青に咲く花
かぐつち・マナぱ様
( https://mypage.syosetu.com/2075012/ )
作成のイラストを挿絵として使わせていただいています。
学活を終えた生徒たちが席を立ち始める。
昴も鞄に持ち帰るものを詰めていると、すぐ傍に人影が立った。
背中半ばの髪をうしろでひとつに結んだ女子。はっきりとした顔立ちからは気の強そうな印象を受けるが、実際はそうでもないと知っている。
見上げると目が合ってしまい、慌てて逸らして残りの教科書を鞄に詰めた。
待たせているからといって、そんなに見ないでほしいと内心うろたえる。
「おまたせ。行こっか」
平静を装い立ち上がった昴に、詩遥が頷いた。
一年生で同じクラスになった詩遥とは、なぜか妙に気が合った。
さっぱりした性格で、男子に対しても物怖じすることも媚びることもなく、フラットに接してくれる。あまり積極的に前に出る方ではない昴でも気楽に話すことができた。
同じクラスの章人、そして詩遥の中学からの友人の美咲と四人で話すことが増え、そのうち一緒に遊びに行くほど仲良くなった。
もちろん最初から意識していたわけではなかった。
男女ともに好かれ、クラスでは明るく皆を引っ張るムードメーカー。
サバサバと思ったことは言うように見えて、実はとても気を遣っていたり。家庭科の実習で手際がいいことを意外と言われて拗ねる、かわいらしい一面があったり。
そんな詩遥を見るうちに、いつの間にか惹かれていた。
好きだと自覚してしまえばあとはもう坂道を転げ落ちるよう。
知れば知るほど惹かれて。
仲良くなればなるほど言えなくて。
二年生でも同じクラスになれたことを喜んだのも束の間、章人と美咲が付き合い始めた。
自然と詩遥とふたりで話す機会は増えたが、余計に態度に出せなくなってしまった。
この状況に流されて好きになったのではない。
あまり者同士付き合ったなどと思われてはたまらない。
自分はもっと前から彼女が好きなのだから。
教室前の廊下には既に章人と美咲の姿があった。
そういう決め事をしたわけではないが、章人と美咲が付き合い始めた頃から、放課後はよほど急いでいない限りこうして四人で集うようになっていた。
楽しそうに話す章人と美咲。
気持ちが通じ合ったふたりだからこその距離感を羨ましく思う。
定期テストまで一週間を切っているので部活動はない。四人は話しながら駅までの道を歩いていた。
「テストのあとの日曜に地元でお祭りがあるんだけど、皆で行かない?」
テスト前の憂鬱さを吹き飛ばすように、明るい声で詩遥が問う。
「お祭りかぁ。暫く行ってないかな」
「ね、行こうよ。ご褒美あったらテストも頑張れそうだし」
はしゃぐ詩遥をかわいらしく思いながら、昴は自分も賛成だと頷いた。
章人と美咲が顔を見合わせ、少し困ったような顔をする。
「ごめん詩遥。章人くんとふたりで行こうって言ってて……」
「え、そうなの?」
予想外の返答であったのだろう。詩遥が驚きの声をあげた。
「うん。ごめんね、詩遥、兼子くん」
「そっちもふたりで行けばいいじゃん」
さらりと付け加えられた章人の提案に、昴は思わず固まる。
(ふたりで、なんて……!)
困惑と恥ずかしさと喜びが混ざり、すぐには何も返せなかった。
願ってもない状況ではあるが、心の準備はまだできていない。
それに、自分はよくても詩遥はどうなのだろうか。
反応が怖くて詩遥の顔を見ることができなかった。
「向こうで会ったら合流してもいいし」
「そうだね」
なんでもないことのように続ける章人と美咲。
自分にとっては一大事だが、ふたり、そして詩遥にとっては些細なことなのかもしれない。
(……そう、だよな)
そう思うと気は楽になったが、同時に胸の奥が痛む。
きっと、こんなに意識しているのは自分だけなのだ。
「……僕はいいけど、どうする?」
ふたりきりは恥ずかしいが、本人を前に無理だと言えるわけもなく。
詩遥を見やり、動揺を隠してそう言ってみる。
「いいよ。ふたりで行こっか」
そんな昴の葛藤など知りもせず、詩遥は至って軽く頷いた。
定期テストが終わるまでは考えないようにと己に言い聞かせ、どうにかテスト期間を乗り切った昴。
いざ詩遥と待ち合わせ場所と時間を決めると、ふたりきりで出掛けるということが途端に現実味を帯びて。
浮かれる反面どうすればいいかわからなくなってしまった。
当日着る服を決めては変えて。
鞄の中身を何度もひっくり返して。
待ち合わせに間に合う電車を何度も確認して。
緊張して碌に眠れないまま迎えた当日。
待ち合わせの駅の改札を出た昴は、既に待っていた詩遥を見つけて息を呑んだ。
淡い青の浴衣には、大輪の花が咲いていた。
てっきり動きやすいラフな格好で来ると思ってただけに、女性らしいその佇まいにドキドキする。
思わず立ち止まりかけた昴に、詩遥がちょうど気付いて手を振った。
普段なら手を挙げ大きく振りそうなものなのに、今は肩のあたりで小さく揺らすだけ。
そんなギャップに一気に顔が火照る。
「お、おまたせ……」
結い上げられた中から少しだけ零れる髪に、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして。
拍車をかける熱に、まともに顔が見られない。
うろたえ黙り込む昴に、詩遥は見せびらかすようにに両腕を開いた。
「この格好見てひと言もないの?」
詰まる息に手を握りしめる。
ないのではなく出ないだけなのだ、と。
もちろん言えるはずもなく。
「う、うん……。似合ってる……」
本当はとてもかわいいと思っているのに。
しどろもどろに出てきたのは、そんな普通の感想だけ。
あまりの情けなさに落胆する昴。
しかし詩遥はそれでも満足してくれたのか、にっこりと笑ってくるりとひと回りする。
「馬子にも衣装ってね」
言葉こそ茶化しているものの、その頬は赤く染まっていた。
昼を過ぎた町は既に祭りの高揚感と楽しそうな人々に溢れていた。
浴衣姿のカップル、綿菓子の袋を持った親子連れ。大きなビニールのハンマーで楽しそうに叩き合う子どもたち。
誰もが祭りの雰囲気を楽しみ、笑顔を見せている。
道の両側には露店が並んで連なり、祭りの中心である寺までの道を示すようだった。
「色々出てるから楽しいと思うし。ちょっとウロウロしようよ」
いつもより早い口調とこわばる表情に、詩遥の緊張が見て取れる。
昴もまた同じくぎこちない様子で頷いた。
並んで歩きながら、詩遥が地元ならではの思い出を語る。
子どもの頃に遊んだ公園、夏祭りのある神社、通った学校。
そこにあるのは詩遥の日常。
彼女の「いつも」に紛れ込んだような、そんな淡い幸福感に満たされる。
懐かしそうに瞳を細める詩遥は、その出で立ちのせいもあり学校での姿より可憐で儚く。
ふわふわとした気持ちと光景に、思わず手を伸ばしかけては踏み止まる。
ふたりきりではあるが、自分と詩遥はあくまで友人同士。
理由なく触れていい関係ではないのだ。
祭りのある高台の寺からは町の灯りが綺麗だからと、そこへ向かうのは少し日が落ちてからとなった。
それまではのんびりと町なかを巡る。
見かけた山車を眺めに近付き、思ったより大きな太鼓と鐘の音に驚いたり。並ぶ露店をあれこれ見ながら一緒に歩いたり。
祭りの浮かれた雰囲気に流されるように、いつの間にか普段の調子に戻ってきた。
四人でいるときのように自然に笑ってからかい合う。
「食べる?」
差し出されたのは小さな林檎飴。
艶めく赤に夕日の光が差し込んで、キラキラと輝くその中。
詩遥がひと口かじったところだけ、浮かびあがるように白い。
いつもの冗談だと、わかってはいたが。
昴は詩遥の手ごと林檎飴を掴み、口元に寄せる。
目の前に浮かぶ白さから逃げるように手を捻り、少しずらしてかじりついた。
甘くすっぱく。皮は少し硬く苦く。
握る詩遥の手は、柔らかく温かで。
じわりと滲む、味と熱。
林檎飴越しの、見開かれた瞳。
「ん」
急激に己の行動が恥ずかしくなり、昴は林檎飴を詩遥の方に押し返して手を放した。
詩遥は暫く惚けて林檎飴を見つめていたが、やがて胸元へと引き寄せる。
「……美味しい、でしょ」
恥ずかしそうにそう言い、また林檎飴をかじり始めた。
赤い林檎飴の上で、詩遥がかじった白い痕と自分がかじった白い痕が繋がっていくのを見ていられずに、昴はそっと目を逸らす。
「……あっち、だよね」
目を逸らす代わりに、視線の先にある詩遥の左手をはぐれないように掴んだ。
次第に暗くなる空を彩るように、露店の灯りが輝きだした。
まるで空へと昇る光のように、参道沿いに続く灯りは石段脇の灯篭へと繋がり、そのまま寺に飾られる提灯と混ざっていく。
ざわめく周囲に反し、昴と詩遥は言葉少なになっていた。
昴が掴んだ詩遥の手は、いつしか詩遥からも握り返されて。
互いに顔は見ないまま、人の流れに従い歩いていく。
もうすぐ石段というところで、突然詩遥が足を止めた。
「ごめん、ちょっと待って」
引かれた手に昴が振り返る。
詩遥は右足を気にするように少し浮かせていた。
「足、痛くて」
「えっ? 大変」
立ち止まったままだと人の流れを止めてしまうので、露店の間から参道を外れた。
ほんの少し道を逸れただけで途端に喧騒が遠くなる。祭りの光も活気も別世界のように、辺りは静けさと薄暗さに包まれていた。
詩遥を気遣いながら、昴はどこか座れたりもたれたりできるところがないかと探すが見つからない。
「大丈夫? もたれていいから」
せめて少しでも支えになればと思って背中に手を回すと、詩遥がびくりと身動ぎをして顔を上げた。
詩遥の顔が、目の前にある。
どうすればいいかわからなくなるから、できるだけ顔を見ないようにしていた。
繋いでいた手の熱は、もう全身に回ってしまっている。
詩遥の手がゆっくりと上がり、昴の腕に触れた。
反射的に背に回した手に力を込めてしまい、押された詩遥がとすんと昴の胸に当たる。
先程よりさらに近付いた顔は、参道からの光に赤く染まっていた。
僅かに聞こえていた祭りのざわめきが、どちらのものかわからない鼓動にかき消される。
あれだけ恥ずかしくて見られなかった詩遥の顔から、今は目が離せない。
じっと昴を見つめていた詩遥が。
何も言わずに、そっと瞳を閉じた。
高台にある寺からは町を見下ろすことができた。
参道から外れた場所からも多くの人が景色を眺めている。
あのあと自分で応急処置をした詩遥と並び、昴もまたその景色を眺めていた。
信号の光、車のライト、家々の窓。
暗がりに沈む町に五色の光が散らばる光景に、更に非日常感が増す。
どこかふわふわとした気持ちと相まり、ただぼんやりと見ていた。
「……綺麗でしょ?」
隣の詩遥の呟きに、夢現で何かを返したような気がするが、はっきりと覚えていない。
そもそもあれは本当に現実だったのだろうか。
自分は何か都合のいい夢でも見ているのではないだろうか。
ずっとうわの空で、昴はそんなことばかり考えていた。
閉め切ったカーテンが明るく照らされ、抑えきれない光が隙間から差してくる。
すっかり明るくなった窓の外に、昴は眠不足の目を擦りながらカーテンを開けた。
眩しさに目を眇めながら、ぼんやりとする意識を叩き起こす。
明るさに慣れるうちに、霞んでいた記憶も形を取り戻していく。
自然と手で口を塞ぐ。
――昨日の夜のことは夢だったのかもしれない。
それくらい信じられない出来事だった。
それからのことも曖昧で、尚更夢ではないのかと疑ってしまう。
しかし。
手の下の唇は、まだ覚えている。
本当に、夢ではないのなら。
今日、自分はどんな顔をして彼女に会えばいいのだろうか?
駅から学校までのいつもの道も、今日はとても長く感じた。
おはようと聞こえる度にびくりとして。自分にかけられた声ではないと確かめては、止めていた息を吐いて。
そんなことを繰り返すうちに、ぽんと肩を叩かれた。
「おはよう」
「おっ、おはよう……」
にこりと微笑んだ詩遥が昴の隣に並んだ。
詩遥の顔を見た途端、バクバクとうるさく跳ねる鼓動。ちらりと隣を盗み見ると、詩遥は至って普通の顔で前を見ている。
あんなことがあったなら、少しくらい自分のことを気にしてくれてもよさそうなものなのに。
(やっぱり夢、だった……?)
詩遥の態度にそんな様子はまったくなかった。
「あ、あのさ、昨日――」
「楽しかったね」
遮るようにそう言われる。
詩遥は前を向いたままで、少しもその表情は変わらない。
「……足、大丈夫……?」
「うん。草履の鼻緒が痛かっただけなの」
だから大丈夫、そう言いようやく笑みを見せる詩遥。
しかしそれは、はにかむようなあの微笑みではなかった。
その瞬間湧き上がったのは、焦りだったのだろう。
「……じゃあ、先行くね」
踏み出そうとした詩遥の手を反射的に掴む。
驚く詩遥の手は昨日と同じ、柔らかく温かい。
覚えある感触に、やはり夢ではなかったと確信する。
込み上げる安堵と喜び。昨日どれだけ嬉しかったのかを伝えるべく、開いた昴の口から零れた言葉は。
「…………好き」
すべての想いの根底にある、詩遥への気持ちだった。
一度大きく目を瞠ってから、詩遥の顔が緩んでいく。
掴んでいた手がぎゅっと握り返された。
反対の手の指で唇に触れる詩遥。
じっと見据えるその瞳がわずかに揺れる。
「……したから?」
声音に照れたような色が混ざった。
自分を見つめるその眼差しは、昨日向けられたものと同じ。
蘇る昨日の幸福感と熱。
ただそれだけで、続く言葉は自然と紡がれる。
「違う。好きだから、だよ」
昴の即答に、一瞬詩遥が泣き出しそうに顔を歪めた。
それから自分の唇から昴の唇へと指を移動させる。
今度は昴が瞠目する番だった。
「ばか。昨日聞きたかったのに」
唇を押さえられて何も言えないままの昴。
見上げる詩遥の眼差しが淡く色づく。
「聞いてないことにするから、また日曜にね」
制服のシャツの淡い青の中、昨日浴衣に咲いていた大輪の花のように。
詩遥は艶やかに微笑んだ。