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満月の夜、いつものように手紙を読んだ母さんは深く深く、息を吐く。
明日のセンを思うと、気が重い。明日は何か、センの気がまぎれる様な話をしなくちゃ。庭に咲いた花を見せようか、それとも城に行く前に少しだけ寄り道をしてしまおうか、と考えていると、城の方から悲痛な遠吠えが聞こえてきた。
悲しみ、憎しみ、怒りが入り混じった狼の遠吠え。
「シュウ! シュウ! 」
空気を切り裂くような叫び声。慌てて駆け寄った俺を、震える腕が抱きしめる。
「センを、呼んできなさい。一緒に城に行きますよ」
いつもより低く、震える声。何があったのか、全くわからないまま俺は狼の姿をとり、センの家まで駆けだした。
明かりを落とした家。中に、センの気配はない。
「セン? いる? 城に行くって、母さんが呼んでいるんだ。一緒に来て」
必死に声をあげる俺のはるか上で、センが答えた。
「一緒に、行ってくれるの? 」
満月に届きそうなぐらい高く育った木。鳶の姿を取ったのであろうセンは、木の枝に隠れているのか姿は見えない。それでも、センが泣いていることは伝わる。
「何が、あったの? 」
「……行こう」
闇では飛べないと言ったセンは、人の姿に戻り、ゆっくりと歩き出した。こんなにゆっくりでいいのだろうかとは思ったが、今のセンにそれ以上速く移動することは望めなかった。
家についたときには、母さんも狼の姿を取っていた。俺と同じ灰色の身体は、月明かりの下でかすかに震えていたが、それでも、センを背に乗せ風のように走った。
城は衛兵の怒鳴り声と足音がこだましており、俺達は城の扉の前から動くことはできない。どのくらい時間がたったのだろう。扉を開けてくれたのは、ルーク伯父さんだった。片手に、泣きじゃくるライアを抱いている。
「ライア? どうしたの? 」
いまだに何が起きているのか理解できない俺は、泣きじゃくるライアに手を伸ばしたが、ルーク伯父さんがそれをとがめた。
「王女に、触れるな」
聞いたことのない、冷たく、厳しい声だった。
冷たい背を追い、通された部屋には怒号とも泣き声ともとれる声で溢れていた。跪き静かに涙を流している男と、その前に横たわるセンの母。
良く笑う穏やかな目は見開き、白い首にはかきむしったのであろう傷がついている。土色の顔は、もう戻ってこれない事を物語っていた。
「おかあ、さん? 」
センが、震える小さな声で呟いた。本当に小さな声だったのに、俺の耳には、部屋にこだまする怒号よりもはっきりと聞こえた。泣き出しそうなセン。泣きじゃくるライア。俺は、なにもできず、ただ立っていた。
気がついたら、怒号はやみ、部屋には数人しかいなくなっていた。センは、まだ母の側に行くことを許されず、俺の横にいる。
初めて見る、俺達の父親。母の遺体を前に動けずにいる息子を気遣うこともなく、ただ、逝ってしまった側室の手をとり、泣いていた。
「王、そろそろ……」
王妃が遠慮気に声をかけ、センを指した。王は初めて気が付いた、というようにセンに視線を送ると、泣きはらした目でセンを手招きする。
センはおずおずと王のそばに歩み寄るが、瞳からは恐怖と憎しみが溢れている。王はセンの顔を両手に挟み、長く見つめたかと思えば強引に抱き寄せまた泣き出した。
センの目は、苦しんだのであろう母を捕らえているのに。
「王、なぜ、母が、このような……」
苦しそうに一つ一つ言葉を紡ぐセンに、王は泣きじゃくり、答えることができない。代わりに、ルーク伯父さんが口を開いた。
「蛇、だ。蛇の毒にやられた」
「蛇? 」
「そう、この城には、いないはずの蛇だ」
冷たく言い放つルーク伯父さん。センとライアは、言葉の真意にすぐに気が付いたようだ。
「母は、殺された? 」
「おそらく」
それきり、誰も口を開かなかった。
気が付くと、ライアの部屋にいた。ライアは、まだ泣いている。センの気配は、どこにもない。
外が、少しずつ明るくなってきた。
静かな足音が、ドアの前で止まった。
「入るぞ」
そういってドアを開けたのは、ルーク伯父さん。軽食の乗ったトレイを俺たちの前に置き、自分も座った。
「伯父様、センは? 」
「王が、一緒だ」
王は、センの母をとても大切にしていた。王妃よりも、誰よりも。
それは、俺にもわかっている。
母さんや、王妃が同じ死に方をしたら、あんな風に泣いてくれるんだろうか。
「王女、シュウ」
「……はい」
「これから、お前達3人は一緒にはいられなくなるだろう。それぞれが最善だと思う事をして過ごしなさい。そうすれば、いつかまた一緒に過ごせる日が来る」
「……最善?」
「ライア、貴女は王女だ。この国を守り、民を導くことが王としての責務。貴女の最善だ。シュウ、お前は王家の子息とは言え、側室の子だ。この城に残る事は出来ぬだろう。それでも、城から離れて、国を、王女を守ることはできる。それは、お前にしかできない最善だ」
向けられた瞳は厳しいが、冷たいものではなかった。
「センは? 」
「……センは、王女の補佐となるべく、城に残るだろう。それは、私が決められる事ではない」
同じ側室の子でも、俺とセンは違う。それを、悔しいとか妬ましいとかは思わないが、一人で城を離れる事に不安が広がる。でも、俺が不安では、優しい兄姉は前に進めない。
「この国の王も、その補佐官も、俺が支える」
「……そうか」
ルーク伯父さんは、静かに立ち上がり、部屋を出ていった。
どれくらいの時間がたったのか、廊下を歩く軽い足音が聞こえる。見えなくてもそれが誰か、すぐにわかった。
「セン! 」
ライアが勢いよく扉を開けると、そこにはいつものセンは居なかった。あふれだす感情を、必死で抑えているのだろう。虚ろな瞳で、ぼんやりとライアを見つめながら、低く小さい声で言葉を紡ぐ。
「ライア、シュウ。今、王がここへいらっしゃる。お迎えの準備をしたいから、部屋の中へ」
「え、ええ……」
有無を言わさないセンに、ライアは困惑しながらも黙って従った。
「セン? 」
「ああ、シュウ……」
扉を閉めた途端、シュウが俺を抱きしめた。声を殺し、涙をこらえているが、泣いている。
どうしていいのかわからずに、センの背をさすっていると、落ち着いたのか身体を離し、ごめん、と笑う。弱々しい笑顔が、悲しかった。
「取り乱して、ごめん。いい? 時間がないから手短に話すよ。よく聞いて」
「俺のお母さんは、毒蛇にかまれて、死んだ。殺したのは蛇で、その蛇はもう死んでいる。これで、終わりでいい」
「……」
「だけど、王は誰かが蛇を連れてきたのじゃないかと、疑っている。王に疑われているのは、王妃と、マリだ」
センは、『シュウのお母さん』ではなく、マリと呼んだ。だが、それに違和感を唱えることは、許されない気がして、黙ってセンの言葉を待った。
センは静かに頬を濡らし、力なく何度も顔を振った。
「そんなわけない。二人は、母を憎んでなどいなかった。同じ王の寵愛を受ける者として、王妃には王妃の誇りが、側室には側室の誇りがある。でも、駄目なんだ。何を言っても、王は聞いてくれない」
ライアと俺は、言葉を失った。王妃も母さんも、センの母に毒蛇など放つわけがない。
「これから、どうなるの? 」
ライアが、真っ青な顔をして、床に座り込んだ。
「じい様とルーク伯父様は、味方だ。二人は、王妃やマリがそんなことするはずがないと、仰っている。俺も、王に何度でも伝える。時間がかかるかもしれないけど、必ず、わかってもらう。だから、待っていて」
まっすぐに俺達を見つめるセンに、ライアと俺は何も言えずに頷いた。
複数の足音が、階段を上がってくる。重く、暗い足音だった。
扉を開けたのは、じい様だ。困り果てた顔で、王を部屋に通す。今日始めて会った父は、憎々し気に俺を見た。後ろでは母さんと王妃が青白い顔をしている。
「エルは、二度と帰らない。これで、満足なのか」
誰に向かうわけでもない低く響いた声からは、愛しい人を亡くした悲しみと、行き場を無くした怒りを感じる。口を開こうとしたセンを、じい様が止める。今は、何をいっても無駄だという事だろう。
「おとう、さま……」
弱々しいライアの声に、王の拳は壁を叩いた。
何も、見えなくなっている。
こんなにも、センの母を愛していたのか。