プロローグ1、森の中で。
深く、暗い森だ。
極彩色の羽をゆるやかにはためかせて飛ぶ、蝶に似た虫。無数の脚を器用に動かして地を這い進む、毒々しい見た目の百足に似た虫。幻想的と呼ぶにはあまりにも生々し過ぎる生き物達。
背の高い巨木とそこに生える枝。無数の葉が厚く重なり、月の光はその殆どを遮ぎられ、斑らな薄明かりとなって地に落ちている。
息を吸えば、青臭い草の匂いが肺に満ちる。
湿度は高くはない。世界が闇に包まれているからだろう。森が蓄える生命の呼吸が生み出す、肌に纏わりつくような熱気は無い。じっとりとした汗が額や背を流れないのは、不幸中の幸いか……。
とはいえ、状況は最悪だ。
こんなところに、アルザギール様から頂いたこの服を着てくるべきではなかった……。
ちょっと敵を殺すくらいであれば全然問題無いのだが、何日も森で過ごすにはどう考えても適していない。
一応、トランキノが換えの衣服を持って来てくれていたが、これと同じものだ。「貴様の部屋にはこれしか無かった」と言っていた。それは確かに事実なのだが、それでも気を遣ってこういうところで過ごしやすい服を調達してくるべきだったのではないか?
まあ、自分は布を一枚羽織っただけの裸同然と言っても過言ではない格好なので、気にしていないのだろうし、服について文句を言うと「長袖は良い。森の匂いがよく染み付いて偽装になる」とか「気になるなら脱げ」とか「近くに一族の者が作った泉がある。そこで洗え」とか、こちらの意図するところを読み取れていないズレた発言ばかりしていたので、気が利かないのも仕方が無いと思えなくもないが……。
それでも、苛々とした気持ちが積もってしまう。
「ふぅ……」
だが、これではいけない。
一つ、呼気を吐いて、乱れた気持ちを鎮める。
落ち着け……。
「集中しろ」と、トランキノは言っていた。
「集中しろ」「その時が訪れるまで集中を切らすな」「己を研ぎ澄ませ」「そして時が来たら、一撃で仕留めろ」
今、少し離れたところをゆっくりと歩いているそれを仕留める為に受けたのはそんなアドバイスだった。
それとは勿論、巨獣だ。
目視しているそれは、狼に似ている。
大きさは、小さな一戸建ての家くらいあるだろうか。
巨大な獣。で、巨獣。そのままだなぁと呑気に思った。
大きな胴体。頭。それを支える四足。
武器となるであろう口。そこに生え揃っている鋭利な牙。太い前脚、後ろ脚。その先に伸びている爪。何もかもが大きい。
噛みつかれれば、牙は易々と僕の胴体を貫通するだろう(血で防御出来なければ、そうなる)。爪は軽々と肉を裂き、骨まで届くだろう(これもまた、防げなかったら。という場合の話しだ)。
野生の巨獣……。
これまで戦ってきたどんな相手とも異なる雰囲気だ。
武器や技に頼っていない、純粋な暴力の塊とでも表現すればいいのか……。
遠目でも、その力の大きさは感じ取れた。
真面に正面からぶつかれば——負けはしないだろうが——苦戦する可能性が高い。
故にここは、落ち着いて……。
「はぁ……」
短く息を吸う。
浅い呼吸を繰り返し、整える。精神を。
そして、一撃を狙う。
森に入って少しした時、トランキノが見せてくれた、遠間からの狙撃。それは堅牢そうな鱗で全身を覆っていた、トカゲじみた姿をした巨獣の右目を的確に貫いて、即死させていた。
「目を狙え」と彼女は言った。
「そこは無防備だ」
正論である。目は弱い部分である。こちらの気配を感じさせない程に遠くからそこを正確に射抜く事が出来れば、相手は即死する。それは間違いない。
だがしかし、僕には遠距離攻撃の手段が無い。僕の血は体から離れると強度を失う。弓矢のように使う事は出来ない。武器自体を長く伸ばすという事も出来なくはないが、近間ならともかく、あまりに距離が開いているとコントロールが難しいし、精密なコントロールを維持したまま弓矢に匹敵する速度を出すのは更に難しい。
それに巨獣は血の匂いに敏感だというので、コントロールと速度の問題を解決しても、察知されて避けられる恐れがある。
ならば、そこら辺の木を切って削って即席の槍を作って投げる。という方法もあるにはあるが、一々準備をしていたのでは時間が掛かり過ぎるし、そもそも投擲の練習をした事も無い。
僕が得意としているのは面と向かい合っての白兵戦だ。
自らの血で形作った刀を振るう事だ。
慣れない戦法を試すより、ここは確実性の高い方でいくべきである。出来ない事はしない。というのが僕の見解である。
「……」
けれど、まだ武器を手に握りはしない。
前述した通り、血の匂いで気付かれるのは避けなければならないからだ。
巨獣は、生き物の気配を察知すると、臨戦態勢になり、脇目も振らずにそこに向かうそうである。
「巨獣は貪欲だ」とトランキノは吐き捨てるように言った。
そういう性質らしいので、血の匂いがすると、傷を負った獲物がそこにいると思い、近寄ってくる。それはそれで撒き餌的なものとして、一種の罠として利用出来るのではないか? と僕は思ったのだが、トランキノが言うには「巨獣は獲物を食い殺す為に現れる」「野生が剥き出しになる」「凶暴になる」「そうなると、余程上手く罠にはめない限り、手がつけられない」「戦いは避けられない」との事だった。
「巨獣は好戦的だ。まるで生命を憎んでいるようだ」「一度戦いになれば、どれだけの傷を負っても、逃げずにこちらに襲いかかってくる」「だから、戦うな」「自分達が行うのは、狩りだ」とも念を押された。
普段は口数の少ない彼女だが、狩りの話しになると言葉が多くなる。それで語ってくれたのは、直接的な戦闘は極力控えるべきである。という意見である。
これは僕にとって初めての狩りなので、素直にそれの意見に従っている。
膝を折り、身を低くして、雑草の中に潜み、気配を殺し、集中力を維持して、その時が訪れるのを待っている。
「……」
その時……。
それは、巨獣が気を抜いた瞬間だ。
優雅とも言えるゆるやかさで移動しているそいつが、近くに敵がいない事を確認して地面に寝そべった時。あるいは、喉の渇きを潤す為に水を飲んでいる時でも、腹を満たす為に他の巨獣の死骸を食べている時でもいい。
「隙が生まれたら、やれ」とトランキノは言った。
僕はそれを待っていた。
そしてそれは、唐突に訪れた。
大木の傍で、巨獣は四本の脚を綺麗に折りたたんで、リラックスした体制になった。
大口を開けて、欠伸も一つ。
ふりふりと振られた毛深い大きな尻尾が、地に着いた。
「——」
今だ。
駆け出した。
身を低くして、出来るだけ草木との接触を避け、極力音を抑えて。けれど、全速力で。
距離が瞬く間に縮まった。
巨獣の耳が立った。
音に気付いたらしい。
顔がこちらを向いた。
音の発生地点を探っている。
鼻がひくひくと動いている。
僕に匂いは……体臭は、あるのか、ないのか。自分ではないつもりだが、どうだろうか。
スッと、巨獣が立ち上がった。
警戒の色が濃く全身から浮かび上がっている。だが、まだ戦う姿勢ではない。
迷っているのか?
この森の新参者、異物である、僕という存在の見極めに時間が掛かっているのか?
何にせよ、チャンスだ。
充分に接近した。間合いに入った。
「ふっ——!」
狙いは目。右の掌から血の刀を勢い良く突き出す。近いのは左目だ。
当たる。
即死だ。
そう思った。
が、
「——っ!?」
巨獣は僅かに身を引き、僕の刀は左目を浅く裂いただけだった。
目は潰した—–けれど、失敗だ。
即死させられなかった。
そういう重苦しい気持ちが心に伸し掛る前に、巨獣の左腕の一撃が僕を叩いた。
「ぐぅっ!」
咄嗟に刀で受ける。巨獣の肉が裂けた手応え。血飛沫。獣臭。そういう様々なものの後に襲ってきた、強烈な力。
「——っ!」
飛ばされた。
世界が転がる。いや、空中を転がされているのは僕か。
暗い緑。白い月明かりに照らされた緑。草。花。木。木。何度かそれを見つつ、着地点を視界の端で捉え、見定め、身をよじり、適当な巨木の幹に脚を着いた。みしみしと木が揺れた。
やはり、見た目相応の凄い力だ。
まともに喰らえば、その喰らった部分が吹き飛ぶ。腕を振っただけで、それくらいの威力がある。
けれど、受け流せた。ダメージは無い。
敵は動きが速く、肉も固いが……それだけだ。他に強みは無い。単純な暴力に身を任せているだけに過ぎない。戦い方に、怖さを感じない。
この程度なら、問題なく勝てる。
一撃を浅く入れただけで、優勢に浸れる状況ではないのだが、それでも、僕が上であるという実感があった。
その時、巨獣が吠え、その巨体に見合わぬ俊敏さで——しかし僕の予想の範囲を超える程ではない速度で——飛び掛かってきた。
僕は落ち着いて地に降り、左手にも刀を握って、迎え撃った。
決着は、程なくしてついた。




