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2、ルーレスとトランキノ

 その日は、血の匂いがしなかった。

 森の深いところまで来たというのに、緑の匂いしかしない。

 巨獣の気配も無い。

 いつもなら、強い獣臭がする。

 それがない。

 だから、エリエア・トランキノは、ああ今日がその日なのだな。と何となく思った。

 そしてそう思ったその時に、左の視界に目的とした者を——巨石の如き後ろ姿を——捉えた。


「森が静かだな」


 声を掛けた相手はこちらに気付いている。

 なので、わざわざ名を呼んで注意を惹かなかった。

 地面に腰を下ろしている巨大なる相手——ルーレス・ノビリス・ベイ・ルーレル。岩の量感を持つ彼が、首だけを動かしてトランキノの方を向いた。


「不気味か?」


「嫌な気配はしない」


 嵐の前の静けさ。というものとは異なる。

 何か起こる直前の前兆としての静寂ではない。

 落ち着いている。

 まるで眠っているかのように。


「もうここに血に飢えた巨獣はいないようだ」


 ルーレスが森の奥に視線を向けた。


「更に奥にはいる」


 トランキノも同じく。

 だが何も見えない。片目で視力が落ちているからではない。失った部分を補う為に五感は更に研ぎ澄まされているが、生き物の動きを感じ取れない。

 けれど、いる。と彼女は思う。

 巨獣はまだいる。


「かもしれん。が、今日は見ていない。もしかすると、やつらも何かを感じ取っているのかもしれんぞ」


「やはり今日がその日なのか? アルザギール様から知らせが届いたのか?」


「いや、何となくそう感じているだけだ」


「勘か」


「勘だな」


 自分の言った事が面白いのか、ルーレスは小さく笑った。

 トランキノは笑わなかった。自分もそう思っているからだ。

 それに、ルーレスの勘は当たる。吸血鬼として鍛え抜かれ、研ぎ澄まされた能力が、世界の何もかもを感じ取っている。だから、当たる。


「エリ、腕の調子はどうだ?」


「不便だ。弓が引けない。口で引くからいいが、前よりは素早く射てん」


 視線を落とす。そこには三角巾で釣られた手の無い右腕がある。


「そうか……眼はどうだ?」


「不便だ。片方の視界は距離感が掴みにくい。無論、もう慣れたがな」


 視線を横に向ける。そこには虚ろになった右目を覆う眼帯がある。

 どちらも吸血鬼ではない彼女には取り返しのつかない深い傷だ。


「そうか……」


「謝るな。ルーレス様」


「なに?」


「ルーレス様は今、俺様の仲間がすまない事をした……などとつまらない事を言うつもりだった」


「つまらない事ではないのだが……」


「謝罪など不要だ。これは私が弱かったからこそ受けた傷。戒めだ。この傷は。そして勲章でもある。結果的に強敵を屠ったのだからな」


「強敵、か……」


「ルーレス様の友を殺したことを、自分は謝らない」


「謝る必要など無い。弱い者が死んだだけだ」


「それと同じだ」


「……まあ、そう言われればそうだが……」


「だから、謝るな」


「……そうだな。そうするか。俺様は謝らん。俺様がお前の腕と眼を奪ったわけではないのだからな」


「そうだ」


「しかしアルマのやつ……矢を眼に喰らうとは……油断し過ぎだ……全く……鍛錬を怠っていたに違いない」


「おい。そこは自分の技を褒めるべきではないか?」


「そうだな。本当にお前は大したやつだ。エリ」


「ふふん」


「まあ、俺様には当たらんがな」


「試してみるか? と言いたいところだが、腕がこれなのでな」


 挙げた右腕の先には、何も無い。厚く巻かれた白い包帯があるだけだ。

 だが自虐の雰囲気はない。事実を言っただけ。という表情である。

 故に、彼女は気不味そうに沈黙するルーレスに言った。


「悲しそうな顔をするな」


「してない。と言うか、見えないだろう? 俺様の顔は」


「気配でわかる」


「……いいや、違う」


「違わない。ルーレス様の気配はわかりやすい」


「違う。俺様は驚いているのだ」


「驚いている? 何にだ?」


「それはあれだ……えー、あれ。あれだ」


「あれとは何だ? 言ってみろ」


「あれはあれだ。あれは……そうだ。お前が男共に言い寄られているという事についてだ」


「……」


「何故それを知っている? という顔だな」


「何故それを知っている?」


「少し前に狩りにやってきた若い衆が話していた」


「どのような話しをしていた?」


「やはり結婚するなら強い女に限る。という話しだ」


「……」


「強い女と結婚するには自らが強い男であると証明しなければならない! だからここで大物を仕留めてエリエアに求婚するぞ! と息巻いていた」


「……」


「誰と結婚する事になった?」


「……」


 先程の沈痛さはどこへやら、ルーレスの声色が茶化したものになり、逆にトランキノはさっきと打って変わって沈黙した。


「黙っているという事は決めかねているな?」


「……」


「そうか。わかったぞ。お前が俺様のところに来たのは、若い衆から逃げる為だ。そうだろう?」


「それは違う」


 ようやく、彼女が声を発した。


「何? 違うのか?」


「それもあるが、それが全てではない。自分はルーレス様に会いたかった」


「くくっ。嬉しい事を言ってくれるなぁ」


「最後の時が近いからな」


「そうだな。その時は近い。……やっと、終われる。終わる事が出来る」


「強過ぎて死に場所を選べなかったとは。大したものだ。流石は最強の吸血鬼と名高いルーレス様だ」


「まさか最強である事でこんな風に困るとは思ってもいなかったがなぁ……」


 自嘲気味な笑い。

 そして、過去を振り返る遠い目を森に向けた。


「死を望んでいたのであれば、他の吸血鬼に殺されれば良かったのではないか?」


「馬鹿な事を言うな。そんな無駄死にが出来るか。俺様は戦いの中で死にたかったのだ。相手の強さに呑まれ、消えてしまいたかったのだ。己よりも強い者の一部となりたかったのだ」


「死ぬにしても、更なる強さを生み出す為にその身を捧げたかったという事か。それ程までに、自らの先にさへ強さを求めていたのか」


「その通りだ」


「しかしそうはならなかった」


「困ったものだ」


「最後なのだから、オドロア様にでも勝負を挑んだら良かったのではないか? 近くでその戦いぶりを見たが、あの御方は凄まじかった。ユーリでは比較にならん。オドロア様は最強に限りなく近い強さを誇っていた。戦うなら、今からでもまだ間に合うかもしれんぞ?」


「友と拳を交えるつもりはない」


「ユーリとは交えていた」


「あれはユーリを鍛える為だ。殺す為ではない」


「ユーリは友なのか?」


「あいつは友であるアルザギールの友だ。友の友は友だ」


「なるほど。友の友は友か。いい心がけだ。……ああ、それにしても……このような話をしていると、やはりルーレス様がいい。と自分は思ってしまっている」


「いい? 何がだ?」


「結婚する相手としてだ」


「は——はぁっ!?」

 

 強烈な不意打ちに、ルーレスは威厳も何も無い間の抜けた声を発してしまっていた。

 一方で、トランキノは真面目に続ける。


「ルーレス様の子供が欲しい」


「ちょ、ちょ、ちょっと待て。待て。若い衆はどうした?」


「あいつらは強いが最強ではない」


「でも強いぞ。先日も大物を仕留めていたぞ」


「だが、最強ではない。最強はルーレス様ただ一人だ」


「それはまあそうだろうが……」


「だから、自分はルーレス様とがいい」


「それでここに来たのか? その……子作りする為にか?」


「そうだ」


 思いもしていなかった話になってしまった。

 ルーレスはやれやれと頭を抱えて、重々しく息を吐き出した。


「……二つ悪い知らせがある」


「何だ?」


「一つは、俺様がこれから日の光を浴びて死ぬという事だ」


「そうだな。ならその前に済ませればいい。二つ目は何だ?」


「吸血鬼は子供を作る事が出来ない」


「何? そうなのか?」


「ロジェが色々と試していたようだったが、無理だった」


「女の吸血鬼はどうなのだ?」


「女の吸血鬼も子を孕む事は出来なかったと聞いた」


「何故だ?」


「恐らくだが……強く、死なないからだろうな。最強の生き物ならば子供を作る必要は無い。という事なのだろう」


「そういうものなのか」


「俺様はロジェと違い試した事無いので詳しくは知らんが、そういうものだと聞いた」


「残念だ」


「お前のような美しい女からこんな事を言われて断るしかないのは……俺様としても残念だ。が、これはこれでいいのだろうな」


「何故だ?」


「吸血鬼が増え続けるとろくな世の中にならん。争いが激化するばかりだ」


「力は力を呼ぶ。という事か」


「そういう事だ。だが、それももう終わる」


 溜息を一つ。

 岩の如き見かけとは裏腹に軽く吐き出されたそれは、心の重荷を口から出したかのようだった。


「墓はどうする? 作った方がいいのか?」


 その背に、トランキノが尋ねた。


「いらん」


「そうか」


「灰になって風に飛ばされる。それに任せる」


「そうか」


 頷いて、再び口を開く。


「死に場所はもう決めているのか?」


「特には決めていない。森をふらついて、日の当たりが良さそうなところで光を浴びて死ぬつもりだ」


「そうか」


「悲しそうな顔をするな。エリエア」


「そんな顔はしていない」


「最後なんだぞ。そういう顔をしろ」


「自分は狩人だ。ここは狩人の村だ。村の者が巨獣に殺されるところを何度も見てきた。身近な者の死を何度も見てきた」


「……それもそうか」


「そうだ」


「お前の村のやつらを殺した巨獣を、全て殺し尽くす前に死ぬ俺様を……どうか許せ」


「許す。巨獣を狩るのは自分達の仕事なのでな」


「そう言ってくれると俺様も気が楽だ」


 小さく、笑った。

 そして、立ち上がった。

 それだけで、地が震えた。

 やはり、圧倒的だ。

 とてもこれから死を控えている存在には見えない。

 しかし、それでも、死は彼に訪れる。


「行くのか? ルーレス様」


「ああ」


「そうか」


「そうだ……あー……折角だから言っておくか」


「何だ?」


「お前は早く結婚して子供を作れ。貰い手があるうちが花だぞ」


「言われずとも。強き子を残す為に強き者を娶るつもりだ」


「……自分で言っておいてなんだが、お前は結婚に前向きなのだな。正直意外だぞ……」


「意外とはなんだ。強き者と結ばれ、強き子を育て、森を守っていくのはトランキノの一族として当然の事だ」


「そういうものか」


「そういうものだ」


 トランキノの反応が予想していたものと違ったのが面白かったのか、ルーレスは「くくっ……」と笑った。

 大きなものではなかった。どこか寂しげな響きがあった。

 だが、心の底から愉快なものでもあった。


「お前の子供を見られないのが残念なところだが……そろそろ行くとしよう」


「そうか」


「ああ……じゃあな、エリ」


「さらばだ。ルーレス様」


 最後に交わす言葉はとても少なかった。

 互いに、一言ずつ。

 まるで、また明日会う事を約束しているかのようだった。

 けれど、お互いにわかっていた。

 これが今生の別れであるという事を。


「ルーレス様。この森を守り続けてくれた事に、これまでのあなたの戦いに、感謝を捧げる」


 ルーレスの背が森の奥へと溶け込んだところで、トランキノは言った。

 森に僅かなざわめきが走った気がした。

 ルーレスが後ろ手に手を振ったのだろう。

 片側だけの視界では見えなかった。

 ただ何となく、そんな気がした。


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