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いつかの記憶。頂点の記憶。

 掛け替えのない、美しい記憶が、僕にはある。

 僕がアルザギール様のものとして認められた日の記憶だ。

 あの醜い吸血鬼の風上にも置けない恥さらしのバイロを屠った、その後の記憶だ。

 お屋敷にて、アルザギール様の私室に、僕は呼び出された。


「ご褒美です」


 と、アルザギール様は麗しいお声で、そうおっしゃられた。

 目の前の小さな、しかし重厚な造りのアルザギール様が扱うに相応しい完璧なテーブルに、血が、ふちの部分までたっぷりと注がれたグラスが、置いてあった。


「私の剣として、見事バイロを討ち取ったあなたへのご褒美です」


 アルザギール様は「ご褒美です」という部分を強調なさって、繰り返された。


「このような言い方をするのは、何だか恥ずかしいのですが……これはあなたの為に取っておいた勝利の美酒。とでも言えるものです」


「アルザギール様……あなた様が、御恥ずかしがりになる必要など……」


 ありません。と愚かにも僕が言おうとする前に、アルザギール様は微笑まれた。

 その微笑みは、するりと僕の心の中に入り込むと、僕の中からあっさりとつまらない言葉を奪い去った。


「いいえ、これは私の血なのです。自らの血を美酒。と言うのは、やはり少々気恥ずかしいものがあります」


「アルザギール様……」


 実際のところ、それは美酒などという単純の言葉では言い表せないものであるのは明確なのだが、アルザギール様は謙虚にも、謙遜しておられる。

 ああ、アルザギール様のお心の、なんと奥ゆかしい事か……。

 僕は感極まり、視線をグラスに向けた。

 濃い血の紅の、表面に、僕の顔が映っている。

 歓喜と畏敬とが入り混じった、何とも言えない変な表情をしている。

 ごくり、と、喉が鳴った。

 恥ずかしかった。

 アルザギール様の血を前にして、物欲しさに喉を鳴らすなど、あってはならない無礼である。が、しかし、ご褒美なのだから、速やかに、謹んで頂かなければなければならない。それが礼儀である。

 とはいえ、本当に、これだけの量を頂いてしまって良いのだろうか?

 問う代わりに、僕は視線をアルザギール様に注いだ。

 アルザギール様は、薄く微笑んでおられた。

 どうぞ。と、おっしゃっておられるのである。

 さあ、どうぞ。私の血を存分に味わってください。勝利の喜びを余すこと無く噛み締めてください。と。

その命を受け、僕はグラスを手に取った。


「アルザギール様からの勝利の美酒。ありがたく頂戴いたします」


「ええ、どうぞ」


「ありがとうございます。アルザギール様」


 感謝の言葉を、重ね。

 心から溢れた感動を、伝え。

 微笑みを絶やさない、女神を超えし存在である尊きアルザギール様の前で、それを、一息に煽った。


「——」


 人間だった頃。

 高校生だった頃。

 家族と旅行で海外に行った。

 そして、誰もが知っている有名な美術館で、誰もが知っている有名な絵を見た。

 それは所謂、名画と呼ばれる類のものだった。

 けれど、それを見た僕の率直な感想は「何かよくわからないけど何か凄いんだろう」だった。

 結構綺麗な絵だなぁ。という曖昧かつどの絵を見ても浮かんでくるようなありがちな印象しか受けなかった。

 きっと、僕が無知だったからだろう。絵画について詳しく知っていたのなら、時代背景や技法、秘められた意味などを見出せて、大いに感動出来たのかもしれない。

 だけども、それなりに感動というか感心したのは確かだし、あのテレビでしか見た事のない有名な名画を自分の目で見た。というのは、僕の特筆すべき事が無い至極平凡な人生に於いて自慢の出来るものの一つとなり、旅行自体も楽しい思い出として心に残っていた。記憶の片隅に、一応は存在していた。

 今までは。

 今、この思い出は、アルザギール様の血によって塗り潰された。埃を被っていたカビ臭い記憶は、新たなる素晴らしい体験の濁流に呑まれ、消えた。

 今、この瞬間に体験しているこの感動は、これまでの人生で味わったどのようなものも超越している。凌駕している。

 もし、人生に於いての頂点……山の頂のような、これまでの苦労が全て報われ、想像を超えた景色を眺めることの出来る頂点があるとするならば……それは、今この瞬間であって間違いない。

 ここが頂点だ。

 僕の人生にこれ以上のものは存在しない。

 そういう確信がある。

 だけど、ああ、しかし、この感動を僕が人に伝える事は無い。絶対に無い。断言出来る。

 何故か?

 理由は二つ。

 一つは、かつて見た名画のように「何か凄かった」などと酷く抽象的表現で相手に伝えてしまう事が、アルザギール様への失礼にあたるからである。

 もう一つは、この感動は僕だけのものだからである。

 この感動を口にしたところで、それが薄れる事などは無い。記憶が摩耗する事は無い。劣化する事は無い。そんな事は理解している。記憶は記憶であってそれ以上でも以下でもない。だから、感想を述べてもいいではないか。と人は思うかもしれない。

 それでも、だ。

 いや、だからこそ、というべきか。

 この記憶は、僕だけのものとして取っておく。

 心の一番奥の、深いところにしまっておく。大事に。大事に。

 何か辛い事があった時は、優しく取り出して自分を慰めよう。

 この瞬間の思い出があれば……アルザギール様から最大の賞賛を頂いたという思い出があれば、僕は生きていけるのだ。

 この先、何があっても。


「……ご馳走様でした。ありがとうございました。深く、深く感謝いたします、アルザギール様」


 口元に僅かに残ってしまった血を(勿体無い。舐め取りたい。けど失礼だからやめておこう。と思いながら)ハンカチで拭って、グラスを丁寧にテーブルに戻して、僕は深々と頭を垂れた。

 胃の温度によって熱せられ、立ち昇ってくる残り香が口内に満ち、再度幸福な気分に浸れた。


「どういたしまして。気持ち良く飲んで頂いて、私としても嬉しい限りです」


 アルザギール様は微笑んでおられる。本当に嬉しく思っておられる。僕にはわかる。


「けれど、そこまで畏まる必要はありませんよ、ユーリ。これは、あなたが自らの力で勝ち取ったものなのですから」


「アルザギール様……」


 なんと暖かい言葉を掛けてくださるのか。

 僕は思わず感動で涙を流してしまいそうだった。だが僕の涙でアルザギール様のお部屋のお美しい床に敷かれた素敵な絨毯を汚してしまうわけにはいかないので、僕は何とか涙を流すのを堪えた。

 感動は内にしまっておく。さっきそう思ったばかりではないか。自分にそう言い聞かせた。


「頭を上げなさい。ユーリ」


「はい」


 命じられ、頭を上げた。

 視線が絡み合った。

 僕とアルザギール様の一秒が重なった。

 同じ時を共有した……。

 鼓動の音までも重なっているかのような錯覚……。

 体が熱を持っている。

 当然だ。全身に、アルザギール様の血が流れて行っているのだ。

 肉体が喜びの声を上げているのだ。

 体に変化が起こっているのが感じ取れる。

 僕の中で、何かが形を変えていく。

 僕がより僕に近付いていく感覚。

 ギチギチ、ギチギチ、と。

 かつて魔女によって眼球を抉り出された際に、アルザギール様の血を数滴垂らされると回復が早くなったのを思い出した。

 アルザギール様の血は、僕の体によく馴染む。

 血液型のようなものが一緒なのだろうか。

 だとしたら、嬉しい。

 それ以上に喜ばしい事はない。


「どうかしましたか?」


「え?」


 不意に声を掛けられた。間抜けな反応をしてしまった事を猛省した。


「微笑みが浮かんでいますよ?」


「あ……」


「可愛らしい笑みですね」


「……っ」


 笑っていたのか。僕は。

 カッと耳に血が上った。

 熱い。

 恥ずかしい所を見られてしまった。

 アルザギール様はお優しい御方なので、可愛らしいと評していただけたのだが、きっと変な、気持ちの悪い笑みを浮かべてしまっていたはずだ。

 そのような見苦しい所をお見せしてしまって、申し訳ない……。


「あ……アルザギール様の血が、あまりにも……その……格別なものだったので……つい……」


 言わなくていい言い訳が、つい口から出てしまっていた。

 変な事を口走ってしまった。と思った。

 だが逆に、僕たちは似ているところがあるかもしれませんね。などともっと変な事を行ってしまわなくて良かった。とも安心した。

 何が、似ている。だ。

 僕とアルザギール様は違うのだ。

 吸血鬼という点では同じであるものの、存在としては全く異なるものなのだ。

 熱に浮かされ、思考が乱れている僕の前で、アルザギール様は変わりなく微笑まれていた。


「ふふっ……。ユーリ、あなたにとってそれが格別なものであったのだとしたら、私としても嬉しい限りです」


 例えばこれが恋愛漫画とかだったら、これは彼女が彼氏に手料理を振る舞ったシーンに相当するのかもしれない、

 勿論、僕は彼氏などではないし、アルザギール様は僕の彼女などではない。こんな想像をしてしまって申し訳ない限りだ。頭がおかしくなってしまっているせいだ。血の熱で、脳みそが沸騰してしまっているのだ。僕は己の貧相な想像力を呪った。いかれた頭に罵詈雑言をぶつけた。くだらない事を考えてるんじゃあない。落ち着け。落ち着くんだ。流石に浮かれ過ぎだぞ。落ち着け。

 落ち着け……。

 その時、そんな必死に自らの熱を冷まそうとしている僕を慰めるかのように、アルザギール様の小さなお口が開かれた。


「ユーリ。あなたは、私のものです」


「はい」


 頷いた。思考が停止した。全身が自然にアルザギール様のお言葉を拝聴する姿勢に入った。


「これからも、これまで以上に、私の為に尽くしなさい。全身全霊を懸けて、私の命を全うしなさい」


「はい。尽くします。全うします。承知いたしております。アルザギール様」


 殆ど反射的に、僕は跪き、深々と頭を下げた。

 まだ、体が熱も持っている。

 恥ずかしさではない。

 流し込んだ血の余韻だ。

 それが、未だに落ち着かず、僕の中をゆるりゆるりと揺蕩っている。

 閉じた瞳の奥で、蠢くアルザギール様の血を感じる。

 僕の中にアルザギール様の一部がある。この、何と、何と幸福な事か……。

 再び出てきそうになる笑みを、今度は噛み殺した。


「ふふっ」


 それすらも見透かしておられるのか、頭上から、アルザギール様の透き通った小さな笑い声が降ってきた。


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