露地
茶室は最小の空間に豊かな広がりを与える世界に誇る日本の伝統建築である。茶室が豊かな広がりを有する理由は、露地とつながっている点に求められる。露地は心の入れ替えをするための通り道である。清掃された露地を通り、塵を払い、蹲で手を洗い、口を漱ぎ清められて茶室に入る。つまり、茶の湯の空間は、茶室だけでなく、外界(露地)と一体に仕組まれている。茶道も桂離宮などと同じく庭屋一如の精神を継承している。
露地は茶の湯の精神世界における一つの入口である。茶会は、露地から始まって露地に終わるといってもいいだろう。露地は、茶室への入り口であるとともに、茶人にとっての修行の場でもある。露地は茶人が自分自身の心に出会う場所である。露地は、茶人の精神世界を投影する場である。露地を歩くことを通して、人間は自らの存在そのものを肯定する境地に到達できる。露地とは、悟りへと至るための聖なる道であると同時に、煩悩に満ちた現実からの救済でもある。
露地という場所は、日常に生きる者が日々の生活で忘れてしまっているものを思い出す場所である。それは、心の奥底に隠れてしまった本当の自分だったりするかもしれない。あるいは、無意識のうちに抑圧されている感情かもしれなかったりもする。露地では、そうした心の奥深くに存在するものが解放される。だから、露地は特別である。
露地に足を踏み入れると、そこはもう別世界になる。露地を一歩踏みしめるなり、空気が変わる。清涼感がある。露地は、そこにいるだけでも様々な情緒を与えてくれて飽きない場所である。露地から茶室へと続く道を歩いているうちに心が落ち着く。露地に流れる時間に身を浸すことができる。そうしているだけで不思議と心安らぐ。露地にはそうした力がある。この力を存分に発揮するために、露地には樹木や草花が配されている。ただ生えているだけではなく、それぞれが個性を持って生きている。そんな木々と戯れるように散歩すれば、気分転換にもなって良い。
露地は茶室へ至るまでの道筋でありながら同時に自然の息吹を感じさせる景観ともなっている。露地には、季節ごとに違った顔を見せる植物たちが生息している。春になれば桜の花びらが舞い散って地面を埋め尽くす。夏になると青々とした葉っぱが茂り、秋には紅葉する。冬になると雪に覆われて白一色の世界となる。露地は四季折々の表情を見せてくれる。露地を歩けば、その景色は、まるで禅画を見ているかのように感じられた。露地そのものが一つの作品といえるくらいに、素晴らしいものだった。
露地には、自然の風景だけでなく、人工的な造形物もある。例えば、灯籠や蹲である。露地には石が配置されていることが多い。これらは露地をより一層引き立てる役目を担っている。露地を構成する要素の一つひとつが、それぞれ独自の存在感を持っている。露地を構成しているものは、どれもが美しいものである。露地を歩く度に、それらの美しさに魅了される。時には風流を感じさせてくれたり、時に心を癒してくれたりする。
露地は、庭園の中にあるもう一つの庭園とも言える。露地は庭の中にありながら、自然の景観の一部ではない。むしろ、自然の景観から切り離された異界である。そして、この異界性こそが、露地の魅力であり、テーマでもある。
露地は、人間にとって最も自然な状態でありながら、同時に最も非日常的な場所である。だからこそ、露地は、人間の内面にあるものを映し出してくれる鏡のような存在として、私達の前に立ち現れる。そこにいる者の心象風景を描き出す。それが露地の魔力だといってよいだろう。
茶人は露地で様々なことを思いながら、自分の心の中に深く入っていく。露地によって茶室へと導かれるように、茶人は露地を通して自己を見つめ直すことができる。露地を歩む時、人は自分が本来あるべき姿に立ち返ることができる。茶室に入った時、露地のことを思い出して、そこに自分を見出すこともできる。そして再び露地に戻る。そうした繰り返しの中で、茶人の心は磨かれていく。
露地を歩くことは、単に茶室に入るためだけに通るのではなく、その空間自体を楽しむことでもある。露地に足を踏み入れた者は、茶人と同じ目線に立って同じ感覚を共有できる。露地で見た光景は、そのまま茶室の情景となって浮かび上がってくる。露地で味わった感動を茶室で再現することができる。つまり、茶室は露地の延長線上にあるものと言ってもいいだろう。
千利休は茶室を現世における清浄無垢な仏土を実現する場と位置付けた。その清浄なる空間に入るに際しては心を入れ替えることが求められる。浮世の雑念を捨てて茶室に入るための仕掛けが露地である。露地は茶室に至る道であると同時に、茶室に籠もる心の静謐さを表す風景でもある。露地は、そこに存在するだけで素晴らしい場所となる。
利休が露地に高い精神性を付与していたことは以下の言葉が示している。
「露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなどちらすらん」
「露地は草庵寂寞の境をすべたる名なり、法華譬論品に長者の諸子三界の火宅を出て露地に坐すると説き、また露地の白きと云ひ、白露地共いへり。一身清浄の無一物底也。」(『南方録』)
書院台子の茶の対義語が草庵露地の茶となる(野上彌生子『秀吉と利休』中公文庫、1973年、20頁)。露地は、ただ茶席に至る通路という地理的な意味だけではなく、そこを通ることによって心地を露わにするという超現実的・出世間的・宗教的なものになる(久松真一『茶道の哲学』講談社学術文庫、1987年)。
心理学者は露地の心理効果を以下のように説明する。「露地とは、この浮世の外にある地上の天国、いや極楽の超ミニ版への超ミニ参道で、進行につれて刻々と清浄感や鎮静効果が深まる」(安西二郎『新版 茶道の心理学』淡交社、一九九五年、三三頁)。




