城塞サイド2−1、吸血鬼達
アルマ・モリア・ノーア・ハイズという吸血鬼について、世間に流れている噂は良いものしかない。
年老いた者のような白髪、白髭。
落ち着いた紳士然とした風貌。見た目だけではなく、老婆には手を貸し、重い荷物を運んでいる者がいれば代わりに担ぎ、心根の良い者を讃え、卑怯者の性根を正し、強きを挫き弱きを助ける。
人々は彼を大きな親しみを込めて「親愛なるアルマ様」と呼ぶ一方で、子供達は「お爺ちゃん」と慕い、共に泥に塗れて遊ぶ事もままある。
それはあまりにも気さく過ぎる姿だが、為政者に相応しいとされ、彼が治める領地に住む者達は、惜しみなく彼に称賛の言葉を送る。
バイロのような享楽による統治を良しとせず、住民達との触れ合いを第一とし、バイロ亡き後に戦奴の存在の是非が問われた際には、アルザギールに同調する形で自らの領地から奴隷商を排斥し、改造を主とする魔女達も領地への立ち入りを禁じた。
その政策は住民達に安堵を与え、彼の治める場所に更に多くの人々が集まるようになった。
今この時も、人々は与えられた幸せを享受している。
しかし、それがある一つの目的の下に行われた行為だと知っていれば、住民はどう反応しただろうか?
追い出された戦奴と奴隷商はどこへ行ったのか?
魔女達は?
人々はそれをわざわざアルマに問う事は無かった。
永い時を掛けて積み上げてきた人徳が、問う事を失念させた。
あいつらはどこかに流れて行ったのだ。そうに違いない。
そう思っている。
既に意識から消している。
その結果何が起こったのか、人々は知らない。
まさか彼らが街から排除されたのではなく、次の働き口を紹介されていたなど夢にも思っていない。
自分達の幸福な生活が、無数の人々の血の上にある事など、知りはしない。
「おかしいとは思ってたんだよなぁ。アルザギールがてめぇをここに呼んでなかったからよぉ。なんか腹に黒いもんを抱えてんだろうなぁ……って、それなりに警戒はしてたわけなんだが……まさかロジェと組んでたとはなぁ」
「アルザギールの目指すところは、何となく予想がついておったからなあ……」
アインから距離を取るアルマ。
逆に、アインを庇うように前に立つインカナ。
「何だ? 知ってたのか? 日の光を戻すってやつについて」
「あくまで予想じゃったがな。やはりそれで当たりか……」
「あ? 何だそのがっかりした顔はよ?」
「他の目的であって欲しかったわい。これではどうあってもアルザギールを殺さねばならなくなった」
「アルザギールを殺すねぇ……何だそりゃあ? 死にたくねぇってわけか?」
「誰だってそう思うじゃろう? 生きているのだから生きたいと思うのは当然じゃろうて」
ちらりとトリフォリを見る。
間合いの確認と、同意を求めるように。
視線を向けられたトリフォリは無視している。
代わりに、インカナが大仰に口を開いた。
「まあなぁ。死んでくれって言われて死ぬやつは普通いねぇよなぁ。生きたいって思うのが当たり前だよなぁ」
「じゃろう?」
「ああ。そーいう気持ちはわからねぇでもねぇよ」
「わかるのならば……生きようではないか。こちらに与するというのならば、お前さんにはこの世界の三分の一をやるぞ?」
「はっはっ! そいつはご機嫌だなぁっ! このインカナ様とてめぇとロジェとで世界を山分けってわけか!」
「悪い話ではあるまい?」
「悪くはねーな」
インカナが小さく笑った。
アルマもまた同じく。
一方で、トリフォリはため息を吐いた。
彼女は知っている。インカナの性格を。アルマの事を。
「でもよぉ、よくもねーよなぁ」
「良くないじゃと?」
これが不毛な会話であると。つまらない茶番であると。
「いつまでもあたしらがここにいたんじゃあよぉ。この世界に元からいたやつらはのびのびと生きてけねぇだろうがよ」
「何を言うかと思えば……のびのびと生きておるではないか。儂らのお蔭で」
「このインカナ様たちに怯えてびくびく生きてるの間違いだろ」
「そうであっても……巨獣に怯えて生きていたあの時と、どちらが良いと思う?」
「そりゃあ今の方が断然良いだろうさ。でもそれは結局あの時と比べてみて今の方が良いってだけだろ」
この幸せは相対的なものである。
インカナはそういう事を伝えたかった。
それは伝わった。
「お前さんは……やはり、そう答えるか……」
「結局のところ、あたしらは部外者さ。この世界はこの世界のやつらのもんって言いてぇわけよ、このインカナ様はなぁ」
インカナがアインの頭を撫でた。
がさつに、わしゃわしゃと、しかし愛情の籠もった手付きで。
「よく生きてたな。褒めてやるぜ、アイン」
「げほーっ……」
軽口を叩こうとして、アインは激しく血を吐いた。
傷は深い。
ひと目見てわかる。
インカナとしても、とりあえずどこか安全な場所に連れて行き治療を施したいところではあるが、そんな暇など無く、それをアインも理解している。
ただ、彼はトランキノの事が気に掛かっている。
生きているのか、それとも……。
そういう意図を目配せでインカナに伝えたのだが、彼女は相対するアルマを睨んでいた。
他人の兵まで気にする余裕が無い……だがそれも当然だ。
何せ相手は吸血鬼なのだから。
力の一端を身を以って味わったアインは、そう思った。
それとほぼ、同時に、
「お二人とも、お喋りはお終いでよろしくて?」
トリフォリが血の槍を構えた。
「ああ。終わりだ。もうこいつと話すことはねぇ。こっからは……これで相手してやんよ」
インカナの右の掌から流れ出ている鞭の如き血が、ゆるゆると鎌首をもたげた。
「そうじゃな。ここからは……拳で押し通るとしよう」
アルマもまた、二人に合わせて両手に血の手甲を形作った。
甲の部分と五指それぞれに纏わりつく血液。
この場にユーリがいれば、総合格闘技などで使われるオープンフィンガーグローブを連想しただろう。
手を全て覆うグローブよりも自由度の高い形に造られているそれは、紅が深みを増し、黒へと至っている。
一体どれほどの量の血液を重ねれば、そのような色になるのか。
高密度である。
とてつもなく。
「へっ……」
それを見て、インカナは笑い——
そして、それが戦闘開始の合図であったかのように——
血が、狂ったように舞い踊った。




