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「明日は、満月だね」
窓の外に浮かぶ、少し歪んだ月を眺めながら美羽が嬉しそうに笑う。
ずっと昔、母も満月を心待ちにしていたのを思い出す。
嬉しそうに、少し歪んだ月を眺める母が、好きだった。
幸せそうに、嬉しそうに、いつもよりも少し明るい上衣に、月色の腰紐をまき、ゆったりとした動作で髪をまとめる。
満月の夜、梟の姿をとったじい様が、手紙とお菓子を届けにくる。
お菓子は俺に、手紙は母に。
手紙を読みながら、この世の終わりのような顔でため息をついたり、幸せそうにクスクスと笑ったりする母。灰色の瞳が月のように丸くなったり細くなったりするのを、子供心にも、可愛らしいと思ったのを覚えている。
「シュウ、遊ぼう」
時折、俺の家を訪れるライアとセン。少し癖のある柔らかい茶色の髪に、白い肌。鳶に姿を変える二人は、俺よりも少し年上だった。
母さんは、センの母親と紅茶を飲みながらおしゃべりを楽しむのが何より好きで、その間、俺たちは外を転げまわって遊んだ。
二人は、鳶に姿を変えることができるが、まだ飛ぶことは出来ない。鳶の姿をとると、いつもよりもずっと足は遅く、弱くなる。狼の姿をとって、速く強く走る事ができた俺は、いつも得意になって駆けまわった。
「いつか、空を飛べるようになったら、私たちの方が速いんだから。空を飛べたら、シュウには見れない景色を見れるんだから」
一番足の遅かったライアは、顔を赤くして俺を抱き上げ、空を飛ぶことがどれだけ楽しいか力説する。まだ飛べないんだろう? と笑う俺に、さらに顔を赤くするライア。
一番小さい俺が、狼の姿を取れば、誰よりも速く走る。普段はしっかり者で優しいライアが俺に嫉妬して顔を赤くし、穏やかなセンが、それを慰め調子にのった俺をたしなめる。
何よりも、楽しい時間。永遠に続くものだと、信じていた。
「ライアの家は、でっかいなぁ。なんで、扉までこんなに大きいんだ? 」
何日も降り続いた雨。外に出ることができずにすっかりふさぎ込んでいた俺を見かねて、ライアが自分の家に招いてくれた。話を聞いたとき、センは一瞬渋い顔をしたが、家から出れることが嬉しくて室内を跳ね回る俺に、すぐに笑ってくれた。
ライアの家は、俺の家からもよく見える、大きな家。
遠くから見るよりもずっと大きなライアの家。目の前に立ちふさがるような、扉のあまりの大きさに圧倒される。いや、扉よりも、その向こうのたくさんの人の気配に足がすくむ。見えないのに伝わってくる強い意志。それは、あきらかに俺達を歓迎していなかった。
「本当に、なんで、こんなに大きいのかしらねぇ。私一人じゃ開けることもできない」
ため息混じりのゆったりとした声に、こわばっていた俺の身体が、少し緩む。
センが息をつめて力いっぱいに扉を押すが、鈍い音をさせるだけでなかなか動かない。その音は、センを拒絶しているように感じた。
思わず手伝おうと前に出たが、センの母親に腕を取られ引き戻される。
「いいの、これはセンの仕事なの」
にっこりと笑っているが、瞳は強くセンを見据えている。
ゆっくりと開いた扉の中では、数人の大人達が頭を下げていた。身体は敬意を示しているが、隠しきれない敵意が室内にあふれている。母たちは穏やかな顔で奥へと進むが、俺は先へ進むどころか息をするのすら忘れ、センの後ろへと隠れた。
「それでも王家の子息か」
刺さるような冷たい声に顔を上げると、濃い灰色をした切れ長の瞳が俺を見下ろしている。若いが、その態度から見て、かなり上の位なのだということは、俺にも理解できた。
「オウケノシソク? 」
聞きなれない言葉に、俺はオウム返しに呟き、母さんは困った顔をして俺を抱き寄せた。
「母さん? オウケノシソクって、なに? 」
「……」
「教えて、いないのか……」
呆れたような溜息に、息を詰める母さん。こんな悲しそうに息を詰める母さんを、初めて見た。
「ライア、俺、帰る。母さん、帰ろう? 」
ここは、嫌だ。
誰一人、俺達を歓迎などしていない。俺だけではなく、母さんもセンも招かれざる客のようだ。いくらライアが招いてくれたと言っても、こんな場所ですごして楽しいわけがない。これなら、狭い家でセンと二人、雨空を眺めていた方がいくらかマシだ。
「……」
帰ろう、と手を引いた俺に母さんは首を振って、俺の肩を抱いた。
「お招きされたのに、失礼ですよ。シュウは、ご挨拶のできる子でしょう? 」
「……誰に? 」
誰に対して失礼だというのだろう。あからさまに嫌悪の意志を示している目の前の男達の方が、よっぽど失礼だ。
「ライア、帰ったの? お客様がいるのでしょう? 広間でお茶にしましょう」
穏やかな笑顔で、凍り付いた空気を破ったのは、ライアの母親だった。一度だけ、家に来たことがある。その時も、穏やかに笑っていた。ライアは、誰よりも大きな声で笑う。とてもライアの母親とは思えなかったのを覚えていた。
「王妃。ご無沙汰をしております」
母さんとセンの母が深く頭を下げるが、ライアの母親は、困ったように笑うだけだった。
「ルーク様も、一緒にお茶をいただきませんか? 」
ライアの母親は柔らかい笑顔で誘ったが、冷たい目で俺を見下ろしていた男は、無言で頭を下げその場を離れた。周りから音のない溜息が聞こえる。
「マリ、厨房の事は覚えている? 久しぶりに貴女の紅茶が飲みたいわ。お願いできる? 」
「もちろんです。喜んで」
短く、しかし嬉しそうに返事をした母さんは、俺の手を引き、暗い廊下を進んでいった。センとライアは、それぞれの母親たちとゆっくりと歩いてくる。
「ねぇ、母さん? どうして先に行くの? 」
「母さんは、お茶の支度をしなくちゃいけないからね。ここの紅茶はたくさんあるから、選ぶだけでも少し時間がかかるのよ。シュウも、お手伝いしてくれるでしょう? 」
「うん……」
母さんは、ここを知っている。お茶を入れるのは、母さんの仕事。扉を開けるのは、センの仕事。
それでは、俺は?
『オウケノシソク』とは?
母さんは、俺に何を隠していた?
聞きたいことが胸まで上がってきているのに、柔らかな笑顔で茶葉を選ぶ母さんに、何も聞くことができなかった。