第九十六話 懐かしきあの場所にて
「どうして……」
「ほら言ったじゃないですか二人なら何とかなるかもしれない……って」
「そうですけどそんなに信頼してくださっているんですか?」
「もちろん。だってフレッドさんですから」
フレッドから疑問を言われたときにアナスタシアはとても余裕そうな表情で彼に微笑みかけた。彼女はフレッドのことをずっとずっと前から信頼しきっているかのような雰囲気を醸し出している。
色々ととても不思議な事ばかりだった。まず、記録の中に森に入ることが出来た人物については記されていなかった。エステルが完全な人だけが入ることが可能だったと言っていたくらいだろうか。そして彼女はどこか浮世離れしていた考えを持っていて到底人生一回目だとは思えないほど頭が切れていたのだからもしかしたら――。
フレッドはありえないことを考えて首をぶんぶんと振る。そんなことが起きるはずない、狂っていると自分の意見を脳内で否定しながら先を歩いていった。にわかには信じ難いことを考えているとは知らずに、アナスタシアはフレッドに近づく。
森には入れたという高揚感からいつもよりも少しだけ距離が縮まっていた。それをいつもののこととしてフレッドに接してくれていることが嬉しかった。
どうしてだろう。どこか懐かしい雰囲気を感じた。フレッドは辺りを見回す。なぜか記憶のあるものがあちらこちらにある。
結界には時間の遅延というものがあるのか、いつのものかも分からない研究道具らしきものが散乱していた。それらは土にも埋まることなくただ廃っている。
フレッドがなにかを掴んだ。ぼろっぼろの本である。時は止まっていれども風くらいは吹くので土が被さっている。それをささっと払って文字を読んだ。
「なんて書かれてるんですか?」
「見たことのない文字だから恐らく暗号ですね。ちょっと待っててください」
フレッドは即座にメモ帳を開いて額にペンを押し付ける。とても悩み、その末に結論を出す。たった一切れの紙にこんなに時間をかけたのは初めてだ。
「『研究終了まであと少し。これが完了したら彼女に告白をしようと思う。ちょっと子供っぽいかな?』……これを書いたのは恐らく完全な人間なんでしょうけど彼らも人間っぽいところがあったんですね」
「なるほど。彼はそういうふうに考えていたんですか。解読ありがとうございます。さすがですね」
「光栄ですが、なぜこんなものに難しすぎる暗号を使ったのでしょうか。それがとても気になります」
フレッドは単純に疑問だった。彼が数分で解くことが出来ないくらいの暗号をこんなにしょうもないものに使うなんて。それくらいの価値があるものだ。
「これはあくまで私の推測になるんですが、多分見られるのが恥ずかしかったんじゃないですか? 彼のことですし無駄にある知識を使って全力で作成した可能性はあります」
「なるほ……ど?」
「あと人の気持ちをしょうもないとか言わないでください」
アナスタシアの指摘は鋭く冷たい。笑顔が輝いているが、彼女の視線はどこか冷ややかでそれでいて殺気を感じた。心なしか、口しか笑っていないような気がする。絶対に侮辱してほしくない。そんな気持ちが見え隠れしていた。
「ごめんなさい。とても失礼でしたよね」
「ああこちらこそ独り言をぼそっと言ってしまって……」
好意を自覚してからか、アナスタシアとの距離感が段々と分からなくなってしまった。かなり心の距離が開いているような気がするのだ。どこか掴みどころのないアナスタシアにフレッドは徐々にひかれつつあった。
フレッドがアナスタシアに見惚れている間、彼女は世界樹がどこにあるのかを探していた。フレッドの鞄の方も見てみるが、森に入るまではあんなに暴走していた樹の枝もまるで力を失ったかのように動作を停止している。彼女は辺りをキョロキョロと見回してから困ったように言った。
「それにしてもこの森って迷っちゃうことあるんですね……さっきから世界樹の見える位置が変わってない気がします」
「いつになったら前進できるんでしょうか」
二人は若干へとへとになりながらも世界樹のある方角を向いた。森の外からでは確認できなかった聖霊がウロチョロとしている。あまりにも多く、神々しすぎたので思わず光を手で遮った。こんなに眩しいのにもかかわらず、二人のいるところには聖霊なんて一体もいない。世界樹まであとすこしというところにすら辿り着いていないのだ。
フレッドは疲弊を顔に浮かばせながらも時計を確認する。どこかが壊れているのか、時計が超高速で逆行していた。世界樹の森でこんなことが起こったらさすがのフレッドでも不快感をあらわにする。アナスタシアも恐怖の声を出して後ずさった。
この森はどこか狂っていた。フレッド達が思うよりもずっと、苦痛に耐えているようだった。
そんな狂気に晒されてフレッドはアナスタシアに提案した。もう樹の枝だけ置いて帰りませんか? と。しかし、アナスタシアは首を横に振る。
「きっといつかは着くはずですよ。それに……」
申し訳なさそうにしながら後ろの方を振り向く。つられてフレッドも後ろを向くと実体のないチェーンのようなものが結界に張り巡らされていた。ざっと見ただけでも見たことも聞いたこともないような魔術式だけで構成されていて解読するよりも世界樹に向かって歩いた方が有意義だと思えるくらいの魔術式の量があった。
アナスタシアはそれに気づいていたようだがいつ言い出せばいいのか分からずに探索していたようだった。フレッドは絶望しながらも無言で歩く。
彼にとっては疑問で仕方がなかった。彼女は客で貴族で、どこをとってもフレッドよりも上の身分の人間だ。だから仕事に関する命令をされたら従わないといけないしそれを彼女も理解しているはずなのだが、そんなことをしてくる気配すらない。とにかくフレッドのことを尊重してくれているような気がした。
「……なんでそんなに優しいんですか」
「――なんでって……優しくするのに意味はあるんですか?」
フレッドは言葉に詰まった。純粋な彼女の瞳に心が痛む。こんなことを感じている時点で今までの善意に何らかの打算的意味を持たせているというのも同義だった。とても不思議そうに見つめているアナスタシアの視線が耐えられずその場にへたり込んだ。
世界樹の森で何らかの異変があったのではないかと不安になった。思わずフレッドに手を差し伸べようとしたが、顔を真っ赤にしていることに気が付き手から冷気を出して額を冷やした。
彼女は最初、照れているのではないかと期待していたが、ぐったりの仕方が明らかに異様だったのでずっと額を冷やしているが、だんだん彼の息が荒くなる。彼はとても疲弊していた。それはもう誰もが分かってしまうほどに。フレッド自身でも気が付かないほどストレスが溜まっていたのだ。主にアナスタシアへの好意。
もはや病的なほどに好いていた。彼女に嫌われてしまったらどうしようなんていうもっと昔のフレッドからしたらとてつもなくしょうもないことをずっと気にしていたのだ。
それをどうしようもなく意識してしまっていたのとアナスタシアに刺された傷がうずいて体調を崩したのだと思われる。
――水滴がひたひたと森に降り注いだ。豪雨とはいかずともかなりの量である。
雨のもとにずっとさらされているとさらに病状を悪化させかねないのでアナスタシアは浮遊魔術を使った。一般的には魔力が相当多くないと安定して使用できないと言われる魔術。しかし世界樹という神聖な森であるこの場所で使うのは容易いことだった。浮遊、と端的な言葉を詠唱すると、ふわっと彼の体が浮いた。重そうだった鞄もふわりと舞っている。
――雨の中を急いで走った。ピシャピシャという音が森の中に響いた。アナスタシアの焦っている表情が滴る雨によって徐々に見え始めてきた。傘も浮かせてフレッドに水滴が来ないようにしている。走っても走っても何も見えない。諦めかけたその時に見えたのは洞窟だった。
全く見覚えが無くてしかもまだ雨に穿たれもいないまさに新しい洞窟である。変な場所ではないかと疑いもした。
「まあいっか。ダンジョンだったとしても余裕で倒せるし」
そんなことよりも、だ。アナスタシアは心配そうな目でフレッドを見つめる。鞄を下に敷いて彼を寝かせているが熱が治る気配は一向にない。辛そうに唸っている。フレッドのその止まない熱は病気というよりももはや世界樹の森をずっと拒んでいるようにも見えた。
「まああんなことがあれば当然か。しょうがないよね……やっぱりここに連れてくるのは間違いだったかなぁ」
後悔してももう遅い。やって来てしまったものはしょうがないのだ。火を焚いて水を暖め、とにかく体を暖めまくるようにした。
* * *
――どこかの研究所、エステルの森、世界樹の森。ルツィヒ大砂漠、ルミナリー、冷獄地帯。幽世国、そしてバハル地方。フレッドが訪れた場所が彼の脳に深く焼き付いていた。それなのにもかかわらず隣にはいつも『誰か』がいた。誰なのだろう。絶対に知らない人なはずなのに懐かしい感じがした。――
* * *
熱も少々収まって来た時、フレッドは目を覚ました。半開きでほぼ開いていないといっても過言ではないのだが、それでも呼吸の荒さも段々と収まっていった。発汗もなくなっていき横たわっていたフレッドは寝返りを打ってアナスタシアの方を向く。彼にとっては当然どこか分からないところにいるのでバッと起きてキョロキョロとあちこちを見渡した。
「アナスタシアさん。ここってどこですか?」
「世界樹の森にある洞窟です。雨が降って来てそれでフレッドさんが倒れてここにやってきたっていうか……」
フレッドも意識が朦朧としていたので思い出すことは出来なかったが、こうやって寝ている時点で彼女に運ばせてしまったのだろうと推察する。なににせよ、看病も含めてとても大変だったろうに。フレッドはとても申し訳なくなった。
「ごめんなさい。迷惑をかけてしまって……時間だって無駄にしてしまったよね?」
「そんなことはないです。フレッドさんだってすごく疲れていたようですからしょうがないですよ。というよりももっと休んでくださいね」
彼女は怒ったり冷たい目で見たりなどせず、とても暖かい視線でフレッドのことを見てくれた。それがどうしようもなく申し訳なかった。彼女の方から目を背けるが彼女の視線からは中々外れることが出来ない。彼女の目線を避けるために近くにある壁の方を眺め続けているが、彼女はフレッドが見ている視線を追った。
彼女がフレッドの視界に映るたびに彼の顔は紅潮していく。なんだか平和で幸せだった。頬が緩んで次第に涙が伝う。素晴らしいほどに二人で過ごしている時間が楽しくて二カ月では終わりたくないと考えてしまった。アナスタシアは急に泣き出しているフレッドが不思議で不思議で仕方がなかった。そんなことよりもまずは彼をなだめる。
「どうしたんですか? 何か悲しいことでも……」
「嬉しいんです。こうやって何も起きないことが。なぜかとても幸せに感じるんです」
今までの旅と比較して――という訳ではないが、どこか辛い記憶が残っていた気がする。そんな曖昧過ぎることを話すと、アナスタシアはびっくりしていた。
「何か思い出したことがあるんですか!?」
「よく分からないんですが……とても昔のことのような記憶が思い浮かんだんです」
「本当ですか!? 具体的にどんな感じか――」
「本当に何も理解できないんです。どうしてこんな記憶があるのか」
フレッドは頭を抱える。考えようとすればするほど頭が痛くなってくるのだ。それを察知してアナスタシアは考えることをやめなさいとフレッドに促した。それから少しして、落ち着きを見せ始めたフレッドがコーヒーを一飲み。雨は既にあがっているらしく、カップに満タンに入ったコーヒーを飲み干してから洞窟の外に出ることにした。




