茶室
茶室は、茶人にとっての理想郷であると同時に、現実社会から隔絶された別天地である。茶室は日常の世界を離れ、自己を見つめ直す瞑想の場となる。茶室は、現実のしがらみを離れて無我の境地に到達できる場所である。日常の世界から解き放たれて、自分の中に没入できる場所である。
茶人は世俗を離れて無我の境地に達する。世俗のしがらみにとらわれて煩悩に支配されていた状態から脱して、本来の自分を取り戻す。茶室の中では、茶室にいる時、茶人は俗世を離れた一人の人間となる。茶室においては、時間の流れさえも超越した世界が形成される。
茶室は神聖な空間であり、安易に入ることはできないものである。それ故に本格的な茶室には狭いにじり口が設けられる。茶室とは高位高官でも頭を下げなければ入れず、武士であっても帯刀も許されず、命である刀も置いて丸腰で入らなければならない。
ここにはキリスト教の影響もあると指摘される。即ち、茶室を天国と見立て、マタイ福音書第7章第13節の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」を体現したものとする。狭き門は秘められた真理への入口であり、一切の虚飾、執着を脱ぎ捨てることを要求される。
茶室の中には様々なものが隠されている。それは、禅の精神そのものを表していると言ってもいい。禅の心は、目に見えないものの中にこそ宿っていると考えられているからである。禅の心とは、自己との対話であり、自然への感謝である。禅の世界では、日常雑事を離れた悟りの境地を垣間見ることができる。
「或る対象は、それが置かれるべき場所に置かれることによって、はじめてその真価を発揮する。花は花瓶に生けられ、花瓶は床の間に置かれ、床の間は茶室の中にあり、茶室は風雅な庭園の一隅にしつらえられている」(尾高朝雄『自由論』ロゴス社、二〇〇六年、四五頁)。
茶室は、現実から解き放たれて自分の内側に没入できる特別な空間である。そして、そこでは誰もが茶室という異界の中で自分自身と出会うことができる。茶室は、露地で得られた感触を表現するための舞台装置である。茶室は露地に似ているところがある。露地で得た感触をそのまま茶室に反映させることができる。茶室もまた露地と同じように異界性を有しているからだ。
露地や茶室には、日常とはまったく異なる時間が流れていて、そこに身を置くことで、自分本来の姿を取り戻すことができる。露地や茶室は、見る者によって、その見え方が違う。露地や茶室は、その空間に足を運んだ者の心の中に浮かび上がるイメージによって、その姿を変える。
露地と茶室に共通するものは、どちらも現実世界から切り離されていることである。そして、異界性と非日常性が共通しているということでもある。露地と茶室が共通して持っている非日常性というテーマは、私達の心に強く訴えかけてくるものがある。露地や茶室といった異界性を有する場所こそ、私達が本来あるべき姿に戻ることのできる場所である。
露地や茶室には、日常からかけ離れた異界性がある。だからこそ、露地や茶室には、人の心を動かす力がある。露地や茶室には、不思議な魅力がある。それは、露地や茶室が持つ力であり、露地や茶室の持つ魔力でもある。露地や茶室は、人の心を強く揺さぶる力を持つ。その力は、露地や茶室が作り出す空間そのものに宿っている。
露地や茶室は異界性を有している。だからこそ、露地や茶室には、他の場所にはない独特の雰囲気がある。露地や茶室は、その異界性のゆえに、様々な顔を見せる。異界性を持っているが故、私達の心を捉えて離さない。異界性を持ち、それ故に強い吸引力を秘めている。露地や茶室に足を踏み入れる度に、露地や茶室が内包する魔的な引力のようなものを感じ取ってきた。それは、露地や茶室の中に潜む魔力であり、露地や茶室の持つ魔力でもあった。
露地や茶室は、異界性という魔力を持ち合わせている。異界性とは、つまり、この世ではない別の世界だ。異界性とは、すなわち、現実から隔絶された別天地だ。異界性とは、現実と非現実を隔てる境界だ。異界性とは、現実と非現実を隔てるものなのだ。異界性とは、私達が普段生活している世界とは別の世界を現している。
露地や茶室は、現実世界とは異なったルールに基づいて動く別世界を投影する装置である。露地や茶室は、現実世界とは全く異なる独自の世界観を持っている。露地や茶室では、私達が暮らす現実とは違う別の法則や別の世界が存在している。露地や茶室は、現実世界とはまったく異なる異界の空気を漂わせている。それは、露地や茶室の異界性がもたらす効果である。
現代では茶室を独立の建物として構えることは稀で、住宅内の一室を茶室とするケースも多い。その場合でも茶室の隣でザワザワ、ガヤガヤと話し声が聞こえるような場所では茶室の静寂さはなくなってしまう。茶室を聖域とする工夫が求められる。




