プロローグ2、最強の足音
「戦えと言った覚えはない」
死骸となり果てた巨獣のすぐ隣。丁度いい大きさの石があったので、服を汚さない為にその上に腰を下ろし、勝利の余韻に浸って一息吐いていたところ、トランキノから開口一番に文句をぶつけられた。
「狩りをしろ、と言った」
「はい。わかっています」
「わかっていない」
頷いた僕に、上からトランキノの声が降ってきた。
「一撃で仕留めろ。と言ったはずだ」
「そうするつもりでしたが……」
何分、僕も初めての狩りだったので……。という言い訳をする暇は当然与えられるはずがなかった。
「これでは使い物にならん」
「……すみません」
死骸に視線を向けて溜息を吐いたトランキノに一応平謝りをしつつ、僕も今しがた殺したばかりの巨獣に目をやった。
まあ、それなりに激闘だった。
体が大きいだけあり、筋肉が発達して強固な壁になっていたし、それを支える骨も非常に硬かった。肉を裂いても浅かった。骨も一撃で断てない程だった。
そのせいで何度も何度も斬ったり突いたりしたので、肉も毛皮もボロボロだ。内部への攻撃も試したので、内臓までもズタズタだ。
狩りを始める前に、トランキノは言っていた。
「殺した巨獣は我が一族が利用する」「肉や毛皮は売り物にする」「だから、一撃で仕留めろ」と。
しかしこんな風になってしまっては、彼女の言う通りどこも使い物にならない。
「売り物ではなく、トランキノさんの食料か何かにでも出来ませんか?」
失敗は失敗だ。
何となく申し訳ないので、別の利用方法を提案してみたが、
「巨獣の肉など食わん」
寄る辺もなくあっさりと断られた。
「自分だけでなく、一族の者も食わん」
「そうですか……」
「自分たちは、ただ殺すだけだ」
淡々とした口調だが、強い拒絶を感じる。
狩りへの入れ込みようからして、巨獣を殺す事にかなり執着しているようだし、売り物にする事云々より殺す事そのものが目的となっていると思える。
獣人は巨獣を利用して作りされた存在……。
それで、巨獣を憎んでいる……のか?
自己否定というか、こんな野生の生き物から自分(正確には彼女の一族)が生み出されたなどと信じたくない。とかいうような人型の種族としてのプライドというか、何らかの否定の気持ちを、殺す事で表現しているのだろうか?
トランキノの狩りへのモチベーションがどこから来ているのか……少し気になるが、あまり興味は無い。
故に、それについてわざわざ深く尋ねたりはしない。
語られたら仕方なく聞く。というくらいである。
「これはこのままにしておく。森に返す」
死骸を一瞥しての、一言。
殺せたので満足した。使える部分が無いので放置する。
それは合理的な考えである。一理あるとは思う。しかし、それは彼女の合理性であり、理である。僕には関係無い。
「このままにされては困ります」
僕にとって最も大切であり、優先すべきなのは、アルザギール様である。
「トランキノさん。僕たちの目的は、アルザギール様がお通りになる道をお作りする事です」
「わかっている」
「わかっていません。道とは、アルザギール様が心安らかに、自然を楽しみながら、優雅にお通りする事の出来る道です。それを作る事が僕たちの成すべき事です」
「そこまでしろと言われた覚えはない。与えられた任務については理解している。巨獣を殺す事だ」
巨獣を殺せるなら、他に理由はいらない。
トランキノは言外にそう告げている。
それは間違いである。
「いいえ、あなたは理解していません。言葉の外にあるアルザギール様のお言葉をきちんと読み取れていません。もし理解し、読み取れているのであれば、死骸を放置するなど口が裂けても言わないはずです」
「このような死骸は森の中にいくらでもある」
「当然それも片付けます。先行している僕たちが」
ここは深い森の中で、自然の世界である。
無数の巨獣が生息している。そこで繰り広げられる弱肉強食。当然、死骸はどこにでもある。その言葉に偽りはない。それはわかっている。
それでも、だ。
僕はもう一度、僕たちに課せられた使命について口にした。
「いいですか? トランキノさん。僕たちが全うすべき使命は、アルザギール様がお通りになられる道を全身全霊でお作りする事なのです」
「それは何度も聞いた」
「何度でも言います。アルザギール様からのご命令の真意を、あなたがきちんと理解してくれるまで」
「……」
「……」
沈黙が降りている間に、僕は腰を上げて彼女を見詰めた。
穏やかな風が、血の匂いをどこかへと拐っていき、代わりに、森の奥から運ばれてきた深い緑の匂いが場に被さる。
草木が静かに揺れている。
巨獣の体から地へと流れた血を吸い取り、歓喜の声を上げているようだ。
まるで、笑い声のようなざわめき……。
そんな中で、僕とトランキノは言葉を交わさずに、黙って視線を交えている。
僕の瞳には強い意志。アルザギール様への強い想いが込められている。
トランキノは……少し困っているかのように、目を細めている。
どうしたものか……とでも考えているのだろう。
しかし、そんなのは考えるだけ無駄というものだ。
僕が意見を曲げる事はない。絶対に。
アルザギール様の剣として、アルザギール様のお進みになる道を斬り開く為にここにやってきた僕が、意志を曲げるはずがない。
もしかすると、トランキノは僕の内心をわかっているからこそ、どうしたものか……と迷っているのかもしれない。
真意はわからない。
何にしても、僕は黙って彼女を見詰めた。何か言われたら即座に反論出来るように、頭をフルに回転させて論理を構築させていた。
彼女はピンと立った耳が目立つ頭の端を、指先で軽く掻いた。
それから、重々しく口を開いた。
「一撃で仕留めるのは、弓と体力の節約の為だ。と以前言った」
「はい」
正直なところ覚えていないのだが、そんな事言いましたっけ? などと言って話しの腰を折ったりはしない。面倒だから。
「死骸を片付けると、疲れる。無駄に体力が失われる」
「それでも——」
アルザギール様の為ならば。と、僕は今一度宣言しようとした。
労力が掛かるのはわかっています。ですが、あなたが手伝ってくれなくとも、僕一人でやります。とも言おうとした。
けれど、そういう提案をする前に、トランキノが口を開いた。
「片付けは一族の者に任せる」
「え? いいのですか?」
「そちらの方が効率がいい」
「……そうですか」
意外だった。
何かと理由を付けて更に文句を言われると思っていたが、拍子抜けするくらいあっさりと許可された。
これには身構えていた分だけ困惑が大きかったのだが、続くトランキノの言葉で、納得出来た。
「ユーリ。貴様と自分とで狩りを続ける。アルザギール様のお通りする道を作る為に」
「トランキノさん……わかってくれましたか」
「巨獣を殺す。という事だ」
「そういうわけでは……いえ、そうですね。はい。その通りです」
トランキノにとっての優先順位の一位が、アルザギール様からのご命令。ではなく、巨獣を殺す。になっているような気がしないでもないが……ここでそれについての問答をしても時間の無駄である。
どうせこいつは「巨獣を殺す」しか言わない。
死骸を片付けてくれる。という約束をしてくれた事に感謝して、この話しは終わりにするべきだ。
方針は決まったのだ。
ならば後はそれを全うするだけである。
「巨獣の殺し方について、貴様にいくつか教えるべき事があるが……それは後にするか。少し待て、死骸を片付けるよう指示を残しておく」
「お願いします」
木の枝を折って地面に刺したり、長い草を結んだりして、彼女の一族にしか伝わらないようなメッセージを残している様子であるトランキノ。
僕はそんな彼女の背中を見つつ、森育ちって文字もなくあんなのでやり取り出来るなんて凄いなぁ。これが森で生きる知恵というか、狩りの知恵なのか。などと素直に感心していた。
その時、だった。
「む……」
不意に、トランキノが結んでいた草から視線を外し、右手の方を向いた。
「どうかしましたか?」
巨獣だろうか?
つられて、僕もそちらを向いた。
月光を遮る森の先。
踏み込んだ者を飲み込もうとしているかのように、深い闇が広がっている。
何かいる……ようには見えない。
「足音が聞こえる」
「足音、ですか?」
「重い」
「重い?」
耳を澄ませる。
集中すれば、聴覚はそれをすぐに拾った。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と。
かなりの重量がありそうな何かが……音の大きさの変化からして、こちらに向かってきている。
近付いて来ている。
それも、早いペースで。
「巨獣ですか?」
「これは……違う。これは……いや、しかし、まさか……こんなところにいるはずが……」
「トランキノさん?」
一人思案し呟く彼女に問いかけた。
すると彼女の目が動き、こちらを捉え、それから大きく見開かれた。
「なるほど。そうか……そういう事か……」
「どういう事ですか?」
何らかの結論に至ったようなので、一人で理解していないで説明しろと、状況を共有してもらおうと、更に問いかけた。
答えは、即座に返ってきた。
「戦え」
「え?」
「これからやってくる相手と戦え」
「……誰ですか? その相手というのは?」
意味がわからないが、わからないまま、聞いてみる。
出てきたのは、予想もしていなかった名前だった。
「ルーレス様だ」
「ルーレス、というと、まさか……」
「様を付けろ。そのまさかだ」
確か、ルーレス・ノビリス・ベイ・ルーレル。だったか。
十二人の吸血鬼の一人。
「普段はもっと深いところにいるのだが、一族の者から貴様の事を聞いたのだろう。それで、貴様の腕前を試しに来たらしい」
「腕試し、ですか?」
「あの御方は、戦いが好きだ」
「戦いが好き、ですか……」
かつての大戦の後も、この森に籠もり、巨獣を殺し続けている。と聞いていた。
巨獣を殺すだけで満足していると思っていたが……。
トランキノは腕試しと言ったが、それに何の意味があるというのか……不毛だ。無意味な戦いだ。出来れば避けたいところだが……。
「貴様に勝ち目は無い。故に、逃げろと言ってやりたいところだが、そう言ってしまうと後であの御方から怒られる」
「逃げてはいけませんか……」
「駄目だ」
戦いを避ける。という選択肢は無いらしい。
「全力で戦え。負けるにせよ、戦えばあの御方は満足するはずだ」
「はぁ……そうですか」
「そうだ。自分は距離を取る。巻き込まれてはたまらんからな」
言いたい事だけを言い残して、トランキノは一足で高く飛び上がり、木々の枝を蹴って、あっという間にこの場から姿を消した。
「やれやれ……」
残された僕は音のする方向にのろのろと視線を向けた。
さっきよりも近付いている。音だけでなく振動も感じる。
大地と木々の枝に付いている葉が、一定の間隔で小刻みに揺れている。
まるで世界が怯えているようだ。
これからやってくる者の力を恐れているかのようだ。
「……」
徐々に大きくなる音。
徐々に大きくなる揺れ。
木が倒れたような気配があった。ドーン。という間の抜けた音がした。しかも一本だけでは無い。何本も倒れているみたいだ。
「凄いな……」
行く手を遮る木々を軽々と吹き飛ばしているのだろう。
巨獣でもここまでの破壊は引き起こせないに違いない。
誰も勝てない。と、トランキノはルーレスの誇る戦闘能力の高さをそのようにわかりやすく評していた。
実際、これだけの破壊を伴って接近して来ているのだから、とてつもない膂力を持つ者である事は間違いない。
かつての大戦で、前線で戦っていたという吸血鬼……。
今も、巨獣を殺す日々を送っているという戦いに生きる者……。
その力というのは、一体、どれだけのものなのか……。
戦いから退いていたバイロは不意を打って簡単に倒せたが、遥か昔から今の今まで戦い続けて、全盛期を超える力を持っているであろう吸血鬼の実力は、本当に、少しも、想像が出来ない。
これから僕は、そういう存在を相手取るわけだが……。
「負けイベントというやつなのかな、これは」
戦え。力を示せ。と、トランキノは言った。
それで満足する、と。
勿論、戦えというのなら戦おう。
力を示せ。というのなら力を示そう。
けれど、正直なところ、非常に情けないが、勝てる気は全くしない。
殺しが得意という程度のミナレットにすら勝てるところが想像出来ていないのに、この世界で最強と称される存在に勝てるわけが無い。
自分は強い。という自覚はあるにはあるが、あくまでそれは、それなりに、というぐらいである。
最強でなんて思っていない。一度も思った事は無い。
吸血鬼はかつての大戦を終わらせた英雄であり、強大な力を持つというが、僕は違う。吸血鬼に成ったばかりで、大きな戦いを潜り抜けていない。吸血鬼としての高みに達していない。誰に指摘されたわけでもないが、隊長やミナレットなど、近くにいる強者を見ていて、そう思う。
アルザギール様のものとして、本当に、本当に、情けなくはあるが……僕は最強に匹敵する力を有していない。
故に、戦う前から勝敗はわかりきっている。
敗北は確定している。
……だけど、
「それでも、剣としての挟持は見せるべきだ」
負けるにしても、ただでは負けない。アルザギール様のものとして、剣として、恥ずかしくないよう最後まで戦い抜いてやる。
吸血鬼は不死身に近い。そう簡単には死なない。僕の場合は、心もまたそうだ。いや、肉体以上の不死性を有していると言っても過言ではない。
何度倒され、泥を舐めようとも、僕の心は絶対に折れない。
単純な戦闘能力ではない。アルザギール様への忠誠を、覚悟を、見せてやる。
向かってくる最強に、それを刻み込んでやる。
静かな決意を胸に、両手に刀を作り、握った。
瞬間、ドンッ! という一際大きい音がして、これまで一度も感じた事の無い、凄まじく強烈な、とてつもない巨大さの岩の如き闘気で、全身を打たれた。
「——」
それに怯んだ、刹那——
「——!?」
攻撃が——きた——眼前に、黒鉄色の何かがあった。
疾い。
いつの間に。
黒い。
鉄の匂い。
鉄の塊?
鉄球?
錆びた匂い。
投擲されたのか?
さっきの音は何だ?
重そうだ。
これは?
刹那の間の思考。一瞬の状況分析。
体はその後に、ようやく動いた。
刀を——交差——血液を——全力で——固め——防御——受け——




