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白雪の影とべにばらの森  作者: 扇谷 純
『読まなければ良かった。』
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「え、日本育ちじゃないんですか?」


「いいえ。生まれはクロアチアです。父がクロアチア人で、母はフランス人です」


「へぇ。じゃあ、一応ハーフなんだ」


「はい。僕は日本文化が好きで二十歳の頃に日本へやって来ました」


「すごい行動力ですね」


 私がそう言うと、向かいで箸を使って器用に焼き魚の骨をつまむ金髪の彼は、さらりと髪をかき上げながら頬を赤らめている。


 随分と大人びて見えるが、知らない国の若者は年齢が推測しづらい。人懐っこい話し方は私と同年代のように見えなくもないが、姿勢を正して時おり浮かべる澄ました顔は、姉よりも遥かに成熟した大人の余裕が感じられた。


 すでに深夜帯ではあったが、ファミレスの店内には私たちの他にも客の姿がちらほら見られた。喫煙席でしきりに煙草を蒸すジャージ姿のカップル、ヘッドフォンで音楽を聞きながらノートに向かって一心不乱に何かを書きなぐる男性。傍から見れば、私たちもカップルに思われるのだろうか。


 まさかこのような事態で初めて知り合った男女だとは、誰も思うまい。


「それにしても、葉流さんは落ち着いていますね」


 ドリンクバーで食後のルイボスティーを入れてきたジャンは、肩を竦めながらそう言った。


「そう見えますか」


 病室であの人の姿を見た瞬間、私は本当に息ができなくなるくらいに胸が締め付けられた。まだ実感が湧かないだけなのだ。姉が睡眠薬を大量に摂取して、自殺未遂などと……。


「僕が彼女を発見した時なんて、本当にPANICパニックを起こしてしまいましたよ。救急車を呼べばいいのに、なぜだか背負って病院まで走ろうとしましたからね。それも彼女を背中に乗せたまま玄関で靴を履こうと悪戦苦闘している最中に、ようやく思いつきました」


「はぁ。それは、大変でしたね」


 パニックの発音が実に素晴らしい、と思いながら珈琲を口に運んだ私は、少し間を置いてから、「ジャンさんは何か聞いていますか? 姉がその……、あんなことをした理由について」と尋ねた。


 私の質問に対し、彼は一瞬戸惑ったような表情を浮かべながら、「いいえ。私も突然のことで驚きました」と答えた。「食事に誘われた際は、電話で非常に明るい声を出していたものですから」


「私も夕方に一度電話で姉の声を聞きましたが、その時はいつもの調子でした」


 通話の内容や、私があの人にひどい言い方をした件については、話す必要もないだろう。私が子供じみた癇癪かんしゃくを起こしたに過ぎないのだから。


 そんな言い訳じみたことを考えながら私が俯いていると、彼は物珍しそうにこちらを見つめていた。


「……何でしょうか?」


 私が眉間に皺を寄せてそう尋ねると、ジャンは手を振りながら、「いやぁ、話には聞いていましたが、本当に雪希とは正反対なのですね」と答えた。


 続けて彼は笑みを浮かべ、「まるで《《ハル》》と《《ユキ》》が逆に思えます」


「あぁ。……そうですね」


 昔から言われ慣れてきた言葉だ。明るくて活発な姉はまるで春の陽気を連想させ、冷たくて素っ気ない私は、真冬に降る雪を思わせる。


 けれど私にとっては春でも雪でも、姉にこそ相応しい響きだと感じていた。彼女の凛とした表情と透き通るような肌は、まるで太陽光に照らされた新雪のように輝いて見える。私にはどちらも勿体ない名前なのだ。


「よく言われます」


「やはりそうですか!」


 嬉しそうに手を叩いた彼は前かがみになり、「あとこれは雪希がひどく酔った際に時々使っていたあなたの愛称なのですが、”むーちゃん”とは一体どういう意味なのですか?」と小声で尋ねた。


「…………」


 私の胸には、動悸が起こっていた。


 むーちゃん。


 それは私が中学生の頃にクラスメイトの誰かがつけた呼び名だ。どこからかそれを聞きつけた姉もまた、時おり笑いながら私をそう呼んだことがある。彼女が起源を知ってか知らずか、その真偽は不明だったが。


「そんなことまで話したんですか」


 ジャンという男は、私なんかよりよっぽど姉に信用されているようだ。だからこそ最後の頼みの綱として自宅に呼びつけ、彼の善意に生死を委ねたのではないだろうか。


「気分が良くなった時に限ってあなたのことをそう呼んでいましたので、どうにも気になった私はある時彼女に尋ねてみたんです。ですが雪希も、意味は知らないと言って笑っていました。確かに、何だか可愛い響きですね」


「それの意味、知りたいですか?」


「やはり意味があるのですか? 遠藤葉流なのに”むーちゃん”とはどういうことなのか、私はあなたに出会う前からそれがずっと気になっていたんです。会えた時には是非聞いてみたいと思っていました」


 私は短いため息をつきながらテーブルの上のカップに触れ、肩を落とした。姉にも目の前の彼のように真っ当な方向性の好奇心が備わっていれば、あんな呼び名で私を呼ばなかったはずなのに。


「無表情、無感動、無関心。他にもあった気がするけど……」


 私は淡々と指を折りながら、当時にクラスメイトから言われた言葉を思い返していた。「共通して頭に“無”が付くでしょ? だから、むーちゃんなんです」


「……なんと」


 それを聞いた彼は、どこか寂しげな表情を浮かべていた。当時にもこのような表情を浮かべてくれた人間が、果たしていただろうか。


「あまり、良い意味ではありませんね。むしろそれは――」


「嫌がらせでしょうね。私もそのことは分かっていましたが、響きは何の変哲もない呼び名にしか聞こえないので、意味を知らない周囲の人たちは親しみを込めてそう呼んでくれていたんだと思います」


「……なるほど」


 唐突に黙り込んだジャンは、顎に手を添えて考えごとを始めた。その姿はまるで彫刻作品のように美しい佇まいだった。


 やがて顔を上げた彼は、改まった表情を浮かべ、「雪希もきっと、本当に意味は知らなかったんだと思いますよ」と答えた。「悪意を込めて呼んでいるようには、これっぽっちも思えませんでしたから」


 右手の親指と人差し指を出した彼は、ほんの少し間を開けながらそう言った。


「そうでしょうか」


 姉が私のことを外の世界でどのように話しているのか、正直気にはなっていたが、知るのが怖いという気持ちも少なからずあった。もしも重荷に感じていたら、迷惑に感じていたら?


 あれほど優しい言葉を掛けてくれた彼女が、外では自分の悪口を言っていたと知れば、私はどうにも心が耐えられそうになかった。


「姉は昔から、友人の多い人でしたから」


 私の呼び名の起源をどこかで耳にしていてもおかしくはない。そう思って言った発言のつもりだったが、ジャンは嬉しそうに頷きながら、「確かに。雪希は本当に落ち着きがなくて困りますよね」と答えた。


「いつも葉流さんが面倒を見てくれると聞きましたが、お会いして納得がいきました」


「え?」


 面倒を見ている……? あの人に面倒を見られることはあっても、私が姉の世話をするなどということは今までにない。彼は誰かと勘違いしているのではないか。


「あの、何かの間違いでは?」


 私がそう言うとジャンは首を傾げ、「どうしてですか? 雪希はまるで感情の嵐のような人で、葉流さんはそれを沈静化できる唯一の存在でしょう」と答えた。「だから、春と雪が逆なんですよ」


「そんな……」


 私たち姉妹はそんな、美しい関係性じゃない。究極の贔屓ひいき目で眺め、丹念に言葉を選び抜けばそのような表現もありうるのかもしれないが、本当に誤解だ。


 だって私は、姉に対して少なからず黒々とした感情を内に秘め、今日だってそれが簡単に露呈してしまったのだから。


「そんな良いものじゃないですよ」


 そこへちょうど母から着信が入り、私は携帯電話を耳に当てると小声でそれに対応した。まもなく到着するとのことだった。予想よりも随分と早い。父も相当に夜道をぶっ飛ばしてきたに違いない。

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