終、光。
何も無いお庭の真ん中で立ち止まったアルザギール様に合わせて、僕も脚を止めた。
そして、何となく空を見上げた。
今、空には何も無い。
いつもあるはずの満月が、そこには無い。
雲も、一つも無い。
星も無い。
闇だ。
闇が、ある。
しかし完全なる闇ではない。
薄い闇だ。
黒ではない。
この世界を覆っていた被膜。
それが、取り払われたかのような。
どのような儀式があったのかは知らない。
アルザギール様が大魔女グレンにお願いしたのだろうが、気付けばいつもと違う空気を感じた。
僕はこの感じを知っている。
夜明け前の空気だ。
もうすぐ、日が昇る。
これは黒が薄いのではない。
光が差そうとしているのだ。
「もう少しすれば、日が昇ります」
「はい」
「吸血鬼は、日の光を浴びると灰となり、消滅します」
「はい」
「ユーリ、あなたは……この場から離れてもいいのですよ?」
「え……?」
「例えば、昼間は陽の当たらないところに隠れて、夜に行動するというような……それはそれで不便な生活でしょうけれど、まだ生きる事は出来ます」
「……」
「私の死に付き合わず、自らの生を生きて良いのです」
「アルザギール様……」
絞り出したかのような哀しみに濡れた声だった。
そのような事、僕が出来るとはアルザギール様は思っておられないに違いない。
それでも、僕に何とか生きて欲しいと思っての言葉だった。
「これまであなた私の為に、その血と肉の一欠片まで、全てを捧げてくれました」
「はい」
「もう、充分です」
もう私の為に生きる必要は無い。と、アルザギール様はそうおっしゃられたいらしい。
有り難いお言葉である。
死を無理強いしない。
それは優しい心だ。
しかし残酷でもある。
最愛の者から、最後の最後に、私は死ぬけれどあなたは生きてくださいと言われ、はいわかりました。僕は生きます。などと納得出来る者がいるだろうか?
もしかしたら、いるかもしれない。
僕はそうではない。
「いえ、僕はあなた様と共に生き、共に死にます」
「ユーリ……」
かつて暗い部屋から助けられた時に、僕はそう誓った。
僕はもう救われている。
美しい光で満たされている。
心が。既に。
「ユーリ。手を握ってくれませんか?」
「……いいのですか?」
「勿論です」
「……それでは。失礼致します」
ほんの一瞬、躊躇って。
花を摘むよりも優しく、手を取らせて頂いた。
アルザギール様の手は冷えている。
内に宿る血潮は熱いが、それを隠すように、ひんやりとしている。
気持ちが良い。
心が躍る。
あの時以来だろうか?
僕とアルザギール様とが触れ合っているのは。
あの、暗い部屋で折れた骨を触られた時……。
僕は怖かった。
この世界の暴力が。
アルザギール様が離れていく事が。
それが今は、こうして手を繋いでいる。
繋がせて頂いている。
まさかこのような、夢でも見た事がない日が来ようとは。
人生何が起こるかわからないものだなぁ。などと老成した気分になった。
少し、頬が緩んだ。
厳粛な気持ちでいなければならないのだが、アルザギール様と触れ合っている事があまりにも身に余る幸せ過ぎて、穏やかな心が顔に出てしまった。
「ユーリ、あなたは死ぬのが怖くないのですか?」
僕が笑ったのは死を前にしての不敵さではない。
そんな英雄みたいな性格じゃない。
ただただアルザギール様とこうしていられる事が幸福なだけであり、その僕の笑みを勘違いしておられるに決まっているのだが、それはそれとして問いにお答えする。
「わかりません。死んだ事がありませんので」
経験がない。
怖い事はもっといっぱいあった。
痛みとか。
アルザギール様が離れてしまう事とか。
今となっては過去の話しだ。
「ふふっ。そう言われると、そうですね。想像だけで怖れてしまうのは、おかしな話しですね」
アルザギール様は怖れていらっしゃるのだろうか?
そのような雰囲気は感じないが……。
「参考になるかどうかはわかりませんが……僕がいた世界では、人は死んでもまた生まれてくるという考え方がありました」
「死んでも生まれるとは、どういう意味ですか? 肉体を失った後、肉体を得て、同じ人間として再び現れるという事ですか?」
「いえ、同じ人間としてではないのですが……いや、前の人生の記憶を持っているという人もいるようですから、そういう場合もあると言えるのかもしれませんが……でも肉体は別で……」
なんと言えばいいのやら。
もたつく僕に、アルザギール様は笑顔を向けてくださった。
「ふふっ。あなたの世界の話しは興味深いものですが、もう少しわかりやすく説明してくれませんか?」
「申し訳ありません……わかりやすくとなると……何と言いますか……肉体が滅びてしまっても、魂は残るとでも言えばいいのでしょうか」
「魂が残るのであれば、あなたが先に述べたように、肉体は別でも記憶はそのまま残っているのですか?」
「いえ、記憶は忘れてしまうようです。極稀に、以前の記憶を持っている者もいるようですが、本当に極稀にです」
胡散臭いテレビ番組とか怪しい本でしか見たことがない。
一般的には無い。
それくらい極稀だ。
「では、何故また生まれてきたという事がわかるのですか? 以前の記憶が無いのであれば、それは別人ではないのですか?」
「……そう言われると、そうですね……」
しまった。
輪廻転生というか、死んでも大丈夫かもしれませんよ。と他愛も無い話しをしてアルザギール様のお心が少しでも安らかであればと思っていたのだが、墓穴を掘ってしまった。
何故前世の記憶が無いのに魂は輪廻していると言えるのか?
輪廻している人はいるというが、それは非常に少数であるらしい。少数であるという事は、むしろ輪廻し、転生する人が少ないという事になるのではないか?
「申し訳ありません。アルザギール様。勉強不足でした。あなた様に上手く説明する事が出来ません」
こんな事ならもっと色々とこういう方面の事を勉強しておくべきだった……。
僕は激しく後悔した。
が、そこは流石のアルザギール様であった。
「構いません。あなたが私を勇気づけようとしている事はわかりました。優しいですね。ユーリは」
「いえ、そんな事は……」
「素敵な考え方ですね」
有り難いお心遣いを受けてあまりの申し訳無さに頭を垂れる僕に、優しい言葉をお掛けになってくださった。
「肉体が滅び、記憶すら無くなっても、私の中の何かがまた新たな命となり生きていく……先へと進んでいく……素敵ですね。とても。希望があって……素敵……」
アルザギール様の瞳は、遥か遠くの、美しい未来を見ておられるように澄み渡っておられた。
新たなる命……。
もしそうなるとしたら、アルザギール様は一体何になられるのだろうか?
……。
……。
……駄目だ。想像もつかない。
ただ美しいだけのものになられるはずがない。
アルザギール様はアルザギール様になられるに違いない。
二度目の生を得ても、そうなる。間違いない。疑いようがない。
そういう確信がある。
なぜなら、アルザギール様はアルザギール様だからだ。
「ユーリ、あなたに死の運命を背負わせてしまった私がこのような事を言うのはおかしいのでしょうが……もし、次があるのなら……次もまた、あなたが傍にいてくれると嬉しいです」
「——」
耳を疑った。
指先に力が籠もってしまった。
アルザギール様は、今、今何とおっしゃられた?
「私は、人間であれば平穏に暮らせたであろうあなたを吸血鬼とし、自身の目的を達成する為の手駒としました。利用したのです。あなたを。あなたの全てを。……だから、その罪を償う為に、次の命はあなたの為に使いたいのです」
嬉しいとおっしゃられたのに。次の言葉は、僕の為に自分の命を使いたい——だって?
意味がわからなかった。
「最後にこのような告白をしてしまって、ごめんなさい。あなたが私を許せないというのであれば、どうぞ、日が昇る前にその手で私の血を吸い尽くしてください」
その手。
握っている、この手。
この状態からなら一瞬で血を吸える。
それは確かだ。
でも……わからない——いや、わかっていたのかもしれない。
何となく、薄々は気付いていたのかもしれない。
全てはアルザギール様の仕組んだ事である。という事に。
思い返せば、そう考えられるシーンが多々あった。
たぶん僕以外の皆はとっくに気付いていて、知らないのは僕だけだったのだろう。
僕も僕で、アルザギール様の為に滅私奉公するあまり、気付いていても心の中でそれを認めなかったのだろう。
けれど、だからこそ……。
「そのような事、僕には出来ません」
「ユーリ……」
「アルザギール様を殺すだなんて、僕には出来ません。何故なら、僕はアルザギール様を恨んでなどいないからです」
そんな感情は最初から無かった。
この世界に対する恨みはあった。
しかしアルザギール様に対して負の感情を抱いた事は無い。
例えそれが偽りだったとしても、僕の心は救われていた。
アルザギール様と出会った事で。
だから……。
「元の世界にいても、僕は何の変哲もなく、普通に生きていただけだと思います。それを幸せと言う人はいるでしょうが……僕は、こちらの世界であなた様と出会えて、本当に良かったと思っています。この世の何よりも大切に想える御方の為に、全力で生きる事が出来ました」
僕は生きた。本気で。
本気で生きたのだから、後悔なんてあるわけがない。
「これ以上に幸せな事があるでしょうか? いえ、あるはずがありません。……故に、次の命を得た時も、必ずやアルザギール様と共に生きる事を、ここに誓います」
共に生きる事を誓うというフレーズは僕に結婚式を想像させ、何だか言ってしまって非常に恥ずかしくなった。
顔が熱い。
耳も。
それでも、僕は顔を背けずにアルザギール様の視線を受け止めた。
驚いたような。呆れたような。泣き出しそうな。でも、嬉しそうな。
いくつもの感情が入り混じった表情。
とても。ああ、とても。可愛らしい表情だった。
「約束ですよ。次の世界でも必ず私の傍にいてくださいね、ユーリ」
「はい。必ず。なぜなら僕は——僕はあなた様のものですから」
風が吹いた。
柔らかな風が。
その風を追うように、照らされていく、世界。
お庭に茂っている短い緑の草が、黄金色に染まっていく。
朝焼けであって、朝焼けではない。
夜明けであって、夜明けでもない。
日の到来。
日の光の現出。
この世界の生きとし生けるもの全ての震えを感じた。
それは僕の震えだった。
恐れではなく、感動の鼓動。
アルザギール様もそれを感じられている。
来る。
もう、すぐ。
光が。
終わりが。
僕達は手を強く握りあった。
色めき立つ心を抑えつける為ではない。
離れ離れにならないように。
次の命を得た時に、また出会えるように。
流れ星ではなく、昇りゆく日に、願った。
そして、日の光が世界を——
僕達を、包み込んだ。




