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死者への供物  作者: エリアたんは俺の嫁
4/4

人形の影4

 

 表と裏。

 それは内側と外側。あるいは上面と下面。正面と背面。

 そして陰と陽。裏表。

 陰。光を欠いた暗澹たる黒。

 陽。闇を上塗りする煌煌たる、黄色。金色。橙色。赤。白。

 つまり。

 裏は暗い”陰”。反対に表は明るい、”陽”。

 しかし。

 黒と白のモノトーン、その市松模様。無彩色。それ以外の色、カラフルな虹。有彩色。

 一般的に無彩色には暗い印象を、有彩色には明るい印象を持つ人間が大半だろう。ここでは無彩色が陰で有彩色が陽となるはずだ。必然、裏と表も確定する。

 しかし、黒は陰にあるが白は陽にある。故に無彩色が陰であると一概に云うことはできないだろう。

 すると矛盾が生じる。全面的に陰と陽の定義がずれている。遡って部分的に、表と裏。その境界もずれ始める。きっかけは小さな歪みでしかないそれはやがて亀裂へと成りやがて、関わり結びつきのある物すべてを瓦解させて、”無”へと帰属するだろう。

 そして”無”はゼロだ。否、無限とも云える。共通するのは、どちらとも境界を持たないこと。

 それこそ天人の纏う衣のように完全だ。()()だけで完成されていて、同時に完結している。

 概念的に見れば”無”はイコール”無限”だ。けれども観念的に見るとそれはまた別。

 例えば、ある個人の”無”に対する観念が、一面の黒色だとする。どこまでも果てしなく続く黒。それはおそらく”無限”と呼んでしまってもなんら差しさわりない。

 また、ある個人は”無”とは一面の白であると云う。世界を余すところなく塗りつぶす白。なるほど、間違いなくそれも、”無限”だ。

 ずれている。

 定義はさして変わりがないように思える。ましてや二人顔を突き合わせて、言葉を交わすことがなければ気が付かないほどの差だ。穿ちすぎなのかもしれない。

 それでも十人十色に、生きる人の数だけ同じ数の観念が存在する。統計でおおよそを測ることでしか、数えることができないほどの。そう考えれば”無限”〉”無”。やはり、観念的に見て両者をイコールで結びつけるのは難しい。

 遡る。

 遡及する。

 また。

 

 崩れ、無くなる。

   の定義が曖昧だ。





 


 「えっと、今いるのがここ、()でこの辺一帯が裏なのね」

 「そうです」「あーっと、この辺」

 地図をさす私の指先を囲むように、横から冴恵が指し示した。

 「ああ、この辺り」「はい」

 「それで今向かっているのは、ここと」

 「指先の黒い点ですね」

 「現在地がこの点・・目的地は・・」

 無言で冴恵が点の少し左上の一か所を指し示した。

 いや・・・。

 「遠くない?」

 私は一人ぼやいた。

 冴恵と私たち三人は、見知らぬ土地で地図を片手にほつき歩いている。さながら観光地を散策して回る旅行者の様である。地図を持っている私、そして冴恵を先頭に後ろを美佳と宏司がついてきていた。

 後方から「はあ」だとか、「ふうん」であるとか「なるほどねぇ」。構ってくれと言わんばかりの口調でつぶやく声。

 やけに独り言が多いような気がしなくもないが、そういうものであると気にはならなかった。その原因は片方が美佳であることから察せられた。彼女と仲のいい四人はもう慣れていた。さしあたり聞こえてくるのは宏司の一人ごこちる言葉ばかりで美佳の声は聞こえてはこない。

 ともかく、気配から彼女が後ろに居ることは分かっているので振り向きもせずに、ひたすら進む。どこかしらから子供たちの騒ぐ声も聞こえてくるものの、なぜだかその姿は見当たらない。

 周囲に視線を泳がせながら見ようによっては挙動不審に暫く、整備されていない道を歩いた。とはいえ足元は固くしっかりとしていて、幾人もの村人が踏み固めていることは想像に難くなかった。右左、交互に斜めの細線の痕が残っていた。

 (これ、風磨村で見た記憶がある)

 おそらくタイヤの、轍。大きくて頑強な。踏み固めているのはトラクターなのかもしれない。ずっと続いている足元の轍を目で追っていると、それに冴恵が気が付いた。

 「ああ、牽引車の痕ですね。まだ新しい。昨日、今日でこの道を通ったのかな?」

 「牽引車? ってなに?」

 「畑を耕したり田起こしをしたりするのに使う、農作業用の車です。便利で作業効率も素晴らしいのですが、なにぶんその台数が少ないものでいざ使おうと思ったらその日は他の人が使っていた、なんてことも頻繁にあります」

 「へえ」

 訊くかぎりそれはトラクターだ。

 「そういえば軽トラックもあるんだよね。部屋にテレビもあったし、もしかしたら私たちの村よりも進んでるんじゃない?いろいろとさ」

 「そう変わらないですよ。テレビもトラックもうちの村で作ってはいなく、修理もできないですし。その点長吏村にはそういう、電化製品を修理できる人がいるようですが」

 「あそこには高等学校を卒業してから、村に戻ってきた人がいるから。そんなに大勢はいないけれど」

 「高等学校?」

 冴恵が怪訝そうな顔をして訊き返してくる。

 郷村にはいわゆる学校と呼べるものはないらしくて、一か所に十から二十人もの子供が集まって様々な勉強をしていることに驚いているようだった。学校の代わりに”寺子屋”という施設があるらしくて、そこで簡単な読み書きや計算を習う程度だという。

 それでは私たちが()()()()理科や社会を習っている間に、郷村で私と同年代の村人は何をしているのかというと各々幅広く、様々らしい。具体的には畑仕事や壊れた屋根や壁漆喰の修繕、また家業の手伝いやちょうど今の時期だと稲刈りや脱穀作業に駆り出されることが多いようだ。

 私の通う学校や学んでいることを彼女に話すとどこか残念そうに、冴恵は言うのだった。

 「麻姫さんたちが羨ましいです。いつか私もその、”初等学校”で勉強してみたい」

 正気か?

 学ぶことに意欲的な彼女に引きながら、私は諭す。

 「おもしろくないよ、勉強なんて。友達と話せるし学校は好きだけど、後進学校では授業が始まったら寝てたし。それに何か月かに一回、テストもあるしさぁ。あ、テストっていうのは習ったことを確かめる・・試験? で、わかるかな? ああ、なんだか先が思いやられてきた。まだ入学したばかりなのに」

 後半は愚痴になってしまった。冴恵は苦笑いで、唸った。

 「うーん・・。それでもやっぱり、私は通ってみたいかなぁ。」

 「それはどうして?」

 「私の知らないことを教えてもらえるから。寺子屋には部屋の隅に本棚があって本が乱雑に折り重ねられていたんだけど、ある時その中の一冊を手に取ったの。”経済学Ⅱ”だったっけ。ほかにも”財政学”だとか、なんとか会計論なんてのもあったけど。でも読んでみても何が書いてあるのか全く分からなかった。もし学校に通うことができるんだったら、毎日勉強するな。そうすればきっと、あの何冊かの本もいくらかは理解できるようになると、そう思うの」

 「ふうん」経済学や財政学とか、それらは言葉の上でしか知らなかった。「冴恵、頭いいんだ」

 「どうかな。少なくとも後ろの美佳さんには敵いません。」

 「美佳はもう、なんていえばいいのか。おかしいから」勿論誉め言葉だ。

 「鍾乳洞ではもう、凄かったです。私が問いを提示したはずだったのに、美佳さんの話には不思議な力があって、ああいうのを話術と呼ぶのでしょうか。いつの間にかその語りに聞き入ってしまい、ときどき投げかけられる問いには翻弄され、話に区切りがついて気がつけば回答者側に回っていました。いえ、そうなるように仕向けられていたんでしょうね」冴恵は興奮気味に話す。

 美佳が初対面を含め、事あるごとに邪険に意地の悪い態度を彼女に取るものだからてっきり、反応して嫌悪感が募っているばかりだと。「さっき喧嘩してなかった?」「ちょっとムッとしただけです」しかし彼女はそうでもないらしい。

 あ。

 「さっき、いや初めて会った時からだけれど美佳が冴恵にきついことを言ったり、陥れたりするみたいな話し方をするのは表には出さないだけで少なからず、その、精神的に参ってるからだと思う。でも、いつもは優しいくてすごく頼りになるのよ。誤解しないであげてね」いちおう釈明しておく。美佳の代わりに。

 「しないですよ。とてもそんな」

 「そう」ならいいけど。

 他愛もない会話が続く。話しながら歩いていると、多少の道の粗さや起伏は気にならない。むしろ、それさえも風景の一部として、積って削られて、堆積して侵食される。今踏んでいる地面の砂の一粒その配置さえも、この村の住民の足跡、またそよ風の一吹き、あるいは小雨の一滴。それとも微かな地面の揺れ。振幅のひとつ。

 想像すればするだけ手足の振りに重さが増した。手首足首に重しを付けているみたいだ。自分の身体の動きが遅くなったように錯覚させられる。

 また一歩

 踏み出した。

 前につんのめりそうになった。

 首を起こす。

 背筋を伸ばして遠くをを見据えた。

 緑色だ。

 「そんなに人がいないね」騒がしかった子供たちの声も、もう聞こえなかった。言って、それから記憶を辿ってみる。

 yはり、私が直接会ったのは冴恵と田んぼにいたお爺さん。その二人だけだ。少し前まで屋内にいたとはいえそれなりの距離を歩いているし、人に会わないのは不自然でないか。

 私は()()()と横目で窺った。冴恵は変わらない調子で答える。

 「今日はまあいろいろあって、若い人が出払ってしまっているので。少ないかな、そういわれてみると。いつもはもうちょっといます。それでも、そう違いはありませんけれど」

 「うん? どうして?」

 「若い人の人数に比べて全体的に、年齢の高いお年寄り高齢者の割合が大きいんです。住人のほとんどが、もう三十いや四十歳を超えているんじゃないかな。」饒舌に続ける。「村から出ていく人はほとんどいないけれど新しく入ってくる人もいないのでまあ、人間は減る一方。式がいなかったら生活が成り立ちませんね」

 「一緒だね、私の村と。どんどん人がいなくなってもう・・」

 「基本的には一度の出産で一人しか生まれませんからね。それこそ子供の産めるうちに、最低でも三人は産まないと過疎化は進む一方です。女の一人としては厳しい話です」

 「・・ま、過疎化は手遅れ感があるかな、お互い」

 魔法でも、式神でも、人間を増やすことはできない。どこも悩みの種は同じようだ。しかし都市から隔離された山間部の集落、その宿命なのかもしれない。

 「人間って効率が悪い」

 ぼやいた私を乾いた風が吹きつけた。

 そのままずいぶんな距離を歩いていた。遠くから見るのと実際に歩くとは縮尺に差があるようだった。周囲に目新しい風景が現れるので飽きはしなかったが。

 そうしてやっと特徴のある建物が見えてきた。地図の黒い点と冴恵の示した場所とを照らし合わせて、あれが目的地であると確信する。

 やっと目の前までたどり着いた。

 蔵だ。頑強そうな白漆喰を基盤として下半分は黒と白の海鼠壁、百二十度くらいに開いた傘は斜に並んだ鼠色の屋根瓦。それらは白と黒の立方体からはみ出ることなく、不自然なほどにまとまっていた。上の方に小さな四角い穴が一つ空いていて一見すると貫通しているようであるが、縦に何本かの格子棒が嵌められていた。所々壁がひび割れていたり欠けたりしていて、それが造られて長いことを象徴していた。

 それが横に何棟か並んでいた。

 奥にも同じものがありそうだと想像した。

蔵と蔵の間、細い小径へと冴恵は進む。その後ろをついていった。細いとは云っても

その幅は、私が横向きに寝ころんで余りあるくらい。歩くのに不自由はしなかったが、空気がじめじめしているのが気になった。ちょうど建物の影になってしまっていて、日が差さず湿度が高いのが原因だろう。特有の()()()()の葉が萎れていた。小径を抜けると想像どうり、同じ造りの蔵が並んでいた。

 その場で振り向くと四本の丸棒に支えられた瓦庇(かわらびさし)が迫り出していた。庇の下には石の階段が二段だけあった。冴恵が段の上に立ち両手で、元は金色であったであろう色の禿げた鉄の棒を掴んでいる。それは縦に二本つまり彼女が今持っている、その隣にも付いていた。巨大な取っ手だ。

 冴恵は取っ手を掴んだまま、後ろに倒れこむようにする。すると蔵の壁が縦長の長方形に割れた。ゆっくりと軋みをあげながらそれは手前に開く。厚みのある、おそらくは観音開きの扉。しかし本当に逆側が開くのか疑わしいほどに扉と、その輪郭との隙間がない。

 最後は扉の面を体で押すようにして加減を調整すると、こちらを見てひとつ頷く。それから冴恵は私に手招きして蔵の中へと入っていった。応じて私も中へと入る。埃っぽい。それに粉のような独特の臭いがした。

 しかし、暗くて何も見えない。気配と音で、すぐ隣に冴恵がいることは感じられた。彼女は手探りで作業している、よりかは目的の物を探しているようだった。

 がさ・・ざり・がさ・・・

 ぱちん。

 密室で音が響いた。・・短い点滅。二秒くらい経って明るくなった。光源は天井から吊り下げられたランタン、それか提灯だ。直接見ようとすると眩しいくらいに煌煌と輝いている。

 粉みたいな臭いの元が両脇に積まれていた。円柱状に編まれた藁が、こちらも網状に編まれた細い縄で締められている。宏司たちも中に入ってきたので少し奥の方へと進んだ。俵だ。いくつかの塊に分けて三角形に積まれていた。組体操の()()()()()を連想した。中には何が入っているのだろうか。米ぐらいしか想像ができなかった。無造作に木の梯子が一本だけ立てかけられていた。あちこち視線を彷徨わせていると冴恵の声がした。

 「ここは米蔵です。毎年同じ量のお米が収穫できるわけではないので、食いっぱぐれないように一定量を備蓄しています。豊作の年に貯めこんでおいて不作の年に消費するわけですね。虫にさえ気を付けていれば、お米は結構な期間持ちます」

 「へえ」宏司が相槌を打った。

 特段、訊きたいことはなかった。冴恵もそれ以上の説明はないようで「じゃあ」「うん」そそくさと外に出た。澄んだ空気に息を吐く。

 それからいくつか他の蔵も見て回った。造りはすべて一様であった。あるのは米だけでなくて他には野菜や魚の干物、干し肉も蔵ごとに貯蔵されていた。干し肉の一枚を冴恵がちぎって味見させてくれた。噛み応えのある弾力とわずかな塩気。あまりにもおいしくて三人とも無言になってしまった。本当に美味しいものを食べたときには人は無言になってしまう。すべて回り終えて食料以外はないことがわかった。

 また同じところに戻ってきた。初め見た蔵の正面だ。

 「地図を」

 冴恵に促されて、そういえば私が持っていた地図を手渡した。受け取って、彼女は折りたたまれていたそれを開いた。端にクリップで挟んだ針を取り、外す。

 左手で地図を持って右の親指と人差し指で同じ指の一本、薬指に針をつがえた。それを弾こうと指に力が籠められる。「ねえ」

 「?」冴恵は指の力を抜いて首を傾げた。

 「それ必要?」

 「それ、とは?」もちろん今彼女がしていることだ。

 「地図に血を垂らすこと。私あんまり”血”だとか”血管”だとか好きじゃないの。気持ちが悪くなる。できればやめてくれない?」」

 「そう言われても。美佳さんが知りたいのはおそらく、こういうことだと思いますよ。これは必要なことです。術を使うにあたって」

 非難を込めて美佳の方を睨み据える。彼女は悪びれるどころか目を輝かせていた。私の事なんてどうでもいいと、まるで気にせずに冴恵に話しかける。

 「やっぱりそうなんだ。うん、いや、実は気になってたんだよ。()()()()て感じだもんね。その仕草も 供物もさ」冴恵が驚いた顔をする。「陰陽師ってやっぱり魔法士と比べると現実的でそう逸脱してないっていうか、世界から。あれだよね、魔法を”神秘的”と表現するならば陰陽道はこれは馬鹿にしたりとかそんなんじゃあないから勘違いしないで欲しいんだけれど”妖しい”よね。どろどろしてる。色で表すなら黒か、赤だ。あ、これ血の色と同じだね」

 「・・・」話が聞こえないように私は耳に指を突っ込んだ。宏司はそれらしく、目をとじて頷いている。本当にわかっているのか、どうか。

 「やっぱりこうして見せてもらうのが、訊くよか手っ取り早いよね」

 「そうでしょう。・・さて、これが必要なくはないかと云ったら、実演も含めて必要なことなので麻姫さんには我慢してもらわないといけません。」

 「どうしてよ」目の前にいるので、耳を塞いでいても意味なく声は聞こえる。「地図なんかなくたって、次の目的地を決めるのは冴恵でしょ?」

 「地図としての本分は今さほど重要ではありません。陰陽術を使った痕跡を残しておかねばならないのです。それこそ後から実際に見てもらうのが一番に納得がいくとは思いますが、簡単に話しておくと要は今私たちが村のどの辺りにいるのかを第三者に把握してもらうためです」

 「へえ」わからん。

 「その方法があるんだ」これは美佳。「でも一端、置いておこうか」

 「ええ。このことは(村を案内することだろう)誰にも知らせていませんから定期的な連絡が急務です。逃げたと思われてはいけませんからね」

 「それは大変だ」美佳は肩をすくめてみせた。

 それでは、冴恵はそそくさと体を背けて手元を隠した。やがて、

チッ。

 もし目を閉じていたのならば、果たして誰かマッチでも擦ったのかと、そう勘違いしただろう。暫く、冴恵汚れを払うように手首を振る。赤い火花が散った。それさえも不快だ。

 彼女は振り向き、私に地図を渡そうとして、やっぱり美佳へ渡す。茶運び人形かと、滑らかなスライドだった。しかし私は睨めつけざるをえない。

 それでもあんまり効果はなさそうだ。冴恵は澄まして指の血を拭っている。いまいち彼女の性格がわからない。距離が縮まってまた、紛れつつあった。

 美佳は地図を腰前に広げて、それをしげしげと眺める。

 「ふん、次は・・」「ここです」「ああ」

 「・・・」

 しばらく憤然とした態度をとってやろうかと明後日の方向にむくれてみせたが、彼女らは気にすることなく、そもそも気が付かない。そのうち二人して手元を覗き込んで相談を始めて「俺にも見してくれ」と、宏司までそれに混じるものだから取り残された気になって、嫌々駆け寄った。

 黒の点が二つになっていた。中央下の丸はそのまま、斜め上にもう一つ増えている。つまりこの、増えた点が今いる場所なのだろう。

 ふと、引っ掛かった。山が一枚の紙を端から端まで一直線にその稜線が割いている。・・つまり村全体の地図ではなくて真ん中あたりを切り抜いた。もっと、もっと大きな地図が存在するのだろうと、その様相を想像した。手で持てないほど巨大な四角、かな。・・普通、縮尺が調整されるであろうと自分に突っ込みを入れる。口を動かすだけで声にはださない。

 しかし、次に向かうのはどの辺りなのか。冴恵が指さした時にそっぽを向いていたのでわからなかった。黒い点が現在地ではなくて、目的地を示してくれたらいいのに。

 「冴恵、どこなのかもう一度--って」

 冴恵と美佳が体を翻すのと私が訊いたのとが重なって、声は途中でかき消えてしまった。繰り返し問う間もなく二人は肩を並べて歩き出してしまう。ほんの一瞬だけ話す冴恵の横顔が見えた。

 (わざわざ引き留めることもないか)

 つけられたばかりの足跡を踏んで、前を行く二人の後ろに付けた。そこが定位置であるかの如く自然に宏司が、隣に位置取る。それから顔を近づけると、口許を手で隠しながら私の耳もとでささやいた。

 「なんだか解せない」

 「なにがよ」さりげなく身を引いて答える。「だってさ、」宏司は言う。

 「だいぶきつく言い合ってたところじゃないか。ちょっと前までだぜ。あれから幾分も経ってねえ」

 理解できん、と宏司は言った。

 「そうね」

 きっと頭のいい人の回路は配線が乱れているのだろう。漏電しないくらいに。

 「冴恵は美佳にあこがれてるみたい」

 「へえ」「すぐ幻滅するさ」

 「かもね」

 


 宏司と他愛もない雑談をしたり道端の石ころを拾ってその辺に投げつけてみたりして暫くそろそろ景色を見るのも飽きてきたなあと、そんな時分にやっと進む先に新たな人影を見咎めた。あれは村の人ではないのかと、だから何だというのか自分でもよく解らない期待を持ったまま、しかしそれは冴恵の一言でかき消えた。

 「あ、式だ」驚きもせずに言う。

 美佳は飄々としていたが、私と宏司は少しばかり腰が引けてしまう。前を行く二人の背中に隠れるように身を縮こませながら、そっと視線を通す。

 と、確かに式神である。二輪の荷車を引く姿勢のまま静止していた。ぴくりともしない。黒々とした体躯が光を受けて艶光(つやびかり)している。

 「式!」

 今度は明確に意図を込めて鋭く、冴恵が声を飛ばす。鋭い声がこだました。()()()()()()の表情のない顔がこちらを向いた。得体が知れず感情のひとつさえ表には出さないそれはやはり、不気味である。

 「違ったかぁ」冴恵が呟いた。

 私たちの歩くぺエスは変わらない(冴恵はともかく美佳も動じる気配はなかった)。式神はこちらを向いたまま、しかし決して動かない。

 間もなく、それのすぐ傍まで来た。冴恵は一歩前に出て、路に迷ったのかそれとも探し物でもしているのか、右手を腰に当てながら四方に視線を凝らし、美佳はと云えばなんと、ぺたぺた式神を触っている。撫でまわしていると云った方が正しい。

 「人間の肌みたいだ。・・でも冷たい」

 知らんわい。

 彼女に呆れ半分、もはや感嘆すら覚える。恐ろしくはないのか。

 「ほら、見てないで麻姫も触ってみてごらんよ。ひんやりしてる。気持ちがいいよ」

 そう言われたって、私は()()()だ。

 私は彼女みたいに、そう、馴れ馴れしく(?)はせずに式神を軸に円を描いて。心持ち離れた位置から見て、回る。その軌跡の上を。

 腕が太い。膨れ上がった上腕は影が差すほどに立体感があって、こぶになっていた。そこだけ見れば筋肉があって力強そうだけれども、胸板やその少し下の腹回り。人間だったらばちょうど腹筋のあるところはやはり、()()()()としていて良く云えば滑らかに、縦の曲線を描いている。とても筋肉質とは言い難く、典型的な肥満体型だ。心なしか腹部が垂れ下がっていた。

 「!」横から宏司がそのお腹を、むんずと掴んだ。

 「硬い」

 彼は不満そうだ。度胸があるのか、それとも馬鹿なのか。半々だろう。

 観察してみたものの、個人的には特段面白くもなく、さほど興味もわかず、それにこんな道端で油を売っているくらいだったら早く次の目的地まで歩こうよ。

 けれど冴恵は難しい顔をして腕を組んでいるし、美佳はしゃがんでみたり背伸びしてみたり、あしげく自分の体制を変えながら時々頷いていて宏司もそれに便乗しているのか、まるでわかったふうに口を尖らせていた。つまり、「つまんないから行こうよ」と一人空気を読まないことは言い出しにくくて、自分だけ目をそらしているようで憚られた。

 さしあたり右手を顎に当ててそれらしく(眉を寄せて)私も唸ってみる。できるだけ低く力を込めて。

 虚しい。一度だけでやめた。

 「ほとんど農業専用、いや専門。それを生業にしていると云ってもいいかもですね」首だけ振り向いて冴恵が呼びかけた。

 「農業の?」「この式神のことを云ってるの?」

 説明してくれと、三人の視線と点が冴恵に集約する。彼女は体ごとこちらに向けようとして半分くらいで止まった。

 「あーー。皆さんを焦らしたりましてや()()()()()()()しているわけではないんですがその」

 しどろもどろになりながら、言い訳がましく弁解する。もう何回目かのやりとりなので、いい加減に慣れてきた。きつい表現をすれば、この会話にはもう飽き飽きしていた。

 「わかった、わかった。式神の事は後からまとめて、ね。」言葉尻に宏司が鼻息を鳴らした。「ところで、どうかした?まさか道に迷ったなんてことはないだろうけども、おばあちゃんみたく、眉間に皺寄せっちゃって」

 さっ。私が言うが早いかそれとも、冴恵はおでこを隠した。年頃の女の子の反応だ、客観的に考察した。彼女の頬が赤らんでいる。

 「近くに式神の術者、一時的にはその使役者がいるのではないかと、そう考えたのですが。どうやら()()()のようですね。見当たりません」

 言い終えてまた首だけ後ろに回した。そして手のひらを上向きにして、さあ、見やい。とでも言わんばかりに手刀を切ってみせた。

 応じて、その先を見やる。 

 稲穂は風に揺られて靡き、畑に根を張って収穫を今やと待っている黄緑色の根菜の葉は地面近くに垂れ下がっていた。一本一本にまるで意思とその命が宿っているかの如く、風に押されながらも力強く屹立する黄金色。それに比べて明るい色をしていなかったら、よもや萎れてしまっているのではないかと勘違いしてしまいそうな弱弱しいギザ葉。

 当たり障りのない、これだと目を引く物のないつまらない風景。しかし夙村の喧騒と比べればむしろ、逆説的に特徴があるとも取れる。

 左の目の端を押さえて深呼吸。

 どうだろうか。とりあえず近くに人の姿は無さそうだ。

 「仕方がありませんね」

 そろそろ行きましょう、と冴恵が促した。美佳は不満顔で宏司の表情は見えなかった。

 式神の横を通り抜ける時に、一瞬だけ。疑問とも同情ともつかない感情がよぎった。つかない、ではなく有耶無耶になっているだけか。

 「ち・・っと」

 「?」今、声がしたような。

 私は足を止めた。皆同じようにしていて、お互いに顔を見合わせる。気のせいかな?

 「ちょっと!」今度は、はっきりと聞こえた。四人の右の方からだ。首の動きが同調した。

 「あっ、いた。」

 冴恵が頭の上で大きく手を振る。

 女性がひとり遠く、稲の奥から手を振り返した。しかし見た所一人しかいないように見える。またしかし、私が見落としている可能性もある。

 正面から見ると台形を乗せた円盤型の、麦わら帽子。台形の上辺は波打っていて円盤との境目には黒色の線が一本、くっきりと分かっている。青みのさした手ぬぐい、それともタオルだかを帽子と頭の間に噛ませていて動くたびにひらひら揺れた。暗く影になっていて表情はみえない。

 考えているうちに女性は畦道へとあがった。そう幅もないのによろめかず、確実に地面を踏んでこちらへ歩いて来る。

 ・・あれはデニムのジャケットだろうか。およそ農作業をするのには似つかわしくない恰好のいい上着だ。比べてダボついた下半身の禿げかかった紺色のズボンは膝下に捲ってあるものの、履いた長靴の上にまで泥が跳ねていて斑の茶色がかっている。女性は歩きながら両手にはめた軍手を外して、ズボン後ろのポケットに入れた。

 女性は砂利道には上がらずに、畦の丁字路で止まった。

 「その子らが、噂の?」

 片手を腰に当ててもう片方で帽子の()()を逆手につまみ、親指で押し上げる。

 細く整った顔だ。目は猫のように細く線が走っている。鼻も高く尖っていたが何よりも赤い唇の隙間から覗いた八重歯が印象的だ。

 質問に冴恵が、はい。と応えた。美佳から順に私たちを手のひらで示す。

 「まず短かい黒髪の、姿勢がよくて目つきが鋭いのが美佳さん。次に金髪で耳に星型のアクセサリを付けているのが宏司さん。見てのとおり、三人の中で唯一の男性です。最後に麻姫さん」

 冴恵が私を示しそこで言葉を止めたものだから、女性が私の方を見やる。美佳に負けず劣らずな鋭い目で見つめられて身をよじった。

 「あと」「あのさ」声が被った。冴恵がどうぞ、と言った。女性が頷く。

 「この三人、魔法は使えるの?」

 何とはない、軽い口調だったがしかし、私はびくりとした。それには気が付かず冴恵が答える。

 「はい、まさに今、それを言おうと思っていたところで。宏司さんは火と風の二属性、美佳さんは火、風、土の三つ。」

 「もう一人の、えっと・・麻姫ちゃんは?」

 「麻姫さんは使えないみたいです」

 「そう」

 女性は落胆したみたいに表情を曇らせた。・・かに見えた。ような気がする。私は肩身が狭くなった。宏司が横目で私を確認した。

 「っていっても私魔法を見たことがないんだけどさ。」「ねえ、何かしてみてよ」

 そう言って促した視線の先にいるのは、

 私だ。

 「えっと・・」

 冷たい汗が頬を伝った。立ち尽くし言葉にも詰まる私を女性は怪訝そうに見つめていたが、やがて得心したようで口角を上げた。

 「ああそうか、ごめんねあなたが--っとまぶしっ」

 白い発光が女性の言葉を遮る、否。断ち切った。手を庇の代わりにして目を凝らすと、宏司だ。微かに美佳も同じようにしているのがわかった。

 暫くして発光は渦巻き弱まって、渦潮みたく収束して消えた。収束した先は宏司の伸ばした腕の先つまりは手のひらだ。

 「これが火の魔法。すごいエネルギィだろ」抑揚のない声で宏司が言う。すると女性は宏司に笑いかけた。

 「へえ、うん。君の言うとおり。もう爆発だね? 目が痛かったよ、眩しくて。」

 「そうですか」

 「・・・」

 「・・・」

 無言。

 「・・・ん? なに?」

 「今のが魔法です」重ねて宏司が言った。

 「矢治さん」これは冴恵だ。「矢治さんも三人に自己紹介をお願いします」

 「おっ、そうか、、その前に」

 言ってから直ぐに先を続けようとして止めた。ズボンの膝から太ももにかけてを手で叩き払って、それから黒っぽい青に白の線が引かれたデニムジャケットの襟を正す。左右ぴん、と伸びたのを首の動きで確認すると麦わら帽を取った。帽子と頭の間にかませていたタオルを掴み、引く。タオルで纏められていた黒髪が揺れ、落ちた。長さは私、麻姫と同じくらいで腰上にまで伸び髪ゴムで束ねられていた。

 輪郭は細く整っている。目も、眉毛も鼻も。すべて線が細い。斜めに上がった口許が、彼女の口調も相まって男らしい。

 癖なのか彼女は再び腰に手をやり、わたしは、と前置きした。

 「私は京華。矢治京華。弓矢の矢に傷が治るの治。古い都の京に華やかで美しいの、華。我ながら”華”なんて似合わないけれど」

 「そんなことありません」冴恵が食い気味に言う。ほんと?と苦笑いで京華が返す。

 あの、と宏司が前に出た。どうやら京華に質問するようだ。

 「あの、京華さんは今何をされてたんですか?」

 「何を・・何を」「具体的には?」

 「あっと、多分稲刈りをしていたんだろうなぁ。・・とは俺も考えたんです。それで・・。にしても、こいつ(宏司は式神を指した)はどう関係があるんだろうなって、それを踏まえて考えたときにわからなくって」しどろもどろだ。

 「つまり矢治さんの今されていたことと、この太みの式神の関連性を知りたいんです」美佳が補足した。私も京華の方を向いて同意の意を示した。

 「そういうことね。わかったわかった」彼女が笑うとこちらの緊張がほぐれる。屈託のない笑みだ

 「宏司君の云う通り、今は稲刈りしていたところ。泥だらけになりながらね。刈った稲がほらあそこに。みえる?」

 見えない。おおかた田船に載せて浮かべてあるんだろうが、稲穂が邪魔でここからでは。

 「()()()()荷物運びだよ。稲の一本一本は軽くても結構な量だからね。一人で運ぶには辛いのよ。どう、()()()()でしょ。見た目に違わずの力持ちさ。あ、あと私のことは京華、って呼んでくれればいいからね」

 京華はフランクに言った。「美佳と似てるね」宏司に囁きかけると彼は頷いた。

 「キャラクターが、被ってんね」そう。

 京華は()()()と指を鳴らした。

 「冴恵ちゃんと君たちはこんなところで何してるのさ。式神をアレしたって聞いたけれど」

 「そのことなんですが・・」

 冴恵は京華にこれまでの事を逐一話し始めた。事情を説明しているというよりかは、嫌いなヤツの悪さを見咎めてそれを堂々と先生に報告しているようだった。

 肩身が狭い。足下の石ころを蹴飛ばしながら二人の会話が終わるのを待った。

 冴恵の報告は終わったらしい。やがて二人ともがこちらを向いた。

 「大体の事情はわかったよ。心配しなくても少し村を散策するくらい、問題ないよ。たぶん」

 「たぶん?」心もとない。

 「私も今日はこれくらいで切り上げよと思ってた所なんだ。問題ないとは云ってもお偉方が何時呼びつけてくるのかわからないし、うちにおいで。呪核には後からでも行けるから」

 「そんなわけで、いいでしょうか?」

 冴恵は申し訳なさそうに確認を取る。訊かれたって断るすべはなかった。

 京華は一声かけてから、荷車に積む稲を取りに田んぼのなかへ引き返していった。ぼう、としていると間もなく、がらがら。がらがら。音のする方は先ほどまで私たちが歩いていた方角で京華が重そうに、両手に泥のしみ込んだ引き網を握りながら田船を引きずってくる。

 「おまたせーやっぱり重い」

 俺手伝います、寄ろうとした宏司をありがとうと制して代わりに、ぱしん。今度はただ響かせただけでない。明確な意思があった。すると荷車を離れず不動だった式神が面を上げて、その体に力が加わった。動くたびに浮き上がる筋肉に目を引かれる。一歩踏み出すだけで幾度もふくらはぎと太ももが膨れ、収縮を繰り返す。上腕も案外細く見える腰辺りの背筋も。一番は臀部だ、お尻。上下左右に忙しない。まるで動く人体模型を見ているようで気持ち悪いけれど、怖いもの見たさに目が離せなかった。

 式神は軽々と田船を肩に担いだ。稲穂の金と式神の黒がアンバランスだ。

 船ごと荷車に積んだ。縦の長さが足りなくてふちから船の縁がせり出している。せり出した部分に乗った稲を京華が払い入れた。

 よし、と彼女は手を叩いた。こちらを向く。そこが定位置であるのかそれとも今命令したのか式神はまた荷車の持ち手を掴む。私は一連の動きを目で追っていた。ただ見ていただけだ。

 だからこのことにも直ぐに気が付いた。式神の、のっぺらぼうの顔が割れている。ちょうど口の辺りが。

 これで二度目だ。私は確信する。まごうことなき、あれは()()

 たじろぐ私の視線をとらえ、その先を京華が見やる。一瞬動きを止めて、それから片眉を上げると式神に駆け寄った。それの正面に立つ。みえない。

 彼女の目は鋭く、ある一点を見据えている。時々首肯する。ごく自然に冴恵が彼女の隣に並んだ。そして聞き入っては、相槌を打つ。美佳と宏司が私の傍に集まった。宏司は訝し気に、美佳は肩をすくめる。私はといえば、聞き入る二人に近づいて、若しくは話しかけてもよいものかどうか測りかねていた。

 数歩のところに立ち尽くす、未だ二人は無言でこちらを振り向きさえしない。何度か口を開きかけて結局、私は待つことにした。しかし、はたして、この距離で、話し手の声の、言葉の一つも聞こえてこないとはいったいどうしてなのか。

 私の疑問は直ぐに解消された。ちらと、京華が立ち足を組み替えたときにできた隙間から式神の口だけが動いているのが見えたのだ。--あれでは音として発生できないだろう。なぜなら喉元が震えてさえいないからだ。

 口の動きを読んでみようとしたが駄目だった。何て云うんだっけ、こういうの。

 「読唇術だね」美佳が言った。わたしの心を読んだみたいだ。

 美佳のは読心術だよ、と突っ込んだ、心の中で。これも読まれているのかも。それが杞憂であることに違いはないし、読心術なんて現実にないのだけれど。・・でも、まあ、美佳だし。

 ちょっと立ち位置を変えてみたら式神の表情(?)がよく見えた。宏司が口の動きをまねていたので私もそうする。今、私はひどく間抜けな表情なことだろう。

 往々にして、間の悪い時はとことん悪い。

 区切りがついたらしく二人が振り向いた。話す言葉はなくかつそれがあまりに突然だったので、唇を突き出した、()()()()()の状態で私は固まった。

 「おまえ・・」蔑む視線の主は宏司。あんたも、してたじゃない。恥ずかしさと怒りの

半々で顔が熱くなった。頬を赤くしてうつむく。気にしていないふうに装い、冴恵が話す。

 「残念ですが散策はここまでです、一旦。矢治さんの家ではなく、直接呪核(じゅかく)にいきましょう」

 「呪核?」京華が云っていた。

 「そう。それ自体は村の中核となる施設なんですけれども、今それは関係なくて。そこで村長や陰陽頭(おんようのかみ)が待っています。あなた方三人を」

 「ああ、会議だっけか集会だっけかが終わったんだな」「そういうことです」

 「ずいぶん落ち着いてるね、・・宏司君。だいそれている、若しくは面の皮が厚いのかな、君は。観念して往生際がいいとも見受けられるね」やんわり笑顔とちくりと刺してくる言葉の二つが噛み合っていない。

 「え? まあ」京華をみて首を捻る宏司。

 これから偉い人に会うと思うとあばら骨が浮く感覚がした。動悸が速くなる。今から緊張しても仕方が無いのに。

 京華が指を鳴らした。式神の身体にぐっ、と力が入って木の車輪が軋みを上げながら荷車が動き出した。積まれているのは云っても軽い稲の束なのだから、そんなに重さは見られない。一束抱え持ってみたい衝動にかられたが、自制した。私より先に、宏司が確かめていたからだ。片手で軽く持ち上げ、持ち上がらなくて「おもっ・・」すぐに離す。京華が宏司を一言たしなめた。

 もう今更云うまでもなく遠目にちらほら、建物の採色が点々としているけれども、やはり視界いっぱいに広がるのは田舎の田園風景で、代わり映えのしない景色に飽き飽きしながらもひたすらに歩みを進める。頭からっぽで足を動かしていたその時、荷車の車輪が止まった。

 いや、黒板を爪で引っ掻いたような音を立てながら僅かずつ回転している。今にも壊れてしまう、そんな音だ。(こしき)に雑草でも挟まったか。軸と車輪が噛み合っていないようだ。

 はさがった泥を中腰になった冴恵が指でほじくり掻きだして、事なきを得た。その間も耳障りな音はやむことが無くて、つまり式神は荷車を引き続けていた。中心から放射状に十二本も輪の淵へと突っ張った細長の木棒が小刻みに揺れ動いている。軸の奥にまで指を差し込んで作業する彼女の手元が危なっかしかった。

 ちょっとまって、美佳が言った。

 集中している。

 「あっ」冴恵が驚き、京華は目を見開いて指を鳴らす。彼女の視線を辿る。車輪。今しがた冴恵がきれいにしたはずだが。

 所々が黒ずんだ年季の入った茶色。円形に無理やり曲げられた木。肉の抜かれたその骨組みは見ようによっては十二個の相似した扇形でもある。円周表面はデコボコだ。車輪の具合が悪かったのはこちらのせいではないのかと疑うくらいには毛羽だったささくれと膨らんだ瘤、そしてえぐれた凹みが目立つ。

 美佳が円周を指先でなぞる。橙黄色の軌跡が黒ずんで、白煙がくゆる。京華が式神に荷台を引かせる。車輪を回すためだ。美佳は回転に合わせてそのまま一周分。それを個数と同じだけ、四回繰り返した。荷車が何回も押し引きされた。つんと、焦げた臭いが鼻をつく。京華は満足そうに頷くと出発する。

 「便利なもんだねー、魔法って」京華が感心して覗き込む。「そうでもないですよ」「いやいや、これは期待できそうだ。なにかしらに」

 「そうですか?」「ええ」

 「器用だなあ。あいつ」宏司が他人事に言う。他人事だけれども。

 黒くなった車輪の面は滑らかとは言い難いものの十分に平べったくて、ほとんど摩擦がなさそうだ。古臭いボロボロの円周とは見違えていた。美佳が火属性の魔法で周囲のささくれと瘤を炙り焼いたからだ。焦げた臭いの原因はこれだ。

 「たぶん自分の指を中心にして火属性の元素を集め、巻き付けたな。橙黄色の螺旋はそのせいだ」

 「螺旋なんて見えなかったけど」

 「俺には見えたぜ」「ふうん」「指に巻き付ける必要、ある? 熱いじゃない」

 「基準点があるとないとでは、元素の操りやすさが大きく変わるんだよ。あと、熱くはないと思うぜ。うまくやればな」

 ともかく、美佳が手を加えてからあの激しいガタつきは嘘みたいになくなって、丸い輪っかは静かな回転運動を続けていた。陥没した箇所やそこだけ色の違う引っ掻いた擦り傷の痕は直りはしないから、時々荷車が跳ね上がるけれども、随分と()()になった。少なくとも会話の邪魔になるような、がたがた音はしない。

 暫く皆無言で歩みを進める。荷車を引く式神と京華を先頭にして、他が後を追う形になった。やる事と云えば風景を見回すくらいで手持無沙汰になっていると、宏司が口角を上げて問うてきた。

 「呪核って、どんなんだろうな」

 本当に胆が据わっている奴だ。まったく、緊張しきりの自分が阿保らしく思えてくる。歩きながら、かぶりを振った。

 「私に訊かれてもね」

 「でも冴恵に訊いても、はぐらかされるじゃんかよ」

 「まあ・・」

それはそうだろう。

 「な?」「ていうか正直、話していないと暇なんだよ」彼はまるで落ち着き払ったふうに、顔の高さに右手を広げてみせた。されど表情は、他人の隠し事を見透かしたような、いたずらっぽい笑顔で。

 「麻姫もそうだろ?」首を傾げこちらを覗き込んできた。

 「ん・・」一瞬の逡巡。しかし、

 「よーく、わかってるじゃない、宏司。私、ただ歩く、っての無理なのよね。つまらないもの。」

 「いやいや、伊達に初心学校からの付き合いじゃあねえぜ?」

 宏司はとても取り繕っているようには見えず、どこかいたずらっぽい彼の態度は本物だった。ということははつまり・・時折、私に、示すその笑顔は。

 怯え、虚勢を張っていた、ましてや私を甲斐甲斐しく思ってくれていたわけでもない。

 つまり気丈に振舞っていたのとは違うわけだ。

 「・・・」なんだか顔が熱くなってきた・・いや、自然体で笑顔を振りまくことのできるのは・・生まれ持った彼の才能か。

 気恥ずかしさと微妙な後ろめたさが綯い交ぜになって、今私は傍から分かるほどに赤色だろう。

「どうかしたか?」間の悪いことに、でも今度は間違いなく私を心配して宏司が私を窺う。「っつ・・」頬が鋭く痺れて再び、自分が動揺しているのを自覚した。

 彼の視線から逃げるみたいに、反対を向いた。

 「? ならいいけどな」

 どうやら彼は彼で、納得してくれたようである。

 ほっ、とため息をついた。しかし、私はこんなに何を焦っているのだろうと、自問するやるせない気持ちを滞らせつつ私もまた、彼の方を窺った。すると。

 「あっ、見て」

 「ん? ・・おっ」

 連なっていた山の稜線。前方にその切れ目が現れた。展望台から見下ろした、村を二つに分断する一つ、あるいは複数の山。まるでこちらを押しつぶすような、その大きさに圧倒される。形容するならば、巨大な壁。離れていてもありたけの存在感を放っていたそれが今、間近でかつ壮観に私の視界を緑で染めていた。

 私が見咎めたのはその端である。緑色の壁の端から微かに、ぼやけた黒色が顔を出していた。ぼやけた、とは光の加減でそう見えるだけなのかもしれない。

 察するに、丸みを帯びたドーム型の建物である。あらためて見るとそれはやはり、光沢がただの一つさえも排除されていた。少し遅れて、美佳もそれの存在に気が付いたようで歩きながらも、彼女の視線は私たちと同じ一点を見つめて動かない。

 空の青。木々の緑、稲の黄色。鮮やかな色彩を奏でる彩られた景色。数えきれないくらいの純色の中にぽつねんと佇む、平坦な”黒”は明らかに異様であった。

 さすがに前を行く京華の歩みには淀みがない。隣に沿って歩く冴恵も。私が夙村のことを隅々まで把握しているように、彼女らにとってこの郷村は自分の庭も同然なのだろう。突如現れた巨大な建造物は視界に収めておくくらいの、一風景であると推測できる。

 「おーい、ついてきてる? 遅れずにね」

 京華が振り向いて呼びかけた。私も宏司も気が付かぬうちに、前の美佳との距離が開いてしまっていた。小走りになって開いた距離を詰めた。

 また暫く歩いて、巨大な黒を正面にする。

 私たちは思わず息を漏らさずにはいられなかった。

 「これが・・」

 呪核。なのだろう。

 まず、これは遠目に見て想像した通りの、ドーム。山の緑を背にしていた。その建物は湾曲した丸屋根を地面から生やしていた。そして圧倒的な存在感を放つ”それ”の手前には、”それ”を中心にして何棟もの建物が配置されていた。無論、私がこの場所を訪れた経験は無くて聳え立つドームと、それと一体になったみたいに並び立つやはり黒で統一された建物を前にするのも初めてだった。しかしそれらの建物は今、私の視界に映っているのはたった一つの建造物であると、そう錯覚してしまうほどに一体感があって黒いドームに焦点を合わせてみれば自然に、一風景の中に溶け込んでいた。

 さらに近づいて、あることに気が付いた。訝んで眉を顰める。

 並ぶ建物にはおよそそれらしい、出入り口が見当たらなかった。開き戸、引き戸はおろか窓の一つさえあらず。滑らかな稜線に加えて()()()()とした壁面は、さながら磨かれた墓石のようである。円蓋特有の形状も相まって、雨水をよくはじきそうだ。

 「おい、見てみろよ・・あれ」

 宏司が私に呼び掛けた。私と同じ疑問を抱いたのであろうと、その先を保管する。

 「うん。何処から入ればいいんだろう」

 「あ? ・・ああ。それもあるが違う。いっぱい建物の表面に張り付いてるだろ」

 「張り付いてる? 何処に?」

 「もうちょい近づけば麻姫にもわかるだろ」

 心なしか彼の歩みが速くなった。彼の横に並んで黒い壁面に目を凝らしてみる。

 「ん・・んん?」

 そのうち、その表面に亀裂が入った。いや切れ目、が浮かび上がってきた。あれはもしかして。

 「もしかして、あれは・・()()()・・なの?」

 話しながら歩いているうちに、だんだんとはっきりとしてきた()()は。黒を基調とした縦長の長方形で、かつ遠目ながら赤色も差しているのがわかった。それが端と端とを折り重ねられて壁面全体を覆うように貼られていた。

 「たぶんな」その時、宏司はそう言うに留めた。

 漸く私たちの左右を、屹立した建物が塞ぐ。

 近くにしてみると、それらは一棟一棟別の形をしていた。どこにでもある普通の家みたいに、直方体の上に三角や丸の屋根が載っているものから、円錐や四角錐。ただの立方体まで様々である。

 そしてその色は赤黒い。

 無数の紙が隙間なく張り付けられていた。黒色の地に燻ぶった赤色で、文字が書いてあった。難しい漢字だったので私には読むことが出来なかった。一番近い建物の一つ、その壁に触れてみる。

つるつるしていた。見た目はただの紙であったが、しっかりと壁に吸い付いているようだ。元は柔らかい髪だったはずなのに、それらは堅く、一枚一枚が結束していた。

 空間を呑み込むみたいな漆黒と鮮血のような赤は、どこかグロテスクな印象を覚える。少なくとも、気分が明るくなるような色ではない。

 いつの間にか宏司までもが暗い面持ちになっていた。もうドームは目の前だ。言わずもがな、今やそれまでも真っ黒とは言い難い。一歩踏み出すたびに赤色の主張が強くなる。

 おもむろに美佳が振り向いた。

 でも、それに気が付いて私が顔を上げた時にはまた向き直ってしまっていた。彼女はどんな表情をしていたのだろうか。それが少しだけ気になった。周囲を観察するのをやめて、正面を見やる。

 「・・?」荷車を引いていたはずの式神が忽然と消えていた。「っ・・」一瞬、意見しようとして、やめた。多少なりとも荷車の車輪の音は継続して聞こえていたわけだし、私が気が付かなかっただけなのだろう。現に人間が五人いて、誰も指摘していなかった。つまりそういうことだ。

 先頭の京華がいよいよ足を止める。彼女が肩越しにこちらを見やった。その隣に並んでいた冴恵も同じようにする。後方の三人は小走りになって、二人に追いついた。

 他とまったく違いのない、しかしその大きさからか目の前のドームには、私たちを威圧するような重厚さがあった。上の方を見上げてみると、黒い塊が私たちを呑み込んでしまいそうで思わず半歩後ずさった。気圧されるとは、こういうことなのだろう。暫く観察してみるに、反り立つ壁に穴や隙間は見咎められない。

 京華が冴恵に右手を差し出した。冴恵が応じて何かを手渡す。それに太陽の光が反射して、鋭く私の目を射抜いた。

 多分、針だ。さっきの。

 京華はそれを受け取ると、下を向いた。手元で何かしているようだったが、彼女の体が影になって私の所からでは見ることができない。ここ数時間で、彼女等が針を使ってする事には大方の想像がついたので、覗き込もうとも思わなかった。

 京華は左手を正面にあてがう。

 すると彼女の手のひらを中心にして壁面に、放射線状に赤色の線が広がった。鮮血のように真っ赤な赤だった。無彩色に近い色をした地に明瞭な純色が走る様は、まるで身体に張り巡らされた毛細血管を視認しているようだった。

 突然に壁の”おふだ”、その一枚がへこんだ。それを皮切りにして、へこみは接した他へと連鎖し始める。また京華の手を中心にしてパズルのように、壁面が内側に纏まっていく。

 十秒も待つとそれは終わって、私たちの正面に新たな路が現れる。縦長の長方形に奥の見えない漆黒が口を開けていた。私と宏司の口も同じようになっていた。冴恵が美佳に目配せをした。

 先頭の二人に率いられる形に(ずっとそうだったが)なって建物の中に入る。真っ暗だったがかろうじて、美佳の背中はわかった。「どのへんだっけ?」「いや私も・・」京華と冴恵は何かを探している。電気のスイッチかなと私は想像した。気配からして手探りで探索中のようである・

 ぽっ。暗闇の中に美佳の姿が浮かび上がった。彼女が掲げた右の指先には光を放つ球体が灯っていた。美佳の魔法だ。「俺も・・いや、やめとこ」どうやら宏司は諦めたらしい。おおかた、視界が十分でないこの空間では、性格に元素を操る自信が持てなかったのだろう。建物を燃やされてはかなわない。

 「えっと、美佳、ちゃん? もう少しこっちまで来てくれる?」

 京華は目的の物を見つけたようで、それは床から生えた台座、若しくは床に置かれた石のキューブだった。 言葉は返さずに数歩進んで、美佳は京華の手元あたりを照らす。上面には楔型が無数に刻まれていて、しかし等間隔に纏まったそれらはたぶん、文字だ。

 「あーうん。ありがとうね」言いながら彼女は石板の上に左手を翳して「今度はわたしが」割り込んだ冴恵が左手を置いた。

 キューブの表面に赤い線が走る。それと同時に身体の内側から、眩暈を誘発するような昇降感が私を襲った。咄嗟に対応できず数歩ばかりよろけて、後ろ手に尻もちをついてしまった。床は石で、できていた。ひんやりと冷たい。

 まるで重力に肩を押さえつけられたような感覚に、立ち上がることは諦める。暗闇にぼんやりと、赤の線と金色の球体だけが光る。

 一段と強い力が肩にのし架かった。

 「なんだよ、もう」宏司がぼやく。平然と立っているのは、勝手知ったる二人だけだった。

 一番に美佳が立ち上がり右腕を掲げる。照らされたのは円筒状の空間、部屋(?)だった。美佳が立っているのが部屋の中央だとは云えこの暗闇の中、小さな光源だけで部屋の大きさが測れてしまうくらいには、狭い。

 私の真正面の壁が凹み、向こうへと巻き込まれていく。そして迫りだすような疑似アーチが現れた。一層濃さの増す漆黒は、その奥へと通路が続いていることを示していた。

 「うん」京華の満足したみたいな声。冴恵がキューブから手を離した。少しふらついている。

 京華が通路へ足を踏み入れると、途端に明るくなった。闇を掻き消す光に目を眇め、手で庇を作る。電球か何かが備え付けられているのだろう。眩しくて、とても光源を探す気にはなれないが。

 顔の白い冴恵に促されて、京華の後を追う。無機質な壁に囲まれた通路は、そう奥まで続いてはいなかった。すぐに行き止まりに突きあたった。怪訝に思って、前を行く彼女の体の横から首を出す。正面の壁にだけ、模様が彫られていた。

 複雑な模様とは違う、丸い、円。それを二つに分かつ曲線のカーブに、上下に二つの点。見ようによっては、勾玉が上下逆向きで二つ合わさった形だ。 

 「太極模様だね」美佳は如何にも知っているふうな言い方だ。「知ってんのか?」「まあね」

 一瞬後ろを確認してまた、前を向くとその”太極模様”が赤に色づいていた。京華が手を左右に払う。

 円を分かつ曲線のカーブが比喩でなく、二つに割れる。煙が出たりとか、”ゴゴゴ”なんて大仰な音が鳴ったりするわけでもなく。

 先に現れたのは薄暗い空間だった。暗がりから明るみへと進むのは言いようのない安心感を伴うのに、その逆は形容のし難い不安を引き連れることになる。だから踏み出すのに少し躊躇した。そんな私を尻目に、京華が空へ言葉を放つ。

 「連れてきたよ、(くだん)の三人」

 そう言って、立ち止まる。自然に私も横に並んだ。二歩ほど引いて。

 「ああ、よう来てくれたな。京華ちゃんと、それに浦城の娘さんも」暗闇から嗄れた声がした。

 「京華”ちゃん”はやめてください。私もう二十六です」

 京華は頬を引きつらせて照れ笑いした。彼女の恥ずかしさを吹き飛ばす。「はっふぁっは」高く、震えの掛かった声が響く。

 「二十なんて若い、若い。ひい、ふう、み。よ? ・・・わしの三分の一も生きとらんな」

 「ご老体からすれば、村人の大半が若者ですよ」

 彼女は肩を竦めてみせるが、「ふぇっふぇっ」声の主は満更でもなさそうだ。笑い声はだんだんと近づいてきて、やがてその姿が露わになる。

 甚兵衛の上からでも分かる細い体躯に、曲がった細い木の杖を突いている。握った手には茶色のシミがあって、爪は黒ずんでいた。声の調子からして、相当な高齢なのだろう。

 美佳が大きく腕を振った。一拍おいて、()()()。暗がりが白に侵食される。

 甚兵衛の色は黒だった。木の杖には節が剥き出しになっていた。目線の高さは私と同じくらい。でもたぶん元は背が高く、はつらつとしていたのだろう。腰が曲がって前のめりの姿勢になっているものの、それでもその顔つきは、眉が上がり眦は端まで鋭く、色の濃い肌にもまだ張りがあった。

 「そこのが、噂の」

 「ええ」これは京華だ。

 「ほん」

 老人がたちをまじまじと観察する。その視線に居心地が悪くなって身をくよらせた。 

 「ふぇっふぇ」

 これ見よがしに二度、杖を打ち鳴らしてから、彼は踵を返した。ついてこい、と曲がった背中が当たっていた。京華がため息を一つして、後に続く。

 もう少し進むと今度は形の違うキューブ、いやそこら中が肉抜きのされた、表面に意匠を凝らした石板があって

 「ほら、はよ、そこの円に入れ」

 言われるがままに、私等は彼の云う通りにする。

 「私が」冴恵が前に出た。まだ顔が白い。

 「ありがとう、冴恵ちゃん。でも大丈夫」そう言って、老人は胸元から細長い、棒状の物を取り出した。中で液体が揺れている。

 ゆっくりと時間をかけて(杖をついているのだから仕方が無い)彼は穴あきのキューブへと歩み寄った。()()()()()、と軽い音を立てて試験管の栓を抜くと中身を傾ける。

 どろりとした液体が石板に落ちて、表面に広がる。私は足に力を加えて身構えた。

 予想に反して稼働したのは正面の壁だった。美佳の云う、太極模様が走ったかと思うや、間髪入れずに二つに割れる。

 同時に蒼白い光が差した。その原因は直ぐにわかった。

 新たに現れた部屋の中に、ぼんやりと光を放つ物体がある。しかし、その輝きはそれほど強くはない。けれども目を凝らしてもしかし、一面、黒。薄い暗闇の中に優しい、自然な輝きが位置する様はなんでか、人を引き付けて離さない。媚薬のような魅力があった。

 「おっ? 冴恵ちゃん?」

 京華を追い越して一番乗りは私だった。こころなしか、空気が淀んでいる。どうやら部屋はそんなに広くはなさそうだ。やはり、中央に位置するのは蒼白い光。

 石の水盆だ。六角形の器に水が張っていて、その水面は凪いでおり、光を放っている。

 私は一歩、二歩とまるで操られるみたいに無意識に、両の足を動かす。冴恵の心配するような、静止の声が聞こえた気がするが、もはや私の身体は私のものとは違っていた。

 とうとう水盆の前に立つ。

 覗き込む格好になっているはずなのに、水面に私の姿は映らない。静かに揺らぎ、時々波紋を起こすだけのその水面には”蒼”。そして”白”が綯い交ぜになって、幾重にも重なり合った水それぞれが反射し合った黒い影が映るだけだった。

 首を傾げる。何だろう、これ。水面に指先を伸ばしかけた。

 が、止めた。不思議と見つめているうち、気安く触れていいものではないと。そんな思いに駆られたのだ。 しかし石の六角形にはこれといって目立つ意匠は凝らされていない。むしろそれが意匠なのかもしれなかった。物足りなさを感じさせる無駄を排除した佇まいはどこか、神聖的(ここで侘び寂びは違うと思う)若しくは崇高な。

 意味深い物体であることは分かった。

 「何も見えないでしょう?」

 「はい」返事をしてから気がついた。「え?」私の知らない声だ。

 「んー? それに触っちゃあだめだよ」

 水盆を指し示して暗闇の奥から現れたのは白衣を着た女性。たぶん栗色に、染めた髪に眼鏡をかけていた。白衣のポケットに手を突っ込んだ立ち姿は学者っぽい、知的な印象を与えた。

 「聞いてはいたけどほんとに子供だったんだ。・・やっるう」彼女はさも興味がありそうに私と、後方の美佳と宏司を眺めた。私はこそばゆくなって首を竦める。

 「その軽い言い方はどうにかしろ」「自分の立場を考えてくれ」

 竦めたばかりの首はすぐに正面に向けことになった。

 「細かいなぁ裕巳は。今更どうこうなるわけでもないじゃん」

 「・・はあ。まあいい」

 裕巳と呼ばれた男性は片腕にパイプの椅子を抱えていた。その数は三つ。

 「ちょっといいかい」「あ、はい」

 私が一歩逸れるとありがとう、一声かけて水盆の前に椅子を並べた。彼に促されて、私たちはそれに腰掛けた。美佳が真ん中に、私と宏司が両端に座った。

 立っている時にはさほど意識しなかったのに、足の筋肉が弛緩した途端、自分の鼓動の速さを知った。左胸が脈打って、それは喉元にまで伝わるほどだ。横を窺うとさすがの美佳も緊張しているようだった。

 「裕巳君」また。今度はしん、と透き通った男性の声だった。「はい」「私たちは行くから。後のことは任せたぞ」

 「はい」水盆の向こう側に回りこんで、彼は答えた。柳に風、私の横で爪を弄っている女性と話すのとは明らかに語調が違った。

 疲れたみたいなため息と、衣擦れの音。そしてぱたぱたと、靴音が重なった。先の声の主もその中にいるのだろう。

 少し間をおいて、放射する青白い光。手で傘をして、目を眇める。

 --沈黙。

 裕巳が息を吐いた。察するに、あの声の主は裕巳の上司か、それとも、何かなのだろう。こちらを見やった彼は眦は下げていた。彼と視線を合わせた私も少し落ち着いた。「さて」彼は両掌を、合わせて打つ。ぱん、と乾いた音が響いた。一応、私は背筋を伸ばした。それを見た彼は頬を綻ばせて、口を開く。

 「そんなに緊張しないで。脅したり、まして尋問するわけでもないんだからさ。まずは・・そうだな、自己紹介から始めようか」彼は前のめりになって水盆に手を付いた。

 「僕は磯橋裕巳。19995年生まれの二十六歳で・・・。趣味は釣り・・好きな食べ物は大根?」私たちは肩透かしをくらったみたいに、拍子抜けする。ああ、彼は照れて頭を掻いた。

 「ああいや、我ながらへたくそだな。こういうことは」

 どうやら悪い人ではなさそうだった。宏司が笑ったのがわかった。

 「すまないけれど、宏司君? でいいかな。君からお願いできるかい」

 冴恵は腰掛ける私の後ろに、老人と紀香は向こう側に立った。京華の姿は消えていた。でも暗い部屋のどこかにはいるのだろう。そんなふうに考えを巡らせた。

 まず宏司が立ち上がって順に各々の名前、そして宏司はユーモアを交えつつ、美佳は事務的に。私はそのどちらでもなく、年齢相応の挨拶を三通りした。言葉の切れ目毎に、裕巳は相槌を打ちながら聞いていた。

 「---宏司とは昔からの付き合いで、いわゆる幼馴染です」「・・えっと、これで終わりです」私は座った。彼は今一度、強く頷いた。

 「左から、麻姫ちゃん、美佳ちゃん、宏司君だね。よろしく。--あらためて、僕の名前は磯橋裕巳。陰陽大属(おんようたいぞく)から諸々君たちを、そうだな、助けるように云われている。隣のは磯橋紀香。()()()()()()いるけれども、こと式神に関しては第一人者だ。この呪核の管理者でもあり、まあ悪いヤツではない」

 紀香がひらひらと手を振ってみせた。

 「二人は兄妹なんですか?」宏司が訊くと、彼は首を横に振った。「従妹だ」

 「”助ける”とは、具体的にどういうことでしょうか」慇懃に美佳が言った。彼は虚を突かれたみたく、顎に手をあてた。

 「少し語弊があったかもしれないね。そんな堅苦しく言ったんじゃないんだ。単に、君たちが村での生活に慣れるまで。不自由のないように僕が君たちに色々と協力するってことさ。まあ村の案内は既に冴恵がしてくれているみたいだし、彼女が適任かもしれないけどね」

 「冴恵は、いや。彼女は陰陽頭からの使いだと云っていました。磯橋さんも」

 「裕巳でいいよ」

 「--裕巳さん。あなたの使わされた陰陽大属と陰陽頭はまた違うのですか?」

 「うん、美佳ちゃんの云う通り。違うよ。あんまり大きな声では言えないけれど、(彼は声を低く、小さくした)陰陽大属よりも陰陽頭のが偉いんだよ」

 口に手で傘をして、内緒話をするみたいな彼に私たちは一瞬放心した。それを察して紀香が言う。

 「裕巳は陰陽小属、つまりは大属の部下なんだよ。いつも偉い人達の雑用を押し付けられているね」

 私たちは得心して、裕巳はばつがわるそうだった。

 「()()()なのか?」こんなに無神経なのは宏司しかいない。

 「ちょっと」

 「なんだよ」

  私は彼を窘める。裕巳は紀香の方を睨んでいたが、宏司の発言には気にした様子はなく、柔和にほほ笑んだ。

 「雑用はあまりにも言い方が悪いけれど。せめて雑務と受け取ってほしいな。・・

それはいいやうん、自己紹介はこれくらいにして。そろそろ本題に入ろうか。他でもない、君たちのこれからについてをね」

 私は姿勢を正す。全身の筋肉が硬直する感じがした。

 これから話すのは、先の会議で話し合われ決定したことだ。そう彼は前置きした。

 「目下の問題は貴重な”式”が一体使い物にならなくなってしまったことだ。どうやら損傷の具合から、修復することは不可能らしい。自分等が一番によくわかっているだろうし責任の所在については、今一度確認の必要はないだろう?」

 「・・・。は・・い」

 縮こまって応える。私も当事者の一人であることに変わりはなかった。

 「いまや賤の人間が式を、それも表面が焦げて灰になってしまうほどの丸焼きにしたことは、この小さな村では知り渡っていることだろう。先の会議では厳しい意見も多くて、というか大半だったけれども、中でも詳しい事情を知ったる重役の表情は硬かったよ」

 「みーんな、しかめっ面だったもんねぇ。裕巳も含めて」

 「ともかく、そういうことだ。・・けれどもかわた群の、引いては交易・交流ある夙村の子供とあっては、あまり無下にすることも憚られる。そのへんを考慮した結果、概ね君等の処遇については”保留”ということになった」

 「ええ?」なんていうか、拍子抜けだ。美佳も眉根を上げていた。

 まだ続きがあるらしい。

 「保留、若しくは”後回し”だ。白状すると、意見が割れに割れて決まらなかったんだな」裕巳は肩を竦めてみせる。彼の言葉はまだありそうだったが、その前に美佳の椅子が、ぎいと音をたてた。

 「つまり僕たちはもう少しの間この村に居させてもらえる、との理解であっていますか? 」紀香がひゅうと口笛を吹いた「さすが稗田の娘」

 「ああ」裕巳は頷いて、足を組んだ。私を一瞥して「だからそんなに緊張しなくてもいいよ。勿論君たちは魔法が使えるらしいから、宿泊費代わりに色々手伝って貰ったりはするかもしれないけど。ちょうど稲刈りの時期で人手不足なんだ」

 「それはもう、式神の手を借りても足りないくらいに」紀香が額に手を充て首を振った。

 「な、なるほど・・」私は靴の中で指を折りたたんだり、伸ばしたりする。

 「後回しっていうけどよ、具体的には何時くらいに俺たちは村に帰れるんだ? 」

 「申し訳ないけど、僕には答えられないかな。間の悪いことに村の神事が近くって、そちらに掛かり切りなんだ」

 「神事? 」これは美佳だ。

 「”丑の刻参り”と呼ばれるものさ」

 丑の刻参りと云えば死に装束で頭に蝋燭を巻き付けて、五寸釘を藁人形に打ち付ける呪詛である。それが村をあげて行う神事であるとはにわかには信じがたい。

 三人で顔を見合わせていると裕巳が笑った。

 「多分、想像しているのとは違うよ。神事の名称自体は形式的なもので、目的は式に魂を込めることだから」

 「魂を込める? 」宏司も首を傾げる。

 「つまりその実態は式神を創る行事なのだ、と」

 裕巳はゆっくりとまばたきをした。さすがに美佳は理解が早い。彼女は身を乗り出した。

 「他にも聞きたいことが---」

 「おっと。その気持ちは分かるけれど、今日のところは止してくれ。君たちも昨日から・・もう一昨日か? 動き詰めで辛いだろう。ひとまずは京華の家に匿ってもらって、疲れを癒しなさい」

 裕巳が年上らしく美佳を諭した。郷村に来てから新しい事の連続で、また光陰矢の如しとはよく云ったものである。しかし彼の一言で、どっと体が重くなった。

 美佳の表情を見て裕巳が冴恵を見た。

 「仕方が無いなぁ。ひとつだけ質問に答えてあげる。そんな顔されたらね」と紀香。首だけ回すと、おどおどして裕巳に目配せする冴恵と珍しく拗ねた表情をしていた美佳の破顔を拝むことが出来た。

 美佳はしばし黙考して、目の前の水盆に手を置く。その中身は八割ほど満たされていて、しかし只の水にしては濁りが目立つ。

 「---これ」彼女は水盆の淵を指でなぞる。「如何にも意味ありげな形を成しているけれど」

 美佳が指を跳ね上げるようにすると、その指先には石灰みたいな粉が付着していた。

 裕巳は首肯して冴恵に合図をする。

 冴恵は水盆の傍に立ち、私たち三人に右の手のひらを開いてみせた。 

 「うっ」私は呻く。宏司が顔を顰め、美佳は無表情だ。

 指の先まできれいに整った冴恵の右手は鮮血に染まっていた。手のひらを中心にして、その細い指先まで針で刺したみたいな傷が紅く彼女の皮膚を毛羽立てている。こうしているうちにも紅色の線が一本、彼女の手首へとつたう。

 ちゃぷ、と冴恵は右手を水盆に沈めた。水面に黒色の線が描かれる。

 「痛くないのか? 」しかめっ面の宏司が至極当然の疑問を投げかけた。

 「少し、()()ますね」彼女は幾度か盆の底を掻くような仕草で手を濯ぐ。その都度水が目に見えて濁る。

 水盆に突っ込んだ冴恵の手が見えなくなったくらいで、彼女は右手を盆の中からあげた。どこから取り出したのか裕巳が冴恵にもこもことした布を渡すと、それで手を拭いた。

 冴恵は私たちに少し近づいて、右の手のひらを見せる。驚くべきことに血が止まっていた。いや、所々に血が滲んでいるから完全に止まってはいない。それでも血が指をつたうことはなかった。

 「生理食塩水ですか」

 「よく知ってるね」

 「普通の水だったら、すぐに血が滲んでしまいますから。それに、まるで傷口に幕を張ったかのような状態になっています」淡々と美佳が述べた。

 私と宏司には彼女が何を云っているのかまるで理解を得なかったが、裕巳の反応からそれが正しいことが窺い知れた。裕巳が水盆の向こう側でごそごそとやる。

 きゅぽん。濡れた音を立てて次の瞬間水盆の水が無くなっていく。数秒間で盆の底が露わになると、それは案外に深さがあって底に上げ下げして閉じるタイプの栓があることがわかった。

 裕巳が栓を閉じると、どこからか紀香がバケツを持ってきて、その中身を盆へと流し入れる。入れ替わりに京華が冴恵と同じことを繰り返した。

 「---こういうこと、かな」京華が手を拭いているのを横目に裕巳が言う。

 「つまり手洗い場ってことか? 」

 「そう。美佳ちゃんは”意味ありげな”って言ったけど」彼は雑に水盆を叩いた「これはデザインだ」

 「「なんだぁ」」これは私と宏司である。

 美佳は呆れたみたいなため息をついた。

 







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