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1、一回戦第二試合。

 ここで闘ったのは三度、今回を含めると四度目であり、初めてというわけではないのだけれど、闘技場に入る前は、いつも少しばかり緊張する。

 黒いスラックスに白いシャツ。シャツの上には黒いベスト。それと白い手袋に黒い革靴。この服装のどこかに不備はないか、それが毎回気になってしまう。

 スラックスの裾はほつれてないか。シャツに皺はないか。靴に傷はないか。髪はしっかりとセット出来ているか……。気にしだせばきりがないが、折角の晴れ舞台だからと戴いた服装一式なので、色々と気を遣わずにはいられない。まあ、仮に不備を見付けたとしても、ここではその不備を直す事など出来ないのだが……。

 灰色の石を積み上げて造られた、この小さな控え室に置かれてあるのは、武器だけだ。

 片手剣、刺突剣、諸刃の大剣、反りのある刀、刃の厚いナイフ、三叉の槍、薙刀、巨大な斧、棘の付いた棍棒、等々……そういう殺傷力の高そうな戦闘用の武器しか置かれていない。裁縫道具なんて家庭的な物は一切ないので、服の修繕は不可能だ。


「不備は……無いよね?」


 何も出来ないとわかってはいるものの、服装の点検をしていたところ、扉の先から大勢の観衆の歓喜の叫びが聞こえて来た。

 同時に、濃い血の匂いも漂ってきた。


「……そろそろ、出番かな」

 

 鼻の奥を刺激する、新鮮な血液の匂い。

 この匂いからすると、かなり大量の血が流れている。一回戦の闘いで誰かが死んだのは間違いない。恐らくは剣で一撃。ばっさりと体を両断したのだろう。闘技場も見なくとも、匂いと観衆が熱気に沸く気配で、何があったかはわかる。

 僕がいた現代の人間の世界では考えられない事だが、この魔界とやらでは、戦闘用に改造した奴隷、所謂戦奴を闘わせ、殺し合わせる娯楽が流行っている。

 主催者は、この世界を統治する十二人の吸血鬼の一人。

 参加する戦奴の持ち主は、白耳長と黒耳長というーー僕のいた世界のフィクションではエルやダークエルフと呼ばれるそれに似たーー種族の中でも、上流階級に位置する者達だ。

 暇人と金持ちが組んだ悪い例とでも言えばいいのか。

 悪趣味でろくでもない娯楽だ。

 しかし、戦奴である僕は、このふざけた娯楽に参加する以外に、この世界で生きる術を持たない。

 ……いや、もしかしたら、こんな事をしなくてもこの世界で生きていけるのかもしれないけど、僕は戦奴になったあの日に、誓ったのだ。

 僕を救ってくれたあの御方の優しさに報いる為に、この身を捧げる事を。


「……ははっ」


 あの御方の姿を頭に思い描くと、自然に笑みが溢れた。

 会場の熱気に当てられたわけでもないのに、体が熱くなってきた。

 これから僕はあの御方の為に闘い、そして勝つ。

 勝利を手にした時に、あの御方が浮かべてくれるであろう笑みを想像すると、ぞくぞくとした何かが背を奔った。

 と、会場の熱気と僕の内で発生した歓喜が冷めやらぬうちに、一人の男が、重そうな扉を横に引いて開き、控え室の中に入って来た。

 肌も髪も黒い男だ。着ている物は僕とは打って変わって腰布一枚のみで、いくつもの傷を残す、筋骨隆々とした体躯を惜しげもなく晒している。だが、彼の体で特筆すべきはその体つきではなく、人間よりも長く、先端の尖っている耳だ。

 黒い肌と髪に、尖った耳というのは、黒耳長という種族に属する者の証である。

 尖った耳は同じだが、雪のような白い肌と髪、金色の美しい瞳が特徴である白耳長とは、対照的な存在だ。


「アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様の戦奴、ユーリ。貴様の出番だ」


「はい」


 黒耳長の男の声に応え、最後にもう一度だけ自身の服装を点検し、不備が無い事を確認してから、僕は控え室から出た。


「準備はいいな?」


「はい。大丈夫です」


 服だけでなく、精神、肉体共に異常は無い。いつも通り万全だ。


「武器は……貴様には、必要無いか」


「はい」


「よし。では闘技場に向かうぞ。付いて来い」


 男の後ろに付いて、石造りの廊下を歩く。少々暗い廊下だが、壁の端々にある松明が足元を照らしている。彼らにはそれは必要だろうが、改造され、この世界の闇に慣れている僕には、明かりなど必要無い。


 「予選での闘い、見せてもらったぞ」


 廊下を歩いていたところ、不意に男が口を開いた。


「俺も長い事ここにいるからな。これまで様々な戦奴と、そいつらの闘いを見て来たんだが……改造で作られたとはいえ、流石は吸血鬼様だ。普通の人型のくせに、貴様程強いヤツは見た事が無い。大したものだ」


「それはどうも」


「感謝はいらんさ。今日も試合に勝って、稼がせてくれればそれでいい」


「……」


 男は下卑た笑い声を上げた。僕はそれを無視して歩いた。

 金持ち連中にとって、僕の闘いは映画みたいな、見て楽しむタイプの娯楽だ。しかし、こういう下っ端連中にとっては、見て楽しむだけのものじゃなくて、賭けの対象にもなっている。

 知らないところで自分の命に値が付けられる。というのは気持ちの良いものではないが、気にするべき事でもない。

 わざわざ言われずとも、僕は勝つ。こんな男の為ではなく、あの御方の為に。

 思考を切り替え、闘いに向けて集中力を高めた。


「それにしても、今回は面白いヤツが多いよな。肉体に鎧を埋め込まれた怪物にも驚いたが、お前のような吸血鬼の力を持つやつに、かつての大戦で暴れまわったという、赤い竜の血を引く竜人もいるなんて……バイロ様も思い切った事するもんだ。毎度毎度、盛り上げ方の巧みさには感心させられる」


 手持ち無沙汰なのか、男はまだ何か喋っているようだったが、それは全て無視した。

 そうして暫く歩き、辿り着いたのは、闘技場の入り口。……いや、選手の入場口である。

 男はそこを閉ざしている柵をゆっくりと押して、闘技場への道を開いた。


「さあ、中に入れ。ユーリ」

 

「はい」


 男に促されて、闘技場の中へと脚を踏み入れると、再び柵が下ろされた。

 もう後戻りは出来ない。ここから出るには、主人の了解を取って棄権するか、対戦相手を殺すしかない。

 さっきの場所がそういう最後の一線に相当する場所だったのだが、僕はそこをあっさりと超えた。

 覚悟は、既に出来ている。


「……」


 闘技場の真ん中を目指し、歩を進める。

 屋根の無い、円形の闘技場だ。

 その昔、魔女達が造ったらしいが、きっとローマのコロッセオを参考にしたのだろう。あいつらはこの魔界と人間の世界とを自由に行き来していると聞くし、僕が住んでいた、人間の世界にある者と同じ物がここにあっても不思議ではない。

 そんなこの場所に降り注ぐのは、中天に眩く輝く月の光。

 この世界には、夜しかない。

 ずっと昔から、そうだという。

 何らかの魔法によるものなのか、何なのか。僕には想像もつかず、わからないが、この世界で日の光を見た事は、一度もない。


「さて、と……」


 大体真ん中辺りの、所定の位置に到着した僕は、余計な思考を中断して周囲を見回した。

 ここの正確な大きさはわからないが、それなりに広い。闘うのに不自由の無いスペースだ。

 地面は堅い土で、薄く砂が敷かれている。砂の中には砕けた何かの骨や歯や爪、乾燥した肉体の一部、そして、先程の闘いによるものか、赤黒い血の染みが見える。

 それだけでなく、様々な匂いもする。

 砂の匂い、汗の匂い、何かが腐った匂い、血の匂い、観客が体に振りかけている香水の香り。

 ここには、それらが混じり合った、濁った空気が充満している。

 そんな嫌な空気から気を紛らわせる為に、僕は視線を観客席に向けた。

 高過ぎもなく、低過ぎもしない。客席の中段部分に設けられた、自分の所有する戦奴の活躍を存分に楽しめる貴賓席に、僕の唯一無二して絶対の主人であり、この世界を統べる、十二人の吸血鬼の一人である、アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様がいらっしゃられた。


「ああっ……」


 美しい。とは、まさにアルザギール様の為にだけ用意された言葉だ。いや、美しいだけでない。綺麗や可憐、可愛らしい、麗しい、艶やかな、雅な等の、この世界に存在する全ての美に関する言葉は、まさにアルザギール様の誕生を予見して作られた言葉だ。そうに違いない。

 もしかすると、この世界がずっと闇に包まれているのは魔法のせいなどではなく、アルザギール様が美しすぎる事で、太陽が恥じ入り、隠れてしまったのではないか。と思ってしまう程だ。

 月の光を受けて煌びやかな輝きを放つ、金の髪。両の眼の奥に覗く紅は、ありとあらゆる種類の紅色を最高のバランスで混ぜ合わせたとしか思えない、極上の深みを湛えておられる。

 その上、過度な装飾の無い純白のドレスが、アルザギール様の持てる魅力を最大限以上に引き出している。

『永遠の少女』と呼ばれる事もある通り、体つきこそ小さいが、その残酷なまでの美が発する存在感は、この世の全ての存在を理不尽なまでに圧倒しておられる。

 もしも神がいるのならば、その寵愛を一心に受けておられるのが、このアルザギール様である。と僕は胸を張って断言出来る。


「アルザギール様……なんと、なんと、お美しい」


 思わず呟いてしまう程、僕はアルザギール様の素晴らしきお美しさに心を奪われていたのだが、そのような様子の僕を見てか、アルザギール様が小さく微笑んだので、僕は慌てて頭を下げた。

 アルザギール様の微笑みは、僕には眩し過ぎる。

 まだ闘いに勝利してもいないのに、そのような笑みを向けられるなど恐れ多い。

 僕は頭を上げ、もう一度大きく頭を下げてアルザギール様に頭を垂れ、そして再び頭を上げて、前方に向き直った。

 あの微笑みを向けられる資格があるのは、勝利した時だけ。アルザギール様を満足させた時だけ。である。……が、しかし、まだ肝心の対戦相手が入場して来ないので、僕はアルザギール様を拝見する代わりに、耳を澄ませてそのお声を拝聴する事にした。


「予選で三度闘っているので、もうご存知かもしれませんが、あれが元は人間にして、現在は私の戦奴であるユーリですよ、バイロ」


 軽やかなお声で、アルザギール様はそうおっしゃった。

 どうやら僕の紹介を始めてくださったところのようだ。わざわざ僕なんかを紹介してくださるとは、身に余る光栄に涙が出そうになる。

 と、そのお声を遮り、無粋な声が聞こえた。


「予選はつまらんので見てない。君が言っていた例のやつを見るのも初めてだ。が、ふぅむ……。人間の男は他種族との交配には使えない。故に、食用ぐらいにしか使い道は無いと聞いていたのだが、それをわざわざ吸血鬼に……我らのようにしてまで使うとは……いやはや、こんな事をした者は、これまでいなかった。これは中々に面白い試みだな、アルザギール」


 アルザギール様のお隣に座っている、でっぷりと太った男の声だ。

 男の名はバイロ・トレニ・アニ・フルニエッリ。

 この大会の主催者である。

 こいつは、アルザギール様と同じ種族、吸血鬼であるはずなのに、権力の座に胡座を掻いているせいか、見た目も心根も非常に醜くなってしまっている印象を受ける。とても同族には見えない。強いて言えば、瞳の色が赤い事ぐらいか。いや、その赤でさえも、アルザギール様が深い紅であるのに、対して、こいつのはただの赤に過ぎない。色の深さが違うので、やはり共通点を探すのは難しい。と言うよりも、不可能だ。

 血を大量に摂取しているのか、見た目に反して若々しい金色の髪も、白を基調とした如何にも貴族的な豪奢な格好も、似合ってはいない。

 一体何故こんなやつがアルザギール様と同じ種族であるのか? どうやってそうなったのか、まるでわからないが、しかし、アルザギール様と同じ種族とは思えない。という点では、僕も同じか……。

 僕は所詮、造られた存在だ。


「しかしながら、アルザギールよ。君がわざわざ自前の戦奴を用意して、この大会に参加してくれた事は大変嬉しいのだが……あれはどう見ても成熟前だ。そうだろう? いささか若過ぎないか? とても強そうには見えんが……」


「そうですね。ユーリは十五歳です。確かに年齢は若く、見た目は強そうには見えません。ですが、あちらの世界ではコーコーセーという職に着いていたそうで、知能は高いですよ。それに、ユーリはあの魔女リベットの遺作とも言える存在です。かの魔女による最上の改造を施されているので、身体能力も、見た目より遥かに高くなっています」


「魔女リベットの遺作、か。自分をも殺す程のモノを作れたのだから、魔女冥利に尽きるというものだろうが……。それにしても、魔女の腕が良かったというのもあるだろうが、吸血鬼化に耐えられる人間を手に入れられるとは……。アルザギール、君は本当に幸運だな」


「ええ。本当に運が良かったと思います。ユーリを、手に入れる事が出来て」


 それは心の底から滲み出てきたであろう、とても優しげな声色だった。

 もしも人目がなければ、僕は喜びの声を高らかに上げて「僕の方こそ、あなたの戦奴になれて幸せです」と叫んでいたところだった。

 だけども残念ながら、ここは闘技場で、まだ戦闘前だ。喜びを伝える場でも、幸せを叫ぶ時でもない。

 僕はここに、闘う為に来ているのだ。

 そんな事を思っていた、丁度その時、正面の柵が開き、屈強な黒耳長の男が一人と、巨大な獣が一匹、闘技場内に入ってきた。


「おお! 来た来た! 来たぞ! 見ろ! あれが君の戦奴の対戦相手だ! えー……名は、十三号? 消耗品に名前を付けるのが面倒だから、番号で呼ばれている。……なるほど! うん! いいじゃないか! 面白い!」

 

 豚は、がはは! と高らかに笑っているが、何がそんなにおかしいのか理解出来ない。

 唯一理解出来たのは、あの獣が僕の敵である。という事だけだ。

 見たところ、大きさは近くにいる男の倍の、三メートル以上はある。

 四肢の筋肉がめちゃくちゃに隆起し、異常に発達している。その四肢で支えている肉体も、見るからに硬そうな肉の鎧で包まれている。だが、そんな筋肉よりも気になるのは……。


「バイロ、あれは……双頭の狼、ですか?」


 アルザギール様も気にしておられる通り、僕の前にいる巨大な獣には、頭が二つあった。

 豚は獣人だと言っていたが、どこをどう見ても人の要素はない。四速歩行しているし、頭は二つあるし、その片方の首には太い鎖が巻かれており、黒耳長の男がリードのようにそれを持っているし、完全にただの獣にしか見えない。

 これで獣人とはどういう事だ? と疑問に思ったが、それについては豚が懇切丁寧に説明してくれた。


「飼い主から貰った資料がある。それによるとだな、えー……元々は古代種の狼と、あちら側から攫ってきた人間の女とを使って生み出した普通の狼型の獣人だったが、この大会い向けて戦闘力を上げようと思い、魔女ドロナックに強化改造を依頼。その時、興が乗ったドロナックが過剰に改造してしまったらしく、筋肉が増え過ぎて重くなり、そのせいで、あのような四足歩行になってしまった……とある。ちなみに頭が二つある理由は、格好いいから。だそうだ」


「格好いい……では、装飾の為に、わざわざ死んだ頭を付けているのですか?」


 片方の頭には血の気が無い。動いてもいない。それで、アルザギール様はお気付きになったのだろう。流石の洞察力である。


「このような公の場でのお披露目だ。見栄えを良くし、観客受けを狙ったのだろうさ」


「そのような理由でしたか」


「そう冷たい声を出すな、アルザギール。面白い試みじゃあないか。それに、あの筋肉の鎧も凄いぞ。きっと爆発的な瞬発力と破壊力を生み出すだろう。力だけなら、今大会最強とも名高い、竜人アギレウスにも並ぶのではないかな?」


「あのアギレウスに? それは、凄いですね」


「自分の戦奴が心配なら、今のうちに棄権するといい。私が見たいのは殺し合いだ。流血だ。かつての大戦を彷彿とさせる、血湧き肉躍る戦いだ。一方的な殺戮じゃあない」


「あなたの期待に応える事は出来ない無いでしょうが……ご心配なく、とだけ言っておきます」


「なに? どういう意味だ?」

 

 そこで、僕は意識を闘技場に戻した。

 理由は一つ。

 これから、闘いが始まるからだ。

 獣の視線がこちらに向けられたのを感じ取ったので、僕は感覚を獣にのみ集中させた。


「あー……るー……るるぅるぅ」


 十三号と呼ばれた獣は、人とも獣とも似つかない不快な唸り声を上げた。


「ふぅん……」

 

 なるほど。改めてよく見てみると、話し通り、確かにこいつは獣人だ。

 岩みたいにゴツゴツとした形になっているせいで原型は殆ど残っていないが、五本の指は人のそれに近い構造になっていた。


「はぁっ……はぁっ……あー、あーっ、はぁっ……るるぅ」


 何か喋ろうとしているのか、それともただ唸っているだけなのか。形容し難い荒い呼気と共に涎が牙の隙間から流れ落ち、地面に染みを作っている。

 どうやら酷く飢えているらしい。恐らく、この闘いの為に餌を与えられなかったせいだろう。わざと飢餓状態にさせる事で、より獰猛な獣に仕上げている。


「ふひゅー……ぁ、ぁ、ぅぅぅ、る、るるぅ」


 獣は僕を捕食する時を、闘いの始まりを、今か今かと待っている。

 でも、待っているのは僕も同じだ。

 アルザギール様があの豚のつまらない話しに、これ以上付き合わなくても済むように、一刻も速く闘い、勝利を収める。

 それが、僕の為すべき事だ。


「はっ……はっ……はっ……」


 獣が浅く呼気を吐き出し始めた。

 付き添っていた男が、獣の首から鎖を外し、急いで離れ、通路の中に戻った。

 直後、即座に、柵が下ろされた。

 闘技場の中には、もう僕と獣しかいない。


 「さて、と」


 僕は両手に付けていた白い手袋を丁寧に外し、ベストのサイドポケットに入れた。

 そして、鋭く尖った左手の親指の爪で右の掌を深く裂いた。

 痛みは無い。いや、あるにはあるが、この程度の痛みは、もはや僕にとっては痛みとして認識されない。


「……」

 

 僕は右の掌を獣に向けた。

 傷口からぷくりと滲み出ていた血液は、重力に引かれて地面に落ちたりせず、宙を這うようにして真っ直ぐに、ゆるゆると伸びていく。

 ここでこれをやるのは今回で四度目だが、いつものように客席にいる者達がどよめいた。

 驚き、侮蔑、興奮。

 いくつもの感情が入り混じった観客の声。

 そういう声が出てくる気持ちは、わからないでもない。

 なぜなら、この世界の頂点に君臨する種族である吸血鬼の、その能力を、一介の戦奴である僕が使っているからだ。

 吸血鬼は、血を吸う。吸うだけでなく、それを武器として利用する。

 今、僕が血を操って作り上げたのは、僅かに反りのある長刀だ。

 血を伸ばし、固め、先端と刀身を極限まで薄くして、極限まで鋭利にしただけの物。

 はっきり言って、刀と呼べる程大したものじゃない。

 だけど、敵を殺すには充分な武器だ。


「用意は良いか?」


 僕が武器を手に持ったのを見て、闘技場の外周の、その最前列に立つ黒耳長の男が、よく通る声で問いかけてきた。

 この男は、いつも必要最低限の事しか喋らない。

 闘う前に、戦奴である僕達の名を観衆に向けて紹介したりはしない。名を紹介される栄誉を与えられるのは、勝った方のみ。

 所詮僕らは闘う為に造られた存在だ。

 ここで闘い、勝たなければ、僕達に存在価値なんて無い。

 闘争の空気を感じてか、静寂が広がっていく。そんな中で、僕は男に向かって頷いた。驚いた事に、獣も男に向かって頷いていた。

 しっかりとした知性があるのか、あるいはそういう風に躾けられただけなのか……わからないが、飢えのせいで異様な輝きを放っている瞳からは、知性は少しも感じられ無いから、たぶん後者だろう。


「はっ、はっ、はっ、はっ!」


 獣が鋭く呼吸をし始めた。

 集中し、目を凝らすと、獣の四肢に力が籠っていく様子が見て取れた。

 パンパンに張った腕と脚は、まるで引き絞られた弓だ。

 開始の合図と同時に、放たれた矢の如く凄まじい勢いで、こちらに突っ込んで来て、あの鋭利な牙で以て、一撃で、僕の首を噛み千切るつもりなのだろう。

 男は客席の前に設置された銅鑼の前に立った。彼が手に持つ棍棒でその銅鑼を叩けば、それが闘いの始まりの合図となる。


「はーっ、はーっ、はっ、はっ、はっ!」


 みしみしと獣の全身の筋肉が締まっていく音が聞こえる。

 とても硬そうだ。あの筋肉に真っ向からぶつかれば、いくら研ぎ澄ましているとはいえ、この刀でも貫けるかどうか。


「……」


 それにしても、一体どんな改造を施されるとあんな筋肉の塊になってしまうのだろうか?

 頭をもう一つ付けたら格好いい。とかくだらない事を言う飼い主の下にいるのだから、こんな常軌を逸した姿になるのも不思議ではないのかもしれないが、こんな風にした魔女も魔女だ。

 ぐったりとした頭の隣で、見開いた眼を爛々と輝かせている獣の境遇を思うと、自分が如何に恵まれているのかが再確認出来た。


「あれに比べれば、僕はとてつもなく幸せだな」


 小さく、噛み締めるように、呟いた。

 あの魔女に酷い改造を施されたけど、そのお陰でアルザギール様に出会い、お仕えする事が出来ているのだから、僕は幸せ者だ。

 などと、自身の境遇に感謝をしていたところ、重々しい銅鑼の音が響いた。

 瞬間、


「ぐひゅ――ッ!」


 地を蹴り、爆ぜるような勢いで、獣が飛び出した。

 それは尋常ではない筋力による、並みの獣の跳躍力を遥かに超えた凄まじい突進だったーーに違いない。

 けれども残念ながら、獣の動きも、その狙いも、僕には読めていた。

 僕は、この細い首を噛み千切らんと開かれた獣の顎門に向かって、ほんの僅かに踏み込み、体重を乗せて血の刀を突き出した。

 ただそれだけの動作で、獣の動きは完全に止まった。

 刀は簡単に獣の口内を貫き、襟足の部分からその先端を露出させた。

 外見をどれだけ筋肉の鎧で武装しようとも、内部はそうはいかない。体の中は柔らかいという事は自身の改造中に体験済みだ。


「あ……るぅ……ぅ」


 獣はか細い声を漏らした。断末魔の声だ。


「……ふぅ」


 短く、溜め息を吐いた。

 右手のすぐ先には獣の顎門がある。位置を調整する為に踏み込んだとは言え、もう少し深く踏み込んでいたら、袖口に牙が当たってしまっていただろう。この溜め息は、それが避けられて良かった。という、安堵の溜め息だ。

 獣から血は噴き出していないし、刀を伝って流れても来ない。

 この服を汚す訳にはいかないので、吸血鬼の能力を活かして、敵の血を極力吸い取るようにしている。流血がないのは、それが上手くいった証拠だ。

 命のやり取りの最中にこういう繊細な能力のコントロールをするのは骨が折れるのだが、全てはアルザギール様への忠誠を示す為だ。

 あの御方の為に、完璧な戦奴として闘い抜く事を誓った僕には、泣き言も失敗も許されない。


「……」


 刀を突き込んだ姿勢のままで僅かな時間制止し、獣の体から全ての血を吸い取ったのを感じ取ってから、刀を引き抜いた。

 支えを失った獣は、鈍い音を立てて地に倒れた。

 それで、決着だった。

 僕は刀を体内に戻した。掌にあった傷も、その時に再生した。

 この様子を見届けて、審判を務めている男が声を上げた。


「一回戦、第二試合の勝者! アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様の戦奴、ユーリ!」


 男の声が観衆の間を駆け抜け終えると、溢れんばかりの拍手が闘技場に鳴り響いた。

 勝てば誰も文句を言わないのが、ここの数少ない良いところの一つだ。


「後二回勝てば優勝、か」


 目標が近付くのを感じ、勝利の余韻に浸りながら、僕は手袋を嵌めてアルザギール様の方を振り返った。

 アルザギール様は椅子から腰をお上げになって、周囲の白耳長や黒耳長達に向かってその小さなお手をお振りなさり、にこやかに微笑みを投げ掛けていらっしゃる。


「あぁっ……」


 思わず感嘆の声が漏れてしまう程に、そのお姿はお美しい。お美しいという言葉では表現が不自由だとすら感じる程の立ち姿だ。

 どうしてこの世にはアルザギール様の素晴らしいお姿を完璧に表現出来る言葉が無いのか? 

 甚だ不快ではあるが、この世を造った全能者がその全能性を以てしても表現出来ないのがアルザギール様のお美しさなのだ。と思う事にして、湧き上がってくる怒りを静めた。

 どうでもいいが、アルザギール様のお隣にいる豚は、半笑いの顔でアルザギール様に拍手を送っている。

 流血の戦闘が見られなかった事は面白く無いが、憤慨する程の事でも無いので、あんな曖昧な表情で、勝者である僕の主人であるアルザギール様を讃えているのだろう。

 僕は見た目通り卑しい豚から目を逸らして、高貴なるアルザギール様のお姿を見詰めた。

 すると、アルザギール様がこちらに眼を向け、僕の眼を、その深紅の瞳でお見詰めになり、微笑みを向けてくださった。


「――ッ!」


 慌てて、深々とお辞儀をした。

 拍手が更に大きさを増した。

 観客達は、僕が拍手に応えて謙虚に一礼したのだと思ったのだろうが、それは間違いだ。

 僕は他の誰でもない、アルザギール様ただ一人に向けて誠心誠意のお辞儀をしたのだ。

 勘違いして貰っては困る……のだが、その勘違いによってアルザギール様へと送られる拍手がより一層増すのならば、どうぞ大いに勘違いして今まで以上の拍手をアルザギール様へと送って差し上げて欲しい。

 僕への拍手はいらない。

 歓声なんてどうでもいい。

 賞賛の言葉も必要ない。

 僕は、何もいらない。

 僕は己の全てを、アルザギール様に捧げている。

 頭を上げて、僕はアルザギール様の眩いばかりのお姿を見詰めた。

 アルザギール様は、また僕に向かって微笑んでくださった。

 このような場で、日に二度もこちらに微笑みを向けられるなどとは、むしろアルザギール様に申し訳が無い。

 この場は僕の存在など忘れて、拍手と歓声、賞賛の雨を存分にお楽しみになっていただきたい。

 僕は再び、より一層深く頭を下げた。折角なので勘違いして貰おうと思い、観客達に向かっての心の全く籠っていないお辞儀だ。

 たかが戦奴に、このような礼儀を教え込むとは、アルザギール様は素晴らしいお方だ。と、更に拍手が増した。

 普通の人間だった者を、これ程までの強さと礼儀正しさを併せ持つ奴隷に調教したアルザギール様のその手腕は、何と巧みなものなのだろうか。と、更に歓声が増した。

 もちろん、僕の存在を認めたがらない者が発する不満の声もあるが、闘技場にいる殆どの者が、アルザギール様を誉め称える言葉を口々に発している。

 そんな中で、僕は誰にも聞こえないように、小さな声で、恐れ多くも今の感謝に満ち満ちた気持ちを口にした。


「アルザギール様の為に戦う奴隷になれて、僕は幸せです」


 一介の戦奴でしかない僕が抱いた、主人への感謝の言葉は、闘技場が割れんばかりの拍手に飲み込まれ、消えた。


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