赤に色づく花
登校してきた詩遥と昴は、教室に入るなりクラスの女子たちに取り囲まれた。
「ふたりともおめでとう!! やっとくっついたのね?」
「何があったの??」
四方八方から飛んでくるあからさまな問いの内容に、今朝のやり取りを見られていたのだと知り真っ赤になるふたり。
朝の混み合う通学路。確かに少し、否、かなり軽率だった。
「……ごめんね、昴」
「いいよ。ホントのことだから」
ちらりと視線を合わせ、苦笑する。
それでもまだ心中は浮かれた気持ちのまま。
詩遥は幸せを噛み締めていた。
これが恋に落ちる瞬間なのだと、そのときわかった。
「百田詩遥です。ももたろうってからかわれ飽きたので、詩遥って呼んでください!」
いつの頃からか定番になっている自己紹介。高校一年の初日にも同じように言い、クラスメイトたちは笑って詩遥と呼んでくれるようになった。
その中でひとり、初めて名前を呼ぶときにとても気恥ずかしそうな顔をしていた男子生徒。
見るからに穏やかで優しげなその顔が、困ったように自分を見ていた。
「えっと……詩遥さん、でいいのかな……?」
「呼び捨てでいいよ。もう苗字って思って気軽に呼んでくれたらいいから」
「かわいい名前だから苗字だなんて思えないけど」
なんの他意もないからこその独り言のような呟きにどきりとする。
「じゃあ僕のことも昴で」
はにかんで笑いながら告げる昴。
元々優しい顔立ちが、ますます柔らかく緩む。
もっと見ていたい、もっと見てほしい、と。無意識にそう願ったその瞬間に。
詩遥は己の恋心を自覚した。
あれから一年三ヶ月。
昴とは仲良くなり、友達同士で遊びに出かけるようにもなったがそれ止まりで。
二年生でも同じクラスになれたが、だからこそ関係は変わらなかった。
傍にいられる心地よさ。
しかしそれは触れられない距離。
行動を起こすことで変化は起きる。
だがもし望まぬ方向へと変化してしまったら。
そう思うと怖く、何もできなかった。
そんな自分を見兼ねての行動だったのだろう。美咲と章人のお陰で実現した、ふたりきりで行く祭り。
祭りの非日常感に自然と距離が近くなり、ようやく気持ちが通じ合った。
言葉がなくとも昴の想いは伝わっている。
だがそれでも、あのとき、あの瞬間に言ってほしかったという欲があって。
ほしかったひと言をもらえなかった寂しさから、思わず口にしてしまった日曜日のやり直し。
見つめる瞳も、向けられる眼差しも、もちろん今までと同じとはいかないが。
それでもあと一週間、片想いのつもりで昴を想うことにした。
やり直しといっても、もう祭りは終わっている。
代わりに水族館に行くことになった。
ゆっくり見ようという昴の提案で、待ち合わせは十時。
今日のために選んだアイスグリーンのサマーニットは、事前に美咲からもお墨付きをもらっている。
余裕を持って到着した詩遥だが、改札口には既に昴が待っていた。
黒のチノパンにダークブルーのシャツ姿。決して目立つような姿ではないというのに、詩遥にはひと目でわかった。
「おはよう」
ドキドキしながら駆け寄る。その前から気付いていた様子の昴は、微笑んでおはようと迎えてから、暫く詩遥をまじまじと見る。
「やらないの?」
「え?」
「馬子にも衣装、って」
きょとんと昴を見返してから、ようやくなんのことを言われているのか理解した。
「ばか!」
いくらやり直しといっても、そこまで求めてはいない。
怒る詩遥から逃げるように、笑いながら昴が歩き出した。
ふくれつつも熱を持つ頬に手を当ててから、詩遥もそのあとに続く。
斜め前を行く昴。手を伸ばしかけて、まだ違うのだと引っ込めた。
買っておいた電子チケットで中へと入ると、まずトンネル状の水槽が出迎えた。
横を上をと通り過ぎる魚たちを目で追い、歩を緩めたり立ち止まったりしながら指を差す。
ここはショーが行われるような大きな規模ではなく、展示のみの水族館。だからこそゆっくり見ても十分に回ることができそうだった。
青いトンネルを抜けると大小様々な大きさの水槽が置かれた部屋に出る。
「オオカミウオだって」
「あれじゃない?」
名板の魚をふたりで探し、ゆったり泳ぐ姿を眺める。
岩肌の背景にも拘らず、魚たちと海藻はカラフルに水中を彩り、差し込む光が輝きを重ねていた。
あからさまに隣を見ることができないので、水槽に映り込んだ昴を見つめる詩遥。
やり直しの日曜日。
聞いていないことにした言葉は、一体いつ言われるのだろうか。
(言ってくれる……よね……)
自分で言い出したことではあるが、いざとなると不安で。
時折こうして考え込んでは、昴に怪訝な顔を向けられ我に返る。
あれはあれで受け取っておけばよかったと思いながら、詩遥は落ち着かない気持ちを吐息で逃がした。
昼をすぎたものの施設を出るにはまだ早いということで、ふたりは館内のカフェスペースで昼食を取ることにした。
「ここ寄っていい?」
カフェスペースに向かう途中、昴が足を止めた。
メイン通路に貼られたポスターには、涼みスポットとしてクラゲの特別展を開催中とある。
「クラゲ好きなんだ?」
「クラゲっていうか……」
モゴモゴと口籠る昴を訝しく思いながらも、もちろん否はないので頷いた詩遥。
展示場はさほど広くはないものの、ゆったりと間隔をとって小さめの水槽がいくつか置かれていた。
部屋全体の光量は抑えられ、それぞれの水槽に柔らかな光の照明が設置されている。
水槽の中、浮かび上がるようにふわふわと漂うクラゲたち。
色とりどりの光を放ちながら揺蕩うその姿を、詩遥は見つめる。
「綺麗だね」
不規則に動く淡い光は見ていると心まで緩められていくようで。部屋の暗さも相まって、目の前にはとても幻想的な光景が広がっていた。
ふと思い出した景色に、詩遥は自然と笑みを浮かべる。
祭りの日に寺から見下ろした夜の町も、こうした光に溢れていた。「綺麗でしょ」と聞いた自分に、昴は――。
不意に右手に感じた温かさに、詩遥は驚き固まる。
自分の右に立つ昴。その手が自分の手を握っていた。
大きく跳ね始める鼓動。
動けない詩遥の横で、昴が顔の位置を合わせるように少し屈む。
「好きだよ」
耳元の、囁くような小さな声。
言葉よりも先に涙が零れそうで。
詩遥は口を開くことができずに、代わりに昴の手を握り返した。
手を繋いだまま水槽の前で立ち尽くすこと暫く。
昴に軽く手を引かれた詩遥は、心を決めて隣を見やった。
昴は優しい眼差しで見返している。
「……またやり直し?」
その顔からのまさかの言葉に、詩遥は目を瞠った。
驚く詩遥を見つめる顔も、変わらず優しさに満ちていて。
昴の思わぬ意趣返しに、せめてもの抗議をその手に込める。
「ばか。やり直しなわけないよ」
「じゃあ、今度こそ返事もらえる?」
続けられた言葉にはっとする。
やり直しの今日、自分は昴に何を言われるのかわかっていた。
しかしあの日、自分は昴に何も返していないまま。
今日を楽しみに、この一週間浮かれていた自分。その間昴はどれだけ不安な思いをしていたのだろうか。
ごめんと口に出しかけて寸前で思い留まる。
今ふさわしい言葉ではない。
「私も……」
これでも答えにはなるだろうが、昴はじっと詩遥を見つめたままで。
最後まで言い切ることを求められているのだと感じ、詩遥はもう一度唇を開いた。
「……好き」
ようやく音になった気持ちに、昴が笑み崩れた。その顔に混ざる安堵に、やはり不安にさせていたのだと知る。
「ありがとう」
今ごめんねとは言いたくなかったので代わりに感謝を伝えると、昴は一瞬真顔になったあと、またくすぐったそうに笑う。
「それって僕が言うことじゃない?」
「そんなことないと思うけど」
言葉だけは普段の軽さが戻りつつも、互いにその手には想いを込めたまま。
薄闇に浮かぶ光を眺めながら、ふたりは温かな余韻に浸っていた。
「昴、あの展示のこと知ってたの?」
カフェスペースで昼食を取りながら、詩遥はふと思ったことを尋ねる。
昴はバツ悪そうに笑って、素直に頷いた。
「もうやり直ししたくないからね」
「ごめんって」
先程呑み込んだ謝罪も今なら誤解されないとわかっている。
思い返せば、動物園は暑いので水族館はどうかと言い出したのも昴だった。
きっと色々調べて考えてくれたのだろう。
「やり直しなら帰りに言った方がいいのかなとも思ったんだけど……」
詩遥を見つめる昴が柔らかく緩む。
「……お昼に言えばさ、午後は恋人同士として回れるかなって」
少し恥ずかしそうなその声音。言葉の意味が染み込むとともに、じわじわと頬が熱くなる。
照明が控えられていた特別展とは違い、ここはもちろん明るい。
きっと赤くなってしまっていることにも気付かれているだろう。
案の定嬉しそうな昴。
見ていられずに、詩遥は食べかけのオムライスへと視線を落とした。
(……恋人同士、だって……)
自然と上がってしまう口角を咀嚼でごまかす。
祭りでの思い出と今日の思い出。
昴には少し申し訳ないことをしてしまったが、お陰でふたつも幸せな思い出が――。
そこまで考え、違うかと思い直す。
ふたつではない。
今からいくらでも作れるのだから。
もうすぐ夏休み。
学校ほど毎日は会えなくても、一緒に遊びに行くことはできる。
友達ではなく恋人として。
行ってみたい場所はたくさんあった。
そして――。
「……浴衣、着てくるから。一緒に花火大会に行こうよ」
ある意味これもやり直しと言えるだろう。
急な提案に驚きと喜びを垣間見せたあと、昴はにっと笑った。
「馬子にも衣装?」
「そうだよ」
――あの日寺から景色を見下ろして、昴が呟いた言葉。
景色のことを聞いたというのに、昴は詩遥を見たまま「うん、かわいい」と言った。
あれは自分に向けての言葉なのだと、今は疑うことなく信じることができる。
そしてきっと、今度は面と向かって伝えてくれるに違いない。
即答した詩遥に更に笑う昴。
今までと変わらぬやり取りと、今までよりも近い距離。
幸せに頬を染め、詩遥も満面の笑みを浮かべた。