城塞サイド2−3、余裕。
やられた。
そう口惜しく思うよりも先に、アルマは感心していた。
右だけの視界で捉えたのは、仰向けの姿勢で上体を起こし、一射放ち、左手に弓だけを握っているトランキノの姿。
どうやって射った?
右手は無いのに。
使えるとしたら、口か?
歯か。
それで矢を引き絞り、射ったのか。
凄まじい。
このような敵と味方の間柄ではなかったら、手を叩いて拍手を送っていた。
「油断したな」
文字通り一矢報いたトランキノの左の顔面は血に塗れている。
特に目の周辺部分の損傷が酷い。
爪で引き裂かれ、そのまま眼球を抜き取られたからだ。
ごっそりと抉られた肉。覗く白い骨。虚ろな眼下。
常人ならば意識を失い死に至る程の重傷。
戦場に身を置く者であっても、痛みに呻き、苦痛の声を漏らす。
それを彼女は堪えた。
意識を失う事を良しとせず、痛みを訴える事を嫌い、静かにその時を待った。
彼女はこれを好機だと認識していた。
先の攻撃で利き腕である右手を失い、今の一撃で左目を奪われ、喰われた。
多くの血が流れた。他の種族であれば致死に至ってもおかしくない傷を負った。
……けれどそれで、敵が自分を死んだと思ってくれるのであればそれに越した事はない。
アルマはトランキノの事を戦士だと認識していたが、それは間違いだった。
彼女は狩人だった。
ひたすらに息を潜め、隙を窺う事には慣れている。
吸血鬼同士の戦闘の最中、何か一つ間違えば即死する暴風が渦巻く中で、彼女はただただ、その時が訪れるのを待った。
一切の気配が無い、獲物を仕留めるに足る完璧な一撃を放つに相応しい瞬間。
アルマが勝利を確信し、気を抜く瞬間を。
「む、う……」
ぐらりと体が揺れた。
脳の損傷は小さくない。
視界の狭窄。
平衡感覚の欠如。
吸血鬼二人に対してほぼ無傷で戦闘を終わらせたにも関わらず、殺したと思っていた、遥か格下と思っていた相手から一撃を貰ったという事実。
誇り高い者であれば、この事実を受け入れるのに時間が掛かったに違いない。
トランキノにとって不幸だったのは、アルマがそういう者では無かったという事。
「いやはや……大したものじゃな……」
この世界の生態系の頂点に君臨し続けた者でありながら、彼の思考は整然としていた。
弓を引いたの口か。それでこの小さな瞳を寸分違わず射抜くとは、何という絶技だろうか。
この場で死んだふりをし続けられるとは、他に類を見ない胆力だったなあ。
ここまで巧みな技を誇る獣人には初めて出会った。
「お返しと言ったか? 獣人のわりに、よくやるものよ……」
「お褒めに預かり光栄だ」
本当に大したものだ。
彼はひたすらに感心していた。
だからこそ、余裕を持っていた。
矢はいつでも抜ける。傷はすぐに再生する。死にかけの敵はいつでも殺せる。
いい一撃を貰ってしまったが、依然として自分の優位を揺るがない。
そう思っていた。
それが——
「どれ、とどめを——?」
彼の不幸であった。
トランキノのところまで近付いていこうとして、その脚が前に出る前に——何かが彼の胸から飛び出ていた。
「ぬ——?」
余裕があった。
それで、驚かなかった。
浮かんだのは疑問。
何だこれは?
黒く、細く、薄く、長い。
棒——ではない。
槍、でもない。
何だ?
「よくやった、トランキノ」
静かな声だった。
「お蔭で突き刺せた」
闇に溶け込むくらいに。
けれどそれは闇そのものではない。
実体のある存在だ。
「ぬ、おぉ——!」
「うおっと!?」
声の聞こえた方向。背後に放った裏拳。
それが空を切った。
手応えはない。
だが、その一撃と共に背後を振り返った事でそこにいた者の姿を眼にする事が出来た。
「危ない危ない……もう少しで当たるとこだった。やっぱり吸血鬼ってのは厄介だな」
それは、上から下まで漆黒の衣を身に纏っていた。
髪も黒く、顔を黒い。
それは、黒耳長の女だった。
「儂の背後をこうも容易く取るとは……お前さんもかなりの手練れじゃな……」
「一応挨拶しときましょうか。フォエニカル・フィオネルという者です。アルザギール様のとこで警備隊長をやってます」
「ほう……アルザギールの……」
再び思う。
大したものだ、と。
自らに戦う力が無い事を悲観せず、代わりに戦ってくれる者を集めたその手腕。
思えばそれはかつての大戦の頃からそうだったか。
人望に厚いのがアルザギールの長所だった。
今もそのようだ。
変わらない。どの吸血鬼も。
それが種族の限界であるとして絶望するのか。
それでいいと割り切って生き続けるのか。
自らを変えられないなら世界を変えようと行動を起こすのか。
何をどうするもそれぞれの自由だ。
その結果がどこに行き着くのかは誰も知らないが……。
「あのですね、アルマ様。なんかこの状況を面白がってるみたいですけど、それ取らなくていいんですか?」
「なんじゃと……?」
「吸血鬼の方々って不死に頼ってるせいか基本油断してますね。ここは血の匂いで満たされているから気付いてないみたいですけど……それ、血の剣ですよ」
「——!」
アルマにとって幸運であったのは、彼が吸血鬼故に即死しない事であり。
不運だったのは、即死しないからこそ余裕を持っているという事だった。
どのような攻撃を受けても、大事はない。
大したものだと感心する。
種族的には弱者でありながらも、身に付けた技量によりそれを補っている事に驚く——つまりは、見下していた。
この程度、大した事はない、と。
それにより、
「おせーよ」
この血の匂いがインカナのものであるという事に気付かなかった。
倒れ伏しながらも、向けられた不敵な視線。
それが意味するところを悟り、刺さっているものを、刺突剣を抜こうとしたが——
「お返しだぜ」
インカナの言葉通り、遅かった。
剣が形を変えた。
無数の棘が、アルマの肉体を内側から突き破った。




