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3−1、トリフォリとオドロア(余韻)

 筆に絵の具をつける。

 選んだ色は、いくつかの色を混ぜ合わせて作った、深い紅。

 それをほんの少し、台座に張った麻の布に奔らせて、筆を置く。

 そして被写体を見て、今度は黒の絵の具を別の筆に付けて、布に、また僅かに奔らせる。

 ほんの僅かに。

 そして、筆を置く。


「はぁ……」


 溜息を、一つ吐き出す。


「終わったのか?」


 問われ、トリフォリ・クロバ・フォウ・シャムシャジークは慌てて顔を上げた。


「あ……いえ、まだです。まだ終わってなど……いえ……もう、もう大丈夫です」


「もう動いていいのか?」


「はい。どうぞ。オドロア様」


「わかった」


 オドロア・ジン・シキミ・ミトラレスは座っていた椅子からすっと腰を上げた。


「申し訳ありません、オドロア様。長い時間、そのようなところに座らせてしまいまして……」


「構わない。我々の生きた時間からすれば、この程度は長いとは言えない」


「それは、そうでしょうけれど……」


 自虐なのか。気休めなのか。本当に長いと思っていないのか。

 間違いなくそれが真実の言葉であるとはわかっているけれど、前者だと思ってしまう自分が恥ずかしい。と、トリフォリは思う。


「それで? 絵を見せてはくれないのか? 完成したのだろう?」


「……いえ、大変申し訳ありませんが、これは書き損じました」


「何?」


「すぐに廃棄します」


 オドロアの脚が一歩踏み出したのを見て、トリフォリは慌てて乱暴に布を台から剥がし、ぐしゃぐしゃに丸めてしまおうとした——が、そうしようとした直前で両手は空を切り、布はオドロアの手に渡っていた。

 血だ。

 いつの間にやら、目に見えない程に極々細くした血の糸が伸ばされており、布を引っ張ったのだ。


「オ——オドロア様! お戯れは——」


 やめてください!

 それは心の底から出そうになった本音。

 やめてください。

 それを見ないでください。

 どうか返してください。

 そういう言葉を吐き出そうとして、その前に返ってきたのが、


「よく描けている」


 驚いたような、温度のある感嘆混じりの一言だった。


「この城の中でずっと絵を描いていたと聞いたが……なるほど。大したものだ。美しく描けている」


「そ、そのような事は……」


 ありません。

 この程度では。

 美しいなどと。

 そう言ってしまうのは、失礼にあたるか……。

 反論を口に出せずにいたところ、


「私は美しいと感じた。それをそのまま口にしただけだ。逆に問うが、ここまで描けているものを何故捨てようとしたのだ?」


 自らの描いた絵が自らに向けられた。

 さながらこれまでの悪行を書いた紙を突き出されているようで、過度の緊張による体温の上昇を感じる。耳の端までが赤く染まっていく。


「何故だ? トリフォリ」


「……」


「答えたくないのならば、それもまた一つの答えと私は受け取る。時として沈黙は何よりも多くを語るものだ」


「……」


 言えません。

 その絵は捨ててください。

 沈黙の中で語った言葉。

 それを受け取ってか、オドロアは言った。


「よし。わかった。この絵は私が貰っておこう」


「え!?」


「何か不都合があるのか? 捨てるという事はそなたが所有権を手放したという事。それをどうしようが私の勝手ではないか?」


「そ、それは……」


 何か反論をしなければ、と思う。

 しかし、上手く言葉が出てこない。

 オドロアが、自分の書いた絵を貰い受けるという事。

 それはあってはならぬと思うのだが、心の何処かでそれを望んでいたと大声を張り上げている自分がいるのもまた事実。

 何も言わずに受け取らせるべきだ。と心の声が叫ぶ。

 事情を説明して手放させるべきだ。と心の声が諭す。


「トリフォリよ。そなたの悪いところは、私に気を遣い過ぎるところだ」


「オドロア様……」


「そなたが私に憧れを抱いている事は、もう知っている」


「……っ」


 頬に赤みが差すのがわかる。

 自らの秘め事が他人の口から出てくるのは耐え難い。


「その憧れ故に、この絵を捨てようとしたのか?」


「……」


 視線を下げる。

 絵を、オドロアを見ないようにする為に。


「トリフォリ。私を見ろ」


「……はい」


 視線を上げる。

 舐め回すように、というのは憧れる相手に対して不適切な表現になるが、自身の行先を切り開いてきたすらりとしたつま先から、とてもかつての戦いで第一線を戦い抜いたとは思えない程に細い胴体、光を放っているかの如く美しい顔、触れれば雲のように指と指の隙間を遊び抜けるであろう髪の毛先まで、つい見てしまう。見入ってしまう。


「何故私がここにいるのかわかるか?」

 

 その立ち姿から想像出来る通りの、一切の狂いがない凛とした声。

 耳の中が震え、また視線を下げてしまいそうになるが、叱責の言葉を受けるのが恐ろしくて耐えた。

 そして問いの答えを考えた。

 無論、問われるまでもない。

 それは、自分が呼んだから。


「最後の時が迫る中で、何故私がそなたといるのか」


 それは、自分がそれを望んだから。

 それ以上の理由は無い。

 これは全て自分が望んで作り出した状況である。

 吸血鬼がいたという事実を後の世に残す為に絵を描きたい。と言った。

 それで、オドロアを自身の城に呼んだ。

 半分は建前である。

 オドロアの絵を、オドロアを見ながら描きたいと思っていたのは本当だ。

 けれど本音は、単にオドロアと共に過ごしたかっただけだ。

 ロジェとの戦いの後、吸血鬼がこの世界からいなくなるという事を、オドロアとトリフォリは各地で説いて回った。

 日の光を戻す事を目的としていたアルザギールは勿論率先して、二人とは別の地で説いて回った。

 インカナとルーレスとバルヴェニアはわれ関せずに好き勝手に日々を過ごしていた。

 そのせいで、忙しい日々だった。

 移動を続けた。二人きりで。慎ましく。

 行く先々で、支配者がいなくなる事を嘆く者を見た。

 内心ではそれを喜んでいると思われる者もいた。

 何故? という問いに答えを返した。

 これからどうすれば? と迷う者に道を指し示した。

 戦いの日々とは違った。

 人を導く日々だった。

 それは大変な日々であったが、充実した毎日でもあった。

 穏やかに時が流れた。

 そして、静かに終わった。

 それで、別れるはずだった。

 お互いに自分の領地へと戻り、最後の時を待つつもりだった。

 なのに、トリフォリは、それを拒否した。

 まだオドロアと共にいたいと願い、理由を探した。

 それが、絵を描きたいというものだった。

 オドロアがここにいるのは、そういう事だ。そういう事でしかない。

 自分が望んだから。

 トリフォリはそう思っている。


「そなたは、自分がそれを望んだから。と思っているのであろう」


 そうだ。その通りだ。

 それ以外の理由があるだろうか?

 いや、ない。

 オドロアは優しいから、自分に合わせてくれているのだ。

 そう、思っていた。


「何故こう考えてくれない? 私も、そなたといる事を望んだのだ、と」


「え——?」


 間の抜けた声が口から漏れてしまった。

 恥ずかしい。と羞恥を感じるよりも先に感情が動き、問い掛けていた。


「それは——それは、どういう意味なのですか?」


「言った通りの意味だ」


「オドロア様も、私と一緒に……」


「そなたの傍にいたいのだ」


「——」


 まさか。

 ご冗談を。

 そのような言葉を発すると失礼に当たる。

 口を噤む。

 飲み込んだ言葉を臓腑に落とすと、それが呼び水となったのか、様々な記憶が蘇ってきた。

 以前いた世界。人間同士の醜い争いの果てに全てが滅び去り、戦う為に生み出されたのに、何をやり遂げるわけでもなく、残されてしまった吸血鬼達がなんとも言えない顔をしているところを思い出した。

 かつての大戦。血に満たされた戦場で輝きを放っていたオドロアの姿が思い浮かんだ。

 戦いが終わり、何もやる事がなくなり、城に引きこもった。

 少し前は、思い違いをしてオドロアを刺した。殺そうとした。思い出しただけで死にたくなる。

 最近は、共に旅をした。

 良い記憶がある。

 悪い記憶がある。

 そのどこにも、オドロアがいた。

 オドロアがいない時は、その姿を思い描き、絵にしていた。

 強く想っていた。


「少し前に、私はそなたにこう尋ねた。共に生きてくれるか? と。そなたは頷いた」


「……はい」


「あの言葉に嘘はない。そして、ここまで私と共にいてくれたのは、そなただけだ」


「そんな事は……」


「周りに他に誰かいるか?」


「……」


 いない。

 永い時を生きる吸血鬼と共に生きられる者は吸血鬼以外にいない。

 時の重さの哀しみを噛み締めている。

 同時に、自嘲気味な空気も感じた。

 恐らく、アルザギールやインカナのように共に一つの事を成そうとする仲間を集めなかった事で、今一人になってしまったと言いたいのだろう。

 何もしなかった。

 オドロアも、トリフォリも。

 かつての戦いで勝利を納めた。それで良しとした。

 それで終わりだった。

 彼女たちの物語は。

 今は、その余韻に過ぎない。


「私にはそなたしかいない」


「……私もです」


 二人きりだ。

 誰もいない。

 傷を舐め合っている。そう言われても構わない。

 下らない慰め合いだと侮蔑されても、構わない。

 他には誰もいないのだ。

 もう、世界は完結しているのだ。


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