第六十七話 水廊と結界
ハイデマリーは驚いていた。というのも、フレッドとハイデマリーがあまりに白々しい目で睨まれすぎてさすがにいたたまれなくなったので水栄街からそそくさと離れたのだが、そこは水栄街の景色とはかけ離れすぎていた。
建物はフレッドが旅をしていない間ほぼ毎日見ているような建築様式。それが水に浮いているのかそれとも地面を氷で固定しているのか知らないが、地面につけていない家が沢山あるのだ。そして二十メートル階層ごとに分けられている結界。
これもまた水栄街付近だと十メートルだったが、二倍になっている。さらに結界と結界の境目にある廊下。未だに名付けられていないもので水中都市に住んでいる人は水廊と呼んでいるらしい。
そんな美しい結界も今では儚く散ろうとしている。
原因は分かっている。どんなに人が踏み荒らしても耐え抜いたのに脆くなってしまったのだから誰――いや、『何』のせいなのかは一目瞭然だ。
神様は水中都市にとんでもない影響を与えた。水中都市全域にある結界の力を弱めたのである。神様は存在するだけで結界の魔術式を高速で上書きさせることが出来る。それが海の全域に広まって非常に危ない状態となっているのだ。
神様を呼び出した張本人のスカーレットは現在進行形で猛省していた。三人のピンチだったとはいえほういほいと神様を呼び出してしまったことを許してほしいと言っていた。
水栄街の人々に迷惑をかけたことには間違いないが、それでもフレッド達があのままマフィア警官軍団と追いかけっこをしていたら更なる被害を生んでいただろうから街のネオンが一時的に消えるという被害だけでよかった。
ついでに水中都市の犯罪件数のほとんどを占めていたマフィアが消えたのだ。だが、それと同時に水中の警察も消えてしまったから陸からの支援が得られるまでの数か月間は混乱に陥ることだろう。そうなるとなかなかのことをしでかしてしまったのではないか? と今更後悔してしまった。
おまけに神様の上書きによって凶悪な魔物が入ってくる恐れもあるからもしかしたら都市が全壊してしまう可能性が無きにしも非ずなのだ。
「うぅ……やっぱりわたくしに聖女なんて務まらないよぉ……」
「スカーレット、大丈夫だ。まだ若いからこれから経験を積んでいけば何とかなるさ」
「けど……」
「しかし、これでマフィアの水中都市支配は止められただろう? それだけでいいんだよ」
水中の中だからよく分からないが、スカーレットが泣いているような気がした。確かにあの惨状を見てしまったら自責の念に駆られることもあるだろう。それが悪意や欺瞞を一切持たないような聖女であればなおさらだ。
「スカーレットさん、見て下さいあの景色を」
フレッドよりも奥の位置にいたスカーレットは伏せていた目を少しばかりあげた。
――眩しい。先ほどのマフィアと三人の騒動がなかったかのように水栄街は機能していた。それどころか、停電する前よりも一層のこと輝いている。
技術力がすごすぎるかつ見たことのない景色が広がっていてスカーレットは忘れていたのかもしれないが、ここはプリヴェクトの完全協力のもとに成り立っている都市である。
管制塔もプリヴェクトにあるのだから本当にここの機能を停止させるにはプリヴェクトを襲撃しないといけなかった。
しかし、そのためにはプリヴェクトを現在取り仕切っているリャーゼン皇国に戦争を吹っ掛けないといけない。
色々な方面で戦力がバグっているのでいくらテロリストでもそんな無謀なことをしてくるような人はいないはずだ。プリヴェクトには以前フレッドが会ったようなシャーロッテなど、研究に生涯を賭けているような人だっている。
全ては水中に住む人たちが安心安全に過ごし、暇にならないようにするため――。裏でこれだけ輝けるような人もそうそういないだろう。
「そういえばハイデマリーさん、騎士団の方々が買収されていたというのは報告した方がいいのでしょうかね」
「……? あぁ、あれか。多分皇国側に言っても政府だって買収されてるだろうから無駄だよ」
マフィアはそれくらい財力があったのだ。
そういえば、とフレッドが話を変えた。とてつもなく単純な疑問である。
「紙幣や金貨ってあの破壊された建造物の中に無かったですよね」
「そうだな。確かに紙屑のようなものも金に輝いているものも見えなかったが」
「あれって地上にあると仮定すると誰が貰うんでしょうか?」
「…………」
ハイデマリーが面食らった。お金好きなのは変わっていないようで、マフィアの遺産の話が出た瞬間に目の色を変えていた。スカーレットはお金のことばかり考えている人をものすごく憎んでいたが、一番憎むべき人は彼女ではないだろうか。
フレッドのことを嫌っているとは思えないような態度で彼に話しかける。
「なあなあ、御者。お前はどこに金があると思うか?」
「そんなの興味もないですよ。門番なんてやめていっそのこと財宝ハンターにでもなればどうですか――」
――フレッドが彼女のことを呆れ返った目で見たその時だった。
水中全体に振動が伝わる。そして何があったのかと反射で下を覗くとメキメキ、と地面が亀裂を生み出しているのだ。
海底が鼓動する。まるで巨大な子供が腹の中で暴れているかのように。これに関しては、結界が緩んでしまったせいで凶暴な魔物を生み出しているのは確定だった。不幸中の幸いか、水栄街には休暇でやって来たという冒険者も多かった。
組合の支部があったのもその影響だろう。水栄街は彼らに任せておいて、フレッド達は街を少し外れた閑散とした場所を守り抜くことにした。
「御者、大声出せるか?」
「出せはしますけど……この全域に伝えられるほどでは」
「わたくしがやります。こうなってしまった原因はわたくしなので」
威厳のある雰囲気でそう言うと、彼女は動きを止めて祈りを捧げた。彼女が首からぶら下げていた十字架が突然光りだす。
また神様を呼ぶのかと思って警戒したが、フレッドの頭にほんのりと彼女の声が聞こえてくる。耳を澄ましに澄ましてやっと聞こえるくらいの声量だ。彼女は水中都市が危険になっているから家から出ないでほしいと忠告していた。
確か、家は水中と空気の境界線だということもあってかなり厳重に結界を張られていた気がする。少なくとも神様が来ても書き換えられていないから家から出ることさえしなければ防衛は出来るだろう。
「わたくしは魔物の対処をしますのでお二人は結界の修繕と補強をお願いいたします!」
そう言いながらスカーレットは神が出していたオーラと同じようなものを纏ってどこかに行ってしまった。ハイデマリーが明らか不機嫌そうに泳ぎだした。
「ところで、これってどうするんだ? 私は結界の張り方は中級者レベルなんだが」
「それじゃあ簡単な魔術式をここに書き込んでいってほしいです。あと魔法陣もお願いします」
フレッドが水中都市全域に透明な膜のようなものを張って書き出していった。ハイデマリーはこの場合の適切な魔術式を淡々と書いていく。しかし、人間の書くスピートでは海底の亀裂を何とかすることが出来ない。
こうなることは必然だったのかもしれない。海底のさらに奥底から魔物が結界をぶち破って侵入してきた。
それもとんでもない量である。
* * *
フレッドは以前、セレンの依頼を引き受けて幻獣を使い魔にしようとしたときに今と同じくらいの魔物の数を見ていたからある程度慣れていたのだが、ハイデマリーはどちらかというと対人戦に強いタイプだったので圧倒的魔物の物量を見て絶句していた。
戦闘狂でしかない彼女でも絶望することはあるんだなぁなどと思っているが手は全く止まらない。
書いていた魔術式に反応したのか、黒く蠢く魔物は早速フレッド達を襲撃し始めた。
魔物は凶暴であるほど魔術式を求める。その原理はいまだに解明されていないらしいがどうやらサメが血を求める、といった本能で動いているらしい。すなわち以前にも魔術式を水の底に持ち運んだ人がいるということだがそれが解明されることはないだろう。
「ハイデマリーさん、戦えますか!?」
「もちろん戦えるさ!! ってところで魔術式の書き込みはどうするんだ? 私達がこのまま討伐していっても結界が破られている以上無限に侵入してくるだろう?」
「他の人達に任せます。今の進捗状況は結界内であればどこからでも見られるようにしていますし冒険者組合が多かったので暇になった魔術師がしてくれるのではないでしょうか」
とても他力本願だが、討伐と立式を同時並行するにはそれしか方法がなかった。フレッドは『結界の完成求』とだけ書き残してあとは戦闘に集中することにした。
「……っ、来る!!」
ハイデマリーの掛け声とともに二人は一斉に走り出した。フレッドに黒く蠢く何かと認識されていた魔物は魚型の魔物でおぞましい顔つきをしている。
ハイデマリーは魚の右に回り、フレッドは左に回った。
戦闘が始まってからすでに三十分が経とうとしていた。本来であればフレッドとハイデマリーという、戦闘力では圧倒的に有利なはずなのに全くダメージが入らない。
どうにかしてダメージを与えたいと思うが、魔物の持つ鱗があまりにも硬すぎて圧倒的に効率が悪い。
何よりも面倒くさかったのはえらの中から這い出てくる小型の魔物だ。奴らは大型が呼吸をしてエラが開くたびに魔物が生まれてきてしまうのだから簡易的なダンジョンかと思ってしまうほどだ。
「そっちは大丈夫!?」
「鱗が厄介でなかなか……!! ハイデマリーさん、もしかしたら内部に弱点があるかもしれません!!」
魔物のほとんどが人間でも倒せるようになっている、というのは有名な話だ。実際、都市伝説として広まっていた時に気になった神官が神にお尋ねになった。結果、種族が誕生するときに神がある程度の調整を行っているらしい。本当に勝てなくてわざわざ天界から呼び出されるのが面倒だから、とのことだ。
硬い鱗をゴリ押しで何とかしないといけない、というほど理不尽につくっている訳ではない気がしたので直感から言ってみた。ハイデマリーは近くにあった水廊を蹴って上から奴の本体を観察する。
フレッドが彼女のことを気に掛けながら戦っていると、よく見えない、といったような反応をしていたので投げて水中でも使える双眼鏡を投げて渡す。水の中でふわふわと漂いながらも無事彼女に行き届いた。
「……!! あそこに柔らかそうな部分がある。きっとあそこが核だ!!」
魔力の多い場所が核となっている可能性が高い。双眼鏡からX線検査のような方法を使って体の中の魔力の流れを視たのだろう。フレッドも魔術で足場を造ってハイデマリーと同じ場所まで行き、魔力を視たが、火を見るよりも明らかだった。
「私が奴を挑発しておく。その間に御者は核だけを集中攻撃してくれ」
「分かりました」
フレッドとハイデマリーが協力をしたのはこれが初めてだった。ハイデマリーは持ち前の体力と氷魔術で逃げ道を塞ぎ、猛攻を続けている。彼女は頑丈すぎる装甲を削ぎ落すという大役を果たしてくれた。
あとはフレッドが核を消し去るだけ。水廊を走り回って巨大な円を描く。水廊の空間だけは浮力がないということを完全に利用して波だけで魔法陣を組み立てていたのだ。フレッドは息を吸い込む。その直後、大きな魔法陣が光りだした。
「――魔力を魔弾に変換」
たったの十秒にも満たない詠唱だった。それだけで魔法陣八つを同時に起動させて周辺の魔物を燃やし尽くしたのだから。逆光でフレッドの瞳が妖しく光る。
フレッドは魔法陣を水面から二百メートルの所に移動させ、魔弾の雨を降らせた。
ハイデマリーは彼に何をしているんだ、といった視線を向けた。
当然だ。せっかく復興したばかりの水栄街なのに凶悪な魔弾を全域に降らせれば再起不能になる。しかし、そんなバカなことをするフレッドではない。魔法陣の中には攻撃対象を魔物だけにするようあらかじめ仕込んでおいたのだ。
フレッドの魔弾は魔物達を苦しめ、そして戦っていた冒険者たちを楽にした。黒い魚はフレッドの魔術を浴びてわずか数分で倒れてしまった。魔物は灰となり、落とした素材だけはちゃっかりと回収しているハイデマリーに苦笑しながらも言った。
「そろそろスカーレットさんの所に向かいますか」
「いや、まだ結界があるぞ」
「……あ、忘れてた」
戦いが思いのほか楽しくて集中していたフレッド達は再び魔術式地獄と向き合わないといけなくなった。




