表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

54/101

プロローグ1ー2、ステラという女の子

 女の声。

 空を見上げていたはずなのに、いつの間にやら地に堕ちていた視線の先に、脚が見えた。

 小刻みに震えている。


「あの、その……血、血が……血が……すっごい出てますけど……」


「ええ……はい。大丈夫です」


 半ば自動的に返答し、手を下ろして、血に塗れた掌を見た。

 そこには自分の髪毛やら頭皮の一部やらがあるだけで、他には何も無かった。蛆なんて、どこにもいなかった。一匹もいなかった。


「あ、あの……よければ、これ……ハンカチ……」


 差し出された手。細い指先が持っているのは、白いハンカチ。

 脚だけではなく、体全体が震えている。

 恐れている。

 怖いのだ。

 僕みたいな得体の知れないやつに近づきたくないのだろう。

 無理しなくてもいいのに。

 僕なんか、無視してくれてもいいのに。

 率直にそう思ったから、否定した。


「いえ、大丈夫です」


「で、で、でも……そ、そんなままで、このお屋敷を歩かれるのは……何ていうか、ちょっと迷惑と言いますか、何と言いますか……」


 言われてみて、気が付いた。

 ここは他人の領地だ。

 そこで血塗れの頭のままでうろつくのは、確かによろしくない。

 アルザギール様にご迷惑をお掛けする事になってしまう。それはいけない。駄目だ。


「申し訳ありません。配慮が足りませんでした。貸していただきます」


「あ、はい。……どうぞ」


 自らの非を素直に認めて、僕はハンカチを受け取った。

 顔に垂れてきた血を拭きながら、そこでようやく、相手の顔を見た。

 肩辺りにまで掛かる茶髪。琥珀に近い色合いの瞳。

 顔には少しのそばかす。

 線は細い。華奢だ。

 奴隷以上従者未満とでもいうような、簡素な長袖の衣服を着ている。

 耳は尖っていない。

 獣臭さもしない。

 見える範囲、手や脚には改造の痕は無い。肉体に改造を施されていないようだ。

 まるでちゃんとした人間みたいだ……ちゃんとした人間がこんなに自由に出歩いているわけがないから、人間ではないと思う……それに、人間の姿を真似て改造する意味など、この世界では全く無い。不思議だ。ここの領主、ラエの趣味なのだろうか? こんな奴隷を使役しているなんて……。

 色々と思いを巡らせつつ、血をある程度、目立たないくらいになるまで拭き取って、僕は女に礼を言った。


「ありがとうございました。これは洗ってお返しします」


「いえいえ。それは差し上げます。そんなに汚れちゃったら、洗うのも大変でしょうし……」


「血の汚れを落とすのには慣れています。大丈夫です」


 大丈夫。

 自然と、また口を突いて出てしまっていた。

 本当にそうなのか?

 自問する。

 これに限っては、そうだ。

 自答した。

 問題ない。

 けれど、相手は大丈夫ではないようだった。


「お気遣いなく。それに、ほら。ユーリさんたちって、すぐにここを立っちゃうんですよね?」


「すぐと言う程に、すぐではないと思いますが……」


「え? そうなんですか? お時間に余裕があるんですか?」


「まあ、ある程度はあるかと……」


 むしろ今の僕は時間を持て余している。

 アルザギール様の護衛も、ミナレットとトランキノが代わりにやってくれている。

 休めという事なのだろう。だけども、そうなると僕にはやる事が何も無い。

 だから、このハンカチは洗って返します。と、そう言おうとしたところで、勢いよく遮られた。


「だったら! 時間があるのなら! ハンカチなんてどうでもいいので教えてくれませんか? 外の世界の事を」


「外の世界について、ですか?」


「はい。ここの外にある、他の領地の事を」


 他の領地……。

 残念ながら、僕にはそれを説明出来ない。


「申し訳ありません。僕はアルザギール様にお仕えしておりまして……基本的にはお屋敷から外に出ませんから、他の領地について、全く詳しくはないのです」


 ハンカチをお借りしたのに対価を払えず本当に申し訳ない。

 僕は謝罪の為に頭を下げようとしたが、


「何でも良いんですっ! ユーリさんの知ってる範囲でいいんですっ!」


「——」


 いきなり身を乗り出してきた女に、圧倒された。

 琥珀色の瞳が、僕の黒い瞳を見詰めている。

 真剣な色を帯びている。

 興味……好奇心……そういう希望に満ちた、明るい輝きがある。

 何故、こんな瞳をしているのか……?

 一体何がこの女の原動力となっているのか?

 気になる。が、それよりも先に、さっきから気になっている事がある。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「はい! 何でしょうか?」


「あなたは誰ですか?」


 この問いに、女は「あっ!」と大きな声を上げた。そして恥ずかしそうに頬を染めながら、言った。


「す、すみません……。自己紹介がまだでした。今します。私はステラという者です」


「僕はユーリです」


「初めまして、ユーリさん。……初めましてですけど、実は私、知ってたんです。あなたのこと。ラエ様から聞いてましたから。……あの、私からも一ついいですか?」


「何ですか?」


「人間から吸血鬼になったっていうのは、本当ですか?」


「ええ……まあ……本当ですが……?」


 正直に返答しつつも、何故そんな事を聞くのか? という疑問が浮かんだ。

 僕が吸血鬼であり、アルザギール様のものである事は周知の事実であり、わざわざ確認するまでも無いと思うのだが……。

 こちらの疑問符を感じ取ってか、ステラと名乗った女は慌てて手を左右に振った。


「あ、あの! べ、別に疑っているわけではなくてですね……何というか、その、何でも自分で確認しなきゃ気が済まない性格なんです。私って」


「そうですか」


 それなら納得……出来るような、出来ないような。


「それで、その……さっきの質問ですけど、私、いつか外の世界に出て、色々見てみたいと思ってまして、だから、その時に備えての情報収集というか、外から来た人に話しを聞いておかなきゃ! って思って……それで……」


 ステラはあれこれと理由を述べている。

 情熱が空回りしているようである。

 このまま彼女の話しを最後まで聞くのは面倒で、理由も大体わかったので、僕は彼女に被せるようにして言った。


「ここはどうだか知りませんが、外は酷いところですよ。……以前よりましだと思いますが」


「酷いって、どう酷いんですか?」


「一言で言うなら、弱肉強食です。力のある者が、力のない者を蹂躙しています。力が全て。そんな酷さです」


「あー……やっぱり、そういう酷さなんですね……」


 アルザギール様の他に類を見ない素晴らしいご活躍によって、世界は少し前よりも美しくなっている。

 戦奴に対しての扱いなどはかなり変化した。それは疑いようの無い事実である。

 醜い行いを好んでいた者も数を減らした。

 けれど、力が全てなのは変わっていない。

 未だ多くの者が、自らの持つ力で弱者を好きなように扱っている。

 しかし、そんな事はわざわざ聞かなくともわかっているのではないか?


「聞かなくてもわかるだろ? って顔してますね」


 僕は余程感情が顔に出やすいタイプらしい。

 そんな事はないと思うし、自覚もないのだが、誰からも考えを読まれてしまうので、そうなのだろう。


「もちろん、わかってます。この世界は暴力に満ちているということは。私も……そういうところはいっぱい見ました。……でも、この街は、シンスカリは違うんです。私みたいな人間でも、こうして普通に生きていけるんですから……」


「え?」


「え?」


 僕が思わず疑問の声を上げた後、彼女も同じく疑問の声を上げた。


「あの、私なんか変なこと言っちゃいました?」


 変な事……ではない。ではない。が……。


「……ステラさんは、人間なのですか?」


「えっ? ……やだなぁ、ユーリさん。私ってどこからどう見ても普通の人間の女の子じゃないですかぁー。気付きませんでしたか?」


 尻尾とかないでしょう? と言わんばかりに、その場でくるりと一回転。

 確かに尻尾は無かった。

 背中側にも特別な改造は施されていない。

 どこも何もされていない。

 普通だ。

 普通の、人間だ。


「普通の人間が……こんな風に、自由にしているとは……思っていなかったので……」


 口が上手く動かない。驚いている。とても。

 人間みたいだな。とは思った。実際のところ、その通りだった。


「だから、この街は他と違うんです。特別なんです」


 驚きのあまり固まっている僕の前で、ステラさんはニコリと笑った。

 そして彼女は、血に濡れたハンカチを指差した。

 ハンカチ……。そうだ。彼女はハンカチと言った。こちらの世界には無いはずの単語を口にしていた。その時点でちゃんとした人間だと気付くべきだった。

 全く……やはり僕は駄目になっている。

 心ここにあらずだった。


「それ、差し上げます。貰ってください」


「い、いや……」


「貰ってください。受け取ってくれたお礼に……というわけではないですけど、街を案内してあげますから」


「え? ……いや、それは……そこまでしてくれなくとも……」


 受け取ってくれたお礼って何だ?

 貰ったのにお礼っておかしくないか?

 などと真っ当な返しをする前に、彼女は僕の、ハンカチを握っていない方の手を取った。


「嫌でも連れて行きますよっ! 『ユーリ殿に街を見せておくように』と、ラエ様から仰せつかっていますから!」


「え……?」


 ラエの真似だろうか。ステラは途中で声を低くして変な顔をした。別段、面白いものではなかった。そういうのは身内にしかウケない冗談だと思う。

 けれど、クスリともしない僕とは違って、彼女は楽しそうにしていた。

 快活に笑っていた。

 眩しい笑みだった。

 何故だか、そこに懐かしさを感じた。

 人間とはいえ、全く知らない相手だ。懐かしさなんて感じるはずがないのに……一体どこにそんなものを感じているのだろうか?

 ただの笑顔を日常の象徴だと感じているのか? 僕は?

 甚だ疑問だ。


「ほら、行きますよっ!」


「……はい」


 兎にも角にも、無理矢理手を振り払う気分にはなれなかったので、どうしたものかと複雑な気持ちを抱えたまま、手を引かれるまま、僕は彼女の後ろに付いていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ