黄に瞬く星
「話したいことあるから、今日ふたりで帰れないかな」
神妙な面持ちの章人にそう言われたのは、ゴールデンウィーク目前の四月末のことだった。
四人ではなくふたりで。その言葉に、美咲はもしかしてとの期待を胸に頷く。
心の内を見透かすような、まっすぐ貫かれるような、そんな眼差し。
一年生のいつ頃からか、章人はそんな視線を向けてくるようになっていた。
ドキドキしながら放課後を待ち、待っていた章人と学校を出る。
寄り道させてと言われてついていった先は、通学路からは外れた小さな公園。
遊具で遊ぶ子どもたちから少し離れたところで、章人が美咲を振り返った。
その日も変わらず、真正面から向けられる眼差し。
こちらの心が透けるのと同じように、章人の裏表のない素直さも強く感じられた。
「俺、盛田さんのことが好きなんだ」
顔こそ赤いが、ためらうことなくはっきりと告げる章人。
まっすぐに自分を捕らえるこの眼差し。
向けられていることを嬉しく思うようになったのは、いつ頃だったか。
間違いでなかった喜びと幸せ。
じわりと視界が滲む。
「嬉しい。私も平林くんが好き」
「美咲?」
かけられた声に美咲は我に返る。
向かいの席、怪訝そうにこちらを見る章人になんでもないよと首を振った。
「詩遥たちはお昼から行くって言ってたから、私たちはお昼前に待ち合わせる?」
「そうだよな、なるべく会わない方がいいだろうしな」
明後日の日曜、美咲と詩遥の地元で七夕に合わせて行われる祭りに、自分たちふたり、そして詩遥と昴とに分かれて行くことになっていた。
傍目には両想いの詩遥と昴。これをきっかけに互いの想いに気付けばと思い、章人とふたりでそうなるよう仕向けたのだ。
「人が増えれば目立たないだろうし、夕方からは平気だと思う」
「そんなに人来るんだ?」
「うん、夜まで混んでるよ」
夏に行われる花火大会ほどではないが、高台にある寺からの夜景が綺麗なこともあり、遅くまで賑わっている。
尤もまだ高校二年生の自分たちは、それほど遅くまでいられはしないが。
「ホント、あのふたりもこれでどうにかなってくれるといいよな」
世話の焼ける、と笑う章人。
昴たちを心配してのその言葉に、美咲も笑みを返した。
日曜日、昼前に駅で待ち合わせたふたり。今のうちに町を巡り、詩遥たちが来る時間から夕方までは休憩がてら別の場所で過ごすことにした。
祭りを迎える町は浮き足立つようで、露店の華やぎと普段よりも賑やかな光景にどこかソワソワとする。
毎年詩遥と来る祭り。行き合う山車に立ち止まり、並ぶ露店を覗きながら歩くのは変わらないのに、相手が違うと見え方が違った。
気心知れた友人との穏やかさはないが、祭りの高揚感が章人へのときめきを加速させ、いつも以上にドキドキと落ち着かない。
章人もまた普段通りに見えるものの、時折じっと美咲を見つめ、我に返っては恥ずかしそうに慌てていた。
右側の章人を盗み見ては、ずっと空いたままの右手を握る美咲。
ふたりで並んで歩いても、電車で隣に座っても、いつも僅かに距離がある。
祭りのこの雰囲気ならと思ったが、手を繋ぐどころか腕が触れただけでごめんと謝られる。
章人らしいと思う一方で、それを寂しく思う自分がいた。
章人の気持ちを疑うつもりはない。
しかしそれでも、寂しいものは寂しいのだ。
連なる露店に導かれるように寺へとやってきた美咲と章人。高台にあるので展望がよく、まだ明るいうちから祭りと景色を楽しむ人々で賑わっていた。
「眺めいいな」
町を見下ろし、章人が独り言のように呟く。
その隣で美咲は目立つ建物の説明をしていった。
手前から幾本も伸びるアスファルトの道路は、色も形も大きさもバラバラの建物がひしめく中へと消えていく。
所々砂色の空間やこんもり盛り上がる緑が見え、気ままに曲がる川の護岸が灰色の線を描く。
実際に歩いていても気付いていなかった、あちこちに散らばる色とどこまでも続く広さ。
美咲もまた、眼下の光景に驚きを感じていた。
普段はただの「見慣れた町の景色」でも、今日はどこか違って見える。
いつもは見過ごすそれに気付けたのは、章人と一緒だからだろう。
章人との間は今も手の平ひとつ分。
傍目には付き合っているようにしか見えないだろう自分たちの、埋まらぬ距離。
少し手を伸ばすだけ。
少し頭を傾けるだけ。
ただそれだけで触れ合う距離なのに、いつまでも縮まない。
(私だけ……なのかな)
触れたい、手を繋ぎたいと思うのは、自分だけなのだろうか。
町を眺める章人の横顔を見つめ、美咲はそっと吐息をついた。
章人は至極普通の町の風景をどこか嬉しそうに見回していたが、突然美咲へと視線を向ける。
いつも以上に柔らかな笑みに、美咲は思わず息を呑んだ。
「なんかいいよな」
「え?」
「だって。美咲の地元だろ?」
章人の言葉を理解できずに見返す美咲。怪訝そうなその顔に、章人は少しためらってから続ける。
「なんかいつもより、近いような気がするから」
言ってから恥ずかしくなったのか、ごまかすように笑ってまた町を見る章人。
暫く惚けて章人を見たままだった美咲が、ようやくその意味を把握する。
「……そうだね」
章人との間にある手の平ひとつ分。
埋まらないのではない。
きっと、埋める必要がないのだ。
詩遥と昴の待ち合わせに鉢合わせないように、駅から少し離れた店で休憩をすることにした美咲たち。
ドリンクバーのあるその店は、祭りの熱気から逃れて休憩に来た人々で混み合っていた。
「あれ? 盛田?」
「坂木くん」
飲み物を取りに来た美咲に声をかけたのは、中学の同級生。
「詩遥と来てるなら、あっちに皆いるから来ないか?」
振り返り合図するに坂木に気付き、女子数人が駆け寄ってきた。
祭りで偶然数組が出会い、人数が増えたらしい。
「ごめん、彼氏と来てるからやめとくね」
詳しく聞きたがる女子たちを宥め、もし詩遥を見かけてもからかわないように頼んでおいてから、美咲は章人の待つテーブルに戻った。
「友達?」
短い言葉であったが、少し違和感を感じて章人を見る。
じっと自分を見つめる眼差しはいつものままのようで、少し焦りが見えた。
「うん。中学までの同級生」
答えながら席に着く。
「詩遥たちを見ても、そっとしといてあげてって言っておいた」
章人も飲み物を取ってくればと勧めると、案の定安堵を滲ませながら頷いて席を立った。
章人が何を心配したのか、いくつか思いつく理由はあるが。
(……妬いてくれてたりしないかな)
心配をかけたことは申し訳ないが、そう思ってもらえたなら嬉しい。
グラスを手に戻ってきた章人はもう落ち着いていて、女子たちに声をかけられたと笑っていた。
日が傾き始めた頃、ふたりは再び祭りの中へと戻った。
昼間よりも人出は増え、高揚感も増している。
祭りに来た頃は縮まぬ距離に気落ちもしたが、自分との時間を大事にしてくれる章人の姿に気持ちを変えることができた。
この手の平ひとつ分の距離は、自分たちの気持ちを表しているわけではない。
空いていても、空いてなくても、心の距離は変わらないのだ。
「詩遥たち、どうしてるかな」
そう思うことができるようになってみれば、気になるのは詩遥と昴のことばかり。
ことあるごとに上手くやっているかと気にする美咲に、隣の章人は暫く複雑そうな顔をしていたが、そのうち小さく呟いた。
「向こうが心配なのはわかるけどさ……」
少し拗ねたようなその口調に、美咲は驚いて章人を見やる。
視線が合った途端我に返ったのか、章人は慌てて目を逸らした。
夕日は既に名残を残すのみ。それなのに赤い章人の顔に、割り切ったはずの気持ちが再び膨らむ。
「章人くん」
衝動に任せ、美咲は名を呼び手を伸ばした。
指先に触れた温もりに沿わせるように、そっと手の平を合わせる。
僅かに動いた章人の手は、それでも引かれることはなかった。
「章人くんと一緒だから、向こうのことばっかり考えられるんだよ」
章人は美咲を見ないままだったが、軽く重ねただけの手はそのままぎゅっと握りしめられる。
初めて触れた章人の手。その大きさと温かさを嬉しく思いながら、美咲もその手を握り返した。
灯篭の灯りを追って寺への石段を上り、ふたりは昼間眺めた景色を再び眺める。
目線の下の町の光、その奥で赤橙から次第に明るい紺へと色を変えていく空には、ちらほらと明るく光る星の姿。
寄り添うように並ぶふたり。
その手はまだ重ねられたまま。
隣へ視線を向けると、気付いた章人が美咲を見る。
もう目を逸らされることも、手を解かれることもなかった。
「今日はありがとう」
「俺の方こそ」
ふたりで笑い合い、また町を眺める。
今は重なる手の平ひとつ分。
離れてもその温もりは残るのだと、もう美咲にはわかっていた。