幕間・いつかの記憶。視界の無い記憶。
……暗い。
何も見えない。
でもそれは、この場所が暗いからじゃない。
ついさっき魔女が「今日の改造部位は目です」とか言って、両眼をスプーンで抉り取ったからだ。
「ひっ……ひぃっ……」
瞼の下は熱を持ち、ぐちゃぐちゃと、ゼリーをかき混ぜているかのような不定形の音を発している。
これはたぶん、眼が再生している音だと思う。
脳に直接響く不快な音だ。ずっと聞いていると、まるで自分が、腐ってドロドロになってしまっているような気分になってくる。
耳障りな音から気を紛らわそうと、身じろぎしようとしたが、体は少しも動かなかった。拘束具である金具の冷たい感触が、手足と首筋に伝わっただけだった。
「くそ……くそ……くそ……くそ……」
痛みと、苛立ちと、憎悪を込めて、悪態を吐く。汚い言葉を吐いても気持ちは一向に静まらないが、何か別の音を発していないと気が狂いそうだった。
「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……」
ここに連れて来られてから、何日経っただろうか?
時計は無いし、何度も気を失ったし、正確な時間はわからない。
高校からの下校中に、突然眼の前が真っ暗になったかと思ったら、僕はこの部屋にいて、手術台みたいなところに四肢と首を金具で固定され、拘束されていた。
真っ先に思い浮かんだのは、誘拐。という二文字だったけど、これはそんな常識的な言葉で言い表せる状況じゃなかった。
僕は被験体だった。
不意に顔を覗き込んできた、ガスマスクを付けて、深い緑色のローブを纏った怪しい女が、色々と教えてくれた。
「こんにちは、人間君。私は魔女のリベットという者です。君のいた世界では、魔女と言えば魔法を使う幻想的な存在みたいだけど、こっちの世界での魔女の仕事は主に改造です。一応魔法もそれなりには使えるけど、改造は結構物理的な作業となります。そんなわけなので、これから君に最高の改造を施します。改造手術が終わるまで、よろしくね」
自己紹介じみた前口上を述べ終えるや否や、赤黒くドロリとした液体の入った注射器を僕の心臓に突き立てた。
針が肉体の内部に潜り込むと、脊髄反射か、それとも恐怖故の筋肉の縮小か、とにかく僕の体は電流を流されたみたいに大きくビクンッと撥ねた。
息が出来ず、体が激しく震え、視界が明滅した。
心臓に針を刺されたのだから、僕は死ぬんだ。と思った。
ここで、こんな薄暗いところで、わけもわからないまま、魔女を名乗る怪しい女に殺されてしまったんだ。と思った。
呼吸もままならず、涙が溢れ、視界が暗くなり、手足は冷たくなっていき、意識が絶望に沈んでいった……のだけど、胸が鼓動を一つ打ったのと同時に、意識は浮上した。
僕は死ななかった。
しかし、だからといって安心は出来なかった。
意識を取り戻した僕を襲ったのは、今まで体験した事の無い痛み。
何か、とても小さな生き物に、鋭利な歯で、ほんの少しずつ体の中の肉を喰い千切られ、咀嚼され、それをまた傷口に塗り込められているかのような……鋭く、それでいて鈍い痛みが、心臓から、ゆっくりゆっくり、ぎちぎちと音を立てて全身に広がっていった。
あの時の事は思い出したくも無いし、記憶も定かではないが、どこからこんな声が出るんだ。というぐらい大きな叫び声を上げた気がする。
耐え難い苦痛に身を捩り、固定された手足を必死でばたつかせた。
喉が裂け、手首と足首からは血が滲み、皮がべろりと剥げた。それでも、苦痛から逃れようと血を吐きながら暴れた。
魔女は泣き叫ぶ僕を見ながら、ノートにメモを取っていた。
これが記憶にある限りでは一回目の改造だったと思う。
この一回目の改造から何日経過したかはわからないが、激痛によって気を失っていた僕は、指先に感じた、これもまた激痛で、強引に覚醒させられた。
魔女が右手の指のどれかの爪を剥いだのだ。
目覚まし代わりにいきなり爪を剥がされるなんて、十五年間生きて来た中で初めての経験だった。
突然の理不尽な痛みに、僕は叫ばずにはいられなかった。大声で、口汚く魔女を罵った。
でも、魔女はそれを全く意に介さずに、それどころか叫ぶ僕に向かって「これが君の爪だよ。健康的でいい爪だね。でも、これからもっと良くしてあげるからね」と言って、わざわざ剥いだ爪を僕の顔の前まで持って来て見せてくれた。
血の雫が垂れ皮膚の残骸が張り付いている、今まさに千切ったばかりの新鮮な生爪を見せられ、僕は狂いそうになって、叫んだ。
受け入れ難い現実を撥ね除けたくて、喉が潰れるまで声を発した。
悲鳴の木霊する部屋の中で、魔女は剥ぎ取ったばかりの爪を万力のような装置に嵌めて、両端から負荷を掛け、程なくして爪が割れたのを確認すると、ノートにメモを取った。
「人間の時からあった爪だと、強度はこんなものか……次に期待だね。えーっと、そしたら、爪は全部替えるとして……注文通りの高い戦闘能力を獲得させる為には、歯と骨もやっておかないとだね……反射神経とか、動体視力とかはどうしようかなぁ……とりあえず全体的に一回壊して、再生させて強くするとして……そこから更に強化するとなると、やっぱり実戦が一番かな? うーん……あ、そうだ。力についていけるだけの精神力も鍛えておかないと、完璧とは言えないよねぇ……」
魔女はぶつぶつ呟きながら、ペンチらしき道具を手に取って、右手のーー感覚で、今度はわかったーー人差し指にあてがった。
そして、ぶちっと一息に爪を剥いだ。
ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ。
僕が一回叫び声を上げる間に、テンポ良く四度ペンチを動かして、瞬く間に右手の指の爪を全て剥ぎ取った。
それが終わると、次は左手。その後続けて、足の爪も全部剥がされた。
痛みで気が狂いそうだった。いっその事、狂ってしまえば楽になれたのにと思った。
知らないうちに、僕は泣いていた。
やめてくれ。家に帰してくれ。お願いだ。お願いだから、家族のところに帰して……。お願いだから、もうやめて……。
そんな事を言った覚えがある。
当然ながら、魔女はやめなかった。僕の口から溢れ出た言葉を全て無視して、黙々と爪を剥いだ。
汗と涙が噴き出し、金具でこすれたところからは血も流れていた。
全身が自分の体液でびしょびしょだった。
吐き気がして、目眩もした。
僕は神様なんて信じていないけれど、この時ばかりは、神様に助けてくれとお祈りした。全身全霊で、意志の続く限りお願いした。
そして、神様がいないことを痛感して、意識を失った。
次に意識を取り戻した時には、骨を折られていた。
魔女は僕の四肢と、体のいたるとこを、力任せに大きなハンマーでぶっ叩いていた。
叩かれたところに目をやると、折れた骨が皮膚を突き破っていた。骨は血で赤く染まり、脂肪か何かわからないが、ドロドロとした汚い色の汁で汚れていた。
とても耐えられる痛みではなかった。叩かれた部分が熱を持ち、焼き切れそうだった。いや、むしろ焼き切れて欲しかった。
僕は叫ぼうとしたが、折れた骨が肺にでも刺さっていたのか、掠れた空気の漏れる音がするだけで、大きな声は出せなかった。
魔女は僕の頭の先からつま先まで、あますとこなくハンマーでぶっ叩くと、ノートにメモを取って、部屋から出て行った。
魔女が部屋から消えても、ここから逃げ出せるチャンスが来たとは思わなかった。
このまま死ぬんだ。と、その時の僕は思っていた。
わけもわからず、ひたすら痛みを与えられて、遂には気が狂って死んでしまうのだ。と、そう思っていた。
だけど、そうやって絶望が心を支配しようとしていたその時、僕は希望に、アルザギールに出会った。
「……あぁ」
その時の事を思い出すと、闇だけの視界の中に、光が差したような……そんな気がした。