プロローグ1ー2、ステラという女の子
女の声。
空を見上げていたはずなのに、いつの間にやら地に堕ちていた視線の先に、脚が見えた。
小刻みに震えている。
「あの、その……血、血が……血が……すっごい出てますけど……」
「ええ……はい。大丈夫です」
半ば自動的に返答し、手を下ろして、血に塗れた掌を見た。
そこには自分の髪毛やら頭皮の一部やらがあるだけで、他には何も無かった。蛆なんて、どこにもいなかった。一匹もいなかった。
「あ、あの……よければ、これ……ハンカチ……」
差し出された手。細い指先が持っているのは、白いハンカチ。
脚だけではなく、体全体が震えている。
恐れている。
怖いのだ。
僕みたいな得体の知れないやつに近づきたくないのだろう。
無理しなくてもいいのに。
僕なんか、無視してくれてもいいのに。
率直にそう思ったから、否定した。
「いえ、大丈夫です」
「で、で、でも……そ、そんなままで、このお屋敷を歩かれるのは……何ていうか、ちょっと迷惑と言いますか、何と言いますか……」
言われてみて、気が付いた。
ここは他人の領地だ。
そこで血塗れの頭のままでうろつくのは、確かによろしくない。
アルザギール様にご迷惑をお掛けする事になってしまう。それはいけない。駄目だ。
「申し訳ありません。配慮が足りませんでした。貸していただきます」
「あ、はい。……どうぞ」
自らの非を素直に認めて、僕はハンカチを受け取った。
顔に垂れてきた血を拭きながら、そこでようやく、相手の顔を見た。
肩辺りにまで掛かる茶髪。琥珀に近い色合いの瞳。
顔には少しのそばかす。
線は細い。華奢だ。
奴隷以上従者未満とでもいうような、簡素な長袖の衣服を着ている。
耳は尖っていない。
獣臭さもしない。
見える範囲、手や脚には改造の痕は無い。肉体に改造を施されていないようだ。
まるでちゃんとした人間みたいだ……ちゃんとした人間がこんなに自由に出歩いているわけがないから、人間ではないと思う……それに、人間の姿を真似て改造する意味など、この世界では全く無い。不思議だ。ここの領主、ラエの趣味なのだろうか? こんな奴隷を使役しているなんて……。
色々と思いを巡らせつつ、血をある程度、目立たないくらいになるまで拭き取って、僕は女に礼を言った。
「ありがとうございました。これは洗ってお返しします」
「いえいえ。それは差し上げます。そんなに汚れちゃったら、洗うのも大変でしょうし……」
「血の汚れを落とすのには慣れています。大丈夫です」
大丈夫。
自然と、また口を突いて出てしまっていた。
本当にそうなのか?
自問する。
これに限っては、そうだ。
自答した。
問題ない。
けれど、相手は大丈夫ではないようだった。
「お気遣いなく。それに、ほら。ユーリさんたちって、すぐにここを立っちゃうんですよね?」
「すぐと言う程に、すぐではないと思いますが……」
「え? そうなんですか? お時間に余裕があるんですか?」
「まあ、ある程度はあるかと……」
むしろ今の僕は時間を持て余している。
アルザギール様の護衛も、ミナレットとトランキノが代わりにやってくれている。
休めという事なのだろう。だけども、そうなると僕にはやる事が何も無い。
だから、このハンカチは洗って返します。と、そう言おうとしたところで、勢いよく遮られた。
「だったら! 時間があるのなら! ハンカチなんてどうでもいいので教えてくれませんか? 外の世界の事を」
「外の世界について、ですか?」
「はい。ここの外にある、他の領地の事を」
他の領地……。
残念ながら、僕にはそれを説明出来ない。
「申し訳ありません。僕はアルザギール様にお仕えしておりまして……基本的にはお屋敷から外に出ませんから、他の領地について、全く詳しくはないのです」
ハンカチをお借りしたのに対価を払えず本当に申し訳ない。
僕は謝罪の為に頭を下げようとしたが、
「何でも良いんですっ! ユーリさんの知ってる範囲でいいんですっ!」
「——」
いきなり身を乗り出してきた女に、圧倒された。
琥珀色の瞳が、僕の黒い瞳を見詰めている。
真剣な色を帯びている。
興味……好奇心……そういう希望に満ちた、明るい輝きがある。
何故、こんな瞳をしているのか……?
一体何がこの女の原動力となっているのか?
気になる。が、それよりも先に、さっきから気になっている事がある。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「はい! 何でしょうか?」
「あなたは誰ですか?」
この問いに、女は「あっ!」と大きな声を上げた。そして恥ずかしそうに頬を染めながら、言った。
「す、すみません……。自己紹介がまだでした。今します。私はステラという者です」
「僕はユーリです」
「初めまして、ユーリさん。……初めましてですけど、実は私、知ってたんです。あなたのこと。ラエ様から聞いてましたから。……あの、私からも一ついいですか?」
「何ですか?」
「人間から吸血鬼になったっていうのは、本当ですか?」
「ええ……まあ……本当ですが……?」
正直に返答しつつも、何故そんな事を聞くのか? という疑問が浮かんだ。
僕が吸血鬼であり、アルザギール様のものである事は周知の事実であり、わざわざ確認するまでも無いと思うのだが……。
こちらの疑問符を感じ取ってか、ステラと名乗った女は慌てて手を左右に振った。
「あ、あの! べ、別に疑っているわけではなくてですね……何というか、その、何でも自分で確認しなきゃ気が済まない性格なんです。私って」
「そうですか」
それなら納得……出来るような、出来ないような。
「それで、その……さっきの質問ですけど、私、いつか外の世界に出て、色々見てみたいと思ってまして、だから、その時に備えての情報収集というか、外から来た人に話しを聞いておかなきゃ! って思って……それで……」
ステラはあれこれと理由を述べている。
情熱が空回りしているようである。
このまま彼女の話しを最後まで聞くのは面倒で、理由も大体わかったので、僕は彼女に被せるようにして言った。
「ここはどうだか知りませんが、外は酷いところですよ。……以前よりましだと思いますが」
「酷いって、どう酷いんですか?」
「一言で言うなら、弱肉強食です。力のある者が、力のない者を蹂躙しています。力が全て。そんな酷さです」
「あー……やっぱり、そういう酷さなんですね……」
アルザギール様の他に類を見ない素晴らしいご活躍によって、世界は少し前よりも美しくなっている。
戦奴に対しての扱いなどはかなり変化した。それは疑いようの無い事実である。
醜い行いを好んでいた者も数を減らした。
けれど、力が全てなのは変わっていない。
未だ多くの者が、自らの持つ力で弱者を好きなように扱っている。
しかし、そんな事はわざわざ聞かなくともわかっているのではないか?
「聞かなくてもわかるだろ? って顔してますね」
僕は余程感情が顔に出やすいタイプらしい。
そんな事はないと思うし、自覚もないのだが、誰からも考えを読まれてしまうので、そうなのだろう。
「もちろん、わかってます。この世界は暴力に満ちているということは。私も……そういうところはいっぱい見ました。……でも、この街は、シンスカリは違うんです。私みたいな人間でも、こうして普通に生きていけるんですから……」
「え?」
「え?」
僕が思わず疑問の声を上げた後、彼女も同じく疑問の声を上げた。
「あの、私なんか変なこと言っちゃいました?」
変な事……ではない。ではない。が……。
「……ステラさんは、人間なのですか?」
「えっ? ……やだなぁ、ユーリさん。私ってどこからどう見ても普通の人間の女の子じゃないですかぁー。気付きませんでしたか?」
尻尾とかないでしょう? と言わんばかりに、その場でくるりと一回転。
確かに尻尾は無かった。
背中側にも特別な改造は施されていない。
どこも何もされていない。
普通だ。
普通の、人間だ。
「普通の人間が……こんな風に、自由にしているとは……思っていなかったので……」
口が上手く動かない。驚いている。とても。
人間みたいだな。とは思った。実際のところ、その通りだった。
「だから、この街は他と違うんです。特別なんです」
驚きのあまり固まっている僕の前で、ステラさんはニコリと笑った。
そして彼女は、血に濡れたハンカチを指差した。
ハンカチ……。そうだ。彼女はハンカチと言った。こちらの世界には無いはずの単語を口にしていた。その時点でちゃんとした人間だと気付くべきだった。
全く……やはり僕は駄目になっている。
心ここにあらずだった。
「それ、差し上げます。貰ってください」
「い、いや……」
「貰ってください。受け取ってくれたお礼に……というわけではないですけど、街を案内してあげますから」
「え? ……いや、それは……そこまでしてくれなくとも……」
受け取ってくれたお礼って何だ?
貰ったのにお礼っておかしくないか?
などと真っ当な返しをする前に、彼女は僕の、ハンカチを握っていない方の手を取った。
「嫌でも連れて行きますよっ! 『ユーリ殿に街を見せておくように』と、ラエ様から仰せつかっていますから!」
「え……?」
ラエの真似だろうか。ステラは途中で声を低くして変な顔をした。別段、面白いものではなかった。そういうのは身内にしかウケない冗談だと思う。
けれど、クスリともしない僕とは違って、彼女は楽しそうにしていた。
快活に笑っていた。
眩しい笑みだった。
何故だか、そこに懐かしさを感じた。
人間とはいえ、全く知らない相手だ。懐かしさなんて感じるはずがないのに……一体どこにそんなものを感じているのだろうか?
ただの笑顔を日常の象徴だと感じているのか? 僕は?
甚だ疑問だ。
「ほら、行きますよっ!」
「……はい」
兎にも角にも、無理矢理手を振り払う気分にはなれなかったので、どうしたものかと複雑な気持ちを抱えたまま、手を引かれるまま、僕は彼女の後ろに付いていった。




