男は二度と姿を見せなかった
結局、男は二度と姿を見せなかった。東雲さんが出勤してくると、私はそのことについて報告をした。
「そっか。良かったね」
東雲さんはいつも通りの微笑みを見せてそう言った。
「はい。すみませんでした」
「どうして謝るの?」
「いえ、東雲さんに迷惑かけちゃったかなと思って」
「全然。むしろ、嬉しいくらい」
「本当ですか?」
「うん」
私はほっとした。東雲さんの笑顔が本物であることは疑いようがなかったからだ。
その日の昼休みに、東雲さんからメールが届いた。
「今日は一緒に帰れますか?」
私はすぐに返信した。
「はい」
そして、午後の仕事を終えると、私は東雲さんと並んで会社を出た。
「これからどうしますか? どっかで食事して帰りましょう」
「ううん。家で食べたいな」
「分かりました。何食べたいですか?」
「三並君が作ったものなら何でも食べるよ」
その言葉は私にとって非常にプレッシャーだった。何しろ、東雲さんに料理を作った経験など一度もないのだ。
「あの、本当に大したもの作れませんよ」
「うん。それでも構わないから」
東雲さんは私を安心させるような笑みを見せたが、それが逆に不安を募らせる。東雲さんの家への道すがら、スーパーに立ち寄って買い物をする間も、私の心の中は穏やかではなかった。何を作ればいいんだろうか。そもそも、包丁を握ったことすらほとんどないというのに――
しかし、そんな心配は必要なかったらしい。手洗いなどを済ませてからキッチンに立った私は、東雲さんが冷蔵庫の中を確認しながら指示を出してくれたおかげで、何とか夕飯を作ることができた。東雲さんは「おいしい」と言ってくれたし、自分でもそれなりに満足できる味に仕上がったと思う。
食後にお茶を飲みながら、私は東雲さんと他愛のない話をした。最近見たテレビの話や、同僚との会話の内容、仕事の愚痴。話しているうちに段々と緊張が解けてきて、普段通りの東雲さんになっているように思えた。
「もう寝ましょうか」
東雲さんは欠伸を漏らしたのをきっかけに私は提案した。
「そうだね」
東雲さんは素直にうなずいた。
「お風呂とか、どうしましょうか?」
「明日起きた時にでも入るよ」
「分かりました。じゃあ、私は入りますんで」
「うん」
「それでは、失礼します」
私は東雲さんの部屋を出て、バスルームへと向かった。シャワーを浴びている最中、ふと気付くことがあった。昨夜、東雲さんは私が帰るまで起きていたわけだが、その間、眠かったのではないだろうか。だとすると、やはり東雲さんは私を待っていたということになる。それなのに、私が帰ってしまったものだから、仕方なく眠りに就いたのではないか。そう思うと申し訳なさを感じた。
私が東雲さんにしてあげられることは、何があるだろう。風呂から出て、歯磨きをしながら考える。私が東雲さんのためにできること。それは一体なんなのか。考えたところで答えは出なかったが、考えずにはいられなかった。ベッドに入る前に携帯電話を確認する。東雲さんからの着信はなかった。きっと、疲れて眠っているのだろうと私は思った。
部屋の電気を消し、布団の中に潜り込む。暗闇の中で目を閉じても、眠れる気がしなかった。




