5−2、ルドベキアの屋敷にて。
車が止まると同時に、僕は眼を開いた。
「ルドベキア様のお屋敷に到着しました」
御者を務める白耳長の男が、扉を開いて、降りるよう促した。
「ここが……」
車から降りた僕の目の前にあったのは、中々に大きな屋敷だった。
白耳長は吸血鬼よりも地位が低いのだが、そんな事はないのでは? 思ってしまう程の大きさだ。
どうやらルドベキアは、僕が想像していたよりもずっと位の高い、上流階級の白耳長の娘のようだ。
「案内の者が参りますので、しばしお待ちください」
屋敷の大きさに呆気に取られる僕にそう言い置いて、男は爬虫類型のそれに鞭を打ち、車と共に去って行った。
「お待ちください、か」
商人に仕える御者なのに、僕にあんな丁寧な言葉遣いで話しかけるのはおかしい……と少しばかり御者の態度が気になったが……これはルドベキアが、そういう風に教育しているからだろう。
先日、警護の代わりにアギレウスを連れて来ていた事からも、ルドベキアの奴隷を自由にするという方針の真剣さが伺える。
……まあ、それでも僕の結論は変わらないが。
そんな事を思いつつ、屋敷の玄関前で立ち尽くしていたところ、横手から声を掛けられた。
「着いたか。ようこそルドベキア様のお屋敷へ。歓迎しよう、ユーリ」
「……この度はわざわざお呼びいただき、その上、送迎まで手配していただき、ありがとうございます。アギレウス」
出てきたのは、アギレウスだった。
屋敷の敷地内なのに、鎧を着て剣を携えている。
屋敷の警備……いや、ルドベキアの護衛か?
出迎えにしては仰々しい出で立ちを訝しんでいたところ、アギレウスは屋敷の中には入ろうとせず、その裏手へと歩き出した。
「付いて来い。ルドベキア様の下へ案内しよう」
「はい……?」
てっきり屋敷の中に入れてくれるものだとばかり思っていたが……どうもルドベキアは外にいるようなので、僕はアギレウスの後に続いて屋敷の外周に沿って移動した。
「……」
「……」
少々歩いたが、道中は、お互いに無言だった。
アギレウスが口を開いたのは、最初に出会った時と、到着した時だけだった。
「ここだ」
「ここは……」
彼が僕を誘った先は、庭園だった。ルドベキアは、そこにいた。今日も、赤いドレスを着ていた。
彼女は庭園の中で、白く小さな、こじんまりとしたテーブルに腰を掛け、優雅にお茶を飲んでいた。
周囲には誰もいない。僕とルドベキアとアギレウスだけだ。使用人や警備員の気配も無い。
不用心だな。と思ったが、それだけアギレウスを信頼しているとも言える。
自分の屋敷内だし、護衛は大剣を背負っているし、僕一人ならばそれで警戒は充分という事なのか。
「どう? この庭、アルザギール様のあのお庭と、どっちが綺麗?」
主人の背後に控えたアギレウスに促され、テーブルの傍に近付くと、彼女はカップをテーブルに置いて、砕けた口調で質問してきた。
「……?」
唐突な質問に困惑したが、そんなものは答えるまでもなく、アルザギール様のお庭に決まっている。
この庭もよく手入れされているようだが、アルザギール様の作り上げしお庭とは全く違い、センスの貧相さが現れている。
……などと言うわけにもいかないので、何と言うべきか言葉に詰まっていたが、僕が答えるより先に彼女は口を開いた。
「あ、そっか。あなたはアルザギール様に絶対の忠誠を誓っているみたいだから、聞いても無駄よね」
一人で喋り、一人で笑う。
カップをテーブルに置いたり、口に手を当てたり、白銀の髪を搔き上げる仕草は上品だが、砕けた言葉遣いには、少々面食らった。
先日とは打って変わって、嫌に馴れ馴れしい態度だ。
たぶん、アルザギール様とお話ししていた時の態度は他所行きで、こちらが本物の彼女なのだろうけど。
アルザギール様は常に完璧な淑女として振る舞っておられるのに……富と権力はあるようだが、所詮こいつは成り上がり商人の放蕩娘で、真の貴族ではないようだ。
「ねぇ、アギレウス、あなたはどう思う?」
「無論、ルドベキア様のお庭です」
「あはっ、ありがと」
「……」
ウザい。
なんてウザいやり取りだ。
二人の庭自慢に、僕はこちらの世界で初めてウザいという感情を抱いた。
常日頃アルザギール様という崇高で完成されたお方の傍にいたせいか、この女とその戦奴はとんでもなく下品に感じられる。
こんなつまらないやつらのいるところからは、一刻も速く帰るに限る。
「あの、僕はお茶を受け取り来たのですが……」
「あー、うん。それはね。後でちゃんと渡すから。後でね」
ルドベキアはテーブルに頬杖を付いてニコリと笑った。
「……は?」
これは、あれか?
魔界のいじめか?
あなたの主人の庭は凄いけど、私の庭はもっと凄いのよ! と、アルザギール様ご本人はとてもじゃないが自慢出来ないから、その奴隷に自慢して鬱憤を晴らす。という、嫌がらせの一種なのか?
だとしたら、面倒な事になってしまった。
アルザギール様の下にいられないだけでもうんざりしているというのに、それに追い討ちを掛けるかの如くどうでもいい庭の自慢なんかをされると、流石の僕でも疲れる。
「そう言えば、あなたとアルザギール様は、どういう関係なの?」
自慢の次は、内情の調査か?
この下卑た目つきは、高校にいた頃にも見た覚えがある。これは恋愛事を探る時の、女子特有の好奇の目つきだ。
けれど残念ながら、僕の答えは彼女の期待に沿うものではない。
「どうもこうも、主人と戦奴というだけの関係に過ぎません」
「えー? ほんとに? それだけ?」
「本当です。それだけです」
「アルザギール様はあなたを大切にしているようだし、あなたもアルザギール様を強く想っているように見えたんだけど……それなのに、本当に何も無いの?」
「何もないです」
本当に、何も無い。
僕はアルザギール様に忠誠を誓っている身であり、恋愛感情など、恐れ多くて抱けるはずも無い。
もしかすると、あの暗い部屋に拘束されていた時は、アルザギール様に恋愛感情を抱いていたのかもしれないが……その時の気持ちを思い出す必要など、もはや無い。
僕はアルザギール様の奴隷だ。戦奴だ。
あのお方に仕える者。
それでいい。その関係でいい。そうでなければならないのだ。
「ふーん……そう。そっか」
ルドベキアはつまらなそうに呟くと、椅子から腰を浮かせ、背後に控えているアギレウスの隣へと歩み寄った。
そしてアギレウスの顔を両手で掴むと、背伸びをして、彼の鋭角な唇に自らの唇を軽く重ねた。
「私とアギレウスはね、こういう関係なの。どう? 羨ましい?」
「は、はあ……?」
想定外の行為を見せつけられ、一瞬言葉を失ってしまった。
今のはキスをした……のか?
商人の娘と戦奴が、恋仲になっている?
と言うか、白耳長と竜人の間に、種族を超えた恋が成立している?
いや、それよりも……何故それを僕に見せつけた?
頭の中に浮かんで来る、多くの疑問。
お茶を受け取りに来たはずなのに、いきなり眼の前でキスを見せつけられた……なんて、予想外の展開過ぎて理解が追い付かない。
混乱する僕に向かって、ルドベキアは悪戯っぽく微笑んだ。
「アギレウスはね、私が十歳の頃に、魔女フィディックにお願いして造って貰った戦奴よ。竜人は白耳長の何倍も早く成長するから、私が大きくなる頃には丁度いい大きさになるかなって思ってね、彼を造ったの。……あ、ちなみにね、うちは竜種を扱う商人なの。知ってた?」
「……いえ」
「だと思った」
聞いた覚えがあるような気がしないでもなかったが……曖昧なので、知らないと答える事にした。
まあ、はっきり言うと、ルドベキアの家柄などに興味はない。けど、そう言えば、さっき車を引いていたのは爬虫類的な生き物だった。あれこそ商品である竜種の一種なのだろう。
「まあ、そういうわけでね、自分用の強い奴隷が欲しいって思ったのが、そもそも発端なの」
ルドベキアは喋りながら、アギレウスの喉元を撫でた。
アギレウスは、くすぐったがっているのか何なのかわからないけど、低い唸り声を鋭い牙の隙間から漏らした。
その様子を見ていて気付いたが、アギレウスはルドベキアの腰に手を回している。
荒々しい赤銅色の手が、指が、彼女の赤いドレスに触れ、皺を作っている。
その様子から、ルドベキアが自分のドレスの色を赤にしているのは、アギレウスとのペアルックのつもりなのかもしれない。と思った。
「始まりは、そんな単純な思いつきだったの。……でもね、成長していくアギレウスを見てると、私……何だか胸が苦しくなっちゃって……その時は、この気持ちが何なのかはわからなかったわ。でも、訓練中にアギレウスが怪我したのを見て、思わず泣いちゃって……その時になってようやく私は、ああ、これが恋なんだ……って自分の気持ちに気付いたの。ああ、私は自分の奴隷に恋しちゃってるんだ、ってね」
「……」
「笑っちゃうでしょ? 白耳長の商人の娘であるこの私が、人工的に造り出された戦奴に、恋をするなんて……変よね」
ルドベキアは愛おしそうにアギレウスの顎を撫でた。
アギレウスはまた変な唸り声を出した。どうやら気持ちが良いらしい。
ルドベキアを見る彼の目は、彼女と同じで、愛おしさに満ちた目だった。身分も種族も違うのに、お互いがお互いを想い合っているのがわかる視線の絡ませ方だった。
二人は、相思相愛、という事らしい。
それを理解した瞬間、やっとこれまでの話しに一本の筋が通った。
「まさかとは思いますが、ルドベキア様がアギレウスに身分をお与えになるのは……」
「アギレウスと結婚する為よ」
あっさりと、ルドベキアは言った。
「奴隷の解放は建前で、本来の目的は……結婚、という事なのですか?」
「建前というわけではないの。奴隷を解放したいの本当よ。……でも、本来の目的は、そうね。その通り。アギレウスとの結婚よ」
そんなのは勝手にすればいいじゃないか……と、僕は思った。が、それが顔に出ていたらしい。ルドベキアは聞いてもいないのに説明を始めた。
「結婚自体は簡単よ。でも私、これでも結構大きな商会の娘だから、立場ってものがあるの。世間体、と言ってもいいわ。あいつの結婚相手、元戦奴なのよ。みたいに、後ろ指を差されるのはちょっと困るの。あ、もちろん、私は別にいいんだけど……商会としては、ね」
「……」
「だからね、私だけが後ろ指を差されなくて済むように、全ての奴隷を解放するの。そして、色々と根回しして、それこそ、身分違いの恋とかを主題にした戯曲を流行らせたりして……そうね、数年後くらいに、元奴隷と上流階級の者が結婚するのは普通にある事だ、ってなった時に、私達は晴れて契りを結ぶの。こうすれば、誰も傷つかないで済むでしょう? 奴隷は解放されるし、私たちは幸せになるし」
恋する乙女そのもののルドベキアは、うっとりとした表情で己の目的を滔々と語った。
何を想像しているのかはわからないが、濡れた眼だ。余程楽しい、理想的な未来を想像していると見える。
それにしても、元奴隷との楽しい未来、か……。
それは、一体どんな未来なのだろうか?
ちょっと想像つかないので、頑張って思い浮かべようとしたところ、今まで黙っていたアギレウスが口を開いた。
「ユーリ。先日、君はルドベキア様の申し出を断ったが……今一度お願いする。どうか、私とルドベキア様と、奴隷全体の未来の為に、明日の試合を棄権してはくれないだろうか?」
アギレウスは主人の意志を継いで、再び僕に棄権するよう訴えた。
「棄権ですか……」
確かに僕が棄権すれば、アギレウスとルドベキアは簡単に幸せを掴めるかもしれないし、それに他の奴隷達も今より良い暮らしが……すぐにとは言わないが、いずれ出来るようになるかもしれない。
でも……。
「……この大会は、年に数回あると聞いています。けれど、仮にアギレウスが優勝してしまえば、奴隷制度が無くなるかもしれません。そうしたら、大会は開かれなくなってしまう。それでは、僕が困ります。だから、僕は棄権などしません」
一方的に棄権しろと言っているが、そんな条件は飲めない。
僕には僕の理由がある。
他人の理由など、知った事ではない。
「そう言うと思ったわ。……ねぇ、ユーリ。一つ聞いていいかしら?」
「……僕が答えられる範囲であれば」
「そこまでして、あなたは一体何を欲しがっているの? 叶えたい願いとは、何なの?」
頑なに拒否する僕に、興味が沸いたのか、ルドベキアは前回と同じ質問をしてきた。僕はそれに、前回と同じ回答をした。
「以前アルザギール様の屋敷でもお答えしましたが、僕が欲しているもの、叶えたい願いについて、あなたに話す必要はありません」
「必要ない、ね……」
「はい」
「もしかして、あなたの願いって、アルザギール様に関係することじゃない? ねぇ、そうでしょ? アルザギール様に愛して欲しい、とか? そういうのでしょう?」
「……」
「沈黙は肯定? だとしたら、案外わかり易い性格なのね、あなた」
「……お好きなように、解釈してください」
話しを打ち切った僕の反応を見て、ルドベキアは口元に手を当て、クスクスと低い声で笑った。
こちらを小馬鹿にしたような笑みに感じられる。
当たりね。とでも思っているのだろうか?
だとしたら、本当に申し訳ない。
残念ながら、僕の欲しいものは、今、お前が考えているようなものじゃない。
僕が欲しているのは、叶えようとしている願いは、お前などには考えもつかないものだ。
だと言うのに、この浅はかな女は、僕の欲しているものを愛だと決めつけたらしい。
「もし愛して欲しいのなら、あなたがきちんとした身分を得て、彼女と対等になればいいだけじゃない。別に、無理して自分で身分を勝ち取る必要は無いと思うわ。ねぇ? あなたもそう思うでしょ? アギレウス」
「はい。ルドベキア様。……ユーリよ、今、ルドベキア様がおっしゃられた通り、身分を得れば、君も彼女と――」
「訂正しろ」
「――っ!?」
突然の僕の態度の豹変に驚いたのか、アギレウスはルドベキアを庇うように即座に一歩前に踏み出し、大剣を構え――ようとした。
しかし、彼女を庇う動きをしたせいで僕への反応が一瞬遅れていた。
僕の踏み込みと、刀を喉に充てがう動きの方が、彼が大剣を構えるよりも、僅かに速かった。
白い手袋を突き破って掌から伸びている血の刀は、彼の赤い鱗に覆われた、喉元の皮一枚の手前でピタリと停止している。
後少しだけ刀を伸ばせば、切っ先は喉に刺さる……はずなのだが、そういう態勢なのにも関わらず、アギレウスは落ち着いている。
眼の動き、鼓動音、脈拍、発汗。どれも異常は無い。全く取り乱したりせず、冷静に僕の次の動きに気を配っている。
その刀を動かせば、それが始まりの合図だと、彼の瞳が告げている。
命を握られているに等しいこの状況下で、何故余裕があるのか。
僕が刺さないとでも思っているのか?
少し気になったが、僕としてもここで決勝戦を始めようとしているわけではない。
「訂正しろ。彼女、などとあのお方を気安く呼ぶな。アルザギール様、だ」
「……何だと?」
「アルザギール様とお呼びしろ。卑しい戦奴の分際で、僕の大切な主人の名前を呼ばなかった。訂正しろ。あの御方と同じ吸血鬼ならばまだしも、戦奴風情がアルザギール様を、彼女などと、慣れ慣れしく呼ぶのは許さない。速やかに訂正しろ」
アギレウスは僕が怒りを露わにした理由に驚いたようだが、少し間を置いて謝罪した。
「……すまない。我が主人以外の名を呼ぶことなど、滅多にないのでな。申し訳ない。……君も、アルザギール様と結ばれるかもしれない、と言おうとしただけだ」
「そうですか。どうぞ、続けてください」
僕は刀を体内に戻して、後ろに下がった。
アギレウスは、話しを続けた。
「身分を得れば、アルザギール様と対等とまではいかなくとも、一人の男として見て貰える。君が主人であるアルザギール様を想い、慕い、愛しているのならば、彼女もそれに応えてくれるかもしれない」
「アルザギール様は、既に僕の気持ちに応えてくださっている」
「アルザギール様は、あなたを戦奴にしているのに?」
納得いかないと疑問の声を上げたのはルドベキアだ。
さっきからうるさい女だ。上流階級の育ちとはいえ、調子に乗り過ぎている。
僕は速く話しを切り上げようと、即答した。
「先日も言いましたが、戦奴になったのは、僕がそう望んだからです」
「本当に? あなた自身が? 自分で戦奴になる事を望んだって言うの?」
「はい。アルザギール様の戦奴に成る事を、僕は望んだのです。だからこれは、僕の望んだ身分です」
「ふーん……そう……」
頷いたが、ルドベキアは納得していない。
僕としては、別に納得してくれる必要は無いと思っているのだが、この女はそれが気に喰わないと見える。
だけども、当たり前だが、人は皆それぞれ違っている。
世間知らずのお嬢様は知らないのだろうが、世の中はそういうものだ。
普通の人間社会で生きていた僕は、世の中には自分の意にそぐわぬ人ばかりだと言う事を知っている。
そういう事をわかっていない相手とこれ以上話すのは、時間の無駄だ。こんな平行線の話しを続けるぐらいなら、自分の部屋でアルザギール様の事を想いながら瞑想していた方が遥かに有意義だ。
そう思って、お茶は結構ですからもう帰ります、と言おうとしたところ、ルドベキアは普通なら聞こえないぐらいに小さな声で、
「本当に、玩具なのね」
と言った。
「玩具?」
「……ごめんなさい。何でも無いわよ」
ルドベキアは、悲しそうな表情をしていた。
如何にも、こんな時はこの表情をしたらいい。といった風な、作り物の表情にしか見えなかった。
「どういう事ですか?」
本来なら、これは聞き流すべき言葉だ。
だけども、まるで僕の主人を低く見ているかのようなその表情に、虫酸が奔り、怒りが沸き、聞き返さずにはいられなかった。
「独り言よ。気にしないで」
「アルザギール様を侮辱しているのですか?」
「侮辱だなんてとんでもない! 私は、そんな……」
「何ですか?」
「私が言いたいのは……あのお方への侮辱ではなくて……そんな事じゃなくて……」
ルドベキアは言い淀んだが、結局、言った。
「……この際だから、言わせて貰うわ。ユーリ、あなたの誘拐も、改造も、全部……全部、あのお方が仕組んだ事なのよ」
「仕組んだ事、ですか?」
「そうよ。アルザギール様が仕組んだ事なの」
「……」
思わず、言葉を失った。
一体全体、この女はどういうつもりでこんな妄言を吐いたのか?
理解に苦しむ。
僕に対してつまらない言葉を吐きかけるのは理解出来るが、アルザギール様に対して、今のような侮辱の言葉を吐くとは……。
侮辱……そう。侮辱だ。僕の主人であるアルザギール様に、今、汚物のごとく汚らしい疑惑がかけられている。
これは……許せる事じゃない。
「不敬だ」
「え?」
我が主人、アルザギール様への侮辱は、万死に価する。
「死ね」
呆然とするルドベキアへと向けて、僕は地面を蹴った――が、瞬間、目の前で銀光が煌めいた。
「ふんっ!」
大剣による、横薙ぎの一撃。
こちらの動きを読んでいたのか、踏み込んだ瞬間に合わせて繰り出された剣撃が、眼前に迫っていた。
「――ちぃっ!」
体が、反射で反応した。
両掌から血の刀を生み出し、瞬時に普段の刀よりも短く形成、限界まで硬化させて、迫り来る大剣を、受け、その場で、押し止めた。
「ぐ、うっ!」
凄まじい衝撃が、両腕に奔った。
体から直接刀を出していなかったら、腕の痺れで刀を取り落としていたかもしれない。
「むっ!?」
だが、アギレウスにとってこれは予想外な結果だったらしい。
今ので僕を殺すつもりだったのか。それとも、大きく後方へと弾き飛ばすつもりだったのか……残念ながら、結果はそのどちらでも無かった。
彼はぎょろりとした瞳を大きく見開いて、大剣を受け止めた僕と、血の刀を睨んだ。
そして、言った。
「我が主人の失言については謝罪する。だが、我が主人に剣を向けるのならば、容赦はせんぞ。ユーリ」
「僕は主人の名誉を守る為に動いただけです。それを阻むというのならば、押し通ります。アギレウス」
ギリギリと、硬質な物体同士が触れ合う、耳障りな音がする。
アギレウスも、僕も、互いに手に持つ武器に込めた力を抜いていない。
所謂、鍔迫り合い。という状態か。これは。
「……斬ったと思ったのだがな。予想より良い反応だ。それに、意外に力が強いのだな、貴様は」
「あなたも、その大柄な見た目に反して素早いですね」
アギレウスは僕の反応速度と力に驚いているようだが、それは僕も同じだ。僕も彼のスピードとパワーに、内心舌を巻いている。
剣筋に全くブレは無く、まっすぐとしたものだった。
速度も予想以上で、力が十二分に乗っていた。今も、少しでも力を抜けば押し斬られる。
きちんとした訓練を積んでいるというのは嘘ではない。
間違いなく、強敵だ。
「ぬ、うっ!」
アギレウスが、半歩、前に出た。
「くっ……ぐぅっ!」
その分だけ、僕の足は土を抉って後退し、上体もやや仰け反る形になった。
やはり、パワー勝負では分が悪い。
……だけど、まあ、これは想定内の範囲だ。
見た目からして、力と力のぶつかり合いでは不利な事は想像がついていた。
なので、力で勝負をするのはやめだ。
「……ふぅ」
浅く、呼気を吐いた。
気持ちを切り替える為だ。
ここからは勝負じゃなくて、殺し合いをする。
「むっ!」
アギレウスはこちらの雰囲気の変化に気付いたらしく、自らも闘気を膨れ上がらせた……が、不意に、彼の肉体に満ちていた緊張感が急速に消失していった。
「何もここで決着をつけなくてもいいんじゃない? 決勝戦は明日よ、お二人さん」
彼が緊張を解いた原因は、ルドベキアだった。
彼女はアギレウスの背を撫で、僕達に剣を収めるよう告げた。
「……」
アギレウスは大剣を引き、数歩後ろに下がった。
「……」
僕も同じく、刀を掌に戻して、後方に下がり、距離を取った。
「ごめんなさい、ユーリ。……言い訳にしか聞こえないでしょうけど、アルザギール様を悪く言ったつもりはないのよ?」
「ではどういうつもりで言ったのですか?」
僕はルドベキアを睨みつけた。彼女は意外にも静かに反応した。
「ただ、あなたに事実を伝えただけ。他意はないわ」
「……」
他意はない。その言葉は真実のようなので、僕は黙って彼女の話しに耳を傾けた。
「……噂によると、あのお方は、自分の思い通りに出来る奴隷を……言うなれば、何をしてもいい、何でも好きに出来る玩具を、欲しがっていたそうよ。それで、奴隷を吸血鬼にする為の改造を、何度も行っていたそうだけれど……獣人では、上手くいかなかったみたいなの」
「それで、人間の僕が選ばれた。と?」
考えながらも、気になったので、尋ねてみた。
「あなたと言うか、人間ね。人間を使う事にして、魔女リベットの力を借りて、連れてきたの。こちらの世界に」
「……」
「それから、あのお方は、魔女リベットの屋敷で、客人として数週間を過ごした。あなたが改造されていたのは、その時でしょうね」
「……」
「改造されている間、何かおかしいと感じた事はなかった?」
「ありません」
「本当に? はっきり言って、あなたに施された改造は異常よ。これは確かな筋から得た情報だけど、あなたは人間から吸血鬼に変えられただけじゃなくて、爪を剥がれ、眼を抉られ、全身の骨を折られたんでしょう?」
「いえ、それだけではなく、剣で斬られたりもしましたし、歯も抜かれましたし、獣人に内臓を一つずつ食べられたり、燃やされたり、電気を流されたり、水責めにされたり、毒を体内に入れられたり……一通りの拷問じみた改造を施されました」
調査漏れがあったのか、僕が他にされた事を知らなかったらしく、ルドベキアは愕然とした顔になった。
「そ、そんな……そんなのは、やっぱり、異常よ。普通、改造と言えば、別の物同士をくっつける程度だし……あなたの受けたはそれは、拷問じみた、じゃなくて、拷問そのものよ。……ユーリ、あなたは、そんな酷い事をされて、され続けて、何とも思わなかったの?」
「あの時は色々と思う事もありましたが……今となっては、あれは吸血鬼の能力を限界まで引き上げる為に必要な行為だったと思います」
「必要な行為って……そんな酷い事をされたのに、あなたは……あなたは、彼女に、忠誠を誓うの?」
僕を見詰めるルドベキアの銀の瞳には、少しの曇りも無い。
間違いなく、彼女は嘘を言っていない。
真実味を帯びた言葉だった。……いや、彼女の信じる真実で覆われた言葉だった。と言うべきか。
過酷な境遇にあった奴隷への憐憫の眼差し。
この女は、あの誘拐と改造は、アルザギール様の主導の下で行われたものだと信じ込んでいる。
平民ならともかく、彼女のような上流階級の人間が根も葉もない噂を信じているとは思えないので、何か、確固たる証拠があるのだろうけれど……はっきり言って、僕にとってはどうでもいい事だ。
彼女が自らの信じたいものを信じているように、僕は僕の信じたい存在を、心の底から信じている。
「だからこそ、です」
「え……?」
「アルザギール様はあの時、誠心誠意、僕に尽くしてくれました。そして、僕を励まし続け、最後には約束通り、魔女の、あの部屋から出してくれました。助けてくれました。だからこそ僕は今、アルザギール様に忠誠を誓い、誠心誠意尽くしているのです」
僕ははっきりと、自分の忠誠心を宣言した。
「それに、何より、あのお方は……」
僕に、血を飲ませてくれた。
あの、高貴なる血を。
僕を、人間の世界で生きる者ではなく、この世界で生きる事の出来る、本当の僕にしてくれた。
「ユーリ?」
「……失礼したしました。何でも、ありません」
「何でも、ないのね……」
彼女はそうして、僕をたっぷり五秒は見詰めた。
「そう……そうなのね……あなたは、それでいいのね……」
「はい」
「……わかったわ。他でもない、アルザギール様の戦奴であるあなたがそこまで言うのなら、もう私は何も言わない」
これ以上は話しても無駄だ、と言わんばかりに、ルドベキアは短くため息を吐くと、テーブルの下から紙袋を取り出した。
「これは私の知人の商店で取り扱っている、最高級のお茶の葉よ。先日のお茶会のお礼に、差し上げるわ。これを持って帰って、アルザギール様に宜しくと伝えて頂戴ね」
「承知いたしました。それでは、失礼します」
僕は紙袋を受け取ると、頭を下げて、彼女とアギレウスに背を向けた。哀れみの視線を強く感じたが、振り向かなかった。
そして来た時と同じく、爬虫類的な生物が引く四輪の車に乗り、ルドベキアの屋敷を後にした。
帰り道では、車は奴隷を扱う店の前を通る事はなかった。




