6−1、決勝戦、開始。
闘技場に入る前はいつも緊張する……のだが、今日はいつも以上に緊張している。
なぜなら今日は、決勝戦という大舞台だからだ。
今日の闘いで全てが決まる。
僕は細心の注意を払って服をもう一度点検した。
「不備は……無いな」
先日手袋に穴が空いてしまったが、新調したので穴は無い。
髪もしっかりと撫で付けている。
立ち上がって、スラックスの皺も伸ばした。
準備は万端。後は……。
「勝つだけ、だな」
勝つ。
これから始まる闘いに、勝利する。
「アギレウス……」
敵の名を、口にしてみた。
竜人、アギレウス。
彼は、強い。
つい先日、アギレウスとは一太刀だけ剣を交えたが、あれで実力の程はよくわかった。
この大会で優勝する事を目的として訓練を積んで来ただけあって、今まで闘って来た相手とは桁違いの強さだ。
それに彼は、主との結婚の為に、自由な生き方を勝ち取る為に、闘っている。
まるで物語の主人公みたいな動機だ。
対して僕の願いは、彼とはまるで異なるものだ。
僕が勝ち取らなければいけない、アルザギール様の為に、叶えなければならない、たった一つの、願い。
「……はは」
勝利し、願いを口にした時の、アルザギール様の驚く顔が目に浮かぶ。
そして、笑顔も。
「アルザギール・グラト・ピエンテ・マグノエリス様の戦奴、ユーリ。出番だ」
「……はい」
黒耳長の男から名を呼ばれて、控室から出た。
向かう先は闘技場だ。
もう後戻りは出来ない。するつもりもない。
「中に入れ、ユーリ」
「はい」
不安は無い。
緊張も消えた。
まあ、今更そんなもので揺らぐ意志など、こうなってからは、持ち合わせてはいないが。
「……さて、行くか」
一言呟いて、僕は闘技場に足を踏み入れた。
闘技場には、アギレウスがいた。
以前よりも豪奢な金の鎧を体の前面に付け、手入れの行き届いた巨大な大剣を地面に突き立てて、僕を待ち構えていた。
アギレウスは闘技場の中心部へと歩みを進める僕を、爬虫類特有の、ぎょろりとした瞳で見詰めている。
その瞳は「覚悟はいいか?」と問い掛けているようだったので、僕も彼を睨み付けて視線に応えつつ、背後に意識を移した。
貴賓席にはアルザギール様がいらっしゃり、決勝戦だからか、その隣には、ルドベキアが座っていた。
「……」
闘技場の主であるバイロは、向かい側の席にいた。
流石に主人たちの隣で、戦奴の流血を期待するのは申し訳ない。とでも思っているのだろうか? 気遣いなのかどうかわからないが、その瞳は、これから起こる事に対する期待感で、爛々と輝いていた。
と、そんな豚の姿を確認したところで、アルザギール様とルドベキアの会話が耳に入った。
「遂に決勝戦ですわね、アルザギール様」
「ええ。どのような闘いが繰り広げられるのか、楽しみですね、ルドベキア」
「アルザギール様、この際ですからはっきりと言っておきますけれど、ユーリが死んでも私を恨まないでくださいね」
「ふふ。面白い事を言うのね、ルドベキア。ユーリは自分の意志であそこに立っているのですから、例え悲しんでも、あなたを恨んだりはしませんわ」
煽るような言葉を吐くルドベキアに対して、寛容な態度で接するアルザギール様。
何と清いお心をお持ちなのだろうか。
僕ならば「じゃあアギレウスが死んでも僕を恨むなよ」と売り言葉に買い言葉で返答しているところだが、アルザギール様はそんな事はおっしゃられない。それどころか、恨んだりはしないと口にした。
調子に乗っている相手に対して、ああも穏やかな態度でいられるとは、流石は支配者の一角を担うアルザギール様である。
「アルザギール様。あなた様に一つ、お尋ねしたい事があるのですが」
アルザギール様の精神性に僕が感動していたその時、不意にルドベキアが話題を変えた。
「何でしょうか?」
「あなた様の戦奴である、ユーリの事です」
ルドベキアの質問とは、僕についての事だった。
「ユーリが何か?」
「何故、彼を選んだのですか?」
「選んだ? どういう意味ですか?」
「これはあくまで、噂で聞いた話しなのですけれど……アルザギール様が戯れに欲したものが、自分の思い通りに出来る奴隷、自分に絶対の忠誠を誓い、裏切らない、吸血鬼の奴隷、だったそうですね?」
「そのような噂があるのですか?」
「はい。あるのです。ただの噂話ですが……しかし、今の状況を見ていると、やはり、数ある人間の中から、わざわざユーリという少年を選んだのではないか? と思ってしまいます」
「……どうして、そう思うのですか?」
アルザギール様は、不思議そうな声をお上げになった。
「私は、ずっと気に掛かっていました。何故あのような、普通の、いえ、か弱い少年を改造したのか? ということについて」
「それについての答えは出ましたか?」
「はい。これは、あくまで私の推論ですが……か弱い方が、与し易い。と考えたからではないですか?」
「与し易い、ですか?」
「自分好みに作り変える為に、基礎となる肉体と精神が弱い人間を選んだのではないか? ということです」
「……」
「あなた様は偶然、あの人間を手に入れたと仰っていますが、そのような偶然があるのでしょうか?」
「……」
「魔女リベットの死も、事故などではなく、あなたが仕組んだものなのではないですか? あなた様が関わっていたという証拠を消し、ユーリの絶対的な忠誠を、得る為に」
「……」
危うく、僕は叫びそうになった。
貴様に何がわかる。と。
殺したのは僕だ。
他の誰でもない、この僕なのだ。
僕が、僕の為に、僕の意志で殺したのだ。
それが、主人のせいであるわけがないではないか。
もしも手の届く範囲にあの女がいれば、一息に首を撥ねていたに違いない。
けれど、立場を忘れ、怒りに身を任せそうになった僕とは対照的に、アルザギール様は冷静に言葉をお返しになった。
「……仮に私が、そうです。全てあなたの言う通りなのです。と言ったところで、あなたはそれを信じますか?」
「え……?」
「ルドベキア。あなたのような、世間に満ちる派手な噂ばかりを追いかける乙女は、実のところ、真実など求めていないのではありませんか?」
「そんな事は……私は……」
「あなたのような者は、私が真実を述べても、それを否定します。なぜなら、最初から真実などはどうでもいいのですから。自分が楽しめる話し、社交の場を賑わせる話しこそを信じるはずです。……噂話しを信じてしまう者の心の内とは、そういうものです」
「……」
「で、あるからこそ、私は言わせていただきます。全ては、偶然であり、運命です。と」
こんな偶然があるのか? と、ルドベキアは言った。
それがあったのだ。と、アルザギール様は仰られた。
「私が奴隷を欲していたのは事実です。しかし、自分の思い通りになる奴隷を欲していたわけではありません。私の下した命を忠実にこなす、奴隷としての用向きを為すに足る者ならば、誰でも良かったのです。そんな時に手に入れたのが、吸血鬼に改造されていた少年、ユーリだった。というだけです」
「……」
「故にこれは、運命です」
アルザギール様は、やはり素敵な御方だ。
僕との出会いを、運命。と表現してくれた。
他人の言った偶然という言葉を否定して、運命だと。
これ以上に嬉しい事があるだろうか? いや、あるはずがない。
感極まり、涙が流れそうだった。
「そう、ですか……」
「ええ。それが真実です。けれど、ルドベキア。今のお話しは独創的で、とても面白かったですよ。市井の方の想像力には本当に感心します」
二人の会話は、そこで終わった。
僕は背後を振り向いて、アルザギール様に一礼した。
ちらりとアギレウスの方を見ると、彼も身を屈めて礼をしていた。
「……」
僕は顔を上げて、アギレウスの方を向き、両手の手袋を外してベストのサイドポケットに入れた。
「はぁ……」
一回、呼気を吐いた。
「しゅぅ……」
アギレウスも、牙の隙間から息を漏らした。
僕達の発したこの音は、観客には聞き取れないぐらいに小さな音だったはずなのに、闘争の空気を感じ取ったのか、彼らはこれから始まる最上級の闘いを前にして、息を潜めた。
「……」
ざわめきが消え、静寂が闘技場を包んでいく。
張り詰めた空気が、五感を刺激する。
アギレウスの呼吸、鼓動音、筋肉の動きを感じる。……恐らく向こうも、僕のそれを感じ取っている。
僕は右の掌から血の刀を出し、浅く腰を落として、切っ先をアギレウスへと向けて構えた。
アギレウスも、大剣を地面から引き抜き、どっしりと構え、剣先を僕へと向けた。
「準備はいいか?」
黒耳長の審判の声に、僕達は無言で応えた。
「それでは……決勝戦! 始め!」
審判が、銅鑼を力強く鳴らした。
次の瞬間、充分距離があると思っていたのに、眼前には大剣を振り上げたアギレウスが迫っていた。
「――っ!」
先日の比ではない、恐るべき瞬発力だ。
「カアアアアアアアッ!」
竜の咆哮と共に繰り出された、真上から襲い掛かる大剣を、僕は刀で受け――ると見せかけて、僅かに横に動き、紙一重で斬撃を回避した。
勢い良く地面に激突した大剣は、大地を叩き割らんとするかの如く、激しく足下を揺らした。
「むっ!?」
必殺の初撃を躱された事に驚くアギレウス。
「ふっ!」
そうして生まれた隙に、僕は左手の掌から瞬時に刀を出し、先日貫き損ねた首に向かって突きを繰り出した――が、
「――うっ!?」
殺すつもりで放った突きは、彼の首を覆う、分厚い赤銅色の鱗に阻まれ、停止した。
ぎょろり、と、アギレウスの眼がこちらを見下ろす。
「くっ!」
不味い! と頭で思うよりも速く、脚は地を蹴っていた。
足元から、今度は横薙ぎに振り抜かれた斬撃を、僕は両手の刀を交差させて受け止め、その勢いに乗って、大きく横手に飛んだ。
「ふぅ……」
着地と同時に、今の一撃で欠けた刀を修復し、切っ先を、再びアギレウスに向ける。
その行動が終わると同時に、観客達の拍手と歓声が闘技場を満たした。
素晴らしい動きだと感心しているようだ。
アルザギール様も、今の僕の攻防をお褒めくださっているだろうが、残念ながらそれを拝聴する余裕は無い。
僕の思考は、現在は戦闘にのみ向けられている。
「……」
思ったよりも、鱗が硬かった。
少しぐらいは突きが入るかと思っていたが、アギレウスの首元は全くの無傷だ。
刀身よりも鋭く尖っている切っ先で貫けないとなると、斬撃は鱗に全く通用しないと思った方がいい。
刀よりも鋭利なこの爪と牙なら、あるいは貫けるかもしれないが……この指先と口はアルザギール様と接する際に使う器官なので、使うわけにはいかない。
血で染まった手。血に濡れた牙。そんな汚らしい状態でアルザギール様とお会いするなどという恥知らずな行いは、もう二度としない。
「首を貫けず、残念だったな」
アギレウスは牙の生え揃った口元を引き攣らせ、笑みを浮かべた。
「はい、残念です」
一撃で殺せると思っていたが、残念だ。
しかしながら、鱗の硬さを知る事が出来たので、よしとしよう。
防御は堅く、攻撃も強力な敵だが、こういう手合いを殺す方法はいくらでもある。
生物であるのなら、突ける隙が多いという事を、僕は身を以て知っている。
「今からでも遅くはない。棄権するつもりはないか?」
最後通告のつもりか、アギレウスが尋ねてきた。
「ありません」
僕は即答した。
「そうか」
「はい」
「では、殺すとしよう」
「その言葉、お返ししますよ」
短い会話を終えると同時に、アギレウスは地を強く蹴り込み、突進して来た。
僕も同じく地を蹴って、迎え撃った。
ここからが、本番だ。
小手調べが終わり、本当の戦闘が、始まった。




