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白雪の影とべにばらの森  作者: 扇谷 純
『こんなのは、嘘だ……。』
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 自宅にタクシーを呼んだ私は胸元の緩んだTシャツ姿のまま車に乗り込み、行き先を告げた。特に誰に会うわけでもないのだから、服装はどうでもいい。それよりもとんだ出費だ。今月は就活ばかりでバイトもできず金欠だというのに。


 運転手の荒い運転のおかげか、道が空いていたおかげか、意外と早く病院に到着することができた。


「友達なら、自分で付き添えばいいのに……」


 正面の入口は閉鎖されており、私は救急窓口の方へ足を運んだ。受付には気怠そうな看護師の女性が腰かけ、何やら事務作業を行っている。


「あの、すいません」


 遠藤雪希という名前を告げると、彼女は搬送リストを確認してくれた。それを待って短い欠伸をしていると、「もしかして、葉流さんでしょうか?」と聞き覚えのある紳士的な声が聞こえてきた。


 振り返ると、思いのほか至近距離に青い瞳の大男が立っていた。


「あぁ、……はい」


 さらさらした金髪に、彫りの深い顔。予想以上に純粋な西洋人だった。


「ジャンと申します。初めまして」相手は大きな右手を差し出すと、優しい笑みを浮かべた。「来てくれて助かりました」


「あなたも、……来てたんですね」


 洒落た水色のシャツに白いコットンパンツと、清潔感溢れる着こなしの彼を見た私は、野暮ったいTシャツ姿で訪れたことを後悔していた。姉の友人に色目を使うつもりなど毛頭ないが、それにしたって初対面の相手に失礼なほどいい加減な服装だ。


 貧相な胸元を隠すように腕を組んだ私は、「それで、姉はどんな具合ですか?」と尋ねた。ジャンは受付の看護師に一声かけた後、「僕が病室にご案内します」と言って後を付いてくるよう指示した。


 時間外であるためか、待合室に座る人々の姿はなく、照明も半分以上落とされていた。時おり疲れた表情を浮かべた医師たちが急ぎ足で目の前を通り過ぎていく。


 必要最低限の灯りはどこか物憂げで、老朽化した壁はもちろん清掃しているのだろうが、どこか救いようのないアート作品のような汚らしさを感じてしまう。


「姉は、まだ寝てるんですか?」


 後ろから私がそう尋ねると、彼は「……まぁ」と曖昧な返事を寄こしつつ、廊下を歩き進む。やがてとある病室の前に立ち止まった彼は、「ここです」と言ってスライド式の扉を開き始めた。


「何だか暗いですね」


「しっ。他の患者さんもいらっしゃいますので、話す際は声を抑えて頂けますか」


「あぁ、すみません」


 他の患者……。確かに大部屋のようだが、どうして酔いつぶれただけの姉がこんな所に運ばれなければならないのか。仮眠室のような場所を想像していた私は、ここへ来てどこか胸騒ぎを覚え始めた。


 そんな私の気も知らず、ジャンはまゆのように白い塊が左右に三つずつ並んだ病室を早足に歩き進む。静寂の中には規則的な機械音が響き、僅かに人の気配が感じられるものの、これほどの広さにあって生命の匂いがまるで感じられなかった。


 最奥にあるカーテンを開いた彼は、窓際のベッドへと私を促した。


「本来は面会禁止の時間らしいのですが、顔を見るくらいならば許可を頂けましたので。あらかた《《薬も抜けました》》が、完全に回復するまでにはしばらく点滴が必要なようです」


「はぁ」


 えっ? この人は今、おかしなことを口にしなかった?


 カーテンの開かれた空間には、ベッドに横たわる姉の姿があった。私は頭頂部から順に全身へかけて、一瞬にして血の気が引いていくのを感じた。どくどくと、この広い部屋中に響くほどの動悸を起こし、心臓がギュッと締め付けられる。


 姉の姿をした目の前の女は、上下に胸を膨らませては縮め、ゆっくりと呼吸していた。薄暗闇でも分かる、やつれた顔つき。ベッド脇に立てられた点滴のスタンドには液体の入った透明な袋がぶら下がり、そこから伸びた管の先が彼女の腕に繋がっていた。


 現実味が、まるで感じられなかった。こんなにも薄暗く、辛気臭く、それも地味で、寝心地の悪そうなベッドにあの華やかな姉が横たわっている。お喋りで、無駄話ばかりで、カリスマのように美しく、優雅で、活力に満ちた姉が、じっと静かに黙り込んでいる。


 こんなのは、嘘だ……。


 寝相の悪い姉が、寝返りも打たずにきちんと布団を被ったままでいるはずがない。


「しばらくは入院の必要があるそうですが、詳しいお話は医師の方から直接聞くのが良いでしょう」


 ジャンは背後から私の肩に手を触れ、「行きましょう」と言って病室を後にした。


 未だ状況を掴めない私はカーテンを閉める際に再び姉の顔を眺めたが、あの人はまるで動かない。


 やはり未登録の電話番号は、私に悪い知らせを運んできた。そんなことを思いながら、私は彼の広い背中の後を追って廊下を歩いた。


 診察室に通された私は、医師から姉の症状について説明を受けた。


「どうやら、睡眠薬を一度に大量摂取したようです」


「睡眠薬……」


 まるで異次元の話を聞いているようだった。ブラックホールだとか、ビッグバンだとか、そんな私とは無縁の話のように思えた。でも、そうではなかった。


「発見が早かったので、薬はほぼ吐き出させることが出来ました。体内に少しは残っていますが、それもしばらくすれば自然と抜けるでしょう」


「そうですか」


「目覚め次第、状態を見て退院の時期を考えましょう。ご両親には――」


 これは、現実だ。まもなく午前零時を回ろうという時刻だったが、私はすぐに親に連絡を入れ、どうするべきか指示を仰いだ。


 電話に出たのは母だったが、肝の据わった彼女は動揺した様子を巧妙に包み隠すと、勇ましい声でこちらの言葉に応じ、「すぐに行くから、住所を教えなさい」と答えた。


 入院手続きや諸々の手配も母が到着してからでも良いと医師に言われたが、地方に暮らす母が父に頼んで今から車を出したとしても、到着までは最短でも二時間以上かかってしまう。それまでどのようにして時間を潰すべきか。


 仕方なく薄暗いロビーの椅子に腰かけた私を見たジャンは、「ところで、お腹は空きませんか?」と尋ねてきた。

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