4−4、諦め
槍と剣が交わる。
幾度も。
幾度も。
一回ぶつかる度に、削れた紅い破片が宙を舞い、光の道に落ちる。あるいは、暗い闇の中へと吸い込まれていく。
体から切り離されても形を保っているのは流石本物の吸血鬼の一言に尽きるが、形を保っているだけだ。地に落ちたそれが自らの体内へと復帰する様子は無い。削れた槍も即座に再生するが、硬度が上昇したりはしない。恐れるべき能力ではない。
警戒すべきは、気迫だ。
オドロアを殺す。自分が死んでも。という執念だ。
攻めているのは僕だ。
戦闘の主導権を握っているのは僕だ。
殺すつもりは無いとはいえ、戦闘を有利にする為にそこそこに傷をつけている。腕、足、胴体、首筋、目。そういう部分を狙い、削っている。
勿論瞬く間に再生するが、その間は攻撃の手が緩むし、殺す気の無い攻撃というものを幾度も加えれば、実力の差が大きいという理解が早まる。
実力で勝っているのは僕だ。
それはわかっているはず。
——なのに、トリフォリは諦めない。
かつての大戦——僕は全く知らないが——大規模な戦いを乗り越えた経験のある者だからか、普通なら実力差に気付いて膝を折ってもいいところなのに、トリフォリの気力が萎える気配は無い。
追い込まれる程に苛烈に。
弾かれる度により強烈に。
一層激しさを増した攻撃を繰り出してくる。
……手強い。
トリフォリの気持ちの強さ……それがそのまま吐き出されている。
きっと今のトリフォリは普段の実力以上の力を発揮している。
それは、それまでの自分を遥かに超越する爆発的な力ではない。圧倒的な暴力の前に圧し潰される程度の微量な力の増加でしか無い。だが、それでも、少し驚いている。ここまでの力を発揮出来る事に。
……とはいえ、まあ、僕だってこれまでの戦いではアルザギール様への想いを力に変えて勝利を手中に納めてきたわけであるし、そこまで驚く事でも無いのかもしれない。
想いは人を強くする。
吸血鬼でも、それは変わらない。
心だ。
単純な腕力、その他の身体能力と合わせて、心もまた強さを構成する大事な要素の一つだ。
で、あるならば。
槍を弾いて四肢を浅く斬った。
血が飛び散り、トリフォリはよろけて後退した。
間が生まれた。
——ここだ。
「トリフォリ様。もうやめにしませんか?」
「な、に……?」
「これ以上続けても無意味です。あなたは僕に勝てません」
「ふざけるな……」
「それに、あなたは気付いているはずです。自分の気持に」
狙うべきは、そこだ。
「気持ち……だと……?」
トリフォリは肩で息をしている。
どれだけ打ち合ったかわからないくらいだ。実力以上に力を出しているのならば、尚の事消耗は大きい。
畳み掛けるならこの機を於いて他に無い。が、アルザギール様より殺すなという命令を受けているので、殺さない。
止めてください。とアルザギール様は僕に命じられた。
それによって僕は答えを得た。
だから、止める。
「あなたと剣を交えて、気付きました。あなたはオドロア様を助けたいと思っています。生きて欲しいと思っています」
僕は断言した。
はず、とか、だろう、とか、そういう曖昧な言葉は使わなかった。(でも剣を交えて気付いたというのは嘘だ。そういう枕詞を付けた方がこういう感情的なタイプに気に入られ易いだろうなぁと考えて適当に言っただけだ。予想通り、これは効いた)。
「何を、馬鹿な……」
僕への怒り。否定の言葉。
関心がこちらへ移った証拠だ。
そして、これらは真実ではない。
こいつはそうやって、自分の本当の気持ちを覆っている。
その証拠は、ある。
「殺すつもりなら、何故一撃目で殺さなかったのですか?」
「——」
何を驚いた顔をしているのですか? とシニカルに言ってやりたかった。
攻撃したのはあなたですけど、殺さなかったのもあなたではないですか、と。
「吸血鬼は簡単には死にません。あんな風に刺し貫いたくらいではとても殺せません。吸血鬼を殺しきるには、血を流し尽くす必要があります」
「黙れ……」
「実際、オドロア様は、今ああやって必死に死ぬ努力をしています。再生を止めて、無理矢理に血を流しています」
「黙れ……」
「吸血鬼はそこまでしなければ死にません。殺せません。それはあなたも当然知っているのではないのですか? それなのに——」
何故、一撃目で血を吸い尽くさなかったのですか?
「黙れっ!」
踏み込みと同時に、突きが放たれた。
激しい怒気。身を焦がすような。まるで熱風だ。
しかし、精彩を欠いている。
これまでとは違う。
これまでの攻撃には目的意識が感じられた。
だがこの攻撃からは僕を黙らせるという、つまらないその場凌ぎの意志しか感じられない。
これにカウンターを合わせて斬り刻むのは簡単だ。いつもの僕ならばそうしていた。
全く、アルザギール様に感謝して欲しい。
お前が今殺されないのは、アルザギール様のお心がそれを望んでいるからである。
僕は、その突きを余裕をもって躱し、槍を握る手元の少し先を、一撃の下、斬って捨てた。
攻撃は加えない。敢えて。
代わりに、戦意は折る。
手心を加えられたという事実は、プライドの高い者の心によく響く。
これで、更に怒り、我を忘れて逆上するか。
敗北を認め、膝を屈するか。
「——」
この時、初めてトリフォリの瞳の中に絶望の暗い色が浮かんだのを、僕は見逃さなかった。
トリフォリは後者だった。
いや、今のトリフォリだからこそ後者になった、というべきか。
戦いの始めならば、逆上したはずだ。その時にはまだ燃え盛る怒りがあった。
だけども、今となってはそれは風前の灯火となっていた。
再生に限界があるように、何事にも限界はある。
どれだけ強い感情を抱いていても、吐き出し続ければ、底をつく。
覆せない彼我の戦力差。
叶えられぬ望み。
殺されない限りは永遠の命を持つであろう者でさえ、自らの望みが潰える瞬間には、心が耐えられないものなのか……。
だが、だからこそ、
「何故ですか?」
刀を用いず、斬り込む。
「何故、殺さなかったのですか?」
トリフォリの、心に。
「あなたが言いたくなければ、僕が言います」
こいつの心の内は、わかっている。
「生きていて欲しいと願っていたからだ」
僕には、わかるのだ。
「だから、殺さなかった」
あの一撃は、オドロアを奮起させる為のものだったという事が。
「あなたのあの一撃は、怒りに、一時の感情の身を任せたものだったのかもしれません」
感情は制御出来ない。理屈ではないのだ。相手を想うという事は。
「けれど、オドロア様に自らが吸血鬼であるという事を、不死の命を持っているという事を気付かせる為に放ったものだった」
行動自体は衝動的であれ、根本のところに答えはある。
「『あなたは死なない。だから、生き続けるべきだ』トリフォリ様、あなたがオドロア様に本当に言いたかったのはそういう事だ」
トリフォリが僕を見詰めている。僕の背後にいるオドロアも見詰めている。
濃い血の匂いがする。
僕らの武器からではない。
オドロアの体から失われていく血が無風のこの空間を満たしている。
命が減っていく。
「黙れ……!」
その事実が、トリフォリを打ちのめしている。
「黙れ! 黙れ! 知った風な口をきくな! 貴様に何がわかるっ!」
駄々っ子のような文句だ。
何がわかる? だって?
そうだな、例えば……。
トリフォリはあまりに情動的過ぎた。
そしてオドロアはあまりに冷静過ぎた。
二人の間には温度差がある。
トリフォリはオドロアを慕っている。
オドロアはそれを知っていながらも、普通に接している。
一方通行の想い。
こじらせた片思い。
つい、手が出てしまうくらいに。
自分の思い通りにならないなら殺してやる。と言ってしまうくらいに。
それで、こうなってしまった……。
二人の言動からそういうありきたりな想像は出来る。
あくまで、想像だ。事実とは違うだろう。こんな想像を垂れ流しても仕方がない。
実際のところ、わかるわけなんかないのだ。
「わかりません。あなたの事なんて。あなた達の事なんて。何もわかりませんよ」
初めて会った僕達が、お互いにわかり合う事なんて出来ないのだ。
でも、
「でも、僕とあなたは同じです」
「同じ……だと?」
「僕も……僕も、アルザギール様に生きて欲しいのです」
「——」
そんなに驚いた顔をしないでくださいよ。と言ってやりたかった。
まあ、驚いているという事は、それだけ僕がアルザギール様に忠実な者であると、こいつの眼に映っていたからか。
僕の事を、死に向かう主の背を押す事が出来る。それ程の滅私の忠誠心を持つ者。とでも思っていたのだろう。
それは勘違いだ。
でもそうだとしたら、僕の忠誠心の高さは他人にもしっかりとわかるように出ていたという事なので、自分を褒めてやりたい。
本当に、僕というやつはよくやっている。
「あなたがオドロア様に死んで欲しくないように、僕もアルザギールに死んで欲しくないのです」
生きて欲しい。死んで欲しくない。
「ならば、何故、お前は……」
戦っている?
トリフォリは困惑している。
矛盾だな。と僕も思う。
それでも、
「世界を元に戻す事。それが、アルザギール様の願いなのですから……」
僕はアルザギール様のものだ。
「僕は、それが叶うよう、力を尽くします」
きっと、これがアルザギール様の真意なのだと思う。
トリフォリを止めるよう僕にご命令を下された意味。
あれはトリフォリの為でもあり、同時に僕の為でもあったのだ。
僕の覚悟は決まっている。
矛盾を抱えながらも、最後のその時まで全力でアルザギール様の為に生きていくつもりである。
それを、アルザギール様はお認めになってくださったのである。
アルザギール様は言外にこう告げておられた。
好きに生きなさい。と。
哀しも苦しみも、喜びも、それは全てあなたのものです。
あなたは私のものですが、それと同じく、あなたはあなたのものです。
故に、あなたも好きに生きなさい。
何もかもを抱えて、死ぬまで生きなさい。
私のように。
私のように……。
ああ……アルザギール様……。
本当に、あなたという御方は、何という大きな御方であられる事か。
何もかもを抱えた僕だからこそ、トリフォリを止められる。
先の命令は、そういう意味であると僕は解釈した。
「アルザギール様は僕の全てです。そのアルザギール様の、最大の願いが叶えられるのであれば……僕にとって、それ以上に嬉しい事などありません」
「貴様……」
不意に、頬を熱いものが流れた。
「……泣いているのですか?」
「はい。いけませんか?」
自覚はある。
アルザギール様を失うその時を想像したら、自然と、いや、当然ながら大粒の涙が流れてしまった。次から次へと流れてしまっている。
この世界を生んだ女神そのものと言っても過言ではないアルザギール様を失って、世界は果たしてどうなっていくのだろうか? そもそも、そこまでして世界を元に戻す意味などあるのだろうか? そこまでする価値がこの世界にあるのだろうか? 僕はこの世界の事をよく知らない。しかし、損得勘定で言えば、これは多大なる、多大なるどころか計り知れない損失であると僕の本能は告げている。
アルザギール様は死ぬべきではない。
だがアルザギール様は死してこの世界から去る事を望んでおられる。
納得はしていない。しかし、もう僕に迷いはない。心よりも体は正直で、アルザギール様の為に動くのだから、それが答えなのだ。けれどだからといって、涙を流さずにすむわけがない。
止めどない。止めようもない。止めたくはない。
ここで涙を枯らしておけば、きっとその時が訪れた時には、僕は笑っていられる……そんな涙だ。これは。
まあ、きっとその時が訪れたら、僕はまた今のように泣くのだろうけれど。
「敵である私の前で、涙を流す程の哀しみを抱きながらも……何故、そこまで……いいえ、違うのですね。だからこそ、なのですね……」
トリフォリの口調に優しが戻ってきた。
あるいは憐れみなのかもしれない。
どちらでもいい。どうでもいい。
「お前は自分と私が同じだと言いましたが……私とお前は違います。私はオドロア様を刺しました」
「そうですね」
根本の理由は同じでも、行動は異なっている。
でも、
「僕は、そんなあなたを羨ましく思います」
「羨ましい?」
「そうやって、素直に……心のままに、行動出来るところが……とても、羨ましく思います。もし僕が、あなたみたいだったら……だったら……」
だったら……。
何度も、何度も。
夢想した。
アルザギール様の意に粗ぐわぬ馬鹿で愚かな行動。
それを実行に移していたかもしれない。
そうやって、アルザギール様からお叱りの言葉を受けていたかもしれない。
それはそれでいいよなぁ。と思う。
口を尖らせて、小言を言うアルザギール様……。
僕がもっと真っ直ぐで砕けた性格だったら……。
アルザギール様との今の関係性に変化があったかもしれない。
他愛も無い冗談を言い合えるような。
主従であって、型に囚われない関係性……。
きっと僕は生まれ変わってもそんな性格にはならない。
だからこそ、羨ましい。
「僕は想像はしても、行動には移せませんでした。アルザギール様の事を想うあまり、何も出来ませんでした。……いや、アルザギール様の為にしか行動出来ません」
僕はそんなものになっている。
そこに後悔はない。一片も。
羨ましいとは思っても、自分もそうでありたいとは思わない。
僕はこれでいいのだから。
「……私を馬鹿にしているのですか? オドロア様の事を想いながらも、オドロア様を刺してしまった、私を……」
「いえ。ただ、思ったのです。想っているが故に何も出来ない者もいれば、想っているが故に何かをしてしまう者もいる。そしてそのような者はどちらも、苦しんでいる。と」
「……」
「オドロア様を殺してしまえば、あなたは後悔します。今以上に苦しむ事になります。間違いなく」
断言した。
「何故、そう言い切れるのですか?」
「僕がそうだからです」
根拠は自分自身。
「もしも、アルザギール様が僕のせいで自身の願いを叶える事が出来なかったとしたら……僕は後悔します。とても。激しく」
「……」
トリフォリは沈黙している。
考えている事は、何となくわかる。
何を馬鹿な。とか思っているに違いない。
僕達は同じだ(違うけれど)。
似ている(似てはいないけれど)。
それは今までの戦いで、トリフォリもわかっていると思う。そう思いたい。僕達はわかりあえないはずなのに、こんなところだけ都合よく期待してしまっている。
けれど、不思議と何とかなるのではないかと思ってもいる。
楽観的なわけじゃない。
直感だ。
「一つ聞きます。……お前の主、アルザギールの願う事が間違いだった時……お前はどうしますか?」
「僕の主は間違いなど犯しません」
即答した。
「僕はアルザギール様を信じています」
「盲信も甚だしいですね」
「他に信じるものなどありませんので」
この世界で信じられるのは、アルザギール様ただお一人だ。
最初からずっと、それは変わらない。
「……」
「……」
少しの間。
涙で歪んだ視界の中に、トリフォリがいる。
「そうですか……」
短いため息と共に、トリフォリの手から槍が落ちた。先の斬撃で半分の長さになっていたそれは、硬質な音を立てて床に転がり、溶けて血となった。
武装が解除された。
戦意が、消えた。




