第八十七話 霧想の世界にさようなら
「どうしましょうこのまま治らなかったら……」
「大丈夫ですそんなことはないですから。とにかく、解読するためにどんな魔術式で構成されているのか探してみましょう」
アナスタシアの手にそっと触れた。目を閉じて根幹となる魔術式を探し始めた。そして推理も始める。フレッドが人形化していなく、逆に彼女が人形化しているということに何かヒントがあると思った。
彼女がしていた行動を思い出す。人形に関する行動は人形工房を訪れた時くらいだった。となると、あそこで何かのギミックが生じていたのかもしれない。
フレッドがしなかったような事。例えば職人との握手――とか。
魔術でなかったとしても、病気などは相手に触れたことによって感染が広まることは多々ある。職人が感染源だとしたら、納得できた。フレッドは職人に手の一本もふれていない。
それはフレッドが手袋を装着していることを察して職人が一切干渉してこなかったが、アナスタシアは初手でちゃんと手を握っていたので人形化が進んでしまったのだろう。『人形化』というのは一種の呪いのようなものだと考察した。
アナスタシアにその考えを伝えると、彼女は真顔で頷く。
「それは多分合っていると思います。拡散型の魔術のように感じましたね。『散』の魔術式が根幹なような気がしますがこの国全体に蔓延しているとなると全部を消し去るのは不可能ですかね」
「ええ。僕が出来たとしてもアナスタシアさん一人ですし……多分彼らは消し去らない方がいいと思います」
人形は保存状態がよく、しかも魔術による加工がされているとなると、ずっと長持ちすることが出来る。しかし、その人形化の魔術が解除されると途端に廊下を始める。彼らがたかが数十年で全員がその呪いになる可能性というのは極めて低い。だから百年くらいはこの状態のままのように見えた。
そうなると、フレッドが万が一この国に掛けられた呪いを解除してしまうと国全体が崩壊してしまう。寿命がもう限界なので無理もない。そして何よりも彼らの生活はだいぶ楽しそうだったのでフレッド達がなにか手を加えるだけ無駄だと感じたのだ。
それからアナスタシアの人形化解除だけに専念して久しぶりの魔術式解読を行うことにした。時間が経過するとともに彼女の体がさらに人形になってしまう恐れがあるので彼女もいっしょに作業に取り掛かった。
アナスタシアはフレッドの隣にちょこっと座って彼の方に手を寄せる。
とりあえずフレッドは彼女の手から魔術式を瞬時に読み取って全てを書き写し始めた。
「これで少し記憶が読み取られる恐れがあるのですが……いいですか?」
「ええ。私が隠すべきものは何もありませんから全然大丈夫ですよ……思い出してほしいですし」
「なにか言いましたか?」
「――いや、何でもないです」
アナスタシアは顔を少し赤くしながら俯いた。それが彼女の合図だった。フレッドはそっと彼女の腕に触れた。水に沈んだように記憶の海に潜り込んだ。
* * *
彼女の記憶の中にはそれはもう驚くほどの魔術式が敷き詰められていた。頭の中には普通の人間では想像できないような高度な疑問がぽつぽつと浮いていた。
許可を貰ったとはいえ、むやみやたらと人の個人情報をのぞき見するほど趣味は悪くない。ささっと魔術式を見つけてもとの世界に戻ってこよう、とそう考えた時だった。根幹にあった魔術式のその隣に、なにやら楽しそうな顔をした男性が映っていた。通り過ぎようとしたが、それでも気にすることしか出来なかったのだ。
というのも、彼女の記憶に残っている男がフレッドに途轍もなく似ているのである。旅の途中がそうとう彼女に影響を与えたのかとも一瞬考えたが、風景的にそんな場所には行った記憶がないし、そもそもフレッドの御者組合の制服とは全く異なるものだ。共通点と言えば、少しぼろくなっている程度だろうか。
フレッドが気になるうちに、彼女の記憶が再生を始めた。
『ねえ。私はどれくらいあなたのことが好きだと思う?』
『分からないけど――少なくとも僕の方が君のことを好きだと思うな』
『そんなことないよ。きっと私の方が――を愛してる』
恋愛小説の一幕だろうか。彼女は外の国に旅行したことがないと言っていた。そしてこの風景だとその場所がリャーゼン皇国だというのはありえないことだったため、きっとどこかで読んだことのある素敵な恋愛物語の一つなのだろう。そんなものが彼女の人生に多大な影響を与えているとは考えにくいが。
奥に向かうたび、フレッドに似た男との記憶が増えていった。なぜだろうか。彼女の見た記憶はフレッドも見たことがあった気がした。そこは森林の中のようで、フレッドは森に行ったことがほとんどなかったのでどこでそんなものを見たのだろうと疑問に思う。
最奥。フレッドは二人で考察した『散』の魔術式を発見した。それがすべての元凶で、一番厄介なのはそれが一番深くに根付いてしまっている――ということである。
最奥に位置しているものは取り除くと人間の記憶に一部支障をきたしてしまう恐れがある。だからさらに慎重に解析を進めていかないといけないのだ。ただ、魔術式の解除はいつでもできるので今はとにかくできるだけ多くの魔術式を書き殴った。
それはものの数分で書き終わり、フレッドが目を開けるとアナスタシアが彼の顔を覗いていた。
「大丈夫でしたか?」
「はい、こっちに書き残してるので……時間制限内に間に合って良かったです」
フレッドがアナスタシアにそのノートを見せるとほっと安心したように彼女は一息をついた。
「それにしても早かったですね。見た感じだと魔術式も全部合ってそうですし……流石です」
精神の中にある魔術式を本人が書き写すことは不可能だが、感じることくらいならできる。彼女曰くほぼ一致しているとのことだった。
二人は早速魔術式の解読に取り掛かる。一つ一つ分解していき、暗号のように羅列していた魔術式を紐解いていく。
三時間くらいが経過したときだっただろうか。二人で協力して何とか魔術式の全てを解ききった。呪いなんていうのは人間の無意識下で発生することもある。今回はそのケースだったから下手したら水中都市のときよりも難しかったかもしれない。
二人で詠唱する言葉を決めて、呪いにかかっているアナスタシアだけがそれを詠唱した。範囲は彼女だけ。そうした方が成功確率が高くなるし、何よりも他の人の人形化を解除してしまう恐れがある。
約三分にもわたる長い詠唱だった。もっと長いものはあるのだろうが、フレッドは手早く済ませていたから物珍しさがあったのだ。それを終わらせると、そこには何も変わらない景色があった。
しかし、音だけは叫ぶかのようなギギギ、という軋みだけがあった。どうやらアナスタシアが痛みを感じることはないらしい。ただ、彼女は自分の体が異様な音を発生させている事実に青ざめてしまっている。
それは肉体が接合をしている音だった。関節部分が覆われ、次第に骨が生み出されていく。ちょっと重くて制御が聞かなかった腕も、軽々と上がる程度には回復していた。フレッドと握手してその後に彼女自身の手を広げたり丸めたりする。ぽきぽきという音が鳴らなくなったと分かった瞬間に嬉々とした表情を浮かべ、彼にハグをした。
「やったぁ!! 本当にありがとうございます助けて下さって!!」
「ちょっと落ち着いてください……」
あまりに突然のことであり人とハグをしたことがほとんどないフレッドはとてつもなく慌てた。彼女としては喜びの余り抱きついてしまったのだろうが、フレッドとしてはかなり恥ずかしい。
「ごめんなさいっ! つい嬉しくて……」
普通に考えて呪いが解けるというのはとても嬉しいことだし、フレッドも一安心していた。
まだここにいようかとも考えたが、何が呪いの発生源でどうやったら人形化してしまうのかが未知数なので歓迎していくれている国の人達には申し訳ないが、今日のうちに帰ることになった。二人はどこにも目をやらず、ただ城の方だけを見て歩き進めた。
「おお! 帰ってこられましたか。いいでしょう! この国は沢山楽しめるところがあるんですよ」
城に戻ってきて早々、大臣に話しかけられた。確かにリャーゼンに負けないくらい楽しくて不思議な国だった。フレッド達も呪いさえなければ長く居続けただろう。わくわくしたような表情で二人に語りかける大臣を見てとても罪悪感が湧いた。こんなに親切にしてくれているのにそれを無下にしてもいいのかと。だが、それよりも呪いが怖かった。
フレッドが言えないことを悟ってアナスタシアが口を開く。
「大臣、申し訳ございませんが帰らせていただけないでしょうか」
「……いいんじゃが、どうしてそのようなご決断を?」
「私達は旅人で、まだ行ったことのない国やここのように車で知らなかったような国がたくさんあります。私はそんなところを冒険してみたいのです」
彼女の探求心はすごかった。なぜ世界の全てに執着するのかという疑問を吹っ飛ばすほど世界を見つめる彼女の瞳は透き通っていた。もはや誰にも彼女の意見には口を出せない。そんな雰囲気を醸し出している。
大臣は子供心を忘れていないようで、彼女の冒険に対する好奇心と熱意をしかと受け取った。
「外の霧が晴れているかは分からんが、気をつけておくれ。死んでしまっては元も子もないからのう」
二人は感謝の言葉を述べながら部屋へ戻った。
荷物は散乱させていなかったからまとめるのは簡単だった。フレッドはアナスタシアの荷物がまとめ終わったことを確認して、重い扉を開けた。扉を開くとそこには王様がいた。
ひどくお怒りのようである。
「なんで行ってしまうんだ!!」
彼の言葉から察するに、大臣からすでに話を聞いたようだ。王様はフレッドの袖にしがみつく。
「大臣からは楽しかったと聞いた!! 行かないでよ!!」
王様には王様としての威厳はなく、ただそこに少年が一人立っているだけだった。彼はフレッド達に帰らないで大声でねだる。この国に来訪者が来るのはとても久しぶりなことで、もう来ないかもしれないと彼は危惧していたのだ。
彼の悲しみを理解したフレッドは彼の目線に合わせ、彼の手を握る。会ったのはたったの数回しかないのだろうが、それでも王様に影響を与えていたらしい。彼をまじまじと見つめると目筋には涙が浮かんでいた。
「いいかい? 僕たちはただの旅人なんだ。だから彷徨うことしかできない……もし君が僕たちを探し求めるのであればこちらに電話してください」
王様は『王様』としてではなく『一少年』として話しているような気がした。だから、フレッドらしからぬ砕けた言葉で彼を説得した。
フレッドは彼を宥めながらもちゃっかりと名刺を渡す。だが、彼は拒むわけでも受け取るわけでもなく、首を傾げるだけだった。
「――なんだこの質のいい紙は」
そう言って王様は手に取らずにじっくりとフレッドの名刺を眺めた。別に上質な紙を使っているわけでもなく、ごくごく普通な紙を使っているだけなのだが、そんなに珍しかっただろうか。
その反応が珍しくて逆にフレッド達が彼の行動に注目していると、彼の懐からは何かが出てきた。茶色で、目が粗い何か。アナスタシアが近くでじっと見ていると、それが紙ではないかという結論に至った。
彼女によると、資料室に置いてあった五千年前の資料には王様が持っていたような今の基準で考えると相当劣悪な質の紙を使っていたらしい。というのも、魔術の発展はすごかったとのことだが、それ以外――例えば最近開発された電話や飛行機などが例に上がるだろう――の科学的技術の発展はまだまだだったようだ。
まあ、今よりもずっと魔術研究が栄えていたというのだから科学技術の力を借りる必要もなかったのだろう。幻獣襲撃によってそのほとんどが失われたことから、王様も含めるこの国全体が何らかの理由でずっと残り続けていたのだろう。幻獣襲撃に絡めて呪いというのも、もしかしたら神様が与えた『罰』だったのかもしれない。
そんなことを考えていたとき、乾いた太陽の光がフレッドの髪の毛部分を照らしつけた。ぼんやりとした光ではないことから霧が晴れたのだと考える。
とにかく謎が多くそれらはまだ残っていたが、霧の中の夢想世界に別れを告げることにした。




