞ?」
「はいっ!」
リーシャが嬉しそうに店を飛び出していくのを見送り、大輔は厨房へ戻る。手元には、この世界の食材。まだ調味料や保存方法もすべて分からない。けれど、作るべき味は、心の中に確かにある。
(父さんの味――俺のパスタ道。世界が変わっても、ここから始めよう。)
****
陽が傾きはじめる頃。リーシャが何人かの村人を連れて店へ戻ってきた。年配の男性、体格のいい若者、小さな子ども。みな、初めて見るパスタに興味津々だ。
「ご主人様、大丈夫ですか? これだけの人に作れるでしょうか……?」
「任せてくれ。」
大輔は、静かに微笑む。人数分のパスタを仕込み、村人たちにナポリタンが配られると、たちまち店内には笑顔があふれた。「こんなおいしい食べ物は食べたことがない」「こんな麺、初めて」「また明日も来ていいですか?」。村人たちの口々の感想に、リーシャもうれしそうに頷いている。
ふと、年配の男性が大輔に声をかけた。
「これほどの麺と味……あんた、一体どこから?」
「遠い村で修業してきた、とだけ。」
大輔は微笑み、ごまかした。異世界の出自など、ひとまず伏せておくべきだろう。
「すごいもんだ……これが“男のパスタ道”か」
冗談めいた言葉に、大輔はちょっと照れくさそうに笑う。
***
宴が終わり、リーシャと二人きりの店に戻ると、辺りはすでに夕闇に包まれていた。大輔は一日を改めて振り返る。
リーシャがそっと尋ねる。
「ご主人様、最初に作ってくれたパスタは、想い出の味だったのですね?」
「うん。昔、親父がよく晩ご飯に作ってくれたんだ。どんなに大変でも、そのパスタを食べると、不思議と力が湧いてきた。俺も……いつか、そんな料理を作る人になりたかった。」
「すてきです」
リーシャの穏やかな微笑みに、温かいものがこみ上げた。
それは新しい世界で迎える、最初の夜。
今までも、これからも――自分の“道”を、パスタで繋いでいく。
大輔もまた、あの日食卓を囲んだ家族や、懐かしい父の笑顔を思いながら、夜空を見上げた。それをリーシャも、そっと隣で見守っていた。