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城塞サイド1−2、戦闘開始。

 全く気配を感じなかった。

 背後から来るとは聞いていた。

 それなのに、まるで気付かなかった。

 狩人であるこの自分に気取られずにこんな事を出来る者がいるとは。

 信じられない。

 驚愕が頭の片隅を過っている間に、トランキノの体は大きく後方へと傾いだ。


「ぐ——あぁっ!?」


「トランキノさん!?」


 アインが驚いて声を発した。

 その時には既に、トランキノは反対側まで引き摺られていた。

 屋上は広い。

 当初は吸血鬼同士の会談をここで開く予定だった。そのような事を行っても過不足がない程度に——例えば人が十人程度横に並べるくらいの広さがある。

 そこを、あっという間に端から端からである。

 とてつもない勢いだった。

 並の者ならば体勢を崩し、為す術無く引き摺られるままだったに違いない。が、そこは流石の獣人である。

 自らの身体を引っ張る凄まじい力に身を任せながらも、トランキノは倒れず、端まで到達すると同時に壁を蹴るように脚を出し、渾身の力を込めて踏み止まった。


「ぐぅっ!」


 ほんの僅かにでも力を抜けば、落とされる。

 痛みに耐える為に、そして力を込める為に、歯を食い縛る。

 脚と腕に血管が浮き上がる。

 全身の筋肉を全開で発揮させる。


「トランキノさん! そのままで! 手を貸します!」


「斬れ!」


「えっ!?」


「この右手を斬り落とせ!」


 慌てて駆け寄って来たアインを一喝し、視線を自らの右手に移す。

 当然、アインは困惑した。


「で、ですが——!」


「こいつは登ってこようとしている!」


「登って——!?」


「これは楔だ! 打ち込まれた! こいつは自分を利用してここまで来るつもりだ! 今から手首の骨を外す! この手を斬り落とせ!」


 常日頃から冗談を口にしているアインだが、トランキノの切羽詰まった様子を見て軽口を叩く事など出来なかった。


「……いいんですね?」


 一つ、息を吐いて、彼は淡々と確認した。


「これは肉と骨に絡んでいる。簡単に外せない。それに外したところでこの右手はもう使いものにならない。だから、斬れ」

 

 同じく彼女も、淡々と状況を説明した。


「わかりました」


 アインは頷いて、腰に携えていた鞘から剣を抜いた。

 銀光がぎらりと冷たく輝きを放った。

 トランキノはそれを眼にして、一言。


「頼むぞ。——今だ!」


 脚は踏ん張りながらも、腕からは力を抜く。

 引っ張られる力を利用した事であっさりと、手首の骨が外れた。

 腕が、少し伸びた。

 刹那、


「はっ!」


 アインの一閃。

 骨と骨との隙間を見事に見極めた一撃で、手首を断った。


「ぐ、ぅっ!」


 覚悟を決めていた。

 故に呻き声は短く済んだ。

 紅の糸に引かれ、闇の中へと飲み込まれていく右手。

 名残惜しさは無い。自分の決断は間違っていない。何者かがここに到達する時間を少しでも遅らせる事が重要だとわかっているから。


「トランキノさん、これで止血を」


「助かる」


 差し出された布できつく手首の先を縛る。

 本来ならば様々な処置をすぐに行わなければならないのだが、今はその時間が惜しい。


「ここから退くぞ」


「インカナ様たちに知らせるのですね。敵の襲撃を」


「ああ。間違いない。今の攻撃は吸血鬼だ。アルザギール様の言った通り、アルマ様が来た。自分達の手には負えない。一刻も早く吸血鬼の方々に——?」


 知らせなければ。

 そう言い切る間に、彼女の耳は聞き慣れない音を拾った。

 がつん。がつん。がつん。がつん。

 硬質な何かと何かがぶつかり合う音。

 それが、近付いて来ている。


「どうしました?」


「……不味いな」


 即座に理解出来た。


「敵は壁を登ってきている。恐らく血を突き刺して登ってきているのだろうな」


「この壁を? そんな事が……」


「出来る。今の攻撃は背後から来た。この城塞を通らずに自分達の背後を取ったのだから、崖を登ってきたはずだ。だとしたら、この程度の壁など何の問題にもならん」


「あの崖の先は森で、巨獣とか結構いるんですけどね……そこを……」


「吸血鬼ならば通れる。もはや逃げるのは間に合わん。ここで迎え撃つ」


 トランキノが呟くように言った。

 がつん。

 がつん。

 そして、音が消えた。


「——!」


「——!?」


 気付いた時には、それが、そこにいた。

 それは月明かりを背にしていた。

 そのせいか、黒く見えた。

 影よりも尚、暗く。

 闇よりも尚、深く。

 黒い、人の形をしたそれ。

 二つの眼だけが、赤紅あかあかと輝いている。


「——」


「——」


 息も飲めない。

 空気が個体化したように伸し掛かる。

 これまで二人は、それぞれが身近にいた吸血鬼と長い時間を過ごしてきた。

 その力の強さを理解しているつもりだった。

 だから、吸血鬼と相対しても、倒せはしないが足止めくらいなら何とか出来るだろう。と考えていた。

 しかし、その認識は甘かったという事を、二人は知った。

 これまで出会ったどの吸血鬼とも違う圧力を感じた。

 死を意識するのに充分過ぎる存在感。

 獰猛な巨獣を前にしてもここまでの気配を感じた事は無い。

 ——逃げなければ。

 目の前のこれから逃げなければ。

 本能がそう言っている。

 だが、背を向けて逃げるのは不可能だ。

 眼を離した瞬間、死ぬ。

 そういう直感がある。

 ではどうするか?

 理想的なのは、撃ち合いながら退く事だ。

 戦って有利な間合いを保つ。近付けさせない。そうして時間を稼ぎ、異変に気付いたインカナ達吸血鬼が駆けつけてくれるのを待つ。

 それが最良だと考えている。

 けれど果たして、目の前にいる敵がそんな最良を赦してくれるのか?

 可能性は低い。

 それでも、それをしなければ死ぬだけである。

 こうなってしまってはもはや賭けだ。

 僅かな可能性に、自身の全てを賭けるしかない。


「トラ——」


 ンキノさん。ぼくが時間を稼ぎます。

 そう言い終わる前に、嫌な音がして——トランキノの姿が隣から消えた。


「——っ!?」


 後方から聞こえる鈍い音。

 人体と石畳との接触時にする重々しい音が響いた。

 一瞬だった。

 慌てて振り向くと、トランキノの脚が目に入った。

 びくびくと小さく痙攣している。


「——!」


 その震えは生きているからなのか、それとも死の間際だからなのか。

 確認しなければ。

 助けなければ。

 恐怖に染め上げられていた思考を切り替え、駆け寄ろうとして、


「あぁ……」


 背後からの不意な吐息に、脚が止まった。


「——うぐ」


 ようやく、息を飲めた。

 全神経を背後に向けて集中する。

 背後にいるそれは、何かを噛んでいる。

 ぶちゅう。ぶち。ぐちぃ。ぐち。

 水っぽい何かだ。

 一噛み毎に広がるのは、新鮮な血の匂い。


「あぁ……やはり、若い女の目玉は美味いのう……」


 嗄れた声に反応し、アインが反射的に振り向いていれば、丁度それが視神経を歯の隙間から取り除こうとしているところを眼にしてしまっただろう。

 そうならなかったのは、偏に彼が戦士だったからだ。

 振り向けば死ぬ。

 ただ振り向いただけならば、そうなる。

 では死なない為には何をするべきか?

 攻撃だ。

 振り向きながら攻撃したらどうなる?

 きっとどうもなりはしない。

 考えてみると、答えは既に出ている。

 けれど、それでも、何もせずに死ぬ事は許されない。

 だからこそ、たった一つの道を、それしかない活路を行くしかない。

 振り向き様、握っている剣で斬る!


「おお——っ!」

 

 死を振り払うように、裂帛の気合を込めて、剣を振るった——


「が——はぁっ!?」


 ——はずなのに。

 気付いたら、ぶっ飛ばされていた。

 凄まじい衝撃が全身を襲った。

 空が見えた。

 石塊が宙を待っている。

 石の壁に、体が、腰から下がめり込んでいる。

 勢い余って下に落ちなかったのが奇跡だ。

 攻撃を受けたが、衝撃は上手く分散出来たのか? だとしたら自分の本能的な危機回避能力の高さに感謝するしかない。


「あ……」


 ここは、ついさっきまで自分達が矢を射っていたところだ。

 何らかの攻撃をされて、横向きに飛ばされた。

 それを理解する前に、アインは大量の血液を口から溢した。


「お……えぇ……げぇ、げほっ……」


 体が動かない。

 全身の骨が折れたわけではないだろう。攻撃は胸に当たった。その証拠に、鎧の胸の部分がべこりと凹んでいる。

 肉体が粉々になったかのように錯覚したが、見たところ五体は無事だ。

 これまでのたゆまぬ鍛錬が、知覚する事すら出来なかった攻撃を無意識に感じ取り、致死の一歩手前で踏み止まれた……。

 アインはそう思った。

 だが、すぐにそれが思い違いだと知らされた。


「あぁ……血が流れてしもうたか……勿体無い……粉々にせぬよう手を抜いたつもりじゃったが、思いの外傷つけてしもうたか……やはり殺さずというのは、力加減が難しいのう……」


 別段、アインに聞かせる意図は無かっただろう。

 わざわざ手を抜いたと口にしたのは、駆け引きでも何でも無い。

 ただ単に事実を述べただけに過ぎない。

 それでも、彼が状況を理解するには充分だった。

 ——絶対に勝てない。

 —–死ぬ。

 彼にとって死は概念ではなく目に見える形となっている。

 目の前にいるそれが、ほんの少し手を伸ばして彼の頭を軽く撫でれば、それだけで首の骨がぽきりと、それこそ枯れ枝を折るよりも容易く砕けて命の輝きは消える。

 もはやこの場から一歩も動く事が出来ない彼はその時を待つしか無い——だというのに、


「ほう……お前さん、面白いやつじゃなぁ……笑うかよ。この状況で……」


 彼は笑っていた。


「死が怖くないのか?」


 怖い。


「この牙で血を吸われるのが怖くないのか?」


 怖い。

 それでも、笑う。

 痛みで快活な笑顔など作れないが、不格好に頬を引きつらせて、誰が見ても笑みだと見て取れるものを浮かべている。


「その麗しさ……見たところインカナの手勢のようじゃが……あやつもよくよく変わった者を気に入るのう……」


 不思議そうな声がする。

 何故笑うのか?

 それはインカナに美しいと言われたからである。

 アインはインカナの美しさに惚れ込み、自らを鍛え上げ、容姿を磨き、随一の使い手となり、側付きに選ばれた。

 その折に、彼は言われた。


「お前の笑顔は美しいなぁ」と。


 それは何の気のない戯れの一言ではなかった。

 インカナという大きな存在の心の深いところから出てきたものだった——と、アインは思っている。

 もしかすると、それは真実全くもってただの適当な何となく口から出ただけの言葉だったのかもしれない。

 しかし、それに意味があると思っているからこそ、彼は今日まで己を強く保ち生きてこられた。


「まあ、何でも構わぬか……すまんが、お前さんの血を飲ませて貰うぞ……活きが良い血は久しく飲んでおらんからな……」


 ゆっくりと、手が伸びてくる。

 それは頭を掴み、首を引きちぎり、掲げて、首の先から滴る血を啜るつもりなのだろう。

 予見出来ていても自力では避けられない死の運命から目を逸らさず、彼は頭部を掴まれて、そして——


「あたしのものに手ぇ出してんじゃあねぇーよ」


「むっ」


 鞭の如くしなる赤い液体が視界の中で踊り、それの手首を落とした。

 かつて抱いた想い。それが相手の関心を引いたが故にアインの生きる時間が僅かに伸び、それにより彼は、自らが生き甲斐とする絶対的な存在の手により救われた。


「お楽しみの最中だったみてぇだけどよぉ。そいつの血はやんねーぜ、アルマ」


「インカナか……それに……」


「ご機嫌よう、アルマ」


「おお……これは……ご機嫌よう、トリフォリ……」


 アルマと呼ばれた吸血鬼は、即座に無くなった手を生やし、両目をぎょろりと別々の方向に動かして、左から現れたインカナと、右からゆるりと歩み寄ってくるトリフォリを凝視した。


「弱者をいたぶるのが趣味でして? だったら、私達があなたをいたぶって差し上げましょう」


 倒れ伏し動かないトランキノ。

 血を吐いて喘ぐアイン。

 そんな二人を眼にしたからか、冷ややかな声で、トリフォリはそう言った


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