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幕間・いつかの記憶。痛みを忘れた記憶。

「先日はお話し出来ませんでしたが、今ならば、きちんとお話しが出来そうですね」


 魔女がいなくなった隙を突き、アルザギールはまた僕の下にやって来てくれた。


「……ごめん……あの時、僕は、何も聞こえなくて……」


「いいのです、ユーリ。謝らなくとも、あなたの姿を見れば、あなたの苦しみが痛い程にわかりますから」


 僕は自分の右腕に眼をやった。

 右腕は全体が赤黒く変色し、見るも無惨にぼこぼこと腫れ上がっている。

 右腕だけではなく、ほぼ全身がそんな状態になっている。


「大丈夫……ではありませんよね」


「い、今は……大丈夫……」


 魔女はあれから何度も獣人に僕を破壊させた。

 殴られる度に折られた骨が神経を圧迫し、筋肉が断裂し、腫れた腕や脚が熱を持ち、激しい痛みと高熱が僕の体を蝕んだ……が、それも最初のうちだけだった。

 折られれば折られる程、砕かれれば砕かれる程、僕の骨はすぐに繋がるようになっていた。肉体の損傷も、目に見える速度で回復するようになっていた。

 そして、傷が癒えるだけでなく、癒える度に、強くなっていた。

 獣人は、僕を壊すのに苦労していたように思える。あいつが苦心して叩き込み、刻み込んだこの傷も、程なくして完治するだろう。恐ろしいまでの回復力だ。

 本当に、僕は人間ではなくなってしまったのだなぁ。と、日々実感させられる。

 痛みが薄れる度に。

 恐怖が遠のく度に。

 自分の変化を、肌で感じる。

 そんな現実を認めたくないと思い、僕は目を閉じた。


「痛いのですか?」

 

 アルザギールはそんな心の動揺を感じ取ったのか、まだ腫れの引いていない僕の腕をそっと撫でた。


「……っ」


 呻き声を、噛み殺した。


「あ……ごめんなさい」


「大丈夫……大丈夫、だから……もっと……触って……」


「いいのですか?」


「うん……お願い、だから……」


 何故だろうか。彼女の前では、弱音を吐きたく無い。と思っている僕がいる。

 痛いのに、痛いとは口に出せない。

 痛みを訴えれば、きっと、彼女のこの細い指が離れてしまう。それを恐れているからだろう。


「では、失礼します」


 再び彼女の指は、僕の腫れた腕に触れた。

 彼女は、ゆっくりと腫れをなぞった。

 ぼこりとした腫れの山を、彼女の指は優雅に超えていく。

 山と山の間に流れる、ゆるやかな川のように、いくつもの腫れに触れ、慈しむように、そこに指の腹を押し付けた。


「う……っ……」


 折れた骨と指に挟まれた神経が、悲鳴を上げている。それでも、僕は声を押し殺した。反射的に動きそうになる体を、全力で押さえつけた。


「本当は、痛いのでしょう? ユーリ」


 アルザギールは、腕から離した指先で、僕の額に流れる汗を拭った。

 間近で目にした彼女の指は、雪よりも白くて、儚くて、とても……とても、美しかった。

 この指が、ついさっきまで僕の折れた骨の上にあった指なのか……。

 このどうしようもないくらいに綺麗な指が、僕のあの醜い傷を撫でてくれていたのか……。

 それを思うと、痛い、とは言えなくなる。


「痛く……ない……よ……」


「そうですか? ……ですが、ほら。ユーリ、あなたはこんなにも汗を掻いているのですよ?」


 額に浮かぶ球のような汗を指先に掬い取り、僕の眼の前に掲げるアルザギール。


「これは、痛みを我慢している証拠でないのですか?」


 アルザギールの、深い紅色の瞳が、僕を見詰めている。

 嘘は許さない。と彼女の眼はそう告げている。


「痛いのなら、痛いと言ってください。痛いのならば……私は、もう、あなたには触りませんから……」


「え……?」


 もう触らない……だって? どうして?

 驚く僕に向かって、アルザギールは不思議そうにきょとんと小首を傾げた。


「何をそんなに驚いているのですか? 痛いのならば、触らない方がいいに決まっています」


「そ、それは……」


 それは正論だ。

 痛いのなら、触らない方がいいに決まっている。

 誰が好き好んで傷口に触れられたがるというのか。

 そんなやつはどこにもいないに決まっている。決まっている……けど……。


「ユーリ、痛いのですか?」


 アルザギールは、再び僕の腫れた右腕に、そっと自分の右手の人指し指の先を乗せた。

 とても軽い、柔らかな触り方だった。触れているかどうかさえ判別出来ない程に、感触が希薄だ。


「痛ければ痛いと言ってください。私は、大切な友人の顔が苦痛に歪む様を目にする事など、出来ません」


 そう言って、アルザギールは僕の腕から指先を離そうとした。


「だ、大丈夫だからっ!」


 慌てて、僕は叫んだ。

 彼女も慌てて、左手の人差し指を自分の唇に当て、しーっ、と短く呼気を吐いた。


「ユーリ、落ち着きなさい。そんな大声を出してしまうと、異変に気付いた魔女が戻って来てしまいます」


「ご、ごめん……」


 小声で話す彼女に合わせて、僕も声を潜めた。

 今、魔女に戻って来られては困る。

 彼女の話しによると、ここは魔女の住む屋敷らしく、彼女はこの部屋に入るのを禁止されているという。だから、時折ここに来ている事は、魔女には秘密にしているのです。と言っていた。

 もしこんなところを見られたら、もう彼女とは二度と会えなくなるに違いない。

 そうなったら、僕はもう耐えられない。

 肉体の傷は癒えても、心は死ぬ。死んでしまう。僕は僕を保てなくなってしまう。


「ユーリ、深呼吸をしなさい。心が落ち着きますから」


「……うん」


 僕は彼女に言われた通り、大きく深呼吸をした。

 息を吸って、吐く。

 アルザギールも、僕に合わせて大きく息を吐いた。

 彼女の吐いた息が、僕の顔に掛かった。

 僕はなんとなく、吐き出された息を吸った。

 あからさまに吸うのは憚られたので、吸った息を溜めている振りをして、鼻から吸い込んだ。

 アルザギールの吐息は、この部屋に充満している空気よりも、遥かに濃い血の匂いがした。

 ありがちな表現だけど、本当に、噎せ返るような、血の匂いだった。

 でも、その血生臭い息を吸うと、途端に、心が落ち着いてきた。


「あぁ……」


 良い匂いだ。

 安心するというか、何というか。

 心の深いところまで染み込んでくる、血の香り。


「落ち着きましたか?」


「……うん」


「まさか、あなたがあんなに必死で叫ぶとは思いませんでした」


「……ごめん……ごめん、なさい」


「謝らなくとも大丈夫です。……それより、本当に傷は大丈夫なのですね?」


「うん」


 今度は、はっきりと答える事が出来た。


「良かった」


 アルザギールは安堵の溜め息を吐き、僕の肌の感触を楽しむように、右手の指先を強く腫れに押し当てた。


「……」


 もう、声を漏らさなかった。体も動かさなかった。汗も掻かなくなっていた。


「ユーリ、絶対に……私があなたをここから出してあげます。だからその時までは、何とか耐えてください」

アルザギールはそう言って、僕の腕をギュッと、力強く掴み、微笑んだ。


「……うん」


 僕も、アルザギールに微笑みを返した。

 痛みは消えた。彼女の掌から伝わる冷たさが、熱を帯びた腕に心地良かった。


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