3−3、一人で外出した事はありませんので。
「こいつ……じゃなくて、こいつらが狙ってたのは、どうもユーリ君みたいなんだよねぇ」
「え? 僕、ですか……?」
宿舎の一階にある、最奧の部屋。
普段は使われておらず、物置でも無い、何も無い部屋。
僕も、初めて入る部屋。
その部屋の床に、ボロ雑巾のようになった獣人が転がされていた。
狼顔の獣人だ。
隊長が主力のようだったと言っていただけあり、僕とアネモネが殺したやつよりも大柄で、見た目は強そうだ。が、もうこれから先、その力が振るわれる事は二度と無いだろう……いや、だろう。ではないか。二度と無い。
木製の床が、大量の血を吸い、赤黒く変色している。
この部屋は捕まえたやつを閉じ込めておくだとか、拷問する為にある部屋のようなので、かなり以前に流された血もあるようだが、それを抜きにしても、この獣人から流れ出た血液は致死量である。
隊長からは血の匂いがしなかったので、こいつの傷はここで負わされたものだ。
腕や脚は言わずもがな。脇腹などは、わざと切れ味の悪い武器を使って無理矢理削いでいったらしく、真面な神経を持つ者なら目も当てられないくらい酷い有様になっている。
眼は片方無い。右目が無い。
歯を折られているのか、牙と牙の隙間が目立つ。
呼吸は浅く、心音も弱い。
もう間もなく、この獣人は死ぬ。
だというのに、残された瞳は、爛々と異様な輝きを放っている。
視線の先にいるのは、僕だ。
僕の左隣にはミナレットがおり、今しがたこの獣人の肉体に深い傷を負わせたらしいナイフに似た形状の短剣を白いハンカチで丁寧に拭っているが、それに対して恨みの籠もった眼を向けているのではない。
僕の右隣で腕組みしているアネモネでもない。
僕だ。
この獣人の眼は、間違いなく僕を見詰めている。
この態度が、僕を狙っていたという証拠だとでもいうのだろうか?
「何か喋りましたか? こいつは」
これ以外の証拠はあるのか? とアネモネに尋ねた。
「喋ってくれたよ、色々とね。でもあんまり協力的じゃなかったから、こうなっちゃってるわけ」
軽く言うが、アネモネの手からは濃い血の匂いが漂ってくる。
剣で一人斬って、ちょっとばかり返り血を浴びたくらいでは、ここまで濃くはならない。
拷問をしたのだ。積極的に。
それでも、顔には疲労感も罪悪感も無い。
知らない相手を容赦なく、徹底的に、取り返しのつかない程に傷付けるというのは、精神的にかなり疲れると聞いた事があるけれど、その話しが嘘だと思える程にアネモネはいつも通りである。
躊躇なくこういう事をやってのけるのなら、彼女はただの気のいい人ではなく、この道のプロなのだ。
「具体的には?」
拷問の内容については言及せず、得た情報のみについて質問した。
「ここに乗り込んできたやつは全部で十人だって。数、合ってる?」
「……恐らくは、合っています」
トランキノが二人。
ミナレットが四人。
アネモネが一人。
隊長の部下が二人。
で、隊長が捕まえた最後の一人がここにいる。
全部で十人だ。間違いない。
この獣人が嘘を付いている可能性も否定出来ないが……かなり酷い拷問をされたようなので、並みの手合いならば、真実を喋っている。いや、喋らされている。
それに、黒耳長族は相手の心理状態を読むのに長けている。
もし獣人が、命が助かりたいからと嘘を言っても、それを見抜いているはずだ。
「狙いは、君。ユーリ君」
だとすると、これも嘘ではない。
とても信じられないが、しかし、何故僕なのか?
「その理由については?」
「恨みだって」
「恨み?」
そんなもの、売った覚えも、買った覚えも無いのだが……?
「バイロ様を殺された恨み。戦奴である自分たちが自由になれなくなったのは、ユーリ君のせいだって」
「あぁ……そうですか。なるほど。それで僕を……」
言われてみれば、そういう事もあったなぁ。などと、思うくらいで、感傷は無い。
アルザギール様の為に正義を為したのである。悪い事をしたという自覚なんて少しも無いので、どれだけ考えても思い当たらなかったわけだ。
確かに、バイロを殺したせいで、普通の戦奴が自由になれる機会はほぼ無くなったといえる。
納得出来た。
反面、疑問も沸いた。
「しかし、こいつらは獣人です」
「そうだね。獣人だね」
「こいつらが、恨みという感情を抱くとは、僕には思えません」
「えー? どうかなぁ? いくら戦う為に造られたやつらでも、自由になれないってわかったら怒ってもしょうがないと思うけど……」
「だからと言って僕を殺しても、自由にはなれません。こいつらは作られた存在ですから。魔女によって。誰かの手駒として」
「それは……うん。そうだね」
「その誰かが、僕を殺せば自由にしてやる。と、そう言ったのでしょう」
「さっすが。よく考えてるなぁ、ユーリ君は」
「こいつらの雇い主は誰ですか?」
獣人はトランキノなどの特別な例を除けば、その殆どが奴隷だ。
何故なら、魔女が依頼主の要望を元にして造り上げたものだからだ。
生まれた時から、役目のあるもの。
依頼主の何らかの欲求を満たす、その為だけに造られたもの。
獣人とは、そういうものだ。
誰かの下で生きてきたものだ。
それが、恨みという感情を持ってこんな行動を起こすとは、僕には思えない。
背後に何者かがいると断言出来る。
「当然、聞き出していますよね?」
ここで答えが「聞いていません」だとしたら、暗殺を主導したのは、この拷問に関わった二人である可能性が高くなる。
この襲撃が成功すればそれで良し。
失敗したその時はこうして捕まえたやつを殺せばいい。
そうすれば、自らに危険が及ぶ事は無い。
僕ならそうする。
対して、アネモネと、ミナレットは、
「もちろんだよ。ソナレって言ってたよね? ミナ」
「ええ、言っておりました」
聞き出していた名前を、あっさりと口にした。
「ソナレ? ……それは誰ですか?」
アネモネは視線をミナレットに送った。
「それについては、ミナが詳しいみたい」
「ミナレットさんが?」
ミナレットの方を向く。
彼女は、血と油汚れを綺麗に拭き取った短剣から視線を外し、僕を見た。
静かな眼だった。
薄暗い、血生臭さで満ちた部屋の中なのに、それを感じない………異常なくらいに、落ち着いた瞳だった。
「ソナレ・アステリオ・スカビオサは、食料品店の店主です。白耳長の、老齢の男性だと記憶しております」
「食料品店?」
てっきり戦奴などを扱っている店の者かと思ったが、出てきた意外な単語に、僕は首を傾げた。
「食料品店の店主が、何故僕を殺そうと?」
「ついさっきアネモネさんが言いました通り、恨みです」
「食料品店の店主が僕に恨みを……?」
ますますわからない。
僕がこのお屋敷から外に出る事などまず無い。
食料品店に立ち寄った事など一度も無い。
故に、店主に恨まれる覚えなどこれっぽっちもない。
だというに、ミナレットはそんな僕の様子を見て、可笑しそうに小さく笑った。
こちらを馬鹿にしているわけではなく、本当にただおかしくて笑っただけのようだが、癇に障る笑みだった。
「何ですか? 何がおかしいのですか? ミナレットさん」
「だって……ユーリさんが全く気付かないので」
「気付かない? ……何にですか?」
「ソナレが一度この屋敷を訪れているという事に」
「え? ……あ、まさか……」
そうだった。
名前までは記憶に無いが、食料品店の店主がこのお屋敷に来た事があった。
あれは……そうだ。バイロに血液を提供していたという店だった。
アルザギール様に血液を提供したいと言うも、拒絶された。当たり前だ。
結果、店主は仕事を失った。
「そうか、それで……バイロを殺した僕に恨みを抱いていたのか……」
理解は出来た。
疑問は、一つ。
「何故店主が来た事を、ミナレットさんは知っているのですか?」
店主が来たのは、バイロが死んですぐだ。
ミナレットがここで働きだしたのはつい先日。
店主が来たところを見てはいないはずだが……。
「ユーリさん、私はこれでも、商人の娘なのですよ? 奉公先の主人が、どのような方々とお付き合いされているのか。それを調べ、記憶するのは当然の事です」
「当然の事、ですか?」
「当然の事です」
「……なるほど。わかりました」
やや自慢げとも思える態度に、ついわかったと言ってしまったけれど、正直なところ、よくわからない。
商人の娘として、それが本当に当然なのかどうなのか、こちらの世界について詳しくない僕には判断出来ないので何とも言えない。ただ頷くしかない。
しかし、ミナレットが嘘を吐いているようには見えない。
嘘を吐けば、必ずどこかに乱れが生じる。
汗を掻いたり、あらぬ方向を見たり、早口になったり、呼吸が荒くなったり、心音が早くなったり。そういうわかりやすい反応がある。逆に、それらを意識的に抑える事が出来る者もいるが、それはそれでわかりやすくもある。
とにかく、何か、妙な雰囲気が生まれる。
けれど、ミナレットにはそれがない。
平常だ。
何もかもが、いつも通り。
乱れが無い。
殺すのに慣れているとかいう明らかに異常なやつなので、そういう普通の者に当て嵌まる乱れが、こいつには表れないだけかもしれないが……これまで、こいつが感情的になる事は度々あった。感情が無いわけではないのだから、これが嘘では無いのは確かである。と思いたいところである。
「……何にしても、名前がわかったのであれば、良かったです」
兎にも角にも、相手が誰なのかはわかった。
ならば、後は、
「僕はこれから、そのソナレとかいうやつを始末しに行きます」
アルザギール様の為に排除するだけ、である。
「おー、いいね。わかりやくていいよ、うん。……で、それ、わたしも行った方がいいのかな?」
「いえ、この程度、僕一人で充分です」
隊長からは一人連れて行って良いと言われているが、相手は食料品店の店主なのだ。
助けはいらない。
なので、踵を返して、颯爽と部屋から出て行こうとした……のだが、
「そっかそっか。……それじゃあ、ソナレのいるところまでの行き方、わかる?」
「……」
問われ、黙るしかなかった。
「ユーリ君って、ついこの前まで戦奴だったよね?」
「はい」
振り返って、頷いた。
「闘技場まで一人で行ったことある?」
「……無いです」
正直に、答えた。
いつも、アルザギール様と共に、額に一本の角を持つ馬、つまりはユニコーン的な動物によって引かれる馬車に乗って行っていた。
「一人で出歩いたことってある?」
「……無いです」
この世界に来て一人で出歩いた事など無いに等しい。
一度、ルドベキアのところに一人で行ったが、あれは連れて行かれただけだ。
自分で行ったわけじゃない。
どこに何があるかなんて知らない。
場所を言われても、わからない。
地図を見ても、何もわからない。
土地勘など、僕には無いのだから。
「だったら、居場所教えても、そこまで行けないよね?」
「……」
「ね?」
「……そう……ですね……」
どうにかして一人で行けないものかとほんの少しだけ考えたけれど、どうやっても無理だという結論が即座に出た。
「それに、ユーリ君一人じゃ馬にも乗れないよね? 馬に一緒に乗ってくれる相手が必要でしょ?」
「それは……はい。そうですね」
馬というのは、前述した、額に角が一本生えている、所謂ユニコーン的な生き物の事である。
これも巨獣を基にして生み出した生き物であり、食用にしたり、移動用にしたりして使っている。
生態としては僕のいた世界にいた馬に近いようだが、勿論、僕に乗馬の技術など無いので、乗る事は出来ない。
必然、誰かに頼るしか無い。
ちなみに、このお屋敷に馬は三頭しかいない。
一体はアルザギール様の御乗りになる馬車を引く用。
もう一体は伝令用。
最後の一体は、何かあった時の為の予備である。
僕らが使うのは、その予備のものだ。
この世界の馬は、一体一体がかなりの持久力を誇るので、何体も飼育していなくともいい。何体も必要な時は専門の店から借りるそうだ。
しかし、事態が事態なので、店に行って借りてくる暇など無い。
こんな事になるなら、戦闘訓練だけでなく、隊長から乗馬を教えて貰っておけば良かった……と後悔したが、時既に遅しである。
「道もわからない。馬にも乗れない。それなのに、ユーリ君一人で行けるかなぁ?」
「……行けません」
素直に認めよう。
独力では不可能である。
こうなったら仕方が無い。
僕は諦めて、お願いする事にした。
「では、アネモネさん。僕と一緒に……」
「あのっ! ……私では、駄目でしょうか?」
お願いの途中で、少し申し訳なさそうに、だけど、強い意志を感じさせる声を、ミナレットが発した。
僕は驚いて、思わず彼女の方を向いた。
「え?」
「アネモネさんに代わって、私が、行きたいのですが……」
駄目でしょうか? と言うミナレット。
「……」
僕は無言で、アネモネの方を向き直った。
アネモネは、
「いや、あたしは……どっちでもいいんだけど……」
と、いきなりのミナレットの発言に、苦笑いを顔に浮かべて言葉を濁した。
自分が行ってもいいし、行かなくてもいい。
実際、その通りだろう。
これから行うのは、僕一人でも事足りると思われる仕事なのだ。
本当に、僕が一人で馬に乗れたら……と後悔した。
しかし、どれだけ悔やんでも、もう遅かった。
「どちらでもいいのならば、私でよろしいですか? ユーリさん」
ミナレットは、行きたいと言っている。
自分が行って、殺したい。と、そう言っている。
「……」
僕は答えに困った。
駄目です。と言うのは簡単である。
しかし、駄目です。と言ってしまっていいものかどうか……。
僕が彼女と行きたくない理由は、ついこの前、服を傷物にされたからである。
あの時の怒りは、まだ僕の中に残っている。きっと、一生残り続ける。
今でも頭の片隅に蛆が湧いているような不快感がある。
腹の底に熱いものが沈殿している。
それで、こいつとは一緒にいたくない。
けれど、こいつは強い。
仕事はきっちりとこなすとも言っていたし、仕事の上では、間違いなく、頼りになる。
アルザギール様の為を思えば、やる気のあるこいつと一緒に行くのは正しい。が、アルザギール様の事を想うからこそ、私情が邪魔をしてしまう。拒否してしまう。
こいつは良い仕事するだろう。しかしこいつと一緒にいる僕は、良い仕事が出来るのか? 心を乱された状態で、最大のパフォオーマンスは発揮出来るのか?
私情を抜けば、組むならアネモネの方が色々とやりやすそうだが……本当にそこに私情が無いかどうか、自信が無い。
実力的にはどちらでもいいのは確かなので、余計に迷う。
「……」
僕は悩んだ。
時間にして、五秒くらい。
とても短い時間だが、真剣に、あれこれ考えた。
そして結局、決断を下せずにいたところで、アネモネが口を開いた。
「それじゃあ、ミナに任せようかな」
「え?」
さっきまで、どっちでもいいと言っていたのに……。
「いやさぁ、正直、どっちでもいいからね、あたしは。だから、ミナに譲るよ」
「譲っていただいて、どうもありがとうございます。アネモネさん」
「いやいや、いいってことよ〜」
「いえいえ、申し訳ないので、何かお礼でもしたいところですが……」
「あ〜、それならさ、お茶っ葉くれない? 最高級のやつ。ルピナシウスといえばお茶っ葉だからさぁ……なんちゃって。さすがに調子乗りすぎだよね」
「いえいえ。大丈夫です。使いの者を出して、すぐに持ってこさせますね」
「えっ!? ほんとに!? いや〜それは嬉しいなぁ。言ってみるもんだねぇ。……あ、出来ればうちの孤児院にも送ってくれたら嬉しいんだけど……それはちょっと、あれだよね?」
「いえいえ、大丈夫ですよ。ルピナシスで取り扱っている商品でよろしければ、喜んでお送りさせていただきます」
「まさかほんとにくれるとはねぇ……うちの子たちも喜ぶよ。ありがとね、ミナ」
「いえいえ。こちらこそ、お仕事を譲っていただいてありがとうございます」
「あはは。さぼってお礼を言われるのは、なんだか複雑な気分だけど……」
こんな場所に似合わない女子トークがひと段落すると、アネモネは、ちらりとこちらに視線を向けて、申し訳なさそうな表情をした……が、笑みは隠せていない。
最高級品のお茶の葉を貰える事が本当に嬉しいようである。
僕は一つため息を吐いた。
やれやれだ。
早急に決断を下せなかった僕のせいではあるが……非常に複雑な心持ちである。けれど、これは僕が果たさなければならない役目である。
アルザギール様のものとして。
剣として。
例え、怒りの感情を抱いている相手と、どうしても好きになれない嫌いな相手と組む事になっても、全うしなければならない事なのである。
「よろしくお願いします。……ミナレットさん」
様々な感情を飲み込んで、僕はミナレットに浅く頭を下げた。
視線は外さない。
完全に外してしまうと、その瞬間に刺されると思ったからだ。
そんな風に、警戒し、緊張している僕とは対照的に、ミナレットはにこやかに微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくお願いしますね、ユーリさん」
逆手に握ったままの短剣は、動かなかった。
けれども、ミナレットはこうやって普通に微笑みかけている相手を殺せるのだから、これはこの世界で最も信用出来ない笑みである。と僕は思った。




