先輩と、真実の口
「こうして目を閉じると、ここが別の場所だと考えることもできますね」
僕の隣で先輩が言った。
「ここがイタリアのコスメディン教会である可能性と、いつもの学校の中庭のベンチである可能性と、どちらも同等です。目を開けるまではそのどちらも否定されません」
コスメディン教会……サンタ・マリア・イン・コスメディン教会というのは、有名な「真実の口」という彫刻がある教会だ。高校生の僕はさすがに真実の口くらい知っていたが、教会にあるってのは先輩に教えて貰って初めて知った。
先輩がそんな突飛なことを言うのはいつものことだ。横に座っている先輩を眺めながら、僕は返事を返した。
「たしかに目を閉じていれば、想像は自由ですよね。例えば向こうを歩いているあの男性だって、口ひげが良く似合うおしゃれな中年イタリア人男性である可能性と、社会科教師の池田先生である可能性と、同じくらいあるってことですよね」
くすくすと先輩が笑った。
「慣れましたね」
「何にですか?」
「私に」
……うん、確かにだいぶ慣れたのだろう。最初はずいぶん戸惑ったものだが、先輩と出会ってもう2ヶ月経つ。
姿勢が抜群にいい。胸まである長い髪。切りそろえた前髪。その整った顔立ちは、いついかなる時も歪まない。調和、それが先輩の容姿を表現するのに適した言葉だと思う。前にテレビか何かで、人間の顔や身体は線対称ではなくどこか左右で違っているものだと聞いた。だが先輩だけは違う気がする。先輩が傾いた姿勢をとったところを見た記憶がない。首を傾げたりもしない。常にまっすぐだ。その性格に同じく。
「遠くで高いトーンのはしゃぎ声が聞こえます。……部活動に向かおうとしている生徒でしょうか?」
言われて耳を傾ける。確かに聞こえる、二、三人の少女がじゃれあう声。何と言っているのかはわからなかった。
「あるいは、僕らと同じように教会を訪れているイタリアの女の子達だとも考えられますよ」
「観光客ならイタリア人とは限りませんよ」
先輩はまだ目を閉じている。この遊びはまだ続くということだ。
「それにしても静かですね。目を開けてしまうのが惜しいです。ここが静謐な教会ではなく見慣れた校舎に囲まれた中庭だということがわかってしまいますもの」
「あるいはその逆の可能性が、ですよね。ここは本当は日本ではなく、イタリアのローマだということがはっきりするのかもしれない」
「……ええ、目を開けるまでは現実は不確定です」
僕は、立ち上がった。先輩の想像をイタリア側へ持っていこう。
「真実の口って、もっと観光客でごった返しているのかと思ってました。時々手を入れていく人や写真を撮っていく人がいますけど、まばらなものですね」
「それは真実の口ではなくて百葉箱で、写真を撮っているのでなく温度計をチェックしているだけだからでしょう。理科の山田先生や科学部の生徒たちですね」
僕の試みもむなしく、先輩はそんな日常の延長のようなことを言う。
「先輩もここはイタリアだと考えた方が……その、楽しいと思いますけどね」
僕はため息をついた。
と、その時、うめき声が聞こえた。
「……先輩」
「なんでしょう」
「ちょっと目を開いて、現実を確定させて下さい」
「どうして?」
「大変なことが起こりました。けが人です」
先輩が目を開く。先輩にとっての現実が確定する。
僕にとっての現実と同じだろうか。僕は尋ねた。
「……一応聞いておきますけど、現実はどちらでした? 日本? それともイタリア?」
先輩は、ちらりとあたりを見回した。
「イタリアのようですね」
良かった。僕と同じだ。そう僕達は今、ローマに来ている。
*
僕らが駆け寄った時、周囲はごった返していた。うめき声を上げている白人男性の隣で、半狂乱でわめいている女性は……恋人か、奥さんか。たぶんイタリア語か何かで早口にまくし立てている。
男性は、真実の口から手を引き抜いた。
「うわ」
男性の腕は血まみれだった。僕は思わず吐き気を覚えて目をそらす。しかし先輩は冷静だった。
「どうやらあの男性は真実を口にしなかったようですね」
タンカを持った白衣のスタッフが駆けつけてきた。男性がタンカに乗せられる。更に白衣のスタッフの一人が、血だらけの真実の口に手を突っ込み、何かを探している。
「うげ」
白衣の一人が、「それ」を拾い上げた。それは人間の……手首から先のようだ。真っ赤、というよりどす黒く染められている。
「噛み千切られた……ってことですかね」
「おそらくは」
真実の口から血がしたたっている。まるで吐血しているかのように。
「真っ赤ですね」
「炎熱地獄ラーメンを口から噴出したかのようです」
先輩が場違いなことを言った。
炎熱地獄ラーメンというのは僕らの地元の、駅前のラーメン屋のメニューだ。……尋常じゃなく辛い、そして「赤い」ラーメンである。あまりの辛さに一口含んで噴出す人が続出。口から赤い液体をしたたらせながら店を出てくる客を見ると「ああ、知らないであの店入っちゃったんだ」と思う。丁度、今の真実の口はそんな感じだが……。
「先輩、不謹慎ですよ」
「不謹慎とはどういう意味ですか?」
「真面目さに欠けるという意味です」
「今に始まったことではありませんよ」
先輩は開き直った。
「いやわかってますが……大怪我をしている人がいるのに人を笑わせるような冗談は控えるべきです」
「困りました。笑える冗談を言ったつもりはありませんでした。笑えましたか?」
「いや、笑えはしませんでしたが……」
「では問題ないのではありませんか?」
なぜか言いくるめられてしまった。
「でも先輩……もしかして日本に帰りたいんですか? 学校とか地元のことばっか思い出してますよね」
先輩は、僕のほうをじっと見た。あれ、怒ってるのだろうか。
「いいえ、グローバルな例えができないのは……私がいかに行動範囲の狭い人生を送ってきたかという証左です」
違う。恥ずかしがっているのか。先輩の無表情ぶりは半端じゃないので識別困難だ。
「でも……驚きました。真実の口がまさか本当に人を噛むなんてことがあるとは……」
「悟さんは、信じていなかったのですか?」
「ええ、あまり……いや、すいません、全く信じてませんでした」
真実の口というものがあるというのは知識としては知っていたが、まさか本当に人の手を噛み千切るようなものだったとは思っていなかった。
「先輩は信じてたんですか?」
「いえ、私も本物の可能性は低いと思っていました。ただ本物であれば試したいと思っていましたので……。私が試す前に本物であると確認できてよかったです」
「…………もしかして、先輩、僕をこの旅行に誘ったのは……」
「はい、この真実の口が目的です」
*
高校入学して二ヶ月経ったある日の、放課後のことだった。
「鹿嶋悟さん、ですよね」
廊下で僕を呼び止めたのは、髪の長い女子生徒だった。上履きを見ると、えんじ色の帯が入っている。二年生、つまり先輩だと判断できる。
「はい、そうですけど……」
「私は山本涼子です。初めまして」
「は、初めまして……」
……この人があの、山本先輩か。僕が戸惑っていると、先輩はこう言った。
「あなた、どこか部活に所属していますか?」
「……帰宅部です」
先輩は一呼吸おいた。ストレートに伸ばした髪と、その背の高さ、姿勢の良さがあいまって、非常にスラリとした印象が際立つ。最近背が伸びてきた僕より、少し高いくらいかもしれない。
「では、お願いなのですが、帰宅部を退部してもらえませんか?」
「といいますと……どっかの部に入れという話ですか?」
先輩はうなずいた。
「はい。部の名前はまだ決まっていませんが」
「新しく作るんですか? 何をする部活でしょう」
「説明が長くなりますから、図書室へ行きましょう」
僕は怖いもの見たさから、この変わった先輩についていくことにした。
二年生の山本涼子さんと言えば、有名人だった。美人だがきつい性格だと噂の。
去年、つまり僕が入学する前のエピソードだが、彼女に告白した男がフラれた。
どもりながら思いを伝えた二歳年上の男子生徒に対して、山本涼子は言い放った。
「私が貴方に興味を持っているように見えたのでしょうか?」
……真顔だったという。彼は一週間ほど学校を休んだ後、クラスメートに
「イヤミならまだ良かった。あれは……純粋に不思議がっている目だったんだ。困惑も照れもなかった。本当に俺のことを何とも思ってなかったんだ。俺にはあんな女は無理だ」
と遠い目をして語ったという。
その後、何人かの男子生徒が挑み、敗れたそうだ。そして二年生になり孤高のクイーンとして知られるようになった彼女は、恋人どころか友人を作るつもりも無いらしく、いつも一人でいると聞く。
僕らの通うこの学校には図書室が三つもある。第一図書室は併設された小学校・中学校と共用になっていて、低学年向け図書から若者向けの小説、文学まで幅広く揃っている。第二図書室は学術書が多い。この二つの図書室はどちらも、数年前に建てられた図書棟に入っている。付近の住人への貸し出しも行っていて、非常ににぎわっている。
しかし先輩が向かったのは第三図書室だった。こちらは旧校舎にあり、図書棟ができてしまってからは誰も来なくなった。確か、閉鎖されてる筈では……。
「この部屋、鍵がかかってるんだと思ってました」
「かかっていますよ」
そう言うと先輩は、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に入れる。
「まだ部を作ってないのに、部室として使用する許可を先に取ったんですか? 気が早いですね」
「許可は取っていませんよ。無断使用です」
「……え」
サラッと言われてしまった。
「中に入ってしまえば本棚で奥は見えません。元通り鍵をかけておけば、見つからないでしょう」
「ちょ、ちょっと……それはまずいのでは」
「入る時は、人に見られないように注意して下さい。といっても旧校舎三階の一番奥で曲がり角、まず人は来ないでしょうが……」
「せ、先輩……意外に大胆ですね」
先輩は、電気のスイッチを入れた。真っ暗な部屋の、奥のほうだけ明るくなる。手前は暗いままだ。
「手前の電気はつけないようにお願いします。明かりが廊下に漏れて、人がいるのがばれます」
「あ、はい……。でも奥の電気だって、校舎の逆側の窓から見えるんじゃ……」
「あちら側は高台になっていて下は雑木林です。人の目はありません。それに、カーテンが私たちを守ってくれています」
「守るって……何からですか」
先輩は、本棚を回って奥へと進んだ。なるほど、奥の窓には黒い遮光カーテンがある。その手前の空間に、机と椅子が四つ、向かい合わせにくっつけてあった。先輩が、その席の一つに座った。
「太陽からです」
「……先輩、バンパイアだったんですか?」
僕はツッコミを入れながら窓に近づいた。
「私は自分をそうは認識していません。可能性は低いと思います」
先輩は本気なのか冗談なのかわからない口調で応じた。
「……そのココロは?」
「血を見るのは好きではありませんから」
なるほど。
*
イタリア人らしき男性と、血まみれの彫刻から取り出された手首らしき肉塊が運ばれていき、泣き喚いていた女性やまわりの関係者らしき人たちもいつの間にかどこかに消えていた。
「先輩、前に血を見るのは好きでないって言ってましたよね」
「はい、好きではありません」
「そのわりに、さっきの光景を見ても平気そうでしたけど」
「平気そう……とはどういう意味ですか?」
「気分悪くなったりしないのかなと思って」
「気分ですか? 感情的な意味では悪いですが、体調的な意味では悪くありません」
明快だった。
「あ、そうですか……。すいませんでした」
「何か謝るようなことをしたのですか?」
「し、してませんしてません」
*
静かな第三図書室の中で、なんとなく先輩に向かい合って座るのに躊躇して、僕はそのあたりの本棚を眺めた。木でできた本棚には、本が一冊も並んでいない。図書棟の新しい図書室のほうに全部移してしまったからだ。そっと指で棚をなでて、息を吹きかけた。
「ホコリが気になりますか?」
「ああ、すいません、姑みたいですよね。神経質だって時々言われます」
僕は弁解した。
「私はその逆ですから。バランスが取れてよいと思います。そのうち掃除しましょう」
神経質の逆……無神経だということだろうか。僕は、先輩にふられた男の話を思い出した。先輩、自覚はあったんだな……。
僕は間が持たなくなり席に座った。
「で、何をする部活なんですか?」
先輩は、机の中から厚さにして5センチ以上ありそうな本を取り出した。
「まず、これを見てください」
暖色系のカラフルな表紙に、角の丸いゴシック体の字が踊っている。
「えーと……2010年度版……ふしぎなどうぐカタログ……? なんですか、これ?」
「この図書室で見つけました。正確に言えば見つけたのは1998年度版で、これは私が電話して取り寄せた今年度版です」
「取り寄せた……? どこからですか」
「この裏表紙に出版社の電話番号が書かれています」
「そんな怪しげなとこによく電話できましたね」
「電話は非通知でかけ、配達は局留めにしました」
「あ……そうですか」
慎重なんだか大胆なんだか。
「それで届いたのがこれですか。見てもいいですか?」
「ええ、見てください」
カタログを開こうとした手を止めて、僕は先輩を見て言った。
「僕、一年生ですよ。山本さん、先輩なんですから敬語使うのやめてくださいよ」
変な沈黙があった。先輩が、黙っている。なんか、困ったような、いや怒っているような……?
「あの、僕なにか変なこと言いましたか?」
僕はおそるおそる聞く。すると先輩はさっきまでのハキハキした喋り方とは打って変わって、もごもごと小さい声を出した。
「その……敬語を使わないとうまく話せない……」
「……どういう意味ですか?」
「だからその……苦手、なの、くだけた表現というのか、その」
先輩の顔がみるみる赤くなっていく。
「いやその、無理にとは言いませんけど、なんかこっちも緊張してしまうので……」
「ど、努力はする……けど。い、今すぐには……ちょっと……その」
先輩が顔を手で覆ってしまった……。僕は慌てる。
「あ、いいですいいです、敬語で全然おっけーです」
それを聞いて先輩が手の隙間から顔を出した。僕は「本当です、気にしません」と畳み掛ける。先輩は深呼吸をすると頭を下げた。
「ではしばらくは敬語で失礼させていただきます。ご迷惑をおかけしてすみません」
再びクリアな発音だった。
「い、いえいえ……。その、お気になさらずに……」
……なんだこれ。
*
あんな大きな事故(?)があったというのに、意外にも警察やマスコミが来る様子は無かった。まわりを埋め尽くしていた観光客たちも、次第に減っていく。よくあることなのだろうか。
「そういえば先輩、まだ直りませんね、敬語」
「え……?」
「いえ、出会った頃に言ってたじゃないですか、敬語、直す努力はするって」
「はい、努力はしていますよ」
「その……成果を見せて貰えませんか?」
「成果ですか?」
先輩が僕を睨んでいる。
「ええ、成果」
「…………」
「……」
先輩は、しばらく僕を睨んだ後、諦めたようにうつむいて、それから顔を上げた。
「………………………………げ、元気?」
ずいぶん間が空いたあと、凄く小さな声でそう聞こえた。
「え?」
「…………げ……げんき?」
「……はい、元気ですけど」
「……」
顔が……どんどん赤くなっていく。
「あの、先輩?」
「…………これで…………せいいっぱい」
「あ、もういいです。もういいです。無茶を言ってすいませんでした。頑張りました。先輩は頑張りました。だからその、顔を上げてください」
うつむいてしまった先輩に、慌てて許しを出す。
……まだまだ、先は長そうだなと思った。
*
僕は先輩が出した分厚い本を開いた。それは通信販売か何かのカタログらしかった。各ページに一個ずつ、商品が紹介されている。
「なんか……怪しいものばっかりですね。幸運を呼ぶお守り……テレパシー送受信機……猫語翻訳機」
「どのあたりが怪しいのですか?」
「え……いや、だってほら、幸運を呼ぶお守りなんて、インチキ商品の定番じゃないですか」
先輩は驚いた顔をした。
「そうなんですか? 知りませんでした。買ったことがあるのですか?」
「いえ、無いですけど……」
「ではなぜ知っているのですか?」
「あーいや、わかりませんけど……」
なんで責められてるんだろう。僕は話をそらす。
「それにほら、テレパシーだとか……。インチキにしてももうちょっと言い逃れのできるようにすればいいのに。こんなの、買ったら一発でインチキだってバレますよ。うわっ五十万もする」
「そうなんです。それは高いので流石に買えませんでした」
「買う気だったんですか? 先輩、人がいいんですね……」
「人がいい、ですか? そういった認識はありませんでした」
「いやーこんなのに騙される人なんて…………」
ん? さっき、「それは」って言ったか……?
「もしかして、何か買ったんですか?」
「お守りを買いました」
僕は額を机に強打した。
「せ、先輩……」
「おでこは大丈夫ですか?」
「い、いくら出したんですか?」
「三万円です」
「高っ」
法外だった。
「でもデザインは良いですよ。それに効果のほうもありましたし」
先輩は、涼しい顔をしている。三万円なんて痛くないくらい、お小遣いを貰っているんだろうか。お嬢様なのかもしれない。
「効果って……どんな」
「先週、購買でクリームパンを買うことができました」
「……あの人気のクリームパンを」
「そうです。すぐに売り切れてしまうクリームパンです」
「ほ、他には……」
「今のところ、気がついたものはそれだけです」
「……」
呆れて何も言えなかった。
先輩は僕の反応を見て言った。
「言いたいことはわかります。確かに、この幸運がお守りの効果だという確実な証拠はありません。ですが、入学以来一年間、登校日が二百日ほどありますがその間一度も買うことができなかったクリームパンです。これをお守りを入手して二日で購入することができました」
「偶然です」
僕は言い切る。
「幸運は偶然の部分集合です」
言い返された。
「お守りを買ったことと、クリームパンを買えたことは関係ないって言ってるんですよ」
「証明できますか?」
「できませんよ! 先輩の言うとおり幸運は偶然の一種ですから。関係あるとも無いとも証明なんかできない。でもそういうものは信用しないのが僕の主義なんです!」
僕は思わず怒鳴ってしまった。嫌いなのだ、そういうオカルト的なものが。超能力だとか幽霊だとか。
「……怒鳴ってすいません」
「気にする必要はありません。ただあまり大きな声だとこの部屋に人がいるのがばれますから。……今度、壁に防音壁を貼りましょう」
そんなこと、勝手にやっていいのか。
先輩は、僕を諭すように言った。
「でも、証明されてないものを信用しなかったら、信用できることなんて何もありませんよ」
「何を言ってるんですか。科学的に証明されていることは信用しますよ。誰でも追試が可能な客観的な事実、それに基づく論理。それは信用できます。蜃気楼は空気の密度差で光が屈折するからです。原理がわかっている。科学で証明されている」
「科学は仮説です。証明ではありません」
「何言ってるんですか。仮説に基づいて実験して、それを確かめるんじゃないですか! それが科学的アプローチってもので」
「実験だって証明にはなりませんよ。実験をしてわかることは何ですか? 仮説に反しない現象が起こったのがわかるだけです」
「何回も、何千回も実験して常に確認できる現象なら、それは証明されたことになるでしょう!」
「なりません。それは何千回かその現象が確認できただけのことです。一万回目で仮説を覆す現象が起きるかもしれません」
僕は疲れてきた。
「それを言い出したら、証明なんかできないですよ」
「だからそう言っています。本当の意味で証明が可能なのは数学の世界だけのことです」
「だからって、科学的な考え方を否定しなくてもいいじゃないですか。誰にでも納得のいく理屈がつけられて、何度繰り返してもほぼ理屈どおりの現象が起こる、それだけで十分役に立つと思います」
「同意します」
同意されてしまった。
「僕は、たとえ厳密な意味での証明にはなってなくても、科学で説明がつけられるものだけを信用すると言っているのです。そのお守りは信用できません」
「私も信用しているわけではありませんよ」
「じゃあなんで、三万円も出してお守りなんか買ったんですか」
「ですから、実験しようと思ったのです」
「……実験?」
そうオウム返しをしたまま、僕は固まっていた。
「はい」
「……お守りの効果を、ですか」
「はい」
「本当に幸運が起こるかを、実験しようと思ったんですか」
「そういうことです。科学的手法ですよ」
僕は首を振った。先輩、わかってない、わかってないよ。
「違います。それは、科学的なアプローチじゃないですよ。だって、幸運かそうでないかは、本人にしか決められないじゃないですか。客観的じゃないです。先輩がラッキーだって主張すれば何でもラッキーになります」
「そうですね。だから、お守りに関しては貴方を納得させるつもりはありません。自分が自分を納得させる為の実験でしかありません」
「そんなの科学じゃありません。思い込みです」
「科学も思い込みだと思います。幻想です」
そんなの極論すぎる。
だが僕はこれ以上言い争っても平行線だと思い、話を変えた。
「……納得、したんですか。クリームパンが買えた程度で」
「まだ結論を出していません。お守りを買う前と後で、幸運の量なり質なりを定量的に比較する必要があります。それにはまだデータが不足しています」
僕はちょっと安心した。先輩は案外冷静なようだ。
「今のところ問題は、このお守りがサポートしている幸運がどのような傾向のものか、判断がつかないことです。クリームパン限定なのか、それとも他の種類の幸運にも対応しているのか」
クリームパン限定のお守りなんてショボすぎる。いやまあ……実用的ではあるが。
「カタログにはなんて書いてあるんですか?」
「あなたの人生にこれまで起こらなかったような幸運な出来事が、と書かれています」
「購買のクリームパンは……該当するんですね」
「ええ。今まで買えなかったものですから」
実は僕も買ったことがない。まあ、僕の場合はそもそも購買より学生食堂派なのだけれど。
「実は日曜日に、商店街の福引で五等の自転車を当てましたが、この理由から外しています」
「え…………全然凄いじゃないですか! クリームパン買えたことよりずっとラッキーですよ」
僕は驚いて言った。なんだ、もしかして効果あるんじゃないのか、お守り。でも先輩は首をふる。
「五年前にも福引でテレビ当てています。その時は三等でした。よって、これまで起こらなかった幸運には該当しないと考えます」
変なところで冷静な先輩だった。
「いや……いやいやいや。クリームパン程度のラッキーだって、今まできっとありましたって」
「食べ物に関するものとして、クリームパンに勝るラッキーはこれまでの私の人生には起こっていません」
どんだけクリームパンが好きなんだ。
「もう一つ買ったものがあるのです」
「どんなものですか?」
「好きな人の心が読めるグミ」
「……それ、どう考えてもインチキじゃないですか」
「どう考えても、は言いすぎです。考え方にはもっと幅が必要ですよ」
「ちなみに……いくらしたんですか?」
「十五万円でした」
「じゅっ……」
絶句。
「せ、先輩……もしかして超金持ちなんですか?」
「わかりませんが、おそらく違います。私は小遣いというものを貰っていませんし、アルバイトの経験もありません」
「えっ。じゃあそんな大金、どうしたんですか?」
「これまでのお年玉や入学祝等の貯金が合計二十万円ありました」
「ずいぶんありましたね……」
「全然使っていなかったのです」
なんか可愛い元手だった。
「でもお守りが三万でしたっけ……足して十八万……ほとんど使い切ってるじゃないですか」
「その二つが、予算内で買える最も興味深いものでした」
僕は頭を抱えた。この人、もしかして凄い世間知らずなんじゃないのか……。小遣いを貰っていないってことは……つまり、お金の使い方がわかっていないんだ。
「先輩、クーリングオフです。クーリングオフ。返品しましょう」
先輩は、一瞬僕を見つめた後、カタログの最後のページを見せた。黒い太枠の中に、細かい文字がびっしり書いてある。
「要約すると、返品は受け付けないという内容です。法的には通信販売にはクーリングオフの制度は無かったと思いますので、業者が返品できない旨を表示している以上返品できないのではないですか」
何でそういうことは知っているんだ。
「で、できないんですか……」
「できてもしないつもりです。偽物である可能性は了解しています。実験の結果、効果が無かったとわかっても一つの成果です」
そこまで言われると僕としては反対できない。
「わかりましたけど……なんか納得いかないなぁ……」
すると先輩は、ふいに言った。
「私を心配してくれているのですね? ありがとうございます」
今まで全く見せなかったその笑顔に、どきっとする。
「あ、いえ、そう面と向かって言われると……」
「貴方が好きです」
…………。
…………。
…………。
「…………」
「では今日はこれくらいにしましょう。また明日、この部屋で……」
僕は告白されたんだと気付いたのは、その日先輩と別れた後だった。
*
それから僕と先輩の「部活」は続き、先輩の様々な実験に付き合わされる日々を送ってきた。
部活って何なのか。あの出会った日の翌日そうたずねた僕に、先輩から返ってきた答えはこうだった。
「部活というのは昨日見せたお守りの件や、これから行う実験等、主に私の好奇心を満たす為の活動のことです。部員は貴方と私。もちろん非公式なものですから正式な部室や予算はありませんが、部室代わりにあの図書室を使います。鍵は職員室から拝借しました」
「要するに、放課後に空き教室に忍び込んで一緒に遊ぼうってことですよね」
「妥当な解釈です」
「職員室から拝借って……完全に泥棒じゃないですか。先輩、図書室を勝手に使うのもそうですけど、規則を守る精神に欠けます」
「はい、欠けますね」
「…………いや、欠けますね、じゃなくて。ばれたらやばいですって」
「危険と隣り合わせのほうが楽しいと思います」
「た、楽しいって……。先輩、真面目な性格かと思ってたんですけど」
「真面目な女性が好きですか?」
「そ、そういうことじゃなくて……」
その後だんだん、先輩がとても自分の欲望に正直な人だということがわかってきた。
夏休みになり、七月の終わりに先輩から電話がかかってきた。
「イタリアに行くので一緒に来てください」
「イ、イタリア? え? 一緒に? 何の話ですか?」
「部活の話です。パスポートは持っていますか?」
運の悪いことに、中学校の時に家族で一度韓国に行ったことがありその時に取ったパスポートがあった。
「も、持ってますけど……。部活って何をするんですか」
「良かった。目的は着いてから話します。明日から二泊三日ですが不都合はありますか?」
「あ、あ、明日?」
「お暇ではありませんか?」
「暇ですけど……そんな急に。お、お金は」
「あります。心配いりません。では明日の朝八時に迎えに行きますので準備しておいて下さい」
たったこれだけの会話で人を海外に連れ出すこの強引さ。先輩は本当に翌朝迎えに来たので家族に見つからないように気を使った。僕が急に旅行に行くと言っただけで驚いていた親に、とても女性の先輩と海外になんて言えなかったので、男友達と国内の旅行に行くとだけ言っておいた。わりと放任主義の親で、あまり詮索されなかったのは助かった。
てっきり先輩が家族か友人とイタリア旅行に行くから一緒に来ないかという話だと思っていたら、誰も合流しないまま飛行機に乗せられてしまい、イタリアについた時点でどうも二人きりの旅行だと気がついた。
先輩と話しているといつの間にか話が脱線していて、いつも肝心なことを聞きそびれる。しかし先輩がいつもの調子と全く変わらないのは僕には助かった。
*
真実の口についていた血を、清掃スタッフが綺麗に洗い流していく。慣れた様子だ。やはり、よくあることなのだろう。
僕と先輩は近くの柱によりかかってその様子を見ていた。
「先輩、いつも思うんですけど、行動する前にまず考えたほうがいいと思います」
「同意します」
いや、先輩のことを言ってるんですってば。
「……あの、先輩が脊髄反射で動いてるように見えるときがあるので」
「どういう時ですか?」
「思い立っていきなり日本からイタリアに来ちゃうこととかですよ」
「日本からここまで移動するのに十時間以上、複雑な行動を取っています。とても脳が関与しない脊髄反射で可能だとは思えません」
「いや、脊髄反射というのは物の例えでして……」
「わかっています。私は計画的です。この旅行を思いついてから一ヶ月、アルバイトというものを始めてお金を貯めました」
「一ヶ月も前から考えてたんなら僕にももっと前に言ってくださいよ」
「こういうのは伏せておいた方がサプライズと言って喜ばれると聞きました」
「え? いや、どっちかっていうとドッキリって言うと思いますが……」
「和訳ですね」
「ち、違います違います。サプライズとドッキリは意味がかなり違います」
先輩はどこか上の空のようだった。
「あ、悟さん」
「なんですか?」
「ちょっとあのお爺さんと話をしてきます。ついてきてください」
先輩は、僕の手をとって、歩いていった。真実の口から少し離れた場所で、こざっぱりした服を着た初老の男性が立っていた。
先輩は、そのお爺さんに話しかけていた。僕には何と言っているのかわからなかったが……。
ひとしきり先輩と話をした後、お爺さんは先輩に手を振って去っていった。
「何を話してたんですか?」
「さっきの男性は、何と言って噛まれたのかと聞きました」
「お爺さんは何て?」
先輩は、少し黙った。何か考えている。やがて僕を見て言った。
「悟さん、これは面白いクイズになっていると思うのですが……」
「何でしょう」
「あの真実の口に手を入れて「私は嘘をついている」と口にした。そうしたら手首を噛み千切られた。これはどういうことだと思いますか?」
「私は嘘をついている、ですか?」
えーと。あれ、なんかおかしい気がする。そういうの、何かで読んだ気がするな。
「先輩、おかしいですよ。それ、嘘つきのパラドックスじゃないですか。その言葉を本当と受け取っても嘘と受け取っても矛盾するってやつです。真実の口があの男性を噛んだのなら嘘をついているという言葉をそのまま受け取ったことになりますが、そうするとあの男性は嘘をつくと言ったけどそれは嘘、つまり本当のことを言ったってことになりますよね。でもそうしたら真実の口が噛んだのがおかしい筈で……」
あれぇ? この場合、どうなるんだ? 真実の口は噛むことも噛まないこともできないんじゃないのか。
しかし先輩は回答を用意していた。
「単純に物事を真偽に分けて考えればその通り、矛盾します。ですが私はこうではないかと思います。「私は嘘をついている」は、貴方の言うようにパラドックスです。つまりある意味、真実でも嘘でもない、とも言えます。ということは少なくとも真実ではない。よって、真実の口は「真実を口にしなかった」ということで噛んだのです」
真実でも嘘でもない……。
「……嘘と言いきれなくとも、真実といえない場合は噛む、ということですか」
「あくまで私の仮説にすぎませんが」
理屈はわかる気もする。まぎらわしいなら噛む、という乱暴なルールとも言えるが。
「悟さんの回答は?」
先輩が逆にたずねてきた。
「えーと、僕はですね……」
どうしよう、何か言わないと。
「真実の口が、イタリア語を理解できなかった、とか」
先輩が、くすくすと笑った。
「悟さんのそういうところ、好きです。私とは発想が違っていて。最も、あの男性の話した言葉がイタリア語だったかどうかはわかりませんが」
先輩は、そばの柱にあった張り紙を指差した。そこにはどうやら各国の言葉で何か書いてあるようだ。そのうち、上から5番目が日本語だった。
僕はそれを読み上げる。
「えーと……これまでに手を噛まれた日本人は5人です」
そう書いてあった。
「一番上の行にはイタリア語の文章があり、数字が36となっています。イタリア人の犠牲者が多いようですね。つまり、日本語も通じるしイタリア語も通じる。真実の口はマルチリンガルだということです」
僕の回答は不正解だということだ。
なんとなく二人で笑いあった。
「でも、先輩がイタリア語が話せるなんて意外でした」
「いいえ? 話せませんよ」
……。って、待て待て。
「先輩」
「はい」
「てことは……今の話、もしかして先輩の作り話ですか?」
「はい」
僕は脱力した。
「なんでそんな嘘を……」
「悟さんはイタリア語を理解できるのですか?」
「いえ、僕にだってわかりませんが」
「では、嘘だとは限りませんよね。私の作り話とあのお爺さんが話した内容が同じである可能性だってあります」
「違っている可能性のほうが高いです」
「悟さん、誰だって、他人の言葉を誤解しながら聞いているのです。思いは言葉に変換され、再び元に戻す為に逆変換される。その過程で多かれ少なかれ、必ず情報の欠落、ノイズの混入、誤変換が生じます。言葉によるコミュニケーションの限界というものです」
この手の物言いには僕もだいぶ慣れてきた。
「いやいや先輩、だからって相手の言葉を無視して勝手な想像で置き換えていいことにはなりませんって」
「はい、そうですね。私もあのお爺さんの言ったことと私が貴方にした話の間に生じた差は無視できないものだと思います」
先輩がいきなり素直に認めた。先輩がこうやって現実に着地するのは、何か目的がある時だ。嫌な予感がする。
先輩と僕が話している間に、清掃スタッフは掃除を終えてどこかへ消えていた。
真実の口の前はがらんとしていて、遠巻きに見ている人がいるだけだった。さすがにあの惨事の後ですぐに手を入れてみようとする人はいないようだ。
「さて、悟さん」
「じゃあ帰りましょうせんぱ」
「真実の口を使いましょう」
やっぱり。
「マジですか」
「部活ですから。ではまず、私からです」
先輩が腕まくりをしている。
「やめてください! 先輩、これだけは本当に……! 危ないです。見てなかったんですか? さっきの人の手。本当に切断されたんですよ?」
「ありがとう。心配してくれるのは本当に嬉しいです」
先輩は僕の手を握って微笑んだ。照れてしまい一瞬固まる。その隙に。止めようとした時にはもう遅かった。
「でも大丈夫。これが目的で来たのです。私は本当のことを口にします」
先輩の手が真実の口に突っ込まれていた。僕は思わず、自分の人さし指を立てて唇に当てる格好をした。黙っててください、という合図だ。
「せ、先輩……お願いですから、うかつなことを言わないで下さい。うっかり嘘を言ったら大ケガになります」
「わかっています。ですから……」
「わーっ。わーっ。返事しないでいいですから、とにかく、一度抜いてください。何も喋らないで。一度抜きましょう」
「悟さん、私は真実を口にします」
僕はもう、気が気じゃなかった。口をぱくぱくさせて、かなりバカみたいだっただろう。
先輩はしばらく微笑みを浮かべたまま僕を見ていた。僕が落ち着くのを待っているということか。
僕はひとしきり説得を試みたが効果がなく、かといって無理に引き抜こうとしても先輩が何か滅多なことを口走らないとも限らない。しかたなく黙った。
先輩が、口を開いた。
「私は、鹿島悟を愛しています」
え…………。
先輩は…………そう口にした。
「…………」
僕は何も言えず…………そうして数十秒が経過した。
「わかって貰えましたか?」
先輩は手を引き抜いた後、そう言った。
パチパチパチパチ……。
その時、どこからともなく、拍手が起こった。次第にその数が増していく。まわりを見ると、ギャラリーができていた。みんな、先輩に向かって拍手をしているのだ。たった今被害者が出たばかりのこの海神トリトンの口に手を突っ込んで、何かを宣言した少女。日本語ゆえ意味はわからなかっただろうが、その決意は、覚悟は、言葉の壁を超えて伝わったのだ。
僕は急に恥ずかしくなり、顔が火照るのを感じた。先輩の言葉は真実だということだ。
先輩は皆に向かって一礼した。また一段と大きくなる拍手。
そして、僕のほうを振り返り、真実の口のほうへ手を向ける。
「あなたの番ですよ、悟さん」
え?
……。
ギャラリーが……僕に注目している。
「ぼ……僕も……やるんですか?」
「ええ」
先輩が、微笑んでいる。
僕は汗が止まらなくなってきた。
今になってさっきの先輩の作り話の意味がわかった。「真実とも嘘ともいえないこと」は「真実ではない」と解釈されうる……ということだ。さっきのはあくまで先輩の仮説であって、実際には噛まれないかもしれない。でも噛まれるかもしれない。可能性があるということを先輩は示した。それだけで十分だった。
僕は先輩が好きだ。これは嘘じゃない。嫌いだったらこんなに一緒にいない。だが、真実か? 嘘じゃないだけで、真実ともいえないのではないか?
この手をあの彫刻に入れて「先輩のことを愛している」という言葉を口にできる程の、絶対の真実だろうか。少しでも真実と言い切れないのなら、噛まれる……かもしれない。
先輩には、少しも自分の気持ちを疑わない強さがある。それは僕には無い……。
先輩を愛しているかだって? そんなのわからない。
この先、絶対に先輩を嫌いにならないと言えるか?
今でさえ……先輩の行動に困ることも多い。
……言えない。僕には言えなかった。
僕は、ダラダラと汗を流しながら、先輩を見た。
「悟さん……」
先輩が僕を見ている。
「先輩……」
先輩が僕の右手を取った。そして、両手で包み込む。
「凄い汗です」
「はい…………」
先輩の顔が……完全なバランスを保っていたその顔が……少し歪んだ気がした。
「悟さん」
先輩が手を離した。
「私は理解しました。本当にごめんなさい」
先輩は、目を閉じた。
「困らせてしまって申し訳ありませんでした。私はわかっていなかったのです。私は……人の気持ちを推し量るのが不得意なのです。こんなことをしなくては……好きな人の気持ちもわからないような人間なのです」
「……先輩……すみません」
僕は謝ってしまってから、後悔した。でも、取り消すこともできなかった。
「悟さん……謝らないで下さい。悪いのは……」
「先輩は悪くありません」
先輩は弱弱しく微笑んだ。
「そうですね。私も悟さんも悪いことをしたわけではありません。ただ、私が誤解していただけです。悟さんは……私を愛してはいなかった。それだけのことです」
先輩の目から……涙が一滴、こぼれ落ちた。
「帰りましょう」
先輩が、僕の手を引いて、ギャラリーを掻き分けるようにして歩き出した。
周りのギャラリーががっかりしたようなため息を漏らした。僕を責めるような目線と同情するような目線が混じっている。
「先輩……。僕は……」
「何も言わなくていいです。何を言われても辛いだけです」
拒絶の言葉。
先輩が、歩きながら言った。
「私はイタリア語は理解できませんが……」
「……?」
「あのお爺さんと話したのは英語です」
「……」
「英語なら、私にもわかります」
「それじゃあ……あの真実の口に噛まれた男性は……なんて言ったんですか」
先輩は歩みを止めずに言った。
「俺は浮気はしていない、だそうです」
……。
「あの側にいた女性が奥さんで、詰め寄られていたのだそうです。疑いを晴らしたかったら、真実の口に誓ってくれと」
「そんな……。真実の口が本物だと知らなかったんでしょうか……」
いや、知っていたからか……。
「奥さんはともかく、男性はわかっていたようです。だから拒んでいた。ですが最後には折れ、誓いました。そして手首を噛み千切られたのです」
「浮気をしていたことが、はっきりしてしまったということなんですね」
「そうです」
「その奥さんは……許さなかったでしょうね。浮気をしていたことが何よりはっきり証明されてしまったのですから」
僕がそう言うと、先輩は、足を止めた。
「……そうでしょうか。私は許したと思います」
先輩は僕の方を見ることなくそう言った。
許した……。浮気をしていないという男性の誓いが嘘だとわかったのに……?
先輩はこう続けた。
「でも悟さん、勘違いしないで下さいね。私は貴方に嘘をついて欲しいと言っているわけではないのです。貴方が嘘をついて手首を失ったら、私は貴方を許しません」
心を見透かされたような気がした。心の片隅で、なぜ嘘でもいいから言えなかったかと悔やんでいたからだ。噛まれてでも、言うべきだったんじゃないのか。でも、先輩の言うとおり、きっとそれは意味が無い。手首から先の無い僕が、どんな顔で先輩を見られるだろう。先輩を二重に悲しませるだけだ。
僕は先輩とは違う。
自分の気持ちにさえ、自信なんかもてない。
……。
……でも、僕にも言えることがある。
先輩には及ばないが僕にも言えることはある。
先輩の手を振り解いた。先輩が、こちらを振り向く。先輩の目を見て、一秒。後ろを向いて、駆け出した。
「悟さん!」
先輩の声を背に、ギャラリーを押しのけ、突き飛ばして走る。駆け戻る。彫刻の前に。元々はマンホールの蓋だったというその丸い石の前に。その中央に描かれた気持ち悪い老人の顔の前に。
僕は一瞬だけ真実の石を見つめた。そして大きく息を吸い込んで、その口に手を突っ込んだ。唇の隙間から、手をねじ込む。彫像なのに、口のとこだけ弾力があった。ああ、そういうことか。僕の記憶にないこの唇の部分は誰かが後からつけたものなんだ。きっと、口の中で手首を切断する歯か何かが、外側から見えないようにという配慮だろう。
僕は、振り返った。先輩が駆けてくる。
「先輩…………僕は真実を口にします!」
「やめて悟! お願い!」
先輩が、悲痛な声をあげた。
でもやめない。
先輩、すみません。
僕は今、愛しているとは言えない。それは自分でもわからないから。
でも少なくとも、これだけは言える。
「僕は、先輩…………山本涼子さんを……好きになりたいと思っています」
ギャラリーが静まり返っている中、僕の日本語が響いた。
先輩が駆け寄ってくる足音だけが響いた。
「ダメ……!」
先輩は彫刻につっこんでいる僕の右腕をつかんだ。引き抜こうと力を込めているのがわかる。
でも、僕は抜かない。抜かせない。
今、抜かせるわけには……いかない。
…………。
…………。
…………。
そうしてどれくらい経っただろうか。
…………。
パチ。
パチパチ……。
僕らの様子を見守っていた群衆から、拍手が聞こえてきた。
まばらに聞こえてきた拍手が、やがて周囲に伝播していき、この彫刻のある一角を中心に教会中へと響き渡った。歓声も上がっている。
先輩が、力を抜いた。
……僕は、まだ手をつっこんだままだった。どのくらい時間が経っただろうか。どのくらい噛まれないでいれば、真実を口にしたことになるのか?
「悟……ばか……ありがとう」
先輩が、僕に後ろから抱き付いてきた。
それで僕には十分だった。僕は手を引き抜いた。
「先輩……。敬語じゃなくなってますよ」
僕が笑いかけると、先輩も微笑み返した。
「うん、そうだね」
「帰りましょうか」
「……はい」
拍手に包まれながら、僕と先輩は教会を後にした。
*
帰りの飛行機の中。
隣で寝息を立てる先輩を見る。二泊三日の慌しすぎる旅行。二泊とも、ホテルでは当然別の部屋だった。結局、先輩が目的だと言っていた教会に行った以外は、ブラブラと町を歩いただけだった。
僕は考えていた。
本当に、あれは真実の口だったのだろうか?
人の手首を噛み千切る彫刻だって? そんなもの本当にあるのか?
大体、本当にそんな危険な彫刻があったら、そんな簡単に人を近づけるものか?
もしかしてあの男、芝居だったんじゃないだろうか。さほど痛がっていなかった気がしないか?
本当に手首は切断されていたのか? 血まみれでよくわからなかった。
口の中から拾い上げられた肉塊は作り物だったんじゃないか?
もしかしてあのギャラリーも、サクラだったんじゃないだろうか。
世界的に有名なわりには観光客が少なかったような気もするし……。
それに、さっき酷いけが人が出たばかりの場所で、悪ふざけとも取られかねない行動をする外国人に、拍手?
隣で寝ている先輩を眺めた。
もしかしてこの旅行の最初から、全部先輩がしくんだことだったんじゃないだろうか?
僕は、のびをした。
それも、そんな風に考えることもできる、というだけのことだ。現実は何も変わらない。
先輩があの教会で目を閉じて言ったことと同じ。自分の見ていないことについては、いくらでも想像することができる。でもそれは全て想像にすぎない。勝手に決め付けたって仕方が無い。
先輩はここにいるんだ。知りたければ、聞けばいい。
後で聞いてみよう。
でも今は、起こさないように。
まだまだ僕は先輩に振り回され続けるんだろうな、と思った。