第二十三話 水の都・ルインレット2
「舟の上には有名な宝石商がいるらしいね。もちろん買わないけど寄ってみる?」
ユーリは人生で一度も宝石を間近で見たことがなかった。カトーネ公爵家の令嬢は彼に煌びやかな宝石を見せつけていたが、実際に触れたりしたことはないらしい。
二人は相談してその船がある場所まで移動しようとした。そうするための強固な意志を持っていたはずなのだが。
「誘惑が多すぎる……フレッド、ちょっとあそこの店寄ってもいい?」
早速ユーリが数々の誘惑に敗北していた。フレッドも、所々で散財をしてしまっている。依頼の報酬で賄いきれる金額ではあったが次からは自制しようと決意する。
そもそも、こんなに素敵な場所を置いた人が悪いのではないかという責任転嫁を超えた何かに思考がシフトしていた。もう全てを無視して櫂を漕ぎ続ける。欲を抑えるというのも大事であろう。ユーリは舟の上に立つ。
「ユーリ君、危ないよー。転落してしまうから」
フレッドは頬を膨らませて彼の行動を制止する。クラっとして流石に危険だと感じたのか、すぐに座った。
鞄の中から双眼鏡を眺めているとあからさまにキラキラとしたものが見えてきた。あれが宝石商店であるということは誰でも分かるだろう。フレッドは優しく微笑んだ。ユーリは目を輝かせて遠くを眺めた。
だがしかし何も見えない。誘惑に負けないように素早く櫂を動かした。だいぶ漕ぎ続けたので腕が棒のようになる。汗をハンカチで拭い、後ろを確認する。
「そろそろ着くね……ちょっと見ていこうか」
それはいわゆる『ショッピングセンター』というもので、豪華客船の外側に宝石商はいた。小さな舟を近くに停めておく。蒸気機関は動くことがないので舟の数々が巻き込まれる心配性はない。ゆっくりとフレッドが降り、ユーリに手を差し伸べる。何の違和感も持たずに差し伸べられた手に彼の手を乗せた。
「どうしようか……まず宝石店に行くことは当然として」
二人はパンフレットをじっくりと見つめた。一階から五階まであって、それぞれでコーナーが違った。一階は人気店と料理店がずらりと並んでいた。一階は最早地獄かと思ってしまうような人の多さだったのでまずは二階から探していくことに決めた。
その階には主に日用品が売っていた。どうやらここは観光客だけではなく国民も訪れるような国で一番大きいデパートらしい。
普通のエリアのように思えたが、最新式のものだったり他の地域では出回っていないような珍しいものまでずらりと並んでいた。
囚人のユーリにはそんなもの必要ないから買おうという意思すら持っていなかった。フレッドも興味深そうにそれらをジロジロと眺めていたが買ったところで何になるのかという結論に至り、優しく商品を元あった棚に戻す。
結局、二階では何も買わずに済んだ二人は階段を使って上に登る。
「ここは……文房具エリア? 何でこんなにスペースが割かれているんだろう」
「最近は文章を書く人や絵を描くような人が多くなってきたからね。いかに書き心地のいいもので書くかによって作品の出来も左右されるらしいよ」
フレッドの言う通り、今は全世界で文学が爆発的な流行を迎えていたのだ。特に史実を基にした作品。最近だと歴史学者も学びを深めるために一作書いて持ち寄り、時代考証がきちんと出来ているかなどを調べているらしい。
没になった作品も世間に公表したら人気作となったものも少なくはない。結果、一般の人でも歴史を学ぶようになって見聞が広がるのだから良いことなのである。
フレッドもしばしば読むが最近は完全な人間、神獣や幻獣と共に旅をするものが圧倒的に多い。これが流行というものなのか。と感嘆したのを覚えている。
文房具屋に立ち寄ってみると、確かに執筆用のペンや摩擦の少ない紙なども置かれていてまさに文化の発展という言葉が一番似合うような光景だった。
「フレッドは物語とか書かないの? 御者やってるから色んな話書けそうだけど」
「書かないねー。たまに魔術書とかは執筆したりするけど……文才がないからね」
文房具屋の片隅に魔術式を描いたり魔法陣を描いたりする時に向いている紙があったのでちゃっかりそれだけ買った。他の店にも沢山文房具が置いてある。そして一角に本屋があり、そこが言うには物語に憧れて旅を始めるような人も多いらしい。
もっと上の階にも沢山の魅力的な商品が置かれてあるっぽいが、宝石商店と他の舟も回ることを考えればそこまでいけるような時間はないだろうと考えて一階まで降りる。
確かに一階は有名店が沢山あるということでとてつもなく魅力的な店が多々あった。魔術道具も多く揃っていて買いたい衝動があったのだが。
「これだけ人がいると買う気も失せるよね」
「ここに何人いるんだよ……」
フレッドはあまりの人の多さに苦笑し、ユーリはもはや困るというところを通り越して呆れている。というよりも達観の方が近いだろうか。とにかく悟っていたのである。
これだけ人がいると当然犯罪率も高くなる訳で、痴漢やスリは当たり前のことであり、客と店員のいざこざや客同士の喧嘩なども見てきた。これでもまだ平和な方らしい。正直言って治安が終わっている。
フレッドも先ほど金を持っていると思われたのかジャケットに手を突っ込まれたところだ。もちろん護身術を極めていたのでナイフを取り出す前に気がつき盗もうとした男を薙ぎ倒したが。
廊下がこれだけ混んでいるのなら宝石商店はもちろんのこと、このデパート内であればどこに行っても店に入ることはおろか、眺めることもできないだろう。そう考えて出口の方に目を向けた時黒い色が見えた。艶があって重厚な色である。
フレッドは大声を出した。
「みなさん屈んで!!」
よく通る声だった。しかし、突然そう言われたって何故屈まないといけないのかが分からないと行動を起こそうとはしない。痺れを切らしたのか、二発、空中へ発砲した。
「この階層は俺たちがジャックした!! お前らの抵抗は無駄だ」
とても端的な言葉だったが、予想もつけずにその言葉を聞いていたらどれくらいショックだっただろうか。フレッドは拳銃が見えた時点で何と無く察していたがユーリの顔は少々青ざめている。
「まずは金だ。全員金目のものを出せ!」
大勢の人が十人くらいの凶悪犯に怯えて財布を投げていた。やはりここを訪れるのは金持ちや旅行中の貴族が多いらしく、金貨百枚は入っているであろう財布まで投げている。それを見たジャック犯の顔が嬉々としているのは言うまでもない。
ユーリがチラチラとフレッドの方を見ていた。どうしたのかと聞くと、金はどうしたのかといったことだった。
「それなら大丈夫だよ。僕は貴重品を魔術式の中に保管してあるし自分にしか解けないような暗号を使ってるから」
しかも本人と全く同じ魔力量じゃないと解除した人は怪我を負う。実際に開けられたことがないので分からないが、軽くて片腕が吹っ飛び、ひどいと死ぬことまであるように魔術式に組み込んである。本当に容赦ない。
この話を聞いたユーリは表情こそ何も変わっていないものの、顔色は悪くなっていた。
「ごめんなさい。少し残酷な話だったかな」
「かなりエグいけど……」
彼の心は善性で包まれていた。
* * *
「ユーリ君、これはそろそろ動いた方がいいと思う?」
フレッドは真面目に考えていた。これ以上先延ばしにされると夕方になって水の街を探索できなくなる。それは本当に困るのだ。
だから後少しだけ待ったら攻撃しようと考えていたがいつ決めればいいのか分からなかった。第一に人が多い。こんな場所で大魔術を放ったら一般市民の一人や二人、巻き込みかねない。第二にここが海であるという点だ。
普通に陸地だった場合は地面を吹っ飛ばすなんてことそうそうには起きないが船の上だとどうしてもその可能性が高くなってしまう。
いや、もう考えるのはやめよう。そう思ってフレッドは主犯格の腕を目掛けて一直線にナイフを投げた。この中に強盗がいても立っているような人は存在する訳もなくフレッドの作戦は見事に成功したのだ。ナイフは男の右腕に直撃し、彼は拳銃を落とした。今のフレッドにジャック犯を心配するような心はない。
全ては客が危険な目に遭わないように。
彼がリーダーのような男を倒したことで乗船客の戦闘士気がみるみるうちに上昇し、もともと客も千に到達しているのではないかと思うほどの数だったのでたったの十人を倒してしまうのは簡単なことであった。流石に銃器を所持しているとは言えど、数の暴力に勝てるはずがないのだ。
「わっ!?」
ユーリが数の暴力の渦に巻き込まれ、踏みつぶされていた。怒りから踏みつけている人々が彼に気が付くことはなくユーリ自身も抵抗する手段がなかったので暴動を民衆の真下から傍観していた。フレッドは途中で顔を真っ青にしてユーリの方を見ていたが助ける手段も思いつかず絶望といった表情で彼のことをただ見つめているばかりだった。
市警が次第に到着し、実行犯の十人はもちろん、デパートの上階から魔術でサポートをしていた魔術師も逮捕されていた。号外の新聞では犯人たち以外に怪我を負ったものはいないと書かれている。
フレッドはそれはもうとても申し訳なさそうにユーリの方を優しい目つきで見た。
「本当にごめん……結構深手だよね」
「いいよいいよ。あのまま一般人に危害が加えられるよりは幾分かましだしさ」
一般人にという言葉は自分が囚人であり傷つけられても殺されても問題はないということを物語っている。フレッドは心配そうな表情を浮かべた。
他の舟の人に聞いてみたところ、今日はデパートが乗っ取られた以外にも他国との戦争から重傷で生還した人たちの治療を行っているものだから全ての病床が満室らしい。首都近郊でもそんな感じらしいのでどうするか、絶賛迷い中であった。
「回復系統の魔術は?」
「そんなものが使えたら今頃やってるよ……」
フレッドはほとんどの高度な魔術が使える代償なのか、どれだけ特訓しても精密な魔術式を作成しても、回復だけは全く使えなかった。先天的なものなので諦めるしかないとか、いざとなれば自分が客を護ればいいと考えていた。そんな考えは安直すぎたのである。ユーリは手を叩いてアイディアを出した。
「あの魔女さんの所に行けば? 知に貪欲な魔女」
知の番人・ルチアのことを言っているのだろう。確かに、魔女であれば回復系魔術の一つや二つ、使えそうだった。かなり秘境にあったのは覚えているし、なんなら印象的すぎたのですらすらと水の道を進んでいくことが出来た。
やっぱりその古本屋は隠れるように位置していた。というか、建物どころか街全体がルチアの古本屋を隠したがっているようにフレッドは見えた。
もはや慣れた手つきで手持ちのランプに明かりを灯し、辺りを照らす。今度は、ルチアは歴史書のある部屋の扉をちょこんと開けてジロジロと二人の方を睨んできた。
「私に何か用事があるのかしら?」
「彼の治療を頼みたいのですが……」
フレッドの背中に隠れてたユーリが姿を現す。ヒールでも踏まれたのか、所々にアイスピックで刺したような跡が残っていたりした。灰色の囚人服は土埃や泥で真っ黒に変化している。流石にルチアも目を細くした。
「いいけど……その前に普通の服に変えなさいよね」
「えっとじゃあこれ着てください」
フレッドは大きなカバンの中から予備の服を取り出す。服が変になっていると自然と浮いてしまうからである。そういった目立つことは出来るだけ避けたい。
ルチアが顔を真っ赤にして歴史書の部屋から出ていってわずか数分、彼は着替えを終わり、すぐに彼女を呼びに行っていた。魔女としてもまさかこんなに早く着替えられるとは思っていなかったので目を丸くしていた。しかしそんな顔をしたのも一瞬で、すぐに回復をするための魔法陣を作成し始めていた。というか既に詠唱し始めている。
「万物の理を断ち切り、細胞と筋の蘇生を行え!!」
聞いたこともない呪文が唱えられた後、ユーリの体は優しい光に包まれる。まるで妖精の加護を受けたみたいに。フレッドは目を疑ってルチアに尋ねる。
「今のは……何ですか。見たところだと死者を蘇生させるようなものと似た感じでしたが」
「ええ、古代暗号を何とか解いたのよ。まあたったの一術式しか解析できなかったけど」
「確か……『死体を操りたい者、墓場の神に許しを乞うてから墓場を荒らすべし』とかそういう感じのやつでしたよね」
よく知ってるわね、と驚きながらも嬉しそうな表情を浮かべている。ユーリだけが何の話か分からずにどんな魔術書なのかを二人に聞いた。
「ユーリ君が見せてくれた『魔術を応用した死体蘇生術』の内容だよ」
ユーリは達観していた。絶対に二人の話について行ける自信がないからだ。ユーリが虚ろな目をしていたのは、二人が彼を見ていたら気づいていたことだろう。




