7、願い。
鳴り止まない拍手。
響き続ける歓声。
地味な終わり方だったという声もあれば、技巧を凝らした渋い闘いだったと褒める声もある。そして勿論、アルザギール様への賞賛の言葉も、次々と送られている。
だが、それも暫くすると自然と止んだ。
この後にまだ、イベントが控えているからだ。
「はぁー……」
僕は闘技場の真ん中に立ったまま、腹部を摩った。
アギレウスの血液を吸収したお陰で傷の修復が早まり、ぐちゃぐちゃにされた内蔵や腹筋は綺麗に再生したが、服まではそうはいかない。
黒いベストは剣と爪でズタズタにされており、白いシャツも破れ、噴き出した血で赤黒く染まっている。
アルザギール様と観客にお見せするのが憚れる程のみっともない格好なので、着替える時間が欲しいところだが、観客達はこの服の損傷を激闘の証として見ているらしく、アギレウスの死体は撤去されたのに、僕に着替える時間は与えられなかった。
そう言えば、これはどうでもいい事だが、アギレウスの死体が通路に運び込まれた時、そこにはルドベキアと、彼女の肩を抱く大柄の男がいた。痩せていたらどことなく彼女に似ているような風貌だったので、あれがたぶん彼女の父なのだろう。
ルドベキアは、担架に乗せられたアギレウスの死体を目にすると大粒の涙を流し、死体から離れると父らしき男の胸に顔を埋めた。
本当に何の興味も無かったが、なんとなく、愛する者を失った女性がどんな言葉を口にするのかが気になったので彼女の言葉に耳を澄ましていた。けれど、ルドベキアの口からは何の言葉も出てこなかった。
彼女はただただ、涙を流し、叫んでいた。
奴隷解放だとか愛だとか、うるさい女だったが、アギレウスの事が好きだったのは本当だったようだ。
その様子に同情などはしないが、素直に感心していたところ、アギレウスの死体が火葬場かどこかへ運ばれ始めたらしく、ルドベキアもそれに付いていき、この場を後にした。
そして、今まさに、審判が僕を一瞥して、大きな声で言った。
「優勝者、ユーリ! 貴様の望みは何だ! ここにおられるバイロ様が、生死を賭けた最高の娯楽を提供した褒美として! 貴様の望みを叶えてくださる!」
「ふぅ……」
僕は一つ深呼吸をして、昂る気持ちを抑えた。
そして、アルザギール様を見据えて、声を張り上げた。
「バイロ様にもお願いしたい事はありますが……まずは、アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様に、お願いしたい事がございます!」
僕の言葉に、会場は少しの間ざわついた。
何を言っているんだ、こいつ? という疑問よりも、
「ほう、そうきたか」
バイロの声に代表されるような、納得の声が多かった。
恐らく彼らは、僕が真っ当な身分を求めている。とでも思ったのだろう。
その為に、まずはアルザギール様の許可を取ろうとしている。と。
しかし、それは全く違う。
僕が欲するのは、そんな程度のものじゃない。
その時、アルザギール様の背後に控えていたフォエニカル隊長が、アルザギール様に耳打ちした。
「アルザギール様。ユーリのやつはああ申しておりますが、如何致しますか?」
「そうですね……ここでその願いを聞いてもいいのですが、それは彼に失礼だと思いますし……フォエニカル、私をあそこまで連れて行ってはくれませんか?」
「闘技場へ、ですか?」
「はい。お願いします」
意外なお願いに隊長は驚いたようだったが、アルザギール様にそう言われては断れるはずも無い。
「……承知致しました。では、失礼致します。アルザギール様」
隊長はアルザギール様をお姫様抱っこの形で抱え上げると、跳躍し、闘技場まで一足で降りて来た。
「着きましたよ、アルザギール様」
「ありがとう、フォエニカル。瞬く間でしたが、空を飛ぶのも悪くはないですね」
「これっきりで勘弁してください。一瞬とは言えあなた様を抱えて飛ぶなんて、こっちは気が気じゃありませんでしたからね……それより、足下にお気をつけください。ここには、戦奴どもの骨や歯などが転がっていますので」
「ええ、気を付けます」
注意を促し、フォエニカル隊長は一歩後ろに引いて、僕を見た。
好奇で満たされたその顔は、僕が何を言い出すつもりなのか、楽しみにしているように見えた。
「ふふっ」
闘技場という、血と死で穢れた場所に自らの脚で立つ事を厭わず、アルザギール様は無邪気に微笑み、僕の方へと歩み寄られた。
そのご様子に、観衆の間からもどよめきが起きた。
あのような場所にアルザギール様が立つなど、と驚きを露わにする声もあるが、大半は、何と出来た主人なのか、という感心の溜め息だった。
恐らく、この世界の歴史の中で、アルザギール様のような上流階級の存在が闘技場の土を踏んだのは初めてなのではないだろうか。それも、戦奴の呼び掛けに応えての行動など前代未聞に違いない。
「ユーリ、ようやく話してくれるのですね」
「はい」
アルザギール様は僕の前に立ち、この事態を見守る観衆にも聞こえるように、よく通る、凛とした声で言った。
「ユーリ、あなたの望みは……私へのお願いとは、何なのですか?」
「それは……」
会場は、静寂に包まれている。
僕の望みが明かされるのを、バイロだけでなく、全ての観衆が息を飲んで待っている。
だけど、観衆なんて関係無い。僕はそいつらには何の興味も無い。
興味があるのは、この世でただ一人、アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様だけだ。
声を出す為に、息を吸った。
僕が欲しいもの。
他者を殺してでも、手に入れたかったもの。
他の誰でもなく、アルザギール様の為に叶えたかった願い。
優勝したとはいえ、僕なんかが主人にお願いをするのは、分不相応であり気が引けるが……それでも、例え不遜でも、その願いを口にする。しなければならない。
決意を固めて、僕は口を開いた。
「僕の願いは……それは、アルザギール様、あなた様のものとなることです」
「私のもの、ですか?」
「はい」
「それは、どのようなものですか?」
「あなた様が椅子になれと仰れば椅子に。衣類を掛ける置物になれと仰れば置物に。そして、剣になれと仰れば……剣に。あなた様を阻む全てを斬り裂き、道を斬り拓く剣に。……僕は、あなた様が望むものに、どのようなものにでも、なります」
「どのようなものにでも、ですか?」
「はい。どのようなものにでもなり、あなた様のお願いを、叶えます」
「あなたは、身分を得る事が出来ます。それにより、自由を得る事も出来ます。それなのに、私のものになる、と?」
「はい。僕はあなた様のものとなり、あなた様の隣にいたいのです。そして、あなた様と共に、いつか、美しい世界を見たいのです」
「ユーリ……」
アルザギール様が、息をお呑みになった。
観衆からは、ため息が聞こえた。落胆ではない、感心のため息だ。
主人に一生を捧げる誓いをこの場で行うとは、なんと出来た戦奴なのだ。と、アルザギール様の、調教の手腕を褒める声がする。
その中で、アルザギール様は、微かに声を震わせて、仰られた。
「それが、あなたの願いなのですね、ユーリ」
「はい。それが、僕の願いです」
僕は願いを告げた。
「わかりました。ならば、共に歩みましょう」
それは小さな、独り言にしか聞こえない程に小さな声だった。
しかし、それは僕にとって、この世の何よりも、遥かに強大な力を持つお言葉だった。
「彼の願いを聴きましたか? バイロ」
アルザギール様は、僕を見詰めたまま、凛とした声を闘技場に、その運営である、バイロに向けて発した。
「私の戦奴、ユーリは、自らの意志で、私のものになりたいと言いました」
「ああ、聴いたよ。しかと、この耳で。素晴らしいじゃないか。主人と奴隷の鏡だ。美しい話だよ。この闘技場の伝説の一つに、今の話を加え、末長く語り継ごうではないか」
愉快そうに、バイロはそう言って、大きく腕を広げた。
その動作に合わせて、観客たちは盛大なる拍手を、アルザギール様に送った。
だが、アルザギール様は、
「いいえ、その必要はありません」
豚の言葉を、否定なされた。
「この闘技場は、ここでの見世物は、今日を以ってお終いとさせていただきます」
「……なんだと?」
訝しむバイロから視線を外し、麗しい瞳が、僕に注がれた。
「いつか、美しい世界を見ましょう。あぁ……あの日の、私との約束を……よく、覚えていてくれましたね、ユーリ」
「……はい」
あの日の約束。
かつて、僕とアルザギール様の間で交わされた、ただ一つの約束。
綺麗な世界を、一緒に見ましょう。という約束。
アルザギール様は、それを覚えていてくれたのだ。
「世界を美しくする為には、何をするべきか……。あなたなら、わかりますね?」
「はい」
世にはびこる汚らしいゴミを、掃除する事です。
ゴミ、などという言葉をアルザギール様に向けて発するのは憚られたので、僕は頷くだけに止めた。
言葉はなくとも、勿論、アルザギール様は僕の言いたい事を理解してくださっていた。
だからこそ、アルザギール様は、
「では、ユーリ。私の剣よ。殺しなさい。この世界を、汚す者を」
僕に、命令を下された。
「はい」
それを受けて、僕は、強く地を蹴り込み、一足で、飛んだ。
バイロの、眼前まで。
「むっ!?」
そして、驚く顔の、少し下。
肥え太った肉の、全体に血液を送り込んでいる心臓に、刀を突き立てた。
手応えは、柔らかかった。
バイロは、現実感の無い表情で心臓に刺さる刀を見て、それから視線を上げて、僕を見て、震える声を発した。
「き、貴様……これは、一体……」
「僕の望みは、あなたの死です。バイロ様。そしてこれは、アルザギール様の、お望みでもあります」
「な、に……!?」
「アルザギール様は、美しい世界が見たい。と仰られました。故に、僕はあなたのような流血を望む者を、始末します。アルザギール様の、剣として」
「なん……だと……っ!」
それは一体、どのような感情だったのか。
悲しみなのか。
怒りなのか。
絶望なのか。
理解出来なかったのか。
バイロの顔は、複雑な感情が入り混じった事で歪んでいた。
けれど、そこは流石の吸血鬼だ。
「ふ……ふざけるなぁっ!」
心臓を刺された程度は、致命傷には程遠い。
恐らく、最も突出した感情である、怒りに身を任せ、醜い豚のように、バイロは叫んだ。
刺した刀から、バイロの肉体に力が満ちていくのが感じ取れた。
身体中の筋肉が盛り上がり、溜め込んでいた血は、強靭な鎧へと姿を変えていく。
かつての大戦で猛威を奮ったという、ありし日の姿を、取り戻していく。
「この程度っ! ユーリッ! 貴様は知らないだろうが! 私はかつての大戦で無数の巨獣を蹴散らしてきたのだぞ!? この私に刃向かう事が、どういう事か! その、み、身を、以って……教え……て……っ!?」
しかし、その身体的な変化は、言葉と共に止まった。いや、止まるどころではなく、急激に、バイロの体は萎み始めた。
「こ、これ、は……な、なぜだ……!?」
力が出ない事に、愕然とする、バイロ。
一方で僕は、目に見える勢いで生気を失っていく彼を、見下ろしていた。
「何故も何も、僕が吸血鬼だからです」
僕は戦いの中で理解していた。
この吸血鬼の能力の、本当の使い道について。
何故、アルザギール様は吸血鬼の力を持つ者を欲していたのか?
吸血鬼の力を持ち、闘える者を欲していたのか?
答えは、吸血鬼を殺す為だ。
血を吸い尽くして、殺す為だ。
吸血鬼は、命の源である血。それを、吸う。
相手は選ばない。獣人であれ、黒耳長であれ、白耳長であれ、吸血鬼であれ、どんな相手の血も、吸う。
そして、それを生きる糧とする。
だが、それは逆に言えば、血を失えば死ぬ。という事に他ならない。
如何に不死身といえど、血を失えば死ぬのだ。
命の源を失えば、死ぬしか無いのだ。
「不味いですね、あなたの血は……。アルザギール様とは大違いだ」
「ば、ばか、な……この、私が……こんな……」
僕の突き刺した刀が、バイロの血を吸っている。
舌の上で転がしているわけではないので正確な味はわからないが、血管を通る感覚で、なんとなくはわかる。
こいつのは、血は、ドロドロだ。
欲に塗れ、支配を謳歌したからか。それとも単に不摂生のせいか。とても吸血鬼とは思えない程の質だ。アルザギール様とはまるで異なる。何も知らなければ、違う種族だと感じたに違いない。
やはりこいつは、アルザギール様の同族に値しない。
僕が真の吸血鬼ではないように、こいつもまた、アルザギール様と同等である、真の吸血鬼ではない。
ただの豚だ。
かつては英雄だったのだろうが、今となっては過去の英雄。支配者気取りの、醜い豚だ。
こんなやつのような、心根の醜い者は、醜さを振りまく者は、この世界にはいらない。
これから美しくなる世界には、いらない。
僕はそう思った。同時に、流れてきていた血が、途絶えた。
「……か……か……」
断末魔の叫びは、無かった。
口をパクパクと動かしただけだった。
カラカラに干からびたバイロの体が、砂のように解け、崩れていく。
「これが吸血鬼の死、か……」
血を吸い尽くされた吸血鬼は、こんな風に死ぬのか。
長い年月を生き、この世界の発展に力添えをした者の死としては、非常に呆気ないものだったが……灰のようになるなんて、後始末が容易くて、有難い。
僕は血を全て吸い尽くした事を確認して、刀を振るった。
何とかまだ形を保っていたバイロも、それで塵となり、闘技場に吹く風に呑まれ、消えていった。
観客たちは、ただただ呆然と、その光景を眺めていた。警備の者たちも動けず、ぼんやりと立ち尽くしていた。僕はそんな彼らを尻目に、視線をアルザギール様へと戻した。
アルザギール様は、微笑んでいらっしゃった。
それは、あの日、僕を戦奴にしてくださった日にお浮かべになってくださったものと同じ、抑えられぬ喜びが形作った、見る者を幸せにしてくれる微笑みだった。
そんな笑みを目にして、僕は胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
このような笑顔を浮かばせる事が出来るのなら、アルザギール様のものになれた甲斐があったというものだ。
あの日、あの部屋から僕を助けてくれた、アルザギール様。
これから、あなた様のものとして働く事で、僕はようやく、あなた様に、あの日の恩を返す事が出来そうです。
興奮する己を律し、とりあえず、一つ、与えられた命を達成した事を伝える為に、深々と、アルザギール様にお辞儀をした。
そこでようやく、観客たちは、叫び声を上げて、闘技場から逃げ始めた。
立場が上の者も、下の者も、関係なく、一斉に。
警備をしていた者でさえも、脱兎の如く、声を上げて走り去っていく。
騒ぎの中で、僕が頭を上げると、アルザギール様は麗しい微笑みをお顔に浮かべなさっていた。
闘技場という美とは懸け離れた場所だからか、アルザギール様のお美しさはいつもに増して凄烈なものに感じられ、思わず僕も、微笑んでいた。
あぁ……アルザギール様。あなた様を笑顔にする事が出来て、僕は、今、身に余る幸せを感じております……。
喜びで、心が震えた。
僕とアルザギール様は、ここから、世界を変える。
響く無数の悲鳴が、僕の、僕たちの新たなる門出を祝福しているかのようで、耳に心地良かった。
 




