段ボール
翌日は帰るのが夜の九時過ぎになった。東雲さんは夕食を作って待っていてくれて、それを一緒に食べてから、私は家まで送って行こうとした。ところが、不意に東雲さんは言った。
「今日は、うちに来てほしい」
「え?」
「お母さんが帰ってくるから」
「分かった」
東雲さんの家に着くと、彼女はすぐに家の中に入っていき、リビングにいたらしい母親と一緒に戻ってきた。
私は東雲さんの母親に挨拶をした。
「こんばんは。お邪魔します」
母親はにこやかに微笑む。
「三並君、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「はい」
「夕飯は食べた? 何か作ろうか?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
「気にしないでね」
東雲さんとよく似た笑顔を浮かべる人だと思った。
東雲さんの部屋に入ると、彼女は鞄を置いて、ベッドに腰掛けた。
「座ったら?」
促されて、私は床にあぐらをかく。
「ちょっと疲れてる?」
東雲さんはそんな風に尋ねてきた。
「ああ、まぁ、残業があったし」
「そうじゃなくて、何だか元気がないみたい」
「そうかな」
「うん」
「……」
どう答えていいものやら分からず、黙っていると、東雲さんはまた口を開いた。
「私に遠慮とかしてないよね?」
その言葉の意味がよく理解できず、「どういうこと」と訊き返すと、東雲さんは俯いた。
「私が、お母さんと上手くやってないから、私のせいで、三並君は気を使って無理をしてるんじゃないかと思って……ごめんなさい、変なこと言って」
「全然」
慌てて否定する。けれど、東雲さんは相変わらず不安げな様子で、私の顔を窺っていた。
「本当?」
「当たり前だろ。私は別に何も気なんか使ってないし、それに私が東雲さんのために何かしたいと思うのは、全部私の意志だからさ。それくらいは分かってくれると嬉しいんだけどな」
私の言葉を、東雲さんはすぐには信じてくれなかったようだ。しばらくの間じっと私を見つめていたが、やがて小さく笑ってくれた。
「そうだよね。ありがとう」
そして立ち上がると、クローゼットの扉を開ける。中には洋服が掛けられていて、その奥には段ボール箱があった。
「その辺、適当に座っていいよ。コーヒー飲むなら今、作るけど」
「あ、うん。ありがと」
私は言われるままに適当な場所に座り込む。すると背後から、ガサガサという音が聞こえた。振り返ると、東雲さんが段ボールを漁っているところだった。
「何か探し物でもしてんの?」
尋ねると、東雲さんは首を振る。
「ううん。ただ、整理しようと思って。ここにあるもの、ほとんど持って帰っちゃおうかなって。それで、三並君のところに置かせてもらえないか、お願いしようかと思ってて」
「そっか……」
私が返事を躊躇していると、東雲さんは困ったように笑った。
「ダメかな?」
「いや、そんなことはないけど」
「良かった。もし嫌だって言われたら、どうしようかと思った」
「それはないってば。いつでも好きな時に持っていけばいいしさ」
「ん……。ありがと」
「ていうか、それなら最初から言ってくれればよかったのに」
そう言うと、東雲さんは少しだけ表情を曇らせた。
「ごめんね。本当は、もう少し早く言わなきゃって思ってたの。でも、なかなか言い出せなくて」
「なんで? そんな信用できない人に見えるわけ?」
冗談めかしてそう言うと、東雲さんは首を傾げる。
「そういうんじゃなくて……迷惑じゃないかなって思ったの。私のわがままで、三並君に負担をかけるのも悪いし」
「何だよ、それ。東雲さんの負担になってるなんて、考えたこともないぞ」
「そう?」
「そうそう」
「そう言ってもらえると、安心できる」
そうしてようやく東雲さんは、いつものように微笑んでくれた。私はそれに安堵したのだが、東雲さんはすぐにまた暗い顔になる。
「ただ、私の都合で三並君に色々してもらうのって、やっぱり良くないと思うから」
「気にすんなって。本当に、東雲さんの役に立てるなら、それはそれで嬉しいんだ」
「そう……? じゃあ、もうちょっと、考えてみるね」
「ああ。とりあえず今日は、うちに置いてくもの、探せば? 手伝うよ」
「え?……いいよ。自分でやるから」
「遠慮するなって。東雲さんがうちに引っ越してくることになったら、その時にまとめて運べばいいだろ」
「……うん」
東雲さんは曖昧に微笑むと、立ち上がり、段ボールの方へと歩いていく。私はその背中に声を掛ける。
「何か要るものとかあったら、何でも言ってよ。あんまり大したものはないかもしれないけど」
「大丈夫。自分のことは、ちゃんとするから」
その言葉を最後に、東雲さんは黙々と段ボールを開け始めた。私もそれに倣い、床に座って作業を始めることにする。東雲さんの部屋として使っている一室にはベッドと机が置かれているだけだ。他には何もない。キッチンにも食器類は少なく、小さな冷蔵庫だけだった。生活感のない部屋だ。
「寂しくない?」
ぽつりと尋ねた。
「慣れてるから、平気。私にとっては、その方がいいかも」
「そうなの?」
「うん。それに、今は三並君もいるし」
東雲さんは短く答える。その答えを聞いている内に、私は何となく不思議な気持ちになった。それは多分、優越感のようなものなのだと思う。私だけが、東雲さんにとって特別な存在になっているような気がしたのだ。もちろん錯覚に過ぎないのだと分かってはいたけれど。やがて全ての段ボールを空にする頃には、日が暮れかけていた。カーテン越しに差し込む光が赤みを帯び始めている。
「よし、終わりっと」
私は大きく伸びをした。すると東雲さんが小さく笑う。
「お疲れ様」
「あー、結構汗かいたな」
シャツの胸元をパタパタとさせて風を送ると、東雲さんは目を逸らすようにして俯き、それから小さく呟く。
「……ごめんね」
「いいよ、別に。東雲さんだって、大変だったろうしさ」




