第八十九話 太陽の神
二人がしばらく歩いていく。ずっと崖と海と花だけが見える。そんな平坦で何も変わり映えがない道のりだったが、それを暇だと感じたことは一度たりともなかった。
美しい自然の数々はフレッド達をまるで別の世界を旅しているような神秘的な気持ちにさせてくれる。ゼネイア独立島にも似たような雰囲気を感じてフレッドが心地よさを覚えている間、いつのまにか隣にいるアナスタシアはずっとフレッドのことを見ていた。
彼女はとても不思議そうな眼差してフレッドだけを見つめている。それに気づくことが出来なかったフレッドは美しいですね、とアナスタシアに語り掛けようとしたときに真隣にいた彼女の気配をやっと察知し、驚いた。
「うわぁっ」
「……大丈夫ですか?」
殺気も気配も完全に消えていて視界に捉えてから初めて気が付いたのでさぞかし驚いていたのだろう。反射的にバックステップを踏みしめる。が、フレッドがちょうど踏んだ先に割と大きめの石が合ってそれに引っかかって転んだ。
普段ならこんな失態は万に一つも起こさないはずだというのに、全ての行動が上手く行っていない気がする。膝のあたりと手のひらに痛みを感じ、見てみると手は真っ赤に染まり、膝周辺は服から滲み出るくらい出血が止まらない。彼が心配になったアナスタシアはちょっと遠くまで戻ってしまったフレッドの所まで駆け寄り、手を差し伸べる。
申し訳なかったフレッドは客に助けられるなどという大失態を犯して顔を真っ赤にした。なんだか彼女と一緒にいたらすべてがうまくいかなくなるような呪いにでもかかっているのではと勘違いするほどだ。
「酷いけがじゃないですか! 起き上がれそうです?」
「痛っ……ごめんなさい、自力で起き上がれないと思うので手伝ってくださいませんか?」
少しの時間考えた結果、アナスタシアが後ろのめりになることによる反動でフレッドを起き上がらせようとした。彼女はフレッドの手のひらの血を心配してか、手首から腕のところを持って補助してくれる。
「せーのっ!」
アナスタシアは勢いよく、カブを引き抜くかの如く彼の手を引いた。おりゃーという掛け声とともに地面にへたり込んでいたフレッドは文字通り秒で救出された。だが、思ったよりもアナスタシアの力が強く、その反動によって二人は地面に倒れ込んだ。
フレッドがアナスタシアに覆いかぶさるような体勢になった。
一瞬、何が起きたのか理解できず、固まった。だがしかし、紅潮しているアナスタシアがフレッドの下にいるという状況を完全に理解して慌てて横に寝転んだ。雰囲気に圧倒されたのか、彼女はフレッドに近づき、彼の手をそっと握った。フレッドの体全体の体温が上昇している気がした。鼓動が速くなる。これまでの人生の中で一番緊張しているようだった。
フレッドとは対照的に、冷静なアナスタシアは手を握ってから詠唱し始めた。
フレッド違って彼女はちゃんと回復魔術が使える。しかし対象者に触れないと治すことができないらしかったのでフレッドの手に触ってきたわけだ。勘違いしていた自身が恥ずかしかったようで、もう片方の手で顔を隠した。アナスタシアにはそんなことをしている理由が当然分からなかったのでキョロキョロとしながら彼のことを心配していた。
全く、彼女と出会ってからのフレッドといえばどうしようもないほどに失敗続きで勘違いが多かった。
回復を必死に行なっている彼女を見て微笑ましい気持ちになっている自分がいることに気がついてしまった。そして悟る。
自分は――アナスタシアが好きなのだと。
* * *
「はい、これで治りましたよ」
アナスタシアはゆっくりと手を離す。彼女は回復魔術が得意なようで、ものの十分ほどで全回復していた。
コケた程度の傷だというのもあるのだろうが、それにしてもそんな短時間で全てを回復しきるというのはかなり珍しい。彼女としては魔術に関心はほとんどないようだが、もっと研究したり魔術関連の職に就けば今の人たちを遥かに超えるような天才ぶりを発揮するかもしれない。
これ以上、彼女に心配されたくなかったのでさっと立ち上がって先を歩く。
フレッドはあくまでポーカーフェイスだった。彼女が好きといった態度を表には出さずに旅の付き添い人として振る舞っている。
フレッドが恋を自覚してしまったことによってちょっとだけぎこちない雰囲気が二人の間に流れていた時、二人は誰かを見つけた。不気味なほどに全身が真っ白い女の子である。
一切穢れがついていない女の子にアナスタシアは話しかけた。
「どうしたの? 道に迷っちゃった――」
彼女は沈黙してしまった。何も知らずに彼女の見ているものを見てみると、フレッドもあっという声を出した。女の子の顔には見覚えがある。というか、一回か二回だけ話したことがあるはずだ。真っ白な髪、肌。だが、赤い瞳がひときわ目立っている。ルミナリーで太陽の神様が消えたという事件においてその消えた張本人。
太陽の神様だった。
砂漠大陸でしか信仰されていない神様だった気がするが、なぜ彼女が大陸をまたいでミルリー大陸の端の端になんているのだろうか? 確かこの時期に太陽神を奉る祭りを行っていたはずだが、それも大丈夫なのだろうか。少し気になって彼女に尋ねてみた。
「それは問題ないよ。だって私がすっぽかしたところで彼らの信仰には何一つ影響をあたえないだろうし……というかそもそも私は信仰を必要としてないからね」
衝撃の真実だ。ほとんどの神様は神としての実力を決定させる『神格』を高めるために信仰を必要とする。それは神架教の唯一神も例外ではなく、だから人間に信仰を広めるための布教なんていうものを行っているのだ。それくらい神の力を高めるために必要なものなのである。
だというのに。太陽の神と崇め称えられ、最強と名高い主神という神話において最高位についているにもかかわらず、だ。彼女の実力は神格によるものではなかった。単純に彼女が魔術を極め、『誰か』の力を借りて神となっただけだった。
その力は、まさに全知全能。最初から神様だった人とは違って負ける経験もしてきているから誰かに対して油断することもない。そして神話通りに月の女神をボロボロにすることによって彼女の力がさらに強化されている。そんな恐ろしさもありつつ、彼女と話し始めた。
「なぜこんなところに?」
「私は太陽の神だよ? 全世界に太陽は見えるんだからどこにいたっていいでしょ。まあ、今の段階で太陽が見えるような地域にしか行けないんだけどさ」
活動区域に関してはやはり信仰の影響を受けるようで、太陽が出ていないかつ信仰されていない国は一切行くことが出来ないとのことだった。美しいバハル地方の景色を見るためにはるばる砂漠大陸からやってきたようだ。神様たちの間でも絶景というので有名であり、トラウマが蘇らなければ訪れることを強く推奨される程度には人気な観光地だとか。
「トラウマ……?」
「簡単にいうと世界各地で起こった幻獣襲撃のことなんだけどさ、そのときに神架教の唯一神が地上に降りてきてとある人間殺害に関わった人たちを殺して回ってたんだよ」
信仰する人がいなくなってしまったら神格が弱まってしまう。全滅して神としての存在価値がなくなってしまうことを危惧した多神教の神様達は唯一神が地上に降りてきたときに猛攻を仕掛けようと企んだのだ。しかし、それは全て唯一神に見抜かれていた。
それぞれの神を奉る神殿にてことごとく殺され、神殿ごと跡形もないほどに破壊されてしまった。ちなみに、ルミナリーの人たちは人間殺害に興味がなかった――というよりも主神が復活したことによってそんなことに見向きもしなかったのだが、少数の神様たちはいつかは離れていってしまうのではと怖がり唯一神殺害を図ったらしい。まあ、彼らも容赦なく消えているようだが。
ルミナリーにあった忘れられた砂の神殿も八つ当たりによってぶっ壊されたものの一つである。太陽の神は被害がそれだけで済んだが、唯一神との戦いから逃げてきて生き延びた神様たちは幻獣襲撃が発生したバハル地方とエルメイア共和国には絶対に行こうとしないらしい。
「なぜ人間如きが死んだからって神様がそんなところで出てくるんでしょうか」
「簡単な話だよ。二人はずっと神様に見守られていたのさ。頭が良すぎてどちらとも孤立していたから」
神様に見守られていたということはすなわち天界に受け入れられた二人というのはその頭のいい人たちなのだろうか。太陽の神様に伝えてみると微妙な顔をしていた。彼女によると、大筋は合っているけど……という評価らしい。
そんなことは置いておいて、と太陽の神様は言い、アナスタシアの方を向いてゆっくりと歩いていった。そして、アナスタシアに優しく抱きつく。
風で靡いていた彼女の美しい金髪の隙間からは確かに太陽の神を見つめる瞳があった。太陽の神を見つめて数秒、ふっと微笑み彼女を包み込んだ。見ただけでわかるほどの優しさがそこにはあった。
フレッドは景色を見ながらも二人を視界に捉える。どこか――懐かしい。以前見たことのあるような景色だ。太陽の神にはダリアを疲れるまで踊らせた時のような狂気がない。母親に再会した子供のように無邪気な表情だ。
崖側ではない方の、のどかな風景が永遠と続く方を振り向いた。
平坦で何もない道。変わり映えのない平野。しかしその平和な風景を作るのにどれくらいの時間がかかったのだろうか。
そんなことをフレッドは思ってしまった。当然幻獣襲撃の被害は食らっているだろうが、少しずつ自然の力を生かして着々と成長を遂げていたらしい。
幻獣襲撃の際に同時に降りてきてしまった聖霊たちの記憶を読み取った結果、気が遠くなるほどの年月を越えてつい最近このような美しい景色になったとか。
彼がバハル地方の記憶を読んでいた中、アナスタシアは太陽の神様とハグし終わる。アナスタシアは彼の腕あたりをつんつんとつつく。聖霊の記憶から一気に呼び覚まされたフレッドは辺りを見回して背後にいたアナスタシアを見つめる。
「どうしたんですか? 熱があるように見えますが」
「――っ、いやなんでもないので先に行きましょう。フレッドさん」
彼女の顔色が段々と赤に染まっていたことによって旅し慣れていない人特有のストレスによる発熱を引き起こしてしまったのではと心配した。
旅になれていないと、言語の問題だったり宗教問題だったりでいざこざが多くなり、疲れることもたくさんある。とても不安で不安で仕方なく、つい彼女の方にそっと近づく。額に触れたが、顔の赤さと反比例するように冷たい。
「冷えてませんか? とても冷たいですよ……」
「大丈夫ですよ! これが平常ですし」
フレッドはとても驚いた。フレッドの半分ではなかと思ってしまうくらいに体温が低く、まるで死人のようだった。
彼女はそれに関してあまり触れてほしくなさそうだったので話を早々に切り上げた。そういえば、とフレッドはアナスタシアに劇場を後に回してまで何をしたかったのかと尋ねた。
「用件は終わりましたよ。こうやってなじみのある方々の所を回って感謝を伝えたかったんです」
曰く、劇場で出会った人も命の恩人レベルで助けてくれたらしい。当時とても――というか世界のほとんどから嫌われていたアナスタシアたちの逃亡を手伝ってくれたとか。
それが劇場での出来事だというのだから彼女はどれくらい昔の記憶を保持しているのだろうか。少なくとも普通の人間の寿命のそれではない。
『……あ』
「どうしたんですか?」
『見覚えがあるあの花――五千年前に咲いてたやつ』
「どおりで僕が見たことないわけだ」
「フレッドさん……誰と話しているんですか?」
アメリアが今までに見たことがないほど驚いていたのでついアナスタシアの目の前で彼女と会話してしまったのだ。アナスタシアにヤバい奴を見つめるような目で大丈夫かと聞かれてフレッドはその質問達をのらりくらりと躱す。
二人は太陽の神様と別れて旧劇場跡に向かおうとした。
別れ際、太陽の神様――ホルシェだった女の子は小さな声で呟いた。
「ありがとう。私の神様」
フレッドは何か聞えた気がして振り返る。しかし、太陽の神様は陽光の粒子の如く消えていった。




