5−3、書斎。それから自室。
「ただいま戻りました、アルザギール様」
「お使いご苦労様。お帰りなさい、ユーリ」
本当に疲れましたよ……という泣き言は飲み込んで、僕はアルザギール様にお辞儀した。
アルザギール様は書斎で読書をしておられた。
窓際に置いてある、木製の椅子に座り、視線を手元の古書に落としていたが、僕と話しをする為に本を閉じ、こちらを向いてくださった。
「読書のお邪魔をしてしまい、申し訳有りません」
「構いませんよ。少し休憩しようと思っていたので、丁度良かったです。……それで、ルドベキアは何と言っていましたか?」
「こちらのお茶を、アルザギール様に。という事以外は……特に、何も」
ほんの少しだけ、アルザギール様にルドベキアの屋敷での出来事を話すべきかどうか迷ったが、敢えて話さない事にした。話したところで、アルザギール様のお気を患わせるだけであり、何の意味も無いと判断したからだ。
「わざわざ女中ではなくユーリを指名したのだから、何か話しがあると思っていたのですが……」
「大した話しはありませんでした。強いて言うのならば、明日の大会の、決勝戦についての話しぐらいでした」
「あら? それは、どのような話しでしたか?」
「また、棄権を勧められました」
「そうですか。それで? あなたは何と答えたのですか?」
「棄権はしない。と答えました」
「でしょうね」
クスクスと、アルザギール様はその端正なお顔を綻ばせになった。
まるで聖母の如き慈愛に満ちた、心の芯まで癒される微笑みだ。この笑みを見てようやく僕は、自分の家に帰って来た。という気分になれた。
「そう言えば……大会と聞いて思い出しましたが、ついさっき、バイロから連絡がありました」
「バイロ様から、ですか?」
この世界の支配者である吸血鬼の一人。
見た目はとてもそう見えないが……いや、ある意味支配者らしいと言えばらしいのだが……そんな立場の者からの連絡とは、一体何だろうか?
不思議に思うも、アルザギール様がすぐに答えをお教えになってくださった。
「優勝した際の叶えたい願い、望むものが決まっているのなら、教えて欲しい。という連絡でした。……が、私は、秘密です。と答えました。……ユーリ、バイロは何と言ったと思いますか?」
「さて……何と言ったのですか?」
「当日のお楽しみという事か! それは面白い! と納得してくれました。バイロは昔から他人を驚かせる事が好きでしたから、その逆の、自分を驚かせてくれる事を楽しみにしているようです」
「楽しみにしている、ですか……」
「はい。なので、私もあなたが何を欲しているのかとても気になっているのですが、あなたが勝ってからのお楽しみとする事にしました」
僕をまっすぐに見詰めて、アルザギール様はそうおっしゃられた。
これはつまり、明日の決勝戦は、絶対に勝ちなさい。という事に他ならない。
だからこそ僕は、深くお辞儀をした。
「はい。どうぞ、明日をお楽しみにしていてください」
僕は必ず勝つ。
アルザギール様のご期待を一身に受けたこの僕が、負けるはずが無い。
勝って、願いを叶える。
その結果、間違いなく、バイロは驚く事になる。
そして、アルザギール様は、お喜びになる。きっと……いや、必ず。
あぁ……その時がくるのが、本当に……本当に、楽しみで待ちきれない。
そんな風に、明日の事を考えていた、その時、アルザギール様が、その小さな手にお持ちになっていた本を、傍らの机に置いた音がした。
「ユーリ、こちらに来なさい」
「はい……?」
何の用だろうか? と疑問符を浮かべながら、アルザギール様のお傍に立った。
「何用で御座いましょうか?」
「そう畏まらなくてもいいですよ。腕を出しなさい」
「はい」
言われるがまま、僕は右腕を差し出した。
「袖を捲りなさい」
「はい」
命じられるがまま、僕は丁寧に袖を捲り、手首から肘までを露出させた。
「何だか、不思議です。明日、命を賭けて闘うのはあなただというのに……私の方が緊張しているようなのです」
「アルザギール様……」
僕の右掌に、小さな左手を重ねて、アルザギール様はぽつりとお呟きになった。
「綺麗な手。とても、今まで何人もの戦奴を殺してきた手には見えませんね」
「……ありがとうございます」
僕の爪は、何度も剥がされた事で鋼鉄をも引き裂ける程に強靭になっている。だけど、僕は血の刀を武器としている。
理由は、アルザギール様にお仕えする為だ。
アルザギール様に不快感を与えぬようにと思ったから、手を汚さず、綺麗に保つ為に、刀を持つ事にした。
同じ理由で、牙も使わないようにしている。
吸血鬼の代名詞とも言える、血を吸う為に発達した尖った牙は、僕にもある。
その牙も、何度も抜かれた事で、硬く、鋭利なものへと変質している。
だが、アルザギール様とお話しをするこの口を穢すわけにはいかないので、噛みつきという攻撃手段は選択肢から外している。
使わない事を誓った、この手と牙は、僕の忠誠の証だ。
そのような、僕の自慢の手を、アルザギール様は優しく摩ってくださった。
産毛の一本一本が、歓喜で波打った。
ひんやりとしているが、真心の籠った優しさが伝わってきて、僕の手は、熱を持った。
アルザギール様の手が、手の甲から手首に、そして前腕に移った。
筋繊維を撫でるような、繊細な指の動きに、ぞくぞくとした興奮を感じた。
滑らかな手つきだ。
散ってしまう前の花を愛でるのに似た、優しさと慈しみの籠った触り方だ。
「……」
思わず、生唾を飲み込んでしまった。
這うように腕を登って来る、アルザギール様の可憐なお指。
徐々に視界に入る、アルザギール様の華奢なお腕。
その白い肌の下に流れる、極上の血液。
お互いの肉体の一部が触れ合っているというだけでも嬉しいのに、僕はそれ以上を欲しがってしまっている。
書斎に二人きりというこの状況でこんな事をされると、いやしくもご褒美を……血を、待ち望んでしまっている。
「……」
喉がまた、鳴った。
口内に唾液が溜まり、それを飲み込んだからだ。
「ふふっ」
アルザギール様はふと視線を上げて、僕の顔を見て、微笑んだ。
その瞳が、血が欲しいのですか? と問い掛けている。
僕達は、視線を絡ませた。
飲みたいのですか? 私の血を、飲みたいのですか?
はい。飲みたいです。飲ませてください。お使いに行った僕に、ご褒美をください。
また、ご褒美が欲しいのですか?
はい。欲しいです。二回戦も突破したではないですか。
ああ、そう言えば、二回戦突破のご褒美はあげていませんでしたね。
はい。
ですが、主人に対してそんなにもあからさまに物欲しそうな態度を見せるのは、よくないですよ、ユーリ。
申し訳ありません。ですが、欲しいのです。
そんなに欲しいのですか?
はい。お願いします。欲しいのです。あなたが、あなた様の血が、欲しいのです。どうか。どうか……。
「ふふふっ」
絡み合った視線は、言葉よりも多くの物事を語る。
僕の獣の如くあさましい内面を覗き見て、それがおかしくてお笑いになったらしい。
「そんなに、欲しいのですか?」
幼い外見とは裏腹な、艶っぽい声と、煌めく瞳で、アルザギール様は僕を見詰めている。
「……はい」
僕なんかが抱くべきではないこの欲求に従うかどうか。内心で激しい葛藤はあったものの、結局、我慢出来ずに頷いた。
対して、アルザギール様は、申し訳無さそうに眼を伏せた。
「私も……初戦突破を祝ったように、ここであなたにご褒美をあげたいのは山々なのですが……ユーリ、私は、勝利の美酒とは、勝った者に与えられるものだと思っています」
「……はい」
「だから、明日の、最後の試合を控えているあなたに、その美酒を与えるのは些か早計かと思ってしまっているのです」
アルザギール様は、そうおっしゃられた。
嗚呼……何と言う事だろうか。
僕の気持ちが緩んでいるのを見抜き、このような言葉を掛けてくださったのだ。
ここまで僕みたいな戦奴の事を考えてくださるとは……。
「大変失礼いたしました。アルザギール様のおっしゃる通りです。気が急いてしまい、申し訳有りませんでした」
僕は己を恥じ、謝罪した。
「いいのです、ユーリ。あなたを諌めるのは、主人として当然の行いですから」
「ありがとうございます。アルザギール様」
お礼の言葉を述べ、再三に渡って深々と頭を下げようとしたが、アルザギール様は掴んでいる腕に力を込め、僕に待つよう命じた。
「こうしてあなたの腕に触れていると、何だかあの日の事が思い出されますね」
アルザギール様は僕の腕に視線を落として、遠い眼をなされた。
「……はい」
僕も自分の腕と、そしてアルザギール様の腕に眼をやった。
「あの時、私はあなたの折れた腕を触りましたが……本当は、痛かったのでしょう?」
「いえ、全く痛みはありませんでした」
「本当に?」
「はい。アルザギール様が傍にいてくださったお陰です」
本心からの答えを、口にした。
「あなたの心の支えになれて、本当に良かったです」
アルザギール様は、微笑んでくださった。
そして、腕から、すっと手を離した。
「明日の試合は、今までに無い程に激しい闘いになるでしょう。ですが、死ぬのは決して許しませんよ、ユーリ」
「はい。畏まりました。アルザギール様」
死ぬのを許してくれないとは、ありがたいお言葉だ。しかし言われるまでもなく、僕は死なない。他人の戦奴との闘い如きで、死ぬつもりは無い。
敵を殺し、僕は勝つ。
「さあ、ユーリ。報告が済んだのなら、部屋に戻って明日の準備をしなさい」
「はい。ですがその前に……このお茶の葉ですが、どちらに持って行けばよろしいのでしょうか?」
とりあえず報告すべき事は全て話し終えたので、このお茶の葉をどうするべきか尋ねたところ、アルザギール様はあっさりとお答えになった。
「それはあなたが貰ったものですから、あなたに差し上げます」
「え? で、ですが……これは、ルドベキア様が、アルザギール様にと……」
「私はお茶よりも血が好きなのです。ですから、それは差し上げます」
「……畏まりました。それでは、有り難く頂戴いたします」
穏やかな笑みだが、アルザギール様はばっさりといらないとおっしゃられた。とはいえ、アルザギール様は血を好む吸血鬼なのだから、当然といえば当然か。
僕は仕方無くそれを持ったまま、宿舎にある自分の部屋に戻ろうとした……のだが、あのいけすかない女からの送り物など飲む気にはなれないので、宿舎で休んでいたフォエニカル隊長に差し上げる事にした。
「商人の小娘のところに行っていたと聞いてはいたが……まさか土産を持って帰って来るとはな。お前は本当に良いヤツだよ、ユーリ。……んで、これは何だ?」
宿舎の共同の居間で一人、床に胡座を掻いて、刺突剣を磨いていた隊長が、怪訝そうにこちらを向いた。
「お茶の葉です。最高級の物だそうです。ですが、アルザギール様はお受け取りにならず、僕もお茶を飲まないので……いつも大変お世話になっているお礼として、これはフォエニカル隊長に差し上げます」
色々と理由を並べたが、本当はあの女からの貰い物を飲みたく無いだけだ。けど、本音と建前で、わざわざ本当の事を言う必要は無い。
「最高級のお茶の葉ね、どれどれ……って、おい! これルピナシウス商会のお茶っ葉じゃないか! 本物の最高級品だぞ!?」
「へぇー、そうなんですか」
本当に最高級品だったのか。流石はお嬢様だ。ちょっと感心した。
「そうなんですか、って……あのなぁ、このルピナシウス商会ってのは、アルザギール様の同胞である、十二人の吸血鬼の一人、ラーセイタ様が直々に運営してるんだぞ?」
「誰ですか? それ?」
僕はアルザギール様、ただお一人の事しか知らない。しかし、それで充分だと思っている。他のものなどどうでもいい。アルザギール様がいれば、僕はそれでいいのだから。
「お前、本当にアルザギール様がいればそれでいいんだな……」
こちらの心中を察したのか、感心混じりのため息を、隊長は吐いた。
「はい」
僕は頷いた。嘘偽りなど無い。心のままに。
「そうかい……わかった。それじゃあこれはありがく頂戴して、私一人で……あ、いや、後で部下にも飲ましてやるとするかね」
「是非そうしてください」
アルザギール様から頂くお菓子などを、大抵は部下に分け与えている隊長が一人で飲もうとするとは……。
恐るべき最高級品である。そして、それを躊躇なく手放したアルザギール様も、流石である。などと、アルザギール様の圧倒的貴族力に感動したところで、思い出した。
「あ、そう言えば……隊長にお聞きしたい事があるのですが……」
「ん? なんだ?」
剣を鞘に納め、目を輝かせてお茶の入った紙袋を眺めているところ申し訳ないが、隊長には一つ聞いておきたい事があった。
「フォエニカル隊長は、アギレウスをどう思いますか? 彼は、強いと思いますか?」
「アギレウス? ……あー、あの竜人の戦奴か」
「はい」
「あれねー……」
隊長は、少し考えるように腕組みをした。
「率直な意見を教えてください」
実際に剣を交えたものの、あれはお互いに本気じゃなかった。それでもアギレウスの力の一端を知る事は出来た。が、念には念を入れて、僕よりも遥かに戦闘経験が豊富な隊長の意見を聞いておきたい。
「そうさね……率直に言うと、あれは、かなり強い」
「かなり、ですか……具体的には、どういった強さだと思いますか?」
「力比べならあたしよりも強いな、確実に。だってほら、見てみ? 私のこのか細い腕。あんなごついヤツ
と剣で打ち合ったら、そりゃあ簡単に打ち負けて斬られるさ」
冗談めかして隊長は二の腕をこちらに向けたが、確かに、細い。
引き締まっていると言えばそうなのだが、アギレウスや、そこいらの改造された戦奴みたいに、筋骨隆々としているわけではない。
無論、それは僕にも言える事だ。改造吸血鬼としての腕力は黒耳長である隊長よりもかなり上だが、竜人程ではない。
それは実際、剣で押し合って確認済みである。
「確かに、力比べでは僕も適いそうにないですね」
「だろ? ……けど、だったらどうすればいいかは、わかってるよなぁ?」
隊長は、ニコリと笑みを、少しばかり悪そうな笑みを、浮かべた。
「はい。勿論です。闘いは、ただの力比べではありませんから」
隊長がその笑みで何を伝えたいのか、彼女の教えを受けた僕はよく理解している。
「その通り。闘いは力比べじゃない。この半年の訓練でお前に教えたよな? 勝つ為に何でもするのが闘いだ、って」
隊長は、何でも、という部分を強調した。
「はい。そう教わりました」
「良い返事だ。しかし勿論、あたしの教えが完全に正しいってわけじゃあないぞ。……まあ、何でもありという考えを押し通して生き抜いて来たのは、事実だがな」
今はこのお屋敷の警備隊長を務めているが、隊長は元々傭兵だったそうだ。傭兵の仕事は、未だ森に生息している巨獣、獣や竜を狩る事や、貴族の護衛、雇った者に敵対する勢力の殲滅、所謂暗殺など、様々らしい。
そんな様々な仕事をこなして、殺るか殺られるかの世界で生き残って来た隊長だからこそ、言葉に重みがある。
「ユーリ、お前は改造の最中に、恐らく誰も経験した事の無い痛みを受け、そしてそれに耐えた」
「……はい」
僕は、ルドベキアに言わせると、異常な改造を受けたらしい。
お陰で痛みには慣れている。どんな痛みを受けても、耐えられる自信がある。
だから必然的に、痛みを利用して闘う方法を学んだ。
痛みを知っている。という事は、つまり、どこを攻撃すれば相手が痛がるかを知っている、という事でもある。
「だからこそお前は、誰もが耐えられない、激しい痛みを、敵に与える事が出来る」
ここが僕の元いた世界なら、この台詞の逆の言葉を言われただろう。
痛みを知っている者は、痛みを行使してはいけない。とか、痛みを与えた者はそれを忘れているが、受けた方は覚えているのだから、人には優しく接しなさい。とか、そういう綺麗な言葉をかけられたに違いない。
しかし、ここは魔界だ。
社会的な秩序が構築されている人間の世界とはまるで違い、何もしない弱者は強者から蹂躙される。
だから弱者は、何か、何でもいいから、自分を守る為の武器を持たなければならない。
僕にとってそれは、痛みだ。
痛みを知っているからこそ、相手にその痛みを与え、武器として用いて、強者を打倒しなければ、生き残れない。
「ははっ……」
乾いた笑いが、不意に口から漏れた。
隊長は僕の反応に眉を顰めた。
「何故ここで笑う? あたし今すげー良い事言ったんだが……流石です! 隊長はやっぱり一流ですね! ぐらい言ってくれるもんだと期待してたんだがなぁ?」
「それは、失礼しました。一流の戦士である隊長の言葉がすんなりと心に入って来たので、僕もこっちの人間になってしまったのだなぁ、と感慨深く思って、それでつい笑ってしまったのです」
「なるほど。なら笑ったのは許してやろう」
「ありがとうございます。フォエニカル隊長」
他の人だと、無礼な! とか言って斬り掛かってきそうなものだが、隊長は器が広い。快く僕の失態を許してくれた。
「しかしな、ユーリ、一つ訂正するところがある」
「何でしょうか?」
訂正?
何か失言があっただろうか? と、自分の台詞を思い返す前に、隊長は言った。
「こっちの人間と言ったが……お前はもう人間じゃない。吸血鬼だ」
「……ああ……そうでした。そうですね。ついつい、間違えてしまいした」
言われて初めて気付き、少しだけ驚いた。
吸血鬼にされて半年程しか経っていないとは言え、僕はまだ自分の事を人間だと思っていたらしい。
「ま、細かいことだけど、自分が何者なのかはちゃんと認識しておけ。お前は吸血鬼で、戦奴だ。人間じゃない。そんな脆弱な生き物じゃないんだよ」
「はい、肝に命じておきます」
もう僕は人間ではない。
自分が人間だと思うと闘い方が制限される。僕は闘う為にここにいるのだから、人間であると思い続けるメリットは、微塵も無い。
「わかればよろしい。さぁて……それじゃあ、あたしはそろそろ部下の所に行くとしよう。明日は頑張れよ、ユーリ」
「はい。勝ちます」
「良い返事だ」
フォエニカル隊長は僕の返答に満足したのか、ニカっと爽やかに笑った。そして、後ろ手にこちらに手を振って、去って行った。
その後ろ姿を見届けて、僕は宿舎内の自室へと入り、古びたベッドに体を投げ出した。
「……ふぅ」
この部屋には、壁に埋まっているクローゼットとベッド以外には何も無い。
あまりに突然、魔女によってこちらに連れてこられたので、持ち物なんて何も無かったし、ここに住む事になった時も、寝る場所と服以外は何もいらないと言った。
生活するのに必要な物は大体宿舎にあるし、食事は、敵を殺しす以外では、宿舎の食堂でも出てくるので、問題ない。
僕に必要なのは、アルザギール様だけだ。
あの御方が僕を助けてくれたのだから、あの御方に生涯を捧げ、奉仕するのは、至極当然の事だ。
そこに不自然な点は、一つもない。
「全ては仕組まれた事だった、か……」
木造の傷んだ天井を見上げていると、ふと、ルドベキアのいけすかない顔とくだらない台詞が頭を過った。
ルドベキアはああ言ったが、信用に値しない言葉だ。
あの痛みと恐怖に苛まれた日々の中に差し込んだ唯一の光が、アルザギール様であった。
アルザギール様は間違いなく、あの時、誠心誠意僕に尽くしてくれた。それは、今も僕の事を気遣ってくれている事からも明らかだ。
それに、あの女はアルザギール様があの改造を主導したと言ったが、だとしたら、何故僕なんだ? という疑問がある。
僕は普通の高校生だった。
何の変哲も無い、どこにでもいる人間の一人だった。
どうせ攫って改造するのなら、こんな僕なんかじゃなくて、もっと強そうな人にするはずだ。戦奴を造るのなら、そっちの方が効率が良いに決まっている。
……だから、あれは偶然だ。
偶然攫われ、改造され、そして偶然アルザギール様と出会ったのだ。
「アルザギール様……」
偶然に感謝しつつ、僕は眼を閉じて、アルザギール様のお美しいお顔を思い浮かべた。
改造に記憶力が上がる効果もあったのかどうかわからないが、あの御方の顔はいつでも鮮明に思い浮かべる事が出来る。
月よりも怜悧な美しさの金髪。素敵な紅い瞳。長く整った睫毛。愛らしい唇。すっきりとした鼻筋。小ぶりな耳。
一つ一つを丁寧に想像していたところ、アルザギール様は微笑んだ。
「アルザギール様……」
やはり、お美しい。
本人程ではないが、僕の想像も、中々良い線いっていると思う。
「アルザギール様」
呟くと、アルザギール様は指を舐められている時の、くすぐったそうな微笑みを見せてくれた。
「アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様、アルザギール様……」
僕は何度もアルザギール様の麗しきお名前を口にした。その度にアルザギール様は表情をころころと変えていく。
「アルザギール様……」
お名前を口にする度に、上がる血液の温度とは逆に、心が落ち着いてくのを感じる。
僕は明日の決勝に備え、幾度となくアルザギール様のお名前を唱え、集中力を高め、己を研ぎ澄ました。




