人形の影3
執筆開始から半年ほどが経ちましたが、語彙力と文章力の無さに打ちひしがれる毎日です。SFを読んだほうがいいと思いつつ、ミステリを読んでしまうのをやめられない・・。
「よろしいですね、って--」
突然の来訪者に(と云うとまるで自分の家みたいだが)すっかり仰天させられてしまった私は、すぐに二の句を次ぐことができなかった。
瞼の隙間、まだ橙色が滲む視界がはれるにつれて見えてきた、格子棒を隔ててこちらを見据えているようにみえる小さな影とその後ろの大きな影。併せて二つ。声の感じからしておそらく、小さいほうは少女なのだろう--その後ろに立っているのは式神だろうか。考えを巡らてみる。
「それであってるけど。君とうしろのはなに?」
いち早く美佳が口を開いた。私や宏司を尻目にただ一人動じずに、それでいて言外には、場の空気を縛る含みを持たせていた。彼女に気圧されたように、正体の知れない(たぶんだけども)少女は口ごもった。
「私は---。ですから、あなた方の世話役のようなものです。うしろの・・」
「それはもう聞いたよ」
わざと相手の言葉に被せるようにして美佳は云う。
「えっと・・」
いつの間にか会話の主導権は美佳が握っていた。落ち着いて言葉を紡ぐ彼女を隣にすると、自分がひどく間抜けに思えてくる。気づかれないくらい小さく、唇を噛んだ。
対して少女はといえば、まったく萎縮してしまって何か言おうとしてはやめ、また口を開いたかと思えば閉る。こちらの方を上目遣いに窺いながら何度も繰り返した。これではまるで、私たちが彼女を監禁したうえ尋問してるふうに思えた。
もっとも、現実に置かれているのとは真逆のこの状況は、美佳が会話のうち先手を取ることで意図的に作り出したもので---
「おーい?」
「ぁ・・の・・」
--さしづめ詭弁の話術、とでも云おうか。あまりに強引すぎて、もはや詭弁でもなんでもないけれども。
美佳は追い打ちをかけるように、わざとらしくため息をついた。
少女は宏司の呼びかけに応えようとはしたものの、結局おどおどするばかりで、再び両者の(二人?と三人だが)間に静寂が落ちる。そろそろ少女がいたたまれなくなってきてあさっての方向に目をそらすと、口を曲げて指先で頬を掻く宏司と目が合った。彼が上瞼をぴくりとあげて
(なあ、美佳が・・ちょっと。やりすぎじゃないか)
(わかってる、これじゃ女の子が、かわいそうよ)
(だよなあ・・)
(どうにかしてあげたいけど・・)
私自身、美佳の様子がおかしいように感じているのもあって、気持ちは山々ではあるが行動するにためらってしまう。また得体のしれないものに憑りつかれいるのでは・・
私と宏司は美佳の話術を知っていて、云ってしまえばさっき私との会話もそれであって、よけい少女が不憫に思えた。
そのうち後ろの式神と思われる影が一歩前に踏み出し、格子棒に手をかけて
「グルル・・」
表情のない顔でこちらを睨みつけながら、呻った。その潰れた声は河原で聞いたものとよく似ていて、ひやりとさせられながらも、それが式神であったことを再確認する。
「大丈夫・・大丈夫だから・・」
少女はなだめるように式神の腕を掴んで云った。その意を汲んだみたいに、まるで人間の彼女の云ったことを理解しているみたいに、式神はもう一度小さく呻ると格子棒から手を放して数歩か後ずさりした。
入れ替わり、少女は「ふう、」息を吐いてきっ、と私たちを見据えた。
「三度目になりますが、私は陰陽助よりあなた方三人の世話を任されました、浦城冴恵といいます。冴恵とお呼びください」
話しながら目礼を一つ。
「あなた方三人には今から牢の外へ出てもらいます。何をするにしても一度説明せねばなりませんので。・・お願い」
少女はどこからか、鍵を取り出して、そっと式神に渡した。式神は両手で包むようにしてそれを受け取ると、いくぶんか前に施錠されたばかりの南京錠にあてがった。器用なものですぐに、がちゃり。何層かの音と共に錆びた掛け金から、その金色とは裏腹に黒い靄がかった鎖が引き抜かれた。
何とはなしに、細かい作業はできないものだとそう思っていたので、巧いものだなあとひとりごこちる。ぎい、と檻が内側に開かれた。式神が蝶番の辺りを掴んで閉じてしまわないように押さえている。
「くれぐれも逃げようなどとは、考えないでくださいね」
少女は・・冴恵は念を押してから、「ひとりずつ、順番に出てきてください」扉の近くにいた私に向かって言った。立ち上がろうと手をついて、自分が腰を下ろしていたことを知る。・・そういえば美佳に気圧されて尻もちをついたような・・。
--いけない、しゃきっとしなければ。思考の回路に詰まってしまった栓を取り除こうと二、三回、頭を左右に振った。それを見て少女が眉を顰める。
続いて口を開こうとする前に、先の私の動きが自分の命令にかぶりをふっているのだと、そう誤解されたことに気が付いて急ぎ立ち上がって扉の外へと飛び出す。
高さのない、四角く開いた枠を腰を低く滑り込むようにしてくぐった私は勢いあまって、少女とぶつかりそうになってしまう。「「ひゃっ」」小さく叫んだ声が重なって、私はよろけて膝に手をついた。「逃げるに逃げられねえよ」ふてくされたように今さらつぶやいた宏司の声が声が、檻の、牢の中から聞こえた。
「何ともありませんか」
勢いよく飛び出したこちらが悪いのにも関わらず、私の腰に触れるか触れないかくらい、心なし傍の空気を支えるようにしながら冴恵は言った。片手を顔の高さまで上げ、手のひらをひらひらとさせて、それに応じた。
一言二言、文句を垂れながら宏司が、続いて澄ました顔の美佳が牢の外へと出てきた。それを確認しても、式神は扉を閉めることなく押さえたままで、少女の次の指示を待っているようだった。
「じゃあ・・」
少女が言外についてこいと示して踵を返した。小さな後姿を前に、何とはなしに式神のほうを窺ってみる。暗さにも慣れてきた視界には微かに、その横顔。三日月を割ったみたいな口と人間が持っているのと同じ目が付いているように見えた。
---河原で見た式神に目はあったっけ?
せまい。
天井や地面から無数に生える岩垂氷の間を縫うようにして無理やりに、不揃いな幅の木板を繋ぎ合わせてある通路は四人と一人(?)ではとても横に並ぶことなんてできなくて、場所によっては二人以上横に並んでは歩くことができないほどだった。先頭に冴恵、一番後ろには式神が私たちを挟むような形で、蝋燭のひとつも置いていない、転落防止と思われる鎖をたよりに造られた路を進む。
一歩歩くたびにざりざりと音がした。どうやら牢の中はあれでもまだ整備されていたようで、足元には気を付けないと滑ってしまいそうな細かい砂と割れた岩のかけらが、上からは天井から伸びた岩垂氷が垂れ下がっていた。そっと耳を澄ましてみると心なしか水のせせらぎが聞こえてきて、もし夜目が利いたのならばそれはたいそう幻想的なものだろう。
こういうの鍾乳洞って言うのかな---?。
本で見た観光地みたくライトアップとまではいかなくとも、せめてもう少し明かりが欲しい。冴恵のすぐ後ろを歩きながら私は嘆息した。鎖を掴んだ手が緩む。
足を踏み外しそうになったり後ろを歩く宏司に押されたりしながら、右へ左へと酩酊した父みたいに方向が定まらず、曲がりくねった路をしばらく進んだ。
ところどころ木の板が抜けていて岩の隙間に足をかけて踏ん張らなければならない場所や、ちろちろと流れる小川が行く先を阻んでいて多少濡れてしまうのは仕方が無いと水の上を歩いたりしてやっと、薄闇の奥に差し込むわずかばかりの光線を視界に捉えたときには三人とも疲労困憊だった。膝に手をつく私たちをみて、息の一つも切らしていない冴恵は、
「せんの方々は体力があまり・・ないのですね?」
不思議そうに言った。
--あんたの体力ががありあまっとるだけだ---。そう反射的にぼやきたくなるのをこらえ今一度周りを見渡すと、光に照らされて茅色に輝く岩垂氷、先の尖った円錐型が地面からは反り立つようにびっしりと、壁や天井からは爛れたかのようにどろりと辺り一面を埋め尽くしていた。
ぽたり、ぽたりと常にどこかしらの垂氷の先から水滴がしたたって、落ちた雫が集まり、小川となっていた。太い線が分岐して細く分かれ、それがまた分岐する。
「ひゃっ」
流れる水に冷やされたそよ風が、スカートの下から股の間を撫でてきて太ももを内股に閉める。意識していなかったけれど、外と比べてだいぶ気温が低いようだ。
違うにしても物珍しさからしゃがんだり、その場で背伸びしてみたりする。後ろの宏司も同じようにしているのが気配で分かった。
「鍾乳洞を歩くのは初めてでしたか」
冴恵が彼女もまた、薄闇を眺めながら云った。私は首を縦に振ることでそれに応じる。背中から宏司がぼやいた。
「来るときもそうだったが、そこら中水浸しで歩きにくいったらないぜ。滑りそうになって踏ん張るたびに傷が・・いてて・・」
話しているうちに再び体の痛みがぶり返してきたらしく、宏司は呻いた。どうやら、まだ本調子とはいかないらしい。それに対して私はこれだけ動いても負傷した箇所が疼くことさえなくて、以降はいつも通りにしていれば問題ないだろう。
「なんでこんなになってんだよ・・」宏司が腰を折り、顔を顰めて云う。その言葉は昨日からの事すべてに向けられているのだろう。
「それはですね・・あれを見てください」
自分が訊かれていると勘違いした冴恵が天井と一体化した石柱のひとつを指さした。云われた通りに彼女の指さす先を凝視する。
光の加減で部分によっては焦げ茶や朽ち葉色にも様相を変えるその表面はふんわりと、何層にも重なり盛り上がっていて、例えばまっさらな壁に泡立てた石鹸を塗ったくったならこんな風になるだろう。
積乱雲のようにもみえるその表面を微かに走る、細い筋。その先についた楕円ともいえる、球。
光を反射して虹色に光るその球は今にも落ちてしまいそうな水滴で、繋がる細い筋はそれの通った跡であった。
「周りに水滴がついているでしょう。あれは雨水を地面が吸って地下水となり、つらら石や石柱をつたって少しづつ流れ出しています。少しづつとは云ってもなにせ数が多いので、涓涓塞がざればと、辺り一面水浸しなわけです」
「雨水が? でもおもて、つまりその、鍾乳洞の外で降った雨だろ? そんなそこら中から漏れ出してくるもんかよ」
「いえ。漏れ出すというのは少し違います。正確には雨水が侵食していますので」
「侵食?」
「はい」
冴恵は頷いて応える。
「見渡す限り、行く先を覆う石筍や流華石。棚田みたいな畦石、真珠と見間違うケイブパール。上を向かずとも眼上に生える、やはりこれが一番の特徴でしょうが、円錐型のつらら石。いったい、どれだけの時を経ても永遠に完成することのない、悠久の創る自然の潮流」
彼女はおもむろにしゃがみ込むと、すぐそばに手をついて私に問いかける。
「これ、なに岩だと思いますか?」
「なに岩?」
「例えば花崗岩だとか、石灰岩だとか」
「ああ、なるほど。・・うーん」
花崗岩は混ぜ物をしたコンクリートみたいな見た目だった覚えがあるし、石灰岩は校庭のラインを引くのに使うあれだろう。ほかに考え付くのば安山岩や閃緑岩、玄武岩くらいか。でもこちらは、知っているのは名前だけで想像さえつかない。
「鍾乳岩、とか?」 あってずっぽうで言ってみる。「おいおい」と、鼻で笑う宏司。
「そんなん、あるのかよ。聞いたことがねえぜ」
「うるさい。そんなこといって、あんたはわかるの?」
「さあ、どうだろうな?石灰岩か安山岩か、はたまた”鍾乳岩”かもな」
「っこの・・」煽られて頭に血が上ってきた。元凶を睨み据え、
「あのさ、さっ「石灰岩だよ」もいっt・・」
--たがしかし、口を開いたのに合わせて被せられる声。
「石灰岩だよ」美佳がもう一度言うと冴恵が答えた。
「よくご存じですね」
「「えっ」」私と宏司は仰天した。
「石灰岩ってあの、ライン引きの粉だろ? このくらいの小さな塊じゃないのか?」宏司は両手でまるを形作ってみせた。
「普段使う石灰は、例えばここにある石灰岩を粉状に砕いたものだから。その塊は、ただの砕き残し」
「なるほど・・ふうん」
話していて気になったのか、宏司が傍らにある岩に手を伸ばすと鋭く、冴恵が警告を発する。
「--あまりむやみに触らないで。・・触らないほうがいいと思います」
「?。冴恵は手をついてるじゃんか。だったらべつに--」
「素手で触るとかぶれるよ」
「っ」
宏司は再び伸ばそうとしていた手を、目にもとまらぬ速度で引っ込めた。「私はかぶれにくい体質なので・・」自分の手を払いながら冴恵が言った。
「かぶれるって、岩だろこれ」宏司は指さす。
「まあ、みてくれはね。でも普通の岩とは少し違うんだ」
「違う?」
「うん。一概に岩と云っても数え切らないくらいの種類があるものだから、僕もひとつひとつの組成なんて覚えていないけどね。一般的な岩、それこそ、その辺の道端に落ちている石だって十個、二十個の成分が合わさってできている。でもね、」
美佳は饒舌に続ける。
「石灰岩はサンゴやフズリナ、ストロマトライト。そのほか炭酸カルシウムの殻をもつ生物の死骸が堆積してできたもので、水から直接に沈殿することもあるんだけどつまりその、組成の半分以上を炭酸カルシウムが構成しているんだ。」
「なるほど」「炭酸カルシウムが」聞いたことぐらいはある。
「そう。後心学校で習ったろ?」
突然、難しい話になるものだから面食らったが、言われてみれば。美佳と俊が話しているのを聞いた記憶がなくもない。確か実験で合成することが容易であるとか、塩酸と化学反応を起こすのだとか。
どのみちその程度しか覚えていないので、てきとうに相槌をうっておく。
「あれ、あれだよね。簡単に作れて、かつ塩酸? に溶けるっていう」
「それはだいぶ、ざっくりしているね・・でも水酸化カルシウムの水溶液に、二酸化炭素を吹き込むだけで合成することができるから、簡単に作れると言えばそうかな?」
美佳は苦笑した。
「--と、それは置いておくとして塩酸と化学反応を起こす、っていうのは足りてないかな。説明が。正しくは、酸性の溶液に溶解する性質。かな」
「習ったけか?そんなの」
大人びた目つきを、空に流す彼女とは対照的に、すっときょんな調子の宏司。別におどけているわけではなかった。
確認するまでもなく”酸性”だとか”溶解”だとか、私には初めて聞く単語ばかり。それでもいちおうは、記憶の軌跡を辿ってみようとして暫く・・・
私は首を傾げる。まるで点にかすりもしない。
「ううん。宏司が云うみたいに後心学校じゃやってないわ、それ。たぶん美佳の記憶違いよ。だって、炭酸カルシ・・うむ?とか塩酸のこと。美佳と俊がいつかに、二人で喋っているのを聞いて私も知ったけだから。習ってはいない」
「・・ああ、うんそうだ、そうだった。よく覚えてるね」美佳は納得して手を鳴らした。
「たまたまね」
言ってから自慢することでないと気付いた。
「ふうん? ともあれ習った、ってのは僕の勘違いだったみたいだね。二人にもわかるように説明するから聞いてよ、冴恵さんもいっしょに。予習のつもりでさ」
「うげえ」
宏司が呻いて、心底嫌そうに口を曲げる。言わずもがな、私も。
ふと、すっかり美佳に取って代わられてしまった冴恵、幼い少女にはたして美佳の話が理解できているのかどうか気になって眼の動きだけで窺う。
あ、これは分かっていない。ぽかんと、口を半開きでとりあえず耳は傾けているといった体の冴恵。この人は何を、わけの分からないことを云っているのだろう--。半分諦めたような当惑が、ひしひしと伝わってきた。
岩の種類を突然に問いかけてきた手前、冴恵はそういうことに詳しいのかと思ったが様子から察するにどうやらそうでもないらしい。
当然、彼女を馬鹿にしているわけではない。はきはきとした喋り方や不快さを感じさせない言葉選び。その調子。聡明な少女であることは疑いようがないだろう。
呆然と話を聞き流す三人。気にせず美佳は続けた。
「酸性の溶液に溶ける、酸性っていうのは、青色リトマス試験紙を赤色に変えて化学式はH⁺を基本としていて・・」「ややこしくなるね。やめとこうか」
「すでに十分ややこしいから。好きにしてくれ」
宏司が半ばやけくそに言った。
「ん、やめとく。実際は僕も人に教えられるほどに詳しくはないし。・・話を戻して整理すると、ここにある岩のほとんどは石灰岩。そしてその石灰岩は酸性の溶液に溶解する。これはわかった?」
「まあ」
「なんとなくは」
私と宏司は生返事を返し、冴恵も首を縦に振り了解の意を示す。
美佳は小さく息を吸うと一息で、続きを話し出した。
「結論から言ってしまうと冴鍾乳洞は雨水が、地中の石灰岩を気が遠くなるほどに少しづつ侵食して千、二千年。かけてやっとここまで立派なものが生成される、果てしない時を経た破壊と創造の産物なんだ」
美佳は目の前に広がる黒や茶、に手を翳して言った。破壊と云うが--。私は目を見開いた。
「雨水ってほらあれ--」
私はしたたり落ちる水滴と路を指さす。それは静かに、しかし反響する音は甲高く澄んでいる。
およそ岩を、少なくとも”破壊”との言葉は似つかわしくないように思えた。
「ぽたぽた落ちてるだけじゃない。涓滴、なんて言葉があるけれど、あんなちょびっとでこんなに広い洞窟ができるの?」
「想像がつかないよな」
光源が微かな太陽の光に限られているとはいえ四十五度首をひねるだけで開く、今にも私たちを呑み込まんとする漆黒。その先を幾ばくかの黒が塗り固めているのかを測り知ることはできなかった。
疑念と困惑が入り混じった表情で、立ちすくむ私と宏司。美佳は、あきれたようなため息をついた。
「あれは地下水が岩の隙間から流れ出した、つまりは雨漏りみたいなもの。冴恵の話を聞いていなかったのかい? 彼女は雨水が侵食したとも云っていたはずだよ」
だから今驚くことでもないだろう。彼女は云った。
いや、その冴恵は私たちと同じ顔をしているんだけど。
「こう想像して。ブロックアイスの上に熱湯が垂れたときのような」
「はあ、そんなねぇ」
氷の上に熱湯が云々、限定された状況は分からないので想像する。
冷たい氷塊の上に熱湯が・・熱せられた水との温度差で氷の表面が沈んでいくみたいに溶かされて・・跡には円形のクレータ、窪地が・・
私は手を打った。
「わかった。この場所は内側をくり抜いた、氷の中なのね」
「そういうこと」
美佳もぱちん、と指を鳴らす。「どういうことだ?」怪訝そうに宏司は眉をひそめる。
なんだ、宏司はまだわかっていないのか。私は喜々として口を開く。
「だから氷が、ブロックアイスがこの岩たち。石灰岩で、熱湯は雨水なのよ」
「・・・いやぁ」
「あの、よくわからないんですが・・」
今のでは伝わらなかったらしい。どうしたものか。私は考えあぐねる。
「うーん・・。あのね、その、うん」
「ヒント。雨水は酸性」
美佳が二人に云った。
宏司は腕を組み、冴恵は頬に手をやる。少しして同時に、「あっ」と叫んだ。
「そうだったんですね」
いっぱいに顔を綻ばせる冴恵。うやうやしい態度とは一転、年相応の少女が一瞬覗いた。
「つまり、この場所は氷の中なんだな!」
--そういったはずだが。自分で気づいたみたいに言う彼を半眼で睨みつける。
「まとめると」と美佳が言う。
「はるか昔、この場所は石灰岩の地層であって、今に至るまでどれほどの雨が降ったのか・・。想像もつかないし、それこそ河原の石ころの角が取れてしまうくらいの時を要したのかもしれないけれどそれでも。降り注ぐ雫は堅い岩石を溶かして、これほどまでに風光明媚なものを創り上げた」
美佳は大げさに鎖の外へ手を広げてみせた。その動きにつられ視線をやると、視界を埋め尽くすくらいに広がる岩つららや石筍。
わずかに差し込む光のほか、たいした灯りがないことは変わらずしかし、視覚情報とは裏腹に、その岩の芸術は輝きを放っていた。
二、三回、目を擦る。
私がこれまで生きてきた十二年間。短くはない時間だと思う。それでも、その人生をたとえ千周したところで、指の長さほどの鍾乳石一本にさえ満たないのだろう。
四人の存在など意に介さないとばかりに脈動を続ける、穴あきの岩巌、大個体。その曠然たる腹の中に立つ私。変遷した光景を映し出す私の脳は、まるで自分の体が縮んでしまったかのように錯覚させ、屹立する石筍の一つさえもが天に聳える塔、それほどに高く、巨大な構造物を思わせた。
なるほど、これは宗教的と云えばそうなのかもしれない---
岩屋戸の上辺に締められた右綯えの注連縄と、等間隔に垂らされた紙垂。
首を回して辺りを見渡すと、平ぺったく角ばった石がいくつもその辺に積んであって、何枚かは順路を示すようにぬかるんだ地面に右、左、右。配置をずらしてながら埋め込まれ、交互に続いていた。
簡素な参道の先には真っ赤な鳥居。風雨に晒され所々に変色している箇所も散見されたがしかし、血のような赤。燃えるような赤。
一般的な表現が当てはまらない単調ではあるが、絵具を水で薄めたように透明感のある透き通った赤であった。
鳥居の前には二対の石像が鎮座していた。参道横の狛犬かな、と思った。
--が、とても犬とはおぼつかない、おどろおどろしい姿。何を形どっているのかはよくわからない。
少し離れた場所に、朽ち果てた手水舎。四隅は欠け、中の水は茶色く濁り切っていた。本来手を清める所であるはずなのだが、あれではむしろ汚れてしまうだろう。
神社、の二文字がほとんど確信的に、頭の中に浮かんだ。がしかし。
異質なのは後方、今出てきたばかりの、もはや地形の一部と化している大穴。明るいこちらからはそう奥まで覗き見ることのできない、その漆黒。
その奥から何か異形の者が這い出てきそうな。将又私たちを空間ごと呑み込んでしまいそうな。
中てられないうちにかぶりを振った。
休憩を採ってからまた暫く、光が差し込んでいるのだから出口が近いんなんてこともなくて再び迂回した洞窟内を、体感では十五分くらい。上っては下り、また上っての繰り返し。
冴恵以外の三人、肩で息をしながらやっと、抜け出ることのできた洞窟の前に私たちはいた。宏司は手で顔を扇ぎながら服が汚れるのも気にせずに、足を伸ばして石の上に座っている。美佳と冴恵は何やら二人で話していた。
おもむろに宏司が大穴を指して言う。
「なあ・・冴恵。この入り口俺が入ってきたのとは違うぜ。なんだ、もっと立派な、こう。な?」
「それは僕も気になってたところだ」
手刀で空になにか描く宏司。同意した美佳は片方の肘を支えるように腕を組むと、続ける。
「こんな、自然にできた穴ではなかった。大きな岩に人の手で格子棒が、何本もはめ込まれていて。でも掃除はされていないみたいだったな、へばりついた苔が目立ってた」
「そんなんだったな」頷く宏司。
「宗教的だの、檻だの、それっぽく云ったけど、なんなんだろうね」
「実は格子棒もあれもそれも、単に装飾でした--。とかじゃね?」
「ん--・・意味もなく岩に穴開けてまで工事するかなぁ」
どうにもこの穴は二人の記憶の入り口とは違うらしく、腑に落ちない表情で話し合っている。例によって、私は気絶していたので憶えていない。というか知らない。
でも確かに、洞窟内でされた説明。宗教的な、だの木立の中に、だのその他云々。
見渡した限り前者はともかくとして、後者は合致してはいないように思える。腕が廻らなさそうな大木が生えているのを、木立とは呼ばないだろう。その人の裁量かもしれないが。
「どうなんだ?」
話に耳を傾けたたところで、宏司が再び冴恵に話を振った。「さあ・・どう・・でしょうね」なんとなく話に入るタイミングを逸していた彼女は、一旦間をとった。
「ああ、えっと、それは村はずれにある、ですね。正直村の人でも行くことがないので・・なんとも。皆、存在は知ってると思いますが」
「ふうん。見てくれのわりに、そんな大迎な施設でもないんだ」
「はい、たいした整備もしないもので、彼の様ですし。以前祖父に聞いたところによると、昔は使われていたようですね。儀式だとか、いけにえだとか。具体的なことは忘れてしまいました。・・それくらいですか。私自身、二、三回しか訪れたことがなくて」
詳しくは知らないと、冴恵は目をそらして首の辺りに手をあてる。
努めて冷静に、とも見えず、何とはなしに話す彼女。その言葉の一つに引っ掛かりを覚える。
--生贄。
供犠。犠牲となるもの。
おどろおどろしいその響きに余儀なく、グロテスクな想像をしてしまう。浮かぶ赤と黒の構図に、ぞわりと首筋を震わせながらもどうしてか、その時彼女を問いただす気にはならなかった。
つまり、と美佳が軽く指を鳴らした。
「つまり、この穴は僕と宏司が云ってるのと違う、別の入り口であって、僕たちが初め使ったのは他にある。ってことでいいのかな?」
「その理解で大丈夫です。入り口自体、ほぼ使えない場所も含めると見つかっているだけで四から五ヶ所。あと何か所かもあると云われています。でもまあ、普段ここに用事はないので、はい」
把握はしていない、そううやうやしく冴恵は答えた。
「まあ一目瞭然って感じだな」
宏司が周りの木々を見上げて言った。
ざざあ・・ざざあ。風で枝が揺れ、その手を覆う木の葉を隣と擦らせる。
「?」
ふと肩口に違和感を感じて手をやった。違和感の正体をつまみ上げるとそれは、少し色褪せた黄色をした一枚の落葉。
意識した途端ぱらぱらと、視界に入るそこらかしらに散った葉。本来の色がくすみ、汚れ、褪せた色。対照的にまた、落ちてなお鮮やかな赤や黄をしているのもあった。それらが綯い交ぜに重なり合って、あるいは。
生気を失いかけた葉のひとつは今にも世界から存在を消してしまいそうに儚く萎れ、隣で未だその存在を誇示する輝きとはどうしても、あるべき場所に一線を画していた。
しかし--。
「ま、それはそうとして。これから何処に行くんだ?」
宏司が言った。美佳が続く。
「まさか此処で到着、はないよね。みたところ人が居ることはなさそうだし。周りに民家もなさそうだ」
「こんな森の中じゃ、そう先も見えやしないけどな」
人差し指と親指で作ったまるを覗く宏司。それを傍目に冴恵は答える。
「此処からではさすがに見ることが出来ませんが。でもあと三十分も歩けば私たちの住んでいる村に着きますから、そこが目的地です」
「にゃるほど。ってまだ三十分もあるのか・・」
「あ、私が歩いて三十分くらいなので」
「?」
「山道を歩きなれていない皆さんは、もっとかかるかと」
「うげぇ」
呻くとあお向けに倒れこんだ。美佳が眉を顰め、小さく冴恵が笑った。
「あー・・ん・・うん」
口を開いて止める美佳。おおかたその、村についてなにか訊こうとしたのだろうが、実際に行けばわかると思い直したのだろう。冴恵の云う”住んでいる村”とは、宏司の説明とまた食い違っていた。
冴恵が持っていた水筒を回し飲み、喉を潤す。いちおう、軽くストレッチを行うと休憩もそこそこに、冴恵を先頭にして歩き出した。
進行方向、海に浮かぶ小島のように点々と配置された石。わざわざその島を右へ左へ交互に、つま先で踏んで歩いた。たとえ海が荒れていなくとも、同じようにするだろう。
同じ動きで後ろを跳ねていた宏司が「ほっ」。放り込まれた質量と面積に波が打つ。茶色いしぶきが私の服にもかかって、裾を汚した。
「ちょっ--」
--なにすんの。睨みつけてやろうとしたその泥だらけの背中は既に私を追い越し、冴恵をも追い越して遠ざかる。唐突な行動に冴恵は呆然としていた。
またいつものことかと特に驚きもしない。とりあえず汚れた裾をつまんで、まじまじと確認した。あらためて見るとなかなかどうして、そこら中茶色にくすんだ斑模様。昨日、今日と酷使された跡がそのままに現れていた。今汚れた場所さえわからないくらいなので、気にしないことにした。
後ろからため息がひとつ。どうやら美佳は辟易しているようである。
「先行くぜ!」
先程呻きを上げていたのはいったい誰だったのか。とうの宏司は走りながら叫んだ。彼の後姿は鳥居の先へと沈んでいった。
放っておけばいいと、立ち尽くす冴恵の肩を軽く叩いた。
そういえば、美佳が口を開く。
「いつからか式神の姿が見えないね」
云われてみれば確かに。周囲に私たち以外に気配は察せられなくて、牢を出た時から後ろをついてきていたはずの式神の姿は忽然と消えてしまっていた。
美佳の言葉に周囲を見渡し閉目すると漸く、冴恵は答える
「彼は目を離すとすぐにいなくなってしまうので・・」
「彼?」
「あ、あの式神のことです」
「ふうん?」
「おおかた洞窟内を、ほつき歩いているのでしょう」
さして興味もなさそうに冴恵は言った。
歩みを進め鳥居の前まで来るとその先は階段になっていた。といっても土を段々に削り、固めただけの簡素なものである。
両側を木々に挟まれた先の突き当り、そこら以外とは違い、階段と同じくらいの幅で明らかに土が露出していた。考えずともそこが山道であることを察した。しかし丁字路に宏司の姿は見ることができない。
どちらへ、どのくらい先まで行ってしまったのだろう。正しい道も知らないのに。
手すりの代わりにしようにも両端の木々から延びるは掴むに少しばかり遠くて、上半身でバランスを取りながらおそるそるといったふうに、降りる。やはり、山を歩きなれている冴恵の進みは速い。
「落ちちゃいそう」
私が言うと後ろの美佳が頷く気配がした。
ばきばきばきっ
折しもその時、左前方から何本もの枝が折れる音がした。静かな山に一際けたたましい音が響いた。驚きたたらを踏んで、足を滑らしてしまう。
声にならない悲鳴を上げながらも二、三段でなんとかふんばって、その場にへたり込んだ。
「な、に今の」
瞬間、前を行く冴恵が足を滑らせて滑落したのではないかと。脳が再生するネガティブなイメィジ。
しかし、どうやらそれは杞憂であったらしく彼女は依然として両の足を地面につけていた。すれば、今の音は何であったのだろうか。
音がやんで暫く、冴恵はなおのことゆっくりと、一歩を進むにも神経を使う坂道を降りてゆく。
彼女の足取りは体の大きさにする足の長さも勿論のことであろうが、どこかおぼつかない足取りで、しかし私に比べれば明らかにして速くて、それは武術における摺り足を彷彿とさせた。
最下段まで到達するとおもむろに、冴恵は私の方を振り向いた。
「どうやら宏司さんは左へ曲がったようです」
彼女は言った。
その目で見てもいないはずなのになぜ--。なぜ宏司の進んだ方向が分かるのか--。
その理由は下まで降り、冴恵の隣に並んではっきりとした。
まずは向かって前方、突き当り。先のない路は切り立った崖になっていった。緑色の草木がその表面を覆っているとはいえ、足を滑らせたらばただでは済まないだろう。
右。こちらは特に変わりはない・・・と思う。と云っても前の状態を私は知らないわけで確かなことは言えないながらも人の、歩いた痕跡がわずかながらにさえ見えないことから、宏司が右に進んだ可能性は限りなく低いだろう。
最後に残った、左。
ぬかるんだ地面に残る足跡。どうやらそれは路の端にふらふらと、よろけたように続いていてそれから---途切れていた。
つまり。
眼球から脳髄まで、状況から成された情報が頭の中で一点に集約するや否や、顔から血の色が引いた。私は足跡の傍まで駆けた。
最悪の状況を想定しつつ途切れたその先、崖下を覗き込んだ。
そこにぴんと背筋を伸ばして地面の下、四方に根を張っていたであろう草や枝に付いた葉は虚しく、茎は中程から折れ曲がって、見えずども硬い芯を持っていたであろう木の枝は詮無く、樹皮とはこれ対照的に明るい色をした小口面を残して今にも分断されてしまいそうであった。
そう広くもない範囲を細く局地的に、嵐が吹き荒れたみたいに破壊されたそれら。その先に。
「いってえ・・」
頭を下にして頭の横にまで足を上げた、後転をしようとして回り切れなかったふうな格好で、なんとか。それはもう普段からまるで嵐の目のようだと揶揄されるもやはりあっけらかんとしている彼。
木のささくれにシャツを引っ掛からせた宏司が呻いた。
第二章 境界
穂を風になびかせ今や今やと、収穫を待つ稲の黄金色。広がる田園風景の中ぽつぽつと、あるところでは何軒か。並び、全体に点在している家屋。その間を縫うように流れる小川。架かる小さな石橋。
どうやら前方に聳える山の裏側にまで村は続いているようであったが確実ではない。村を分断していると思われる山の稜線に視線を這わせていたら意識せずとも、家屋のひとつに焦点が合った。
私は掴んだ転落防止の柵に体重を預けて、大きく身を乗り出す。
およそ見たことのない厚さの、茅葺が二枚で一組に、四十五度から六十度の鋭角と言うにはやや鈍い傾きを成した、屋根。その二等辺三角形と横長の長方形とがくっついた輪郭を象っているのは土壁ではなくて、それが建てられてから長いことを示す、薄黒く変色した板張り。
雪国に多く見られるこの意匠は合掌造りと呼ばれている--らしい。社会科の教科書に写真が載っていたような、ともかく実際に見るのは初めてだ。まさに屋根と屋根とが手を合わせ、合掌している。それは落ち着いた感じの色合いと醸し出す自然の温かみとが、やわらかなイメージを作りだしているようで、しかしどっしりと腰を据えた大門のような重厚さをも持っていた。高台から見下ろしているとさながら晩秋に芽を出した、纏う茶色の皮をぴんと張って、皺の一つも見当たらない立派なタケノコの様である。
けれども家屋のすべてが合掌造りになっているのかと訊かれればそれは違うくて、一般的な瓦屋根の建築や全面トタン張りの赤い四角の箱(たぶん工場か?)。薄い有彩色の中ではこれだけがどうにも目立つ黒と白の漆喰、目地の盛り上がった海鼠壁の土倉。
ざっと見た限りではむしろ、他と比べて合掌造りは少ない。それでも同じくらいの数に錯覚してしまうのは、それの放つ荘厳さ故だろう。
しかし宏司が云っていたように村人は一人としておらず見た目とは裏腹に、村内は冷え冷えとしているのだろう--ずいぶんと寂しい---
と、そんなことはなく。
あるところでは庭の片隅で、脇に置いた木の洗濯カゴに物干し竿からリズムよくタオルや甚平みたいな羽織を外して、カゴに投げ込んでいくふくよかな女性。その前の路をを自転車で爆走してゆく、白いラインの入った紺色のキャップと制服を着た男性。危うく轢かれそうになって過ぎ去る背中に大声で叱責する、また別の女性。下校途中なのだろうか三、四人で各々鞄を背負い、なにか棒のような物を振り回しながら飛び跳ね、追いかけ合う子供達。背丈で判断したならば、どうやら冴恵と同じくらいに見える。
彩られた水田の一枚、その一角だけが風に凪いでいるふうではない。異質に、ざわざわと黄金色が揺れている。暫くすると揺れは収まりごっそりと、その部分が持ち上がる。まだ緑色を残す茎が見えた。「よっ」と、掛け声が聞こえてきそうな動きで稲を抱えたのは、麦わら帽子の端から白髪が覗く細身の老人。歳を感じさせない足運びでしゃくしゃくと、傍の三輪車に稲を投げ入れると首から下げた白色のタオルで汗を拭った。
「ふうん」息を吐いた。
まあ、つまり。
なんだ、何人も村人がいるじゃないか、と。つくづく宏司の話とは噛み合わないようである。すれば、此処も彼が云っていたのとはまた別の場所なのだろうか。
拍子抜けしつつ独りごこちていると、美佳が一歩前に踏み出して私の横に並んだ。前方が百二十度くらいに広く開けたこの場所はさすが展望台と云うだけあって高く、見晴らしがいい。なんとなく視線を下げてみると肌が粟立ち、その高さを体で感じた。
漸く自分の体制がだいぶ不安定で危険なことを意識して、柵の内側にまで身を引いた。
「何か言いたそうな顔をしているね。二人とも」
風に靡いた黒髪を抑えながら美佳が言った。宏司が難しい顔で頷く。
「人なんていなかったのにな・・」
「そうはいっても、ほら」私は指さした。
「たくさんはいないけど、でも、いないってことはないじゃない、だから」
「わかってるよ。俺にも見えてんだから」
宏司は鬱陶しそうに吐き捨てた。私に追及されずとも、先の話とずれていることは彼が一番にわかっているのだろう。
私はつとめて、声を丸くして続きを言う。
「最後まで聞いてよ。べつに宏司を責めてるんじゃないから。ただ・・」
「ただ?」
「此処は宏司、それに美佳も。二人が知っている集落じゃない、って可能性。・・要は洞窟と同じ、私たちが把握してない集落がいくつかあるのかもしれないわ」
「あー、村の中にいくつかの集落が分散しているのか。なるほど、うん、ありうるな」
宏司は相槌を打とうとしたが、「それはどうだろうね」美佳が鋭い声で遮った。
「かわた群の地図を思い浮かべてごらんよ。郷村を除いた四つは村境で隣接してる。どうしてかわかる?」
「さあ?」正直、まじまじと地図をみたことがない。
「そりゃ近いほうが便利だろ。なにかと」
知ったふうな宏司の答えに彼女は首を振った。
「まあ宏司が云うのにも、一理あると思うけどね・・・。現実問題、土地がないんだよ。ほら、山に囲まれてるからさ。こう考えた方がいいかな。偶然に村四つが集まっているんじゃなくて、大きな一つを四つに切り分けた」
「ふむ」
なるほど、例えば一枚の半平を四等分にしたとして、その切り口が接するのは道理である。 理解はできた。しかし、美佳の意図がわからない。それは夙村や鉢屋村のことであって、吉野川を挟んで孤立している郷村との結びつきはないように思える。
「重要なのは郷村の大きさと、周辺の地形か」
首を傾げる私を横に、どうやら宏司は得心したようである。ぱちんと指を鳴らした。
「地図の示すところ、郷村は俺たちが住んでる村以上に狭くて、同じように山に囲まれてたはずだもんな。そういくつも集落なんてありゃしないぜ。あるはずがない」
「そういうこと」美佳は破顔した。
二人の頭の中にはくっきりとした地形図が描かれているようである。しかし私のは、ぼやけた線でしかも擦れていてはっきりしない。
(まあ普段の生活で地図を読むことなんてないのだから仕方が無い。そうでしょ?うん。)
どうしてだかおいてけぼりにされた気分になって、そう自分に言い聞かせ納得した。
ともかく私が唱えた線は薄いようだ。それじゃあ---
「美佳はどう思うの?」私は問うた。
「、僕はね・・」
彼女はまるで、私が訊くのをわかっていたみたいに一拍おいて、その眼を眇めた。
くっきりとした二重で、丸みを帯びた大きい瞳。しかし端には、しゅっと切れ込みの入った細い三角形の目尻がいっそう、鋭く伸びた。
口を開くのと同時に、黒いまつげが瞬く。
「整理するよ。宏司が云うには一人として村人はいなかった。すれど此処から見るには事実、村人は存在した。何人もね。僕たちの知らない、別の集落があるのか? ・・違う。人が生活できるような平地は、暮らせる場所はどこにもないから」
彼女は淡々と続ける。
「つまりその、宏司が見たのは何だったのかということになる。だけれどこれもまた、見間違いと言うにはあまりにもかけ離れているようだ。そして--」
「そして?」
「憶測でなく、僕はその原因を知っている」
「「「っ」」」
---
--沈黙。この瞬間、四人の時が止まっている。
世界から音がなくなる。
いつの間にか風が凪いでいる。
にびょう・・さん・・よん
私はなにも喋れない。
時間が止まっている時間が長く続けば続くほどに私の色が薄くなっていく。いやでも時間が止まっているのだからそれは永く終わりがみえなくて--。
どこかに支障をきたし狂い始めた私の脳は、映る世界を崩壊させんと揺らぎを起させ、天に破滅の警鐘が鳴り響く。
ああ、なぜこんな幻覚と幻聴が--。
いや、こちらが真の世界なのだろうか--私は今まで---。
はやく--現実に。
「おい美佳!」
「っ」
驚いた宏司の声で我に返った。危うく、自分を見失いかるもそこは既に、何時も通りの時間が流れている。眩暈と耳鳴りもすっかり、おさまっていた。
「どういうことだよ、それは」
宏司が責めるみたいに、強く言った。
訊かれた美佳は直ぐには答えずに、その手で肩口までの、艶やかな黒髪をすいた。後ろ手に、手櫛から指の稜線に沿って髪が三本の線になる。構図としては美佳がはぐらかしているようにもみえる。
私は宏司に追従して、美佳に説明を求めようとした。
「美佳--」その時。
彼女から”圧”が漏れ出した。空気と綯い交ぜになった”圧”は一帯を覆う。それは四人を包み込んで口や鼻から、人体の外側へ無防備にさらした穴へと入り込む。
それは目に見える所でなく、見えないところを苛んだ。
--手が動かない。足が動かない。口を、背を、目を。脳は信号を送っているはずなのに。眼球を動かすことさえかなわない。
そのうち信号が反転した。意志とは逆に。向かう先は私の中枢。
到達するやいなや、瞬く間に私を書き換える。ノイズが走る。直ぐにおさまる。私の色が変わっている。
違う色をしたわたしが、私の中で囁く。
一言も発してはいけない。
だから口を閉ざす。
動いてはいけない。
だから立ち尽くすしかない。
はいけない。
だから抵抗はできない。
”圧”を纏ったままに、もはやどす黒く変色したそれからは到底想像することのできない、透き通った声が流れ出す。それすらも冷たく辺りを凍らせる。
「あれは幻術と言うかは妖術の類だね。何を媒介にしているかを思えば」
どうしてか突き放したみたいな言い方だ。
黒い声の源がこちらを振り向いた。美佳だ。何にでも詳しくて、魔法だって使える。いつもの五人のリーダーみたいな存在で、なにかと頼りになる美佳。五人のうち二人はここにいないけれど。
「まず、宏司が云っていたことは正しい。村に貼ってあるおふだが原因だ。あれが村を訪れるものに幻覚をみさせる。でもそれは一度だけで、二度は見ない。つまり今回、以前に訪れたことのある僕には現実の村が見えていたんだ」「!?」
「連れてこられた時からね。まあ麻姫は驚いたかもしれないけれど、なんとなく言い出すタイミングがなくってね」
飄々と美佳は言った。
「そうっ・・だったな。おふだ・・が」
硬直が解けたらしい宏司が、片言に言った。
確かに冴恵に会ってから余裕がなかったが--いやそれよりも、美佳は郷村に来たことがある--?。なぜ--。
しかし私の疑問は解かれることなく、彼女は続ける。
「とにかく、(正面を指さした)今二人が見ているのは確かに現実だ。得体のしれない術が僕らの脳を騙くらかして視せる偽物でない。本物だ」
彼女は念を押すが、それでも私は、表情を窺うに宏司もまた、訝しんでいる。あまりにも、その、幻術とか。理解の範疇を超えている。
「・・ぁ・・あ・」
声は、でる。ゆっくり深呼吸をした。
「まっ、ちょっ、ちょっと待って。そもそも、お札か何だか知らないけれど紙に字を書いただけで。幻覚をみせるみたいな、つまり空間に干渉することができるの?」
「できるさ」
言うと美佳は腰ほどに腕を曲げて、それから手のひらを上にしてみせた。
なんだろうと思った矢先、その中心に明るく火が灯った。魔法だ。それはまるで上に引っ張られているみたいに縦長の、青白く揺らぐ火だ。
彼女はそれを掲げてみせる。
「二人はどういう原理でこの、僕の手のひらに火の玉が発現しているのかわかる?」
「そりゃあ火の元素と、あと風か。まず火の元素を使って、手のひらの上の空に火球を創る。でもそのままじゃあ位置を固定できずに、自分の手のひらに落ちてしまうから風の元素で上向きの力を加える。・・・そうすればできるはずだ。俺と佑季には無理だったけどな」
宏司はいつかのことを思い返しながら言った。美佳はかぶりを振った。
「違うよ。やり方じゃあない。僕が云っているのは根幹、元素のありかたついてだ」
「元素の?」
「ああ。僕らは普段何気なく”魔法”だの”魔法元素”だの云い、行使して、あたかもそれが生活の一部となっていることが当然のように。でも冷静に考えてみなよ。魔法を使うのには元素がいる。だから魔法士は四代元素を単体で、若しくは複数組み合わせることでそれを発現させる」
美佳が火の玉を握りつぶすようにして消した。
でも、彼女は続ける。
「その元素はいったい何処から? その答えを誰も知らない。そもそも疑問を抱くことさえない。けれど僕らは何もない空間からそれを生み出す。無から有を。それはつまり、云ってしまえばゼロから一を創り出しているわけだ。こんなのは世界の、神の摂理に反している。逸脱している。狂っている」
「美佳、お前はつまり何が言いたいんだ? 元素の存在を否定してそれつまり、魔法の否定につながるっていうのか」
「そうじゃない。魔法はある。それは確かだ」
「じゃあなにを」
「だいぶ論旨が脱線したようだけれど・・。今話したとおりにこんな、得体の知れないものが村の生活の一端を。いや大部分を担っているんだ。だから文字を書いた紙の一枚で空間が上書きされようと、たとえ・・式神がその実、人間だったとしても」
息を吐き、美佳はおどけてみせた。
「あり得ないことじゃないさ。似たもの同士」
「ああ・・」
宏司は納得したみたいに呟くと遠くの方を見た。美佳と宏司は魔法士であるからその、元素の扱い方とかで分かり合うところがあるのだろう。
まあ、私にはわからないけれど。魔法士じゃないし。元素の発生させ方や魔法の発現なんて、聞いてるだけつまらない。
呆けているみたいだった宏司が、まばたきをすると顔の前で手を打った。ぱん、と乾いた音がした。
「ま、俺が見間違うのも仕方がない、ってことだよな。続きを頼むぜ」
「うん。・・まあ続きも何もこれで話すことは終わりなんだけどね」
「終わり?」
拍子抜けのような気が・・そもそも私が訊いたんだった。
「お前が訊いたんだろ・・」
「そうだった」
「んー、村に降りてから話そうと思ったんだけどな」
美佳は唇を指先で撫でた。男みたいな一人称とは反対に、その仕草はとても女らしい。だが、なぜ。
「もったいぶるなよ」
「もったいぶってるわけじゃないさ。今じゃなくてもいいかな、って思っただけ」
「そうか」
「じゃあ、いいかい? --時の流れがずれているんだ。此処は」
「ずれている?」「どういうこと?」
矢継ぎ早に彼女に問うた。美佳は視線で制す。
「夙、鉢屋、風磨、長吏の四つ。ここではその時間を基準とするよ。つまりは二人が普段体感しているのと同じ、そう思ってくれればいいんだけれどそれは郷村の”外”の話であってしかし、もう皆”内”に入ってしまっている、だから---」
「随分と詳しいんですね。私たちの村について」
ずっと黙っていた冴恵が遮った。少し離れたところに、彼女は立っていた。その目付きは鋭く、まるで咎めるような口調である。
「そうでもないさ」
それを真っ向から受け止めて、美佳は目を眇めた。視線を合わせずに暫く、動かない。けれど睨み合っているであろう、美佳と冴恵。
「喧嘩、すんなよな」
控えめに宏司が言うと、漸く冴恵の方が踵を返した。ざりざり。誰だかの、くつに踏まれて砂利が鳴った。私もすっかり固まってしまった、両足を上下させるとやはり、足元が音を立てた。
冴恵はひとり、何処かへと歩いていく。そのまま呆けていれば必然に、行き場もわからず取り残されてしまう。私と宏司は顔を見合わせ目と目で会話するが、どうやらついていくしかないようである。三人とも言葉を交わすことなく、示し合わせて冴恵の後を追った。
視点を飛ばして俯瞰してみると、今いた場所は広場みたいに開けていて歪な円になっていた。その円には何本かの路がくっついていて、蜘蛛を連想させた。どうやら行く先も二手に分かれているが勿論、迷いのない足取りで彼女の姿は右手側へと沈んでいった。
村に降りるのだなあ、と予測してみる。
下りになると歩みも速くなって自然と足が前に出てしまうものだから、ひょこひょこと歩くことを余儀なくされた。ともすれば、コケてしまいそうである。幸いなことに路はまっすぐ一直線であったが、舗装されておらず、歩きにくいことに変わりはない。
暫くすると山を抜け、平坦な道になって砂利道が続く。道脇に生えた木々が葉を擦らせた。そのシルエットは人外の化け物を思わせた。葉が手。木が体。
少しすると完全に視界が開けた。同時に柔らかな風が横から撫でてきた。山が壁となって窪地になっているせいか乾いた、気持ちのいい風だ。田んぼや畑など水地が多いのもあるかもしれない。
先の記憶と重ね合わせてみると展望台の真下、からは少しずれた所にでてしまったらしい。しかし冴恵の歩みは確かで、迷いがない。明るい黄色と緑に挟まれながら、民家のある方へと向かう。
「冴恵ちゃぁーん」
前方の黄色の中から、しわがれた声がした。
どうして稲穂から声が?私は目を細めた。
「冴恵ちゃぁーん。こっちだぁ」
「聞こえてるよー」
「そうかえー」
冴恵は心なしか早歩きになった。畦には三輪車や、鋸鎌が置いてあった。冴恵は立ち止まって誰だかと話し始める。手ぬぐいを巻いた、皺の深い顔だ。どうやら声の主は農作業している老人だったらしい。両手で握った鍬みたいな棒を田んぼの中についていて、履いた長靴が半分ばかり泥に沈んでいる。脇には刈り取った稲を載せた田船が浮いている。近づくと老爺がこちらを見やる。
「あんたらは見たことがない、なぁ」ゆっくりと言った。
「あっ、えっと・・」
「いや、うん」
口ごもる。美佳は何も言わない。
「聞いてない? 達也さんたちが今日の朝、賤の人を連れてきたって」
「そういえば家内が話してたような気もするが」
「もうしっかりして。まだぼけるような年じゃないのに」
「はっは。冴恵ちゃんは厳しいの」老爺は言うと頭を叩いて笑った。「ぼけ、といえば大丈夫なのかの。その、時差ぼけは」
「話してる感じは大丈夫。ひとりは来たことがあって、もう二人は気絶していたから。そのせいかな?寝ながら境界を越える人なんていないでしょ」
「そんな話は聞いたことがないな。わからん」
「わたしも。おじいちゃんに訊いてみようかな」
「そうするとええ。ええ」
頭に巻いた白い手拭いが上下した。
「ああ、だんだんと思い出してきたわい」
「そう?」
「うん、うん。その子らが式を使い物にならなくしたらしいの。丸焼きだったらしい」
「っ」宏司が、びくりとする。
「えっ、そうなの? 初耳」
「骨格も見るも無残、といったふうだったと。・・まだ術者が直してるだろうが、骨が駄目になっていたら筋肉は動かせまい。直すだけ無駄だろうなぁ」
「ふうん」
冴恵は言った。
「なあ、俺たちはどうすればいいんだ?」宏司は困って首を傾げた。「このまま突っ立てればいいのか」
冴恵がこちらを振り向いた。
「そうですね、すみません。知っている人に会ったもので」
「じゃあ」
「うん」老人が答えると彼女は踵を返した。
そこからもう少し歩いた。進むにつれてだんだんと、展望台の上からみた景色が向かってきた。気配がした。子供の声や微かに生活音も聞こえた。つまり人の存在を確かに感じる。近づくにつれて混凝土の建物があることがわかる。牢にも使われていたし、長閑な風景のわりにそれなりの技術はあるようだ。自分達よりも遅れていると私が思い込んでいただけかもしれない。前方で一際存在感を放つのはやはり、合掌造り。しかし檜皮葺の屋根はまるで、端を合わせた厚揚げのようである。お腹が空いたし、喉の渇きもそろそろ限界だ。屋根が食べ物に見えてしまうとは困窮する者は藁をも掴む、いや食べる思いだ。
また暫く。合掌造りの向こう、奥へと進む。真逆、視界が閉ざされる。家々が密集しているわけではないので、間間に水田や畑がある。こう、周囲を見渡しながら歩いていると夙村を思い出す。今も後ろには宏司と美佳がついてきているし、まるで昨日のことが嘘みたいだ。実際未だに実感が湧かないというのも、ある。横に佑季と俊がいたならば、いつもと何ら変わりがないだろう。二人は今頃、どうしているだろうか・・。
お父さんとお母さん、心配してるだろうな・・・。
視界が潤みそうになった。宏司に笑われてしまう。堪えた。
後方を窺った。美佳は口を尖らせて、ただ、歩いていた。右へ左へゆるゆると頭が動く。まるで観光を楽しんでいるようで不安、よりは安心しきっているようにもみえる。宏司は、半笑いでポケットに手を突っ込んでいる。一見すると余裕があるようで、しかし虚勢を張っているのだろう、角を上げた薄い赤の唇が震えていた。
私は歩みを遅めて宏司に並んだ。その横を美佳が追い越していった。気が付いた宏司が頭の後ろで腕を組んだ。
「どうかしたか?」
「ちょっとね。似てると思わない?夙村に」
「そんなの上から見て分かっただろ」
「近くで見てさらに、って言いたいの」
「ふん、そうかな。確かに」彼は目を眇めた。「移し書きしたみたいだ」
「だよね」「お父さんたち心配してるかな」
「うちは心配よりか、怒ってそうだな・・。もう村に騒ぎが伝わっていて然るべきだろうし、麻姫の親父さんは気が気でないだろうが」
「これからどうなるのかな? やっぱり美佳の云ってたことが気になるわ。式神についての、あれ」
「あれは聞き流しとけばいいって。あいつの,美佳の憶測に過ぎないだろ」
「でも・・」
「いいって」
彼は飽くまで拒絶する。しかしその裏には、気遣いが、長い付き合いだからこそに分かりうるその、きざな行為の意図を私は汲み取った。
深い意味ないけれど、宏司が隣にいる、それだけで心強いのも最もである。
昔みたいに手を繋ぎたい。見知らぬ土地でこれからの事わからない、心細さからからこそに、子供染みた思いが脳裏を過る。腕を伸ばす。
がしかし、それを留まるのもまた。
私だ。腕を降ろした。
つい先日。生理を迎えてかわた郡内では(生理、精通を迎えようと世間一般では二十歳からだが)大人として扱われるようになったあの日から、手を繋ぐことさえままならない。自意識の中では、いや仲間内では皆まだ子供だと、周りにもそう振舞っているし。言い聞かせてもいる(これは自身にだ)。でも月の四分の一くらい、その時間の大半をを奪い去っていくあの気怠さと下腹部の痛み。周囲の目が厳しいとか、それもあるけれど、実際、意識してしまう。男と女の違いを。宏司と麻姫を。
生理を迎えて妊娠することが、新たな生命を身ごもることができるようになった日から。ある意味では創造主となった、繭が崩れ寝ているうちに、自身でさえ気が付かぬうちに赤い血液が下着を濡らしていた、目覚めの悪い朝から。
重ねることになるが、自意識の上ではまだ私は子供。たとえ妊娠したとしてもそれは、子供が子供を産もうとするのと変わりがなくて、両腕で抱えるほどの物体が私の身体の、せいぜい三本指くらいにしか広がることのない隙間から産み落とされるのを思うと。
怖い。
気持ちが悪い。
その赤い、月の決め事の存在は。女の先生がまた女生徒だけを集めて、それは色々と教えてもらっていたのだけれどやっぱり、話を聞くだけと実際では違うくて、仮にも内臓から出血しているのだし心なしかいや確かに鋭い痛みが体に走るしそれに怠い怠い怠いしかもそれが毎月だなんて。初経の時は布団の上で考えるほど吐き気がしてきてまだ寝ていた両親を揺り起こしたものである。
同じ女性の佑季にも縋り付くみたいに話した。とにかく受け入れてほしかったのだ。私の気持ちを。
でも話を聞いた両親は両手を叩いて喜び、夜には誕生日みたいな御馳走で私は祝った。同年代ではまだ珍しい同じ経験のある佑季は、嬉しい、よかったじゃない、と言った。
そうじゃあない。
表面上は喜んで見せた。それはまあ、村の高齢化が進んでいることは知っていたし村にとって有益なこともわかる。でも心の中では素直に喜ぶことはできなかった。
それとなく男子も皆が大人になること、つまり生理や精通を言葉として知っていてかつ、それがどのようなことか。何を経るかによって生命が創られるのかを教師、両親、又は祖父母、将又。聞き及び学んではいたがしかし個々人の、デエリケイトな問題であるが故に各々触れようとする者はいなかった。これは特段、仲のいい五人の内だけでなく、年頃の、思春期の男女粗方に云えることであった。一部あっけらかんと話す男子もいたけれど、聞かないように意識してその会話を遮断するよう努めた。
「んっ」
胸の辺りが嫌な感じだ。口が、渇く。
考えることをやめる。息を吸った。吐いた。寒さに震えるみたいに両手で身体を抱く。二つの膨らみに腕が触れてまた・・
腕を解いた。
私はまだ子供だもの・・。そう、意識して・・いや、しては駄目。お腹の下の、逆三角形の器官は・・そう、それは腸。大腸、小腸ああ・・間違っても、胎内で受精することなんて・・生物が蠢い
て・・ありえない・・
無理。胃の中身が喉にまできてる。
もともと、”血”だとか”内臓”だとかが苦手で、言葉を聞いただけでむず痒くなってくるくらいなのだ。しかしこういうのは逃れることの出来ない悪循環だ。
長い逡巡の末、やっと宏司の手を掴む。
「どうした?」
彼は驚いたようではあるが拒絶はしなかった。見開かれた瞼、収縮した瞳孔、白目。握った手を介して鼓動が重なる。今、繋がっている。
彼には私の葛藤を知る余地もない。それは四人の中で佑季にしか話していない。だから、そんな表情ができる。
否。今まさに、彼の中では葛藤があるのかもしれない。
それが察せられる。分かる。・・違う。
分からない。
誰にも。彼にしか。その捻じれ、軋みは共有することができない。
例えば。
中途半端に知っているような知らないような景色が続いて、気丈に胸を張って歩いてみせても心の奥底、不安は拭うことができなくて。それでも私たちを励ますみたいに口角を上げてみせるのは虚勢か。それとも。
私とはまた別の所で彼も・・。
また、ずれている。
耐え切れなくて、握った手に力を込めた。彼はびくりと体を引いた。
「なん--いや」握り返すことなく、今度はやんわり手を解いた。
空に残された手を見つめる。彼は前方を見やる。
歩く。曲がり、くねる。捻じれる。
そのうちに冴恵は立ち止まった。家だ。これまさに古民家、といったふうの庭つきの、和風建築である。なだらかな茅葺屋根、茶褐色の土壁。煤がこびりついたような黒の引き戸。縦に二つ窓が並んでいる。二階建てだ。細い木の枠に、時間に取り残されてしまったような佇まいに似合ない、摺りガラスが張られていた。家の前には炊事や風呂焚きに使われているであろうプロパンが丸見えで、おそらく人が生活しているのだろうと考える。文明の色、鼠色が異彩を放つもどこか、趣がある。
冴恵は私と宏司が追いつくのを待って、敷地に足を踏み入れた。庭つきといっても、中央に坐した家と砂の地面を柵で囲んだだけのものだ。木の一本も植えられてはいないのを庭と呼んでいいものか。彼女は玄関に手をかけた。和風の引き戸だ。
真横に引くと、がらがら、音がした。
「どうぞ」
冴恵が靴を脱ぎながら云った。全員が中に入ると宏司が後ろ手に戸を閉めた。私も靴を脱いで端に並べて置いた。冴恵と美佳はもう上がり框に上っている。すぐ横に二階への階段があった。
畳敷きの部屋へと案内された。二間続きになっていて、無地の襖が開かれている。奥の部屋は床の間付きで横長の座卓が置かれている。黒と赤の菓子鉢に小袋がいくつも詰められていた。右隅には一台のテレビ、その横に隅のほつれた座布団が重ねられていた。
冴恵は卓の周りに座布団を並べて座るように促した。長辺に二枚、短辺に一枚。床の間を正面にして私と右側に宏司が並んで座り、向きを変えて左側に美佳が座った。
冴恵はテレビを付けるとリモコンを置いて、窓を網戸にした。それから、
「ちょっと・・」一声かけて、いなくなった。
ぼんやりとテレビを眺める。初老の男性が世界遺産を訪れ、想いを述べている。あいにく彼の、世界遺産の名前も聞いたことが無いようなマイナなものだった。
カンカン照りだった日差しも、網戸を通して丁度いいくらいに柔らかくなって、このままでいたら眠くなってしまいそうだ。崩した足をさする。この新しかったズボンも二日で随分と擦り切れたものだ。一周廻って気にならないくらいには。
丸い盆に四つコップをのせて、冴恵が戻ってきた。一人にひとつずつコップと菓子鉢の小袋を配ると、床の間を背にして座った。ひとくち、コップの中身を飲んだ。私も同じようにした。麦茶だ。
口から液体が、渇いていた喉を通って胃へと落ちていくのがわかる。やっと喉を潤すことができた。たまらず三角の小袋のふうを切る。おかきだ。口の中に放り込む。おいしい。ざくざくとした食感がいい。すぐになくなってしまった。
宏司が呆れた表情でこちらをみている。朝食をとった奴にはわかるまい。結局、すきっ腹で食べるものが一番においしいのだ。咀嚼しながら浸る。
暫しの間隙。
でーでっぽっぽー。でーでっぽっぽー。鳥が鳴いている。キジバトだ。
「いい村だね」
美佳が言った。冴恵は肩眉を上げて答える。
「これと云って不自由はありませんね。冬はそれなりに寒く、夏もそれなりに暑い。食べ物に困ることはない。電気とガスも通っていますし。足りないものは他から調達する必要がありますが」
「村の外から?」
「そうです」
「具体的にはどこ?」
「夙村です。そこが距離的に、村から一番近いので。もちろん、流してもらった医療品や灯油などの燃料の分対価は払っています。でも展望台からみたようにここは、周りを山に囲まれていて交易なんて他とはできない。術や式神を除けば特徴的なものは何もなく、出せるものもありません。だから夙村の仕事を、主に土木工事を手伝うことでその代わりと、そう、してもらっているのです。式神は普通の人間よりか力がありますから」
「驚いた。じゃあ結構、頻繁に俺たちの村まで来ていたんだな。どうりで」
川で作業していたわけだ。納得。
「式神がいれば十人力だから、うちの村の方が助かってるまであるね」
「そう言っていただけると助かります」
そう冴恵は言い、口角を柔らかくした。が、すぐに引き締められる。
「ところで。あなた方の処遇ですが」
彼女は言葉を溜める。私は居住まいを正した。横で宏司も同じようにする。冴恵が口を開く。
「事が事ですので今、村長と役員たちが話し合っています。既に終わっているのかもしれませんが。とりあえずはそこで決まったように、従ってもらいます」「そのうちあなた方、それぞれの村にも連絡がいくでしょう。皆さん夙村の出身でしたよね。--まあ、親御さん方も心配なさっているでしょうがおそらくは、当分に帰ることができないと思ってもらっていいでしょうね。これは私の予想と云うか、推測ですが。ああ、あと--」有無を言わせない口調で彼女は言う。
「まった、ストップ、まってくれ」
宏司が手を顔の前で振って制した。狼狽している。しかし美佳は目を閉じ、コップの中身を飲んでいる。
「ああ、なんだ、とりあえず俺と麻姫は夙村の、美佳は鉢屋村の出身だが--それはいい。でも、、」
「つまり俺たち帰れないのか?」その顔が苦渋に歪む。私も同じ表情をしているのだろう。
「ええ、たぶん。当分は」
「そんな、どうし--」
「詳しくは存じませんが、あなた方のしたことを考えればそれは当然でしょう」冴恵がこれまでになく冷たい目付きでこちらを睨みつけた。
睨まれたって、困る。宏司と顔を見合わせて閉口する。それから美佳を見やるも呆け、虚空を見つめていた。どうやら何にも考えていなさそうである。
仕方が無いので私は、自ら口を開く。とにかく喋らなければ。
「悪いけれど私たちはまだ、どうして郷村にまで連れてこられているのか。あの時、これは夙村で吉野川の河川敷でのことだけれどいったい何が起こったのか。あっと、冴恵のその目を見る限りどうにも、私たちは責められているようだけれどそれは何故か。悪いことをしたのか。しからば貴方らの村に不利益を被るようなことをしたのか」「今言ったこと全部が此処にいる三人の共通の疑問であって誰一人として、すべてを把握しているわけではないの。だから--」
必死に身振り手振りを加えながら冴恵を見やる。相変わらず彼女の目は冷たい。
漸く、口を開く。
「それらの疑問はおのずと解消されることになるでしょう。なにより、暫くは一緒に生活してもらうわけですから」
「・・・」にべもない。
やにわに怪我を負わされ、攫われ、監禁まがいの扱いを経て今度は当分村に帰ることは許さないときた。鬱憤も溜まるし納得いくわけもなく、いつもなら逆上することも止む無しである。
しかし踏みなれている土地で無い以上どことなく委縮してしまうし、それに彼女は知っていて私には知らないことがある。それに縛られる。
探り探り言問うのは見えない落とし穴を避けるようなもので、強くは出にくい。結局のところ、この場で主導権を握っているのは冴恵であって、他三人は追従するしかない。
そしてその彼女に答えをはぐらかされてしまえば、もうどうしようもないのである。ここから先、同じ質問をしたところで堂々巡りだろう。
はあ--小さくため息をついた。
もはや怒る気は失せてそれは諦めに変わる。冴恵が云うのならば従うほかはないのであろう。
暫くの--沈黙。重苦しい沈黙だ。空気が悪い。
突如として冴恵は、はにかんだ。わざとらしく。
「そんな深刻に、肩肘らなくても。いや少しは、自省してもらわねばなりませんが。おのずと解消されると云ったのは、やむにやまれぬ事情があるから話したくないとかそういうことではなくてただ、今話しても二度手間になると。それだけです。美佳さんが言ったようにいいところですよ、郷村は」
硬くなった表情を柔らかくするように、手のひらで頬をほぐす。
「落ち着いたら、また色々な施設を案内しますから。見たことがないのもあるでしょう、なんせ--」
彼女は口角をあげてみせる。やはりわざとらしい。
「陰陽師の、住む村ですから」
おおかた、脅しすぎたとでも思っているのだろう。
それからは冴恵が質問する番だった。他の四村のことや私生活のこと。郷村にどんなイメェジを持っていたのかまた、実際に来てみてどうか。しいては魔法のこと。
初めの方はなるべく、彼女に情報を与えないように。云うなれば質問を躱すように応えるよう努めていた私もそのうちに、饒舌になってしまって詳しく。つまりは彼女に好感を持ち自ら、話したがりみたいに語らっていた。
(なんか・・)自分は単純だな、と会話しながら考える。
彼女と私たちの間には確固たる垣根が存在していたはず。むしろ今し方、それはさらに高くなったはずなのにいつの間にかすっかり、彼女に絆されてしまっている。それもひとえに、冴恵の人となりの良さ故だろう。
(少なくとも、悪い子じゃなさそうだし。)
まあ、いいか。と、会話に意識を戻す。
「--なるほど。元素を思うがままに操ることができる人間、それがつまり魔法士であると。」
「んーー、それであってるわ。たぶん。私は魔法士じゃないけれど、宏司と美佳はすごいのよ?」
まるで自分の事であるかのように、私は語る。とうの美佳は興味なさそうにテレビをみていて、しかし宏司はまんざらでもなさそうだ。テレビは機関車で旅をする中年の男を映していた。走る機関車の窓を開けて、気持ちが良さそうである。電車と云う乗り物にいつか、私も乗ってみたいものだ。
私は続ける。
「二つの属性を操れるのは、村全部でも数えるくらいの人しかいないんだから」
「はあ」冴恵は頷く。
「宏司さんと美佳さんは優秀なのですね」
「おう」これは宏司だ。謙遜の素振りもない。
「麻姫、魔法のことなのに今日はよく喋るね」これは美佳だ。
皮肉みたいに聞こえる。気にしすぎかもしれないが。
「悪い?」
「悪くはないけれど。でも釈然とはしないかな、友達として」
「ふうん?」
美佳は姿勢を崩して楽にした。
「魔法は訊くよか見た方が早いさ」
言うと目の前に手を翳して集中する。
程なくして、どこからか光球がひとつ現れた。赤、緑、茶。色が螺旋のように渦巻いて変わる。それぞれの残像が混じり合って虹色に見えた。
「きれいですね」
冴恵は手で触れようとした。当然空振りして、その手は空を掻く。
鮮やかな色の光はすんと空中で静止した。
「火、風、土の三属性。これがその元素だ。僕は水属性を使うことができないから、この三つだけ」「先ずは火属性からやってみせようか」
美佳が手首を返すと光球はそれまでとは比べ物にならないほどの、強い光を放ち始める。あまりにも眩しくて、思わず目を覆った。
「火は熱、力、光。風は動きと速さ。土は安定、基板、固定化。水は創造に命、そしてつなぐ。それぞれが役割を持っている。担っている」
そして、と続ける。
「これは火属性の”熱”で光球を形成している」一段と光の強さが増した。「今、光球内の火の元素の数をある程度増やした。結果、魔法の力が強くなっている。今度は元素の数を減らしてみよう」
美佳は手を降ろした。依然として光球は浮かんでいるが段々とその光が弱まっていく。そして、やがて・・消えた。儚い。完全に消えてから美佳は話す。
「・・今見たように緩やかに、消えていく。一空間に存在する元素の数が少なくなったからだ。つまり魔法の力の強さは、その魔法士が短いスパンに生成することのできる元素の絶対数に依拠する。でも、それを維持することができるのかどうかは別問題だ。強い力を持続して扱うことの出来る人もいれば、すぐに息切れしてしまう人もいる。強い力はあまねく、燃費が悪くて長くは持たない。対して力が弱い人は大体、省エネルギィだ」
「必ずしも強ければ良いわけでない、一長一短であると」
「そう。強い力を持続することができるのは一握りだ。・・いや、ひとりだけかな」「それは?」「とにかく、次は風だ」
美佳の前に再び光球が現れた。
暫くして、それは風に吹かれたように規則性なく空を滑り始めた。夜空を彷徨う蛍みたいに。
「むっ・・」宏司が呻る。それは先日、彼と佑季が出来なかった事をいとも簡単に、やってのけてみせたからであろう。
そんなことは知らず、蛍は円を描きながら規則的に飛び始めた。次第に光の輪が浮かぶ。ほのかに緑色の残像が光る。
「これが”動き”、風だ。でも軸は光球じゃあない。あくまで、それは対象だ」
「なるほど?」
「まず物体があって、それに元素をあてる。すると、こう、動きの”流れ”ができる。魔法士はそれを思うように制御することで”動き”を創り出す」
「ふむ。・・思うに、それでは細かな調整は難しいのでは? 対象に直接干渉していないのであれば」
「確かに例えば糸をもって針穴に通せ、なんてのは不可能に近いね。糸にだけ動きを創り出さなければならず、少しでも誤れば針の方が動いてしまう。でもその人の練度と集中力次第では、それも可能だろう」
美佳は光球のすぐ下に手を差し伸べた。放射状に広がった光線がひとつに集まる。輪郭線がくっきりとして、個としての形を持つ。
同時にそれは質量を得る。やがて、落ちた。浮遊することをやめたそれを、美佳は手のひらで受け止めた。そして反対の手の指先でつまみあげてみせる。
「土。元素の固定化。いわば接着剤みたいな役割だ。でも万能ではなくて、例えば土木建築なんかには使うことができない。元素の固定化だから。釘を使わずに土属性の魔法で木材をくっつける、なんてのはできないわけ」
「ふうん」私は相槌を打った。だいたい何時も魔法の話は聞いていないか聞き流すかしていたので、まともに聴くのは初めてだ。
無理だとわかっていながらもイメイジしてみる。
熱く、その内に膨大なエネルギィを秘めた黄色?金色?の”光”を。先立つ火の元素を創りだすべく、目を細めて集中する。
・・・。
・・・。・・・。
「最後の水属性は創造、命、そして・・つなぐ」
「先の三つと比べて、どうにも漠然としていますね」
「水の元素を操ることのできる人がいないからどうしてもね。・・いやいるにはいるんだけれども、ごく少数だ」
「美佳の親父さんと、加奈子様と・・」
宏司は指を折る。漂っていた光球はもう消えていた。
「その二人だけだね」美佳は頷いた。「まあ、僕が扱えるのは火、風、土の三属性で水は無理。だから魔法を使って見せることはできない」
「じゃあ、もう少し具体的に説明することは?」付け足す。「できませんか?」
「できないね。なんせ僕の中できっとこうだろうと推測してみて、しかし推測とまではいかず、実際は他の三属性からみる魔法の概念から広げ、引き伸ばしてぼんやりと、抽象的な想像をすることしか」
美佳は首を振りながら言った。
会話が途切れた。
冴恵が麦茶を飲んだ。つられて私も、飲む。
こうして一息ついてみるとなるほど、落ち着く。
なぜか・・
ああ、そう、優しいのだ。色が。村の中に視界に映る風景と物すべてに、ひとつとして派手な色がない。この部屋だってそうだ。全体的に暗い色を基調としていてしかし、やわらかい。いや暗い色だからこそ、角立っていない。昔ながらの建築や様式はこうあるべき・・なのだろう。
「~ええ、そうこれは、わび、さびと云って~」
ふと、声がした。テレビの音だ。先程と同じ初老の男性が京の神社を散策している。左上に銀○○とテロップが出ているが、映されているのは観光名所であるらしい民家とも変わりつかない一宇の家屋。柿葺の屋根、壁は白漆喰と焦げたみたいな黒の木材だ。
侘び寂び。
貧粗。閑寂。物少なく暗澹たる静寂。それらに美しさと趣を見出す。
正にこの村に似つかわしい・・・いや・・展望台から見た赤色のトタン、ああ・・。そういえば途中で真っ赤なポストをみたような記憶もある。つまりこの村には不適当だ。
おもむろに冴恵が口を開いた。
「私が今まで抱いていた魔法に対する観念とはだいぶん、差異があるようですね」
「と、いうと?」
「絵本やアニメの魔法使いはそれはもう思い通りに、まるで自分の指であるかのように宝石のついた錫杖で空に魔方陣を描いて。身体の傍を風船みたいに浮かぶ雷玉を杖の一振りで射出して。それは光の尾を引きながら敵まで一直線。着弾地点を爆砕」
「ほう」また随分と荒っぽい魔法使いである。
「進む先に塞いでいる大木を空中浮遊させてどかす。なんなら自分の身体を浮遊させて空を飛ぶ。それに応じた魔方陣を描けば”無”から何かを”有”を生み出すことができる。召喚することができる」「でも」
正面の彼女は瞬きせずに私でない、空を見ている。美佳が後を継ぐ。
「大きさにもよるけれど行く手を塞いでしまうような、そんな大きなものは動かせない。云人がかりだったら別だけれどひとりでは。突然何かを生み出すなんてのは、もってのほか。召喚だなんて・・それは不可能」
「美佳のお父さんだったら?」「父さんは例外。」
「?。とにかく賤の方が使う魔法は所謂魔法、思うがまま融通の利く、非現実的な術とは違うようですね」
「いやあ、それでも、まあ。しかし夢のない話です」彼女は笑みを浮かべた。
「非現実的と、君は云うけれど」美佳は彼女を見据えた。
「僕たちからしたら、式神、でいいのかい? 人型のあれにはどうやらひとつひとつ、一個体ずつ? ひとりずつ。個人に意思が備わっているみたいだ。比喩でなく君たちが操る傀儡でないとしたら、僕にはあれが人間と変わりないように見える。それは非現実極まりないのだけれども」
滔々と述べるそれは、冴恵に向けた問い。
(またその話か・・)
私は嫌気がさして眉を歪める。宏司もしかめっ面をしていた。冴恵は難しい顔で話を聞いている。
「しかし郷村と他の四村は村人の間の交流が無いに等しくて、たまに互いの村を訪れる機会があったとしてもほんの一部。村の重役くらい」
「機会って?」こっそり宏司に訊いた。「定例会議。村長と何人かで赴くんだ」「へえ」
「類似した概念であってもしかし、本質は相違している。表面を少し削って観察する分には大差が無いのにその中心は似ても似つかない。云うなれば内に隠されている」「主観的には違和感がない。客観的には違和感しかない。僕の主観は第三者からすれば客観だ。すれば逆も同様に君の主観は僕の客観だ。顔を、頭部を突き合わせて話をしていてもその内側。脳を覗き見ることはできないから常に、ずれている。抽象的でしかない会話から”ずれ”が生じている。回数を重ねることで亀裂は大きさを増す」
「つまるところ、何を云いたいのですか」
訊く彼女を美佳は片手で制した。そして続ける。
「悪戯に、思わせぶりな応えは不毛だ。時間の浪費でしかない。いや、浪費に留まらない。無駄だ。訊くものを惑わし、困惑させる。捨て置けばやがて疑心を生む。それは悪化の一途を辿るだろう。非生産的だ。つまらない」
美佳は、謳う。冴恵は苦笑いである。
「それでもくだらないみえを張ろうとするのは君の自尊心。矜持。それとも自惚れか。」冴恵は眉根を寄せる。「どうだろう?」美佳は視線を流した。
「自惚れとは・・ことさら悪いような、貶めるような言い方を。・・まあそれは気にしなくてもいいか、、な。私個人の感情なんてのはどうでもいいんですけどね」
さすがに頭にきたのか合間、眉間を押さえて息を吐く。その息はきっと、熱を帯びているのだろう。
「私の言葉を聞いて高慢ちきな態度をしていると、そう思われたのなら謝罪します。ともあれ私はこの土地の人間で、美佳さんは他の土地の人間。主賓に来賓は遠慮するべきではありませんか?」
「主賓と来賓ってなんだ?」宏司が訊いてくる。「だいたい話の流れで察せない?」
「暗喩でしょ」
「そんな邪険にしないでくれよ。そうだね、自分に酔って言葉を選び間違えたのかもしれない。謝るよ」
「いえ」歯ですりつぶしたような言い方だ。
「周りに廻ったけれど。僕が云いたいのは式神のこと、ゆくゆくは」
「陰陽師、それの本質を知りたいと」
美佳は頷き肯定の意を示した。
「はあ?」「なんだぁ」
私と宏司は抗議の声を上げる。それならそうと、初めから云えばいいじゃないか。一言で済むことを、なんたって煙に巻くみたいに難しく続けるのか。
文句を言ってやろうか。美佳のわかりにくい話、それこそが不毛であると。でもうやむやにされそうな気がして、やめた。
ふと気づくと部屋に差し込む光の角度が変わっていた。いい感じに温かく、まどろみを覚える。あくびが出た。外からは子供たちの嬌声が聞こえてくる。今は昼下がり。学校に行かなくていいのかと、いらぬ心配をした。もしかすると初心学校生なのかもしれない。
一日中遊び惚けていた五、六歳時分に戻りたいと時々思うことがある。主に勉強をしている時にだが。・・勉強は嫌いだ。例えば、人生で円の体積を求めることはあるのだろうか。いったい、月の満ち欠けでその日が何日であるかを、判断することが。それらを日常生活で使うことがあるだろうか。すくなくとも、まだない。おそらくこれからも。
だからと云うのではないけれどもその、私個人では、美佳の云う本質。・・にまで踏み込むことはないと考える。特段、難しい話に興味があるわけでもなくむしろやめて欲しいくらいだから、私や宏司が訊く上っ面だけの質問を答えてくれればいい。
要は張り付いたままの不安を、払拭してもらえればそれで満足だ。なんなら、それが嘘だとしても構わない。それは宏司も同じだろう。しかし。
冴恵に投げかけている美佳の目は真剣そのもので、彼女の意志は堅そうであった。有耶無耶に偽が混じることを許さず求めるは真理のみと、黒い双眸が二つ。凛として揺るがない。
はっ、とした。展望台での話を思い返すに美佳は初めから、すべてとは云わずとも私が求めているくらいの情報は得ていたのではないか。だからといって、いくら彼女とて私の心の内を見透かせはしないし、あの時自分から話そうとせずに宏司に説明させたことを一概に批判することはできないのだけれど。
こんな考えは美佳からしたらいい迷惑なのかもしれないが、どうにも引っ掛かりを覚えてしまう。
例えば。あの冷たい混凝土の牢で「僕が説明するよ。実は此処に以前訪れたことがあるんだ」・・・と一言云ってくれさえすれば。その時点で私の懸念は多少解決するはずで、幾ばくかの心の余裕もできたろうに。
今更憤っても詮無いけれど。現在は四半日を掛けた遅足である。
美佳のしてることがいちばん無駄。
はぁ。脱力。
ぼう、としていると無意識に美佳のあら捜しをしてしまう。ので、テレビに意識を向けることにした。いつのまにか番組が変わって、画面の中に対座する二人の男性が将棋を指している。時々画面いっぱいに盤面が映されたけれど、ルールがわからないので面白くもない。
「なんでもいいけどよーー」宏司が云う。
「式神とか陰陽師だとかは置いておいて、これからどうするのか決めようぜ。村長と役員の話し合いとやら、まだかかるんだろ?ずっとこうして、だらだら待つのもなぁ」
「それには僕も同意するよ」美佳は目を閉じた。心なし控えめに続ける。
「さしあたり村を案内してもらいたいんだけれど、だめかな?」
「おっ、それいいな」
「だろう?」
会話を聞いて冴恵は腕を組んだ。やがて、
「ふうん」決まったようだ。
「いいですね。そうしましょうか。話し合いがいつ終わるかもわからないですし」
「年寄りの話は長いしな」
苦笑いで冴恵が腰を上げる。
「そうと決まればすぐに動きましょう。・・あ、それ飲んじゃってください片づけていくので」
「ん。麻姫も飲んじゃえよ」
「うん」
言われてコップの残りを飲み干した。空になったそれを冴恵が重ねていく。おかきの包みも四つまとめてコップの内にねじ込んだ。
「皆さんは先に外で待っていてください」
「わかった」
やることが決まれば行動は速い。他の三人も立ち上がって順に部屋を出る。私たちは玄関に、冴恵は奥へと消えた。
外に出て、待つ。結構な時間が経っているかと思いきや太陽の位置は変わりっていないように見えた。
少しして冴恵が出てきた。手に四角い紙を持っている。自然と冴恵の周りに集まった。彼女は四角く折りたたまれたそれを広げる。
村の地図だ。端に黒のクリップで小さな針が留められている。冴恵は右の指先で針を摘まみ上げると同じ薬指の先にあてがった。
「!?」
マッチを擦るみたいに、弾く。指先から血が染み出した。
血が指の腹を伝い地図の上に一滴、垂れる。滲んで輪染みになるのかと思いきや、赤黒い線が収束して丸い点になる。それは独りでに横滑りして、止まった。
・・もしや、と。
「この○が現在地なの?」
しかし冴恵はかぶりを振った。地図を指さして言う。
「今いるのは、ここ。そして今から向かうのが黒い点の場所です」
なるほどこの点は目的地を示しているようだ。火のついたマッチ棒を振って消すみたいに指先を払う冴恵。その後ぺろりと、傷口を舌で舐めた。
「はい」おもむろに地図を差し出す冴恵。
「あ、うん」
受け取る。
・・目立たないけれど血だよねこの黒点。
できるだけ端の方を持って広げた。いやぁ、こうして正面にしてみると何て云うか・・。
真ん中下に赤黒い点。これが現在地だ。そして紙面を上と下に分かつ山。上の方と下の方では区別があるらしくてそ、れぞれの名称とおぼしき漢字がふたつ書き殴られている。他にもいくつか漢字が書かれているが、どうやらこれも何かしらの名称みたいだ。普通名詞には思えない。
・・あと、川。右下の三本の波線はたぶんそうだろう。
他は・・
・・それだけ。
・・・
「ざっつい」
数歩先で冴恵が手をこまねいていた。