呼び鳴きのおはなし①
ふかふかしたベッドの中、とても心地が良い。
少年・正司は、大きな欠伸を一つして、布団にズルズルと潜っていく。
時刻は朝七時。そろそろ起きなければと思うものの、体は思うように動かない。温かいのだから仕方ない。
「ショウー! 朝よー!」
母が呼んでいる。正司は聞こえないふりをした。あと少し、あと少しと、起床時間を遅らせる。
一階から、母の呆れた声が聞こえる。そして、階段を上がる足音が聞こえてきた。
いつもそうなのだ。階段下から母が正司を呼び、起きなければ部屋まで来る。そして、優しく揺すって起こしてもらうのだ。
この日もそのはずだった。しかし、正司は異変を感じる。
足音は、階段を駆け上がるかのように激しい。母であれば、一歩一歩が静かで、木材が軋む音しかしないのだ。
今の足音を例えるなら、
ドカドカドカッ!
っといった音に近い。
部屋の扉が、うるさいくらいに音を立てて開けられる。
正司は気付いた。朝一番聞きたくない声がやってきたことに。体を起こしたが、もう遅い。
「おにいー! 朝だよー!」
耳をつんざく程の大声。低めのアルトボイスが部屋を揺らす。その声は正司の部屋だけでなく、家の外まで響き渡る。家の前の道路を散歩していた柴犬が、驚いたのかけたたましく吠え始めた。
「おにい、起きて起きて!」
声の持ち主である鳥子の少女は、なおも呼びかけながら正司の腕をぐいぐいと引っ張る。
一方正司は、先程の大声のせいで耳が機能していないようである。ふらふらと体を揺らして、再び布団へと仰向けに倒れた。
「お母さーん! おにい起きないー!」
先程よりは随分と小さいが、それでも一階へと叫ぶには十分な声量で少女は言う。
正司は「やめてくれ」と言わんばかりに耳を塞いだ。
「ほら、起きよ」
布団に埋もれる正司の腕を、少女は掴んで引っ張った。されるまま起き上がる正司。彼の顔は、随分とやつれてしまっていた。
「モコ、いい加減にしてくれ……」
掠れた泣き声で正司は、少女・モコに懇願する。モコは何が悪かったか理解できなかったようだ。きょとんとした顔で首を傾げ、正司の顔を見上げている。
「何を?」
「その大声だよ」
「えー。普通に話してるだけだよ?」
鳥子にとっての普通は、必ずしも人間の普通と同じでは無い。それを今正に身に染みて理解している正司は、いまだ耳鳴りが響く頭を振って、「普通じゃねぇよ」と呟いた。
正司は人間、モコは鳥子だ。二人は義理の兄妹である。
昨年、正司の母とモコの父が再婚し、二人は兄妹となった。子連れ再婚というものである。
「お母さん、起こしてきたよ」
「モコちゃん、ありがとう」
モコはすっかり正司の母と打ち解けている。そんな状況が面白くなくて、正司は仏頂面で椅子に座った。
机には、目玉焼きとソーセージ。そして麦茶。
「ご飯にする? パンにする?」
「パン……」
正司は、いまだに眠気が残っているのだろう。頭を左右にふらふらさせながら答えた。
母はトースターに食パンを一切れ入れながら、正司に言う。
「あなたも、モコちゃんを見習って早起きしなさい」
「えー……無理」
「夜遅くまでゲームしてるからよ。早く寝れば早く起きれるわ」
「モコが早すぎんだよ。寝るのも起きるのも」
モコは自分が話の中心にいるのが嬉しいのだろう。機嫌良さそうに、左右にゆらゆら体を揺らしていた。
話しているうちに、トースターからチーンと高い音が鳴る。パンが焼けたようだ。母はパンに手早くバターを塗ると皿に盛り付けた。
「いいから早く食べちゃいなさい」
「母さんが言い出したんだろ」
唇を尖らせて文句を言いつつ、正司はパンが乗った皿を受け取る。こんがりとキツネ色に焼けたパンには、じわりと溶けたバターが染み込んで、芳ばしく香っている。
口に入れる。ザクッとした歯触りがとても美味しい。正司好みの、硬めの食パンであった。
「早く準備して、モコちゃんを小学校に送ってあげて。母さん仕事行くからね」
母はエプロンを脱ぎ、早足でキッチンから出ていく。これから、スーパーマーケットへと働きに行くのだ。
それがいつもの光景であった。
いや、再婚をする前までは、母は働き詰めであった。パートをいくつか掛け持ちしており、それまで正司は、母と過ごす時間があまりなかった。
再婚をしてからというもの、母は働き方を変えた。スーパーマーケットのパートのみをして、帰宅後は正司とモコの世話をしている。
正司はモコを疎ましく思っていた。
母に愛されたいのは自分なのに、何故他人であるモコまで目をかけられているのかと。
「行ってきます!」
「んー」
「行ってらっしゃーい!」
正司は気のない返事をしながら、モコは大きな返事をしながら、母の後ろ姿に片手を振る。母は玄関で一度振り返り、片手を振ってから家を出た。
「おにい、早く食べてよう。私、早く学校行きたい」
モコは、正司の皿を見つめてそう言った。彼女は朝ごはんを終えているのだ。正司の身支度を終えるまで、暇で暇で仕方がない。
だが、正司も今しがた目を覚ましたばかりである。間延びした生返事をしながら、ゆっくりと食パンを食べ進めていく。パンがなくなると、次はソーセージに手をつける。
「おにいー……」
「朝飯くらいゆっくり食べさせろよ」
「じゃあおにいが早起きすればいいじゃん」
「何でそうなるんだよ」
正司は苛立った。何故早起きの話に結び付くのか理解ができなかった。
モコは頬を膨らませる。拗ねているのだ。
「だって、お母さんも言ってるよ。正司は夜更かししてるから早起きできないって」
「そうじゃねーよ。何で、ゆっくり食べたいって話が、早起きしなさいって話になるんだよ」
「だってそうじゃん。早起きしたら朝ごはんゆっくり食べれるじゃん」
モコの主張はもっともだ。だが、正司が言いたいことと趣旨がズレている。
正司は、今この時間、ゆっくりご飯を食べたいと言っただけなのだ。それが何故、早起きしなさいという説教になってしまうのか。
「うるせぇ!」
乱暴に一言怒鳴りつけ、目玉焼きを口に掻き込む。
食事が終わった。最後は急いで口に詰め込んだため、味なんてわからなかった。正司は皿を机の上に置いたまま、リビングを出ていってしまった。
「あー! おにい、お皿片付けてなーい!」
モコが大声を出す。その声もやはり常人には大きく、家の外にまで響いている。
正司は苛立ちを吐き出せないまま、自室に戻ってベッドを見つめた。今すぐベッドに顔を埋めて、やり場のない感情を叫びとして吐き出したい。
だが、そうすることはしなかった。正司は中学校の制服に着替え、学ランの詰襟をきっちり留める。白紙の提出物や、折れ曲がったノートが乱雑に詰め込まれた学生鞄を片手で掴み上げてから、自室から出てきた。
リビングへとすぐに戻る。
「あ、おにい」
リビングでは、モコが準備を終えた状態で待っていた。彼女の背中にはピンク色のランドセル。最近流行りの、クマのキャラクターが描かれたキーホルダーが揺れていた。
「早く行こうよ」
モコに言われずとも、正司は玄関へと一人で早足に歩いて行ってしまった。踵が潰れかけたスニーカーを履き、つま先を床にトントンと打ち付ける。
「あ、待ってぇ」
モコは早足で玄関へと向かう。魔法少女が描かれたスニーカーを履いて、つま先をトントンと床に打ち付けた。正司の真似だ。
「真似すんな」
玄関を施錠しながら正司は言う。だが、モコはそれを気にせず笑っていた。
「えー? えへへー」
モコは正司にぴったりとくっつく。
正司にとっては、モコのそういった様子も気に入らない要因の一つだった。
妹とはいえ義理なのだ。異性と歩くことは正司にとって恥ずかしい。相手が年下であれば尚更のことだ。