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灯神祭  作者: 十夜凛
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 我らの中には、火が灯っている。

 温かくて熱い、命のともし火が宿っている。

 喜ぼう、敬おう。その火はいつかの今日の祭りに、灯神が与えたもうた。

 手をつなごう。温もりがあるだろう。

 我らの中には、火が灯っている。


 灯神を称える讃美歌の合唱が、灰色にけぶる空へと吸い込まれて消える。礼拝堂の突き立った屋根に光る風見を見上げて細い息を吐き出しながら、カルツは小さな声で、合唱をくちずさんだ。

 裏口の木戸をとめる鍵は、しんしんと止まない雪にさらされ続けて、凍てつくような冷たさだ。真っ赤になった指でそれをいじっていると、内側から静かなノックが響き、ドアが押し開けられた。

「そろそろ中へ」

 顔を出したミシェーラが、短く告げる。カルツは無言で頷いて、ドアの隙間に体を滑らせた。

 石炭ストーブの温かい空気が、正装に包まれた手足に纏いつく。黒のケープ、黒の上下、黒の革靴。雪景色に最も映える色だ。何百年も昔のノスフォールの人々は、黒に身を包むことで、深い雪の中でも灯神に見つけてもらえるのだと発想した。

 今日、その気持ちが初めて、こんなにもはっきりと分かる。

 紺色の緞帳を上げ、静かに促すミシェーラに従って、カルツは祭壇へと足を踏み出した。布一枚を隔てただけで塞がれていた視界が、大きく拓ける。ざわついていた礼拝堂が、カルツの足音に意識を吸い寄せられるように押し黙ったのが分かった。

 これだけの人間が一度に沈黙したら、鼓動の音まで聞こえそうだ。

 冗談でもなくそう思って、カルツは祭壇の中央に立つと、礼拝堂へ向かって一礼し、顔を上げた。

 優に千人はいるだろうか。ハーローツの初等科の生徒を最前列に、中等生、学生たちの家族、招待された地域の人々、どこからともなく集まってきた人々が並んでいる。皆一様に、正装なり黒の上下に身を包んで、今日の日の歌が灯神と自分たちとを結びつけてくれると心から信じ、待ち望んでいるかのように、カルツがうたうのを待っている。

 毎年、こんなにもたくさんの人に、嘘をつかせてきたのか。

 祭壇に横たえられた棺に目を落とし、君はすごいねと、心の中で語りかけた。カルセは答えない。青白い氷の花を胸に咲かせたまま、聖具である大理石の棺にぴたりと納まり、眠るように目を閉じている。

 生気のない、不透明に白くなったその頬に手を当てて、カルツは数秒、自らの熱を分けるように瞼を伏せた。

 昨日、灯神祭の予行練習で倒れたカルセは、教員室のストーブで一晩温めても目を覚まさなかった。胸の氷は何をしても解けない。手をのせても、火にかざしても、きらきらと輝きを放つばかりだ。

 灯神祭を、執り行おう。

 混乱の中、そう決定したのはスリンジャーだった。招待状は各方面に向けて、とっくに発送してしまっている。今さら式典を取りやめることはできない。ハーローツの礼拝堂は、毎年大勢の人々の、灯神祭の祈りの拠り所になる。一帯にここよりも人を受け入れられる教会はない。開催は覆せなかった。

 何よりも、ここならカルセを参加させられる。

 よその教会に運び込めば混乱を引き起こしかねないが、自校で行うものならば、何があっても対応ができる。今日の祭りは、生と死の狭間に落ちたカルセにとって、最初で最後のチャンスとなるだろう。祭りの聖具に隠して、灯神に最も近い場所へ、正装に着替えさせたカルセをゆかせる。

 そして今日、彼の代わりに祭壇へ立つのは、カルツだ。

 礼拝堂を彼方まで見渡して、カルツは自分に向けられる二種類の視線を受け止めた。ひとつは張り詰めた緊張。もうひとつは、穏やかな期待。

 前者は学院の生徒たちからのもので、後者は奥に腰かけた人々からのものである。この場所に集まっているほとんどの人は、カルツが昨日まで只人であったことを知らない。カルツの前に、横たわっている少年のことも知らない。学院に所属する若い灯守がうたう歌が聴ける。それだけしか知らないから、とても柔らかく微笑んでいる。

 カルツは目を凝らして、級友たちの姿を見つけた。事実を知る彼らの表情は、温かな祭りの気配とは程遠い。一様に眼差しを震わせて、カルツのうたうのを、今か今かと待っている。期待と恐れが綯い交ぜになっている、彼らの顔のひとつひとつに、カルツは自分が映っているのかと思った。

 家族席をざっと見渡して――母の姿は探さなかった。

 すべての事情は、今朝ミシェーラが到着した母を教員室に招いて伝えた。カルツは会わなかった。会って、錯乱した母の感情的な言葉を受けてしまったら、自分の胸に座した決意が粉々に砕かれるのが分かっていた。十年前の話は、灯神祭のあとに。ホットチョコレートの店で、カルセと母と三人で交わすと決めたのだ。

 そのために、今。

 灯守として、カルツはうたっている。

 伴奏に先導されて、細い声が礼拝堂に響いた。慎重すぎて弱々しく、神経質そうで、震えて痛ましい。参列した人々の中にも、次第にざわめきが広がっていくのが分かった。去年はこんなふうではなかったと、訝しみ、囁き合う声が天井まで膨れ上がる。

 無残なことだ。誰よりも深く、カルツは笑った。カルセのように歌いたいものだった。堂々として、まっすぐに前を向いて、光を振りかざすように。

 彼は眩しい光そのものだ。傍にあれば目の奥が眩んで痛むが、傍にないと、真っ暗で何も見えない。

 隣に立って照らし出されれば、カルセと比べて鮮やかな取り柄のない、みすぼらしい灰色の己を見て卑屈にもなる。でも暗闇の中では、影は消えてしまう。光がないと生きられない。厄介で、面倒くさい片割れだ。それが僕なんだと、カルツは棺を見下ろして瞼を閉じ、うたった。

 灯神に、命の火を乞うことが許された灯守の歌。灯神と人々を繋ぎ、新しいともし火を願う。

 もしもその血が本当に、この身に流れているというのなら。どうか氷の器となりかけている体に、もう一度火を。

 灯神の怒りは、灯神の火でしか解かせない。式典のためでもなく、そこに集まった人々のためでもなく、ただ自分のために、祈るようにカルツはうたった。糸のように細かった声はいつしか天井まで届き、彼の様子を苦笑いで見守っていた人々の声を振り切って、窓を貫いた。

 きらきらと、幾重にも剥がれ落ちる雲母の煌きのごとく、カルツの歌声は吹雪となって礼拝堂を包み込む。

 息を忘れて紅潮したその頬に、ふわりと温かな指が触れた。

 水色の眸が、夢でも見ているようにカルツを見上げている。歌がばらばらと、繋がる音符の螺子を一斉に外されたように壊れた。それを耳にしてやっと、彼はここが狭間ではないと理解したようだった。

「怒ってるよな」

 癖のない髪を指で乱して、カルセは静かにそう笑う。

「怒ってなんていないよ。全部、思い出したんだ。君は僕を守ろうとして、灯守を引き受けたんだろう」

 大役を奪おうとか、母の愛情を独り占めしようとか、そういうことを考えたわけではなく。分かっているよ、と言いながら現実であることを確かめるように手を取るカルツに、カルセは眉を下げて自嘲を漏らした。

「そのまま、忘れてりゃよかったのに」

「どうして」

「最高に恰好つかないだろ、こんなの。一生、騙して生きたかった。お前のことも灯神も、誰のことも。嘘は死ぬまでつき続けなきゃ、価値がないんだ」

 そんなことはない、なんて、慰めのつけ入る隙のない、はっきりとした口調でカルセは自らを詰った。

 その声の裏に、「守ってやるからな」と宣言する幼い声がよみがえって、カルツはああそうかと静かに納得した。

「大好きだよ、カルセ。最近、あんまり言ってなかったけど」

 生気を取り戻した眼差しが、驚きに見開かれる。

「でも、君はひとつ誤解をしてる」

 息を呑んだままのカルセに、カルツは続けた。ピアノの音はとっくに止まっているけれど、礼拝堂には囁き声ひとつ聞こえない。

 静寂が背中を押してくれる。今なら十年前、上手く言葉にできなかったこともきっと届く。思い切って息を吸ったら、瞼の裏に、あの春の教会の景色がざっと駆け抜けた。心が一足で、瞬間に駆け戻る。

「君は、僕が怖がったから、自分が灯守になって僕を逃がそうとしてくれたんだろう」

「……ああ」

「間違ってるよ。灯守になったら父さんみたいに、灯神様のもとへ連れて行かれるんだと思って怖くなったんだ。でも、それは自分が死ぬことを恐れたからじゃない」

「え?」

「君と離れ離れになるのが怖かったんだ、カルセ。僕は自分が死ぬのもいやだけど、君がいなくなるのはもっといやだ」

 カルセの眸が、ますますこぼれそうなほどに見開かれた。

 あのとき、カルツは確かに死を恐れていた。できることなら灯守にはなりたくないと思っていた。でもそれ以上に、カルセがいなくなったらどうしようと思って、怖かったのだ。

 守りたいと思っていたのは、カルツも同じだった。

「まあ、今さら言ったところで、信じてもらえないかもしれないけど。僕、いつも鈍くさくて、臆病で、カルセに守られてばかりだし」

「そんなことない」

 遮るように、カルセは言い放った。迷いのない、まっすぐな声だった。つけ入る隙があろうとなかろうと、そんなものは関係ない。やっぱり君は逃げないんだな、とカルツは心の奥で笑った。

「……暗闇の中で、お前の声が聴こえたんだ。さっき」

「粗末な歌だったでしょ」

「泣いているのかと思って、探し回ったら、遠くに光が見えた。駆け寄って手を伸ばしたら、とたんに眩しくなって、気づいたらこの場所で目が覚めていた」

 影も見えない暗闇を思い出して、カルセはかすかに声を震わせた。あの拙い歌を辿って、ここまで帰ったというのか。今度はカルツが思いがけない言葉に、返事をなくしてしまう。

 カルセはそんなカルツの頭に、もう片方の手も伸ばした。大理石に触れていた膚は表面こそ冷えているが、内側にはすっかり、いつもの温もりの息吹が戻っている。水色の眸が水色の眸の中に映って、明り取りから降り注ぐ冬の陽射しに抱かれ、湖のように揺れた。

 ラベンダー色の睫毛が、カルセの細めた目に合わせて光る。

「なあ、カルツ。知ってるか?」

「何のこと?」

「双子って、弟のほうが先にうまれるんだぜ」

 え、とカルツは瞬きをした。たくさんの本を読んできたが、初めて聞く話だった。双子は同時にうまれるものだと、頭から思っていた。

 カルツの知らない知識を持っていたことが嬉しいのか、カルセが得意げに笑みを深くする。

「兄より先に出て、道を開くんだと。真っ暗闇に、弟が光を通すんだ」

「カルセ……」

「守ってばかりだなんて、一度も思ったことはないさ。俺に光を灯してくれるのは、うまれたときから今日まで、いつだってお前だよ」

 ケープをはおった肩に、手がかけられる。カルツは頷いて、石の棺からカルセを引っ張り起こした。

 雪がひとひら、二人のあいだに舞い降りてきた。どこから、と見上げる間もなく、弾けて光の祝福に変わる。聖杯に焚かれた火が、ひときわ大きく金色にうねった。人々のあいだに、歓声が広がる。

「うたってくれ、カルツ。灯守の歌が、途中だったろ」

 固まった体をほぐすように大きく伸びをして、カルセが言った。視線を受けた伴奏係が鍵盤に指を置き、灯神祭の旋律が再び、礼拝堂にこぼれ始める。

 カルツは眼鏡の奥ではにかむように笑って、人々に向き直り、おずおずと口を開いた。


 我らの中には、火が灯っている。

 温かくて熱い、命のともし火が宿っている。

 喜ぼう、敬おう。その火はいつかの今日の祭りに、灯神が与えたもうた。

 手をつなごう。温もりがあるだろう。


 我らの中には、火が灯っている。




〈灯神祭/終〉



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