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幕間・いつかの記憶。道を示された記憶。

 出会った日の去り際に、アルザギールはこう言った。

「絶対に、あなたをここから出してあげます」と。

 僕はそれを信じる事にした。

 初対面で、彼女の事を名前以外は何も知らないけれど、彼女の言葉には信じるに足る誠実さが感じられた。

 だから、眼球を抉り取られた今も、彼女のお陰で僕は何とか気を狂わせずに正気を保ったままでいられた。

 五感の一つを物理的に奪われると、尋常ではない程に不安になる。

 きっとこのまま時間が経過すれば、爪や骨と同じように眼も再生するのだろうけど、それまで闇を見続けなければならないのは、かなりの苦痛だ。


「アルザギール……」


 何となく、彼女の名前を口にしてみた。

 このわけのわからない状況の中で、唯一僕が信じられる存在が、アルザギールだ。

 この名を口にするだけで、気持ちが少しだけ楽になった。

 人の名前を口にするのが、こんなにも幸せな事だなんて思ってもいなかった。学校で毎日毎日友達の名前を呼んでいたのが懐かしくすら感じる。

 ここから出る事が出来たら、いつも当たり前みたいに「なあ」とか「ねぇ」とか声を掛けていた友人達も、ちゃんと名前で呼んであげようと思った。


「ここを出る事が出来たら、か……」


 そう言えば、家族はどうしているだろうか?

 父さん、母さん、妹。皆心配しているのだろうか?

 今頃、警察が捜索班とかを編成してくれていたりするのだろうか?

 でも、アルザギールの話しによると、ここは魔界という場所らしい……。僕達人間の住む世界の、その裏側にある世界です。と、彼女は言っていた。

 普通ならとても信じられる話しじゃないのだが、僕の体は何だかおかしくなっているし、真実なのだろう。

 けれど、だとしたら、こんなところに人間の警察が助けに来てくれるのだろうか?

 それに、こんなおかしくなってしまった僕を、家族や友人達は果たして受け入れてくれるのだろうか?


「……」


 一人きりで静かな部屋にいると、色々と考えてしまう。それも、ネガティブな事ばかりが頭を過っている。

 痛みと不快な音のせいで憂鬱なのに、仮に助かった時の事を考えても憂鬱になるなんて、まさに踏んだり蹴ったりだ。


「……!」


 視界と同様に真っ暗な気分に浸っていたその時、部屋の扉が開く、軋んだ音がした。

僕は眼を抉ったあの魔女が戻って来たのだと思い息を潜めた。……だが、部屋に入って来たのは魔女ではなかった。


「大丈夫ですか? ユーリ」


「ア、アルザ……ギール……?」


 眼は見えないが、小鳥がさえずるような高い声で、誰だか認識出来た。

 視覚が封じられた事で他の感覚が鋭敏になっているのか、彼女がこちらに歩いて来る軽やかな足音や、落ち着き払った規則的な息遣いが聞こえた。

 それに、口元から漂っていると思われる血の匂いも鼻をついた。

 彼女が僕の傍にいる。

 それを感じただけで、僕の心にかかっていた暗雲は消え去り、暖かな光が差し込んで来たような気がした。


「アルザギール……」


 もう一度、彼女の名を呼んだ。

 彼女の名を口にすると、穏やかな気分になった。


「ユーリ、私はここにいますよ。今日は……眼、ですか?」


 彼女は自分の存在を確かめさせる為か、僕の左手を優しく握ってくれた。


「うん。眼を、抉られたんだ……」


「まあ、それは大変ですね。……その眼は、まだ再生していないのですか?」


 尋ねつつ、アルザギールはその細い指で僕の瞼を開いた。


「あらあら。これではまるで血のゼリーみたい」

 ぶん、口元に手を当てて上品に笑っているのだろう。見えなくても、何となくそういう仕草をしているという事が伝わる笑い方だった。


「はは……ん?」


 僕がアルザギールの無邪気さに力の無い笑いで応えたその時、瞳の奥に何かが当たった。

 次の瞬間、急速にゼリーの動きが活発になった。


「やはり私の血は、よく馴染むのですね」


「え? まさか……僕に、血を?」


「ええ。そうですよ」


「な、何で……?」


 アルザギールの細い指で開かれている視界が、急速に色を取り戻していく。

 視界を覆っていた黒いもやは徐々に消えていき、まるで寝起きの時みたいにぼんやりとしていたが、アルザギールの顔が見えて来た。


「おかしな事を聞くのですね、ユーリは。眼が無いと、お互いに眼を見てお話しする事が出来ないではないですか」


 アルザギールは血の付いた指先で僕の唇をなぞると、ニコリと笑った。そして、その指をぺろりといたずらっぽく舐めた。舌が指から離れると、彼女の指先にあった傷跡は綺麗さっぱり無くなっていた。


「ありがとう……アルザギール」


「どういたしまして、ユーリ」


 彼女は上品に、小さくお辞儀をした。

 本当なら僕の方が深く頭を下げないといけないのに……と申し訳ない気分で胸が痛んだ。


「……アルザギール、一応言っておくけど、今君がしたそれは、僕の世界では間接キスって言うんだよ」


 僕はせめて元気なところを見せようと、笑みを浮かべて冗談を言ってみた。

 自分では笑ったつもりだが、正直言ってちゃんと笑えたかどうか自信は無い。それでも、アルザギールは、僕に笑顔で応えてくれた。


「知っています。そちらの世界の事も、少々知っていますから。……そんな事より、ほら、早く私の血をお舐めなさい」


「……うん。ありがとう」


 少し照れたような顔をしたアルザギールに促され、僕は舌を伸ばして自分の唇に付いた血を舐めとった。

 途端に、痛みで疲弊した体に力が戻って来るのを感じた。


「あぁ……」


 嗚呼、認めたくは無いが、血を美味しいと思う僕は、やはりもう人間ではないらしい。


「ユーリ……」


 アルザギールは不意に耳元に顔を近付けた。


「ユーリ、眼を抉られるのは、どのような感じでしたか?」


 囁くような声が耳を撫で、口元から漂う誰かの血の匂いが鼻をくすぐる。

 彼女の血程ではないが、この匂いもそれなりに甘美な香りだ。余程健康に気を遣っている人の血なのだろう。……そんな事がわかってしまう自分が、怖い。


「とても……とても痛くて、怖かったよ」


 僕は今感じた恐怖を忘れようと、眼を抉られた時の痛みを思い返した。

 言葉では言い表せない程に痛かった。その上喪失感も大きい。自分の体の一部が無くなり、五感が減るというのは、耐え難い恐怖だった。

 眼が再生しても、あの時感じた恐怖で僕の体は震えてしまう程だ。


「ユーリ、もう少し……もう少しだけ、待っていてください。私がきっと、あなたをここから出してあげますから。……そしたら、一緒に、この世界を……」


「……? アルザギール?」


「……ごめんなさい。この世界を見ましょう。と言うつもりだったのですが……この世界は、あなたのいた世界とは違い、醜い世界です。だから……」


 そこで彼女は、言葉を切った。

 その先に、一体何を言おうとしていたのか。僕にはわからなかった。


「とにかく、私はあなたを、ここから出します」


 約束します。と、アルザギールは震える僕の手を、ギュッと握ってくれた。


「……うん」


 僕はその言葉を信じて頷いた。

 だけど、彼女の言葉にはまだ続きがあった。


「ですが、ユーリ。実は、あなたに言っておく事があります……」


 申し訳なそうに、彼女は瞳を伏せた。


「……なに?」


 不安や悲しみを感じさせる声色に、僕はこの話題を続けるべきかどうか躊躇したが、どの道他に選択肢は無かった。

 僕は話し辛そうにしている彼女に、自分から声を掛けた。アルザギールは僕の瞳を見詰めて、躊躇うように、ゆっくりと口を開いた。


「ああ、ユーリ……どうか、落ち着いて聞いてくださいね。……あなたは、私が絶対に、ここから出します。けれど……ここから出た時に、この世界、この醜い世界、魔界で、あなたが選べる道は……とても、とても少ないと……私は思っています」


「選べる……道……?」


「ええ。恐らく、選択肢は三つ程しかないでしょう」


「三つ……」


 それが多いのか少ないのか、人生の岐路に立たされた事の無い僕には、わからなかった。


「一つ目は、まず間違いなくその体では迫害され、最悪は殺されるでしょうけれど……あなたのいた世界、人間の世界に帰るという道です。二つ目は、この世界で誰かに引き取られて、食用や実験用の家畜として生きる道です。そして、三つ目は……」


「……三つ目は?」


「元人間のあなたに、こんな事を言うのは気が引けるのですが……吸血鬼となったその体を活かして、戦闘用の奴隷として、戦奴として闘う。という道があります」


「ぼ、僕が……闘う……?」


「はい。あなたが、あなた自身の、その力で、闘うのです」


 これまでの人生でろくに喧嘩もした事が無い僕が……闘う? 

 そんな事が、果たして出来るのだろうか?

 自信は、これっぽっちもないのだが……。


「ここは、希望に満ちた世界ではありません。血と、暴力によって支配されている世界なのです。それ故に、あなたの選べる道はこれだけしかありませんが……どうするか、どの道を選ぶか……よく考えておいてください」


「……うん」


 僕は、頷いた。

 与えられた選択肢が多く無いのは、理解出来た。

 どうするか、どの道を選ぶべきか……。

 いずれ訪れる、この部屋からの脱出の時までに、答えを出しておかなければならない。


「……さて、ユーリ。今日はどんな話しをしてくれるのかしら?」


 辛気臭くなった空気を察してか、明るい声でアルザギールは話題を替えた。

 僕も彼女の気持ちを汲んで、務めて明るく振る舞った。


「今日は……僕の通っていた、高校の話しでもしようか」


「コーコー?」


「人間が集まって勉強をするところだよ。僕は、ここに連れて来られる前は毎日そこに通っていたんだ」


「毎日? 毎日勉学に励むなんて、とても真面目だったのですね、ユーリは」


「そういうわけじゃないよ。そう決められていたから、仕方無くだよ」


「それでも、きちんとした教育が受けられるのは、素晴らしい事ですよ」


「そうかな……そうかもね……」


 少し前までは、何で週六回も学校に行かなければならないんだ。と思っていた。土日は休みのはずなのに土曜日に特別授業があったりして、結局毎週の休みは日曜日だけだった。友達と満足に遊ぶ暇もなかった。だから僕は、そんな、勉強をするだけの毎日が好きではなかった。

 でもそれは、そういう普通の毎日が如何に素晴らしかったのかを知らなかったからこその、傲慢だった。

 拘束され、自由を奪われ、拷問じみた改造を施される地獄の如き毎日に比べれば、好きでも無い高校に通う日々なんて、何の変哲もない日常なんて、天国みたいなものだった。と思えてくる。


「ユーリ?」


「……ああ、ごめん。それで、高校では何をしていたのかと言うと――」


 ここは地獄だ。だけど、この地獄に唯一救いがあるとすれば、それはアルザギールがいる事だ。

こうして高校の話しをして笑っていられるのは、彼女がいるからだ。

 彼女のお陰で、僕は何とか僕でいられている。

 だから僕は、選べる道が少ないのなら、彼女の傍にいる事の出来る道を選びたい。と思った。

 彼女はきっと僕をここから出してくれる。だからその時、助けて貰った恩を返さないと。

 人間の世界の事を興味深そうに聞いている彼女を見詰めながら、僕はそう決意した。


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