六
歌の上手いひとだった。
それが、父のことでただひとつ、はっきりと覚えている思い出である。灯守だった父は、カルツたちが四歳のとき、病でこの世を去った。享年三十七歳という若さである。
「特別な才のある方だったから。きっと灯神様に気に入られたのね」
町の教会で挙げられた葬儀の折、参列した近所の人がそう話しているのを耳にした。灯守の中でも、歌がとても上手かったから。きっと灯神様が傍で聴きたがったのだと、その人たちは涙を拭いて囁き合った。
後になって知ったことだが、父には元々、生まれつきの疾患があったそうだ。肺に病を抱えていて、幼い頃にした手術の痕が大人になっても痛々しく残っているひとだったという。手術は一応成功していて、生涯の中で病が吹き返すかどうかは五分五分だったが、悪いほうの五分に軍配が上がった。別離の予感に胸を痛める時間さえなく、父はあるとき突然に倒れて、そのまま息を引き取った。
人々はそんな父を悼んで「灯神様のもとへいった」と言ったのだ。今となっては、疑う余地もなくそう分かることである。
でも、四歳だったカルツには、言葉通り灯神が父を召したのだということしか分からなかった。
葬儀が終わって半年が経ったころ、母は教会に二人を連れて行った。春の晴れた日で、門の前を蝶が飛び交っていた景色を覚えている。母が神父と何事か話をして、カルツとカルセは年老いた神父の右手と左手に繋がれて、礼拝堂へ案内された。
「入って、順番に灯守の歌をうたってごらん」
それは、次の灯守を決める儀式だった。どちらが父の持っていた灯守の血を引いているのか、明らかにするための試練だった。
関係のない者は立ち入れないのが規則だと言って、神父は二人を残し、母のもとへ戻ってしまった。あいだの柵に、しっかりとした鍵をかけて。
やらなければここから帰してもらえないのだと、幼心に悟ったとき、カルツは思わずカルセの手をぎゅうっと握っていた。呆然として黙っていたカルセが、我に返ったように振り返った。
「怖いのか」
問いかけに、カルツは答えるのを躊躇った。認めてしまったら、ここから出してと大声を上げて泣いてしまう予感がしていた。
だから、代わりに言ったのだ。
「灯守になったら、父さんみたいに、連れていかれちゃうのかな」
カルセの眸が、大きく揺れた。
いやだ、と思った。だって、連れていかれてしまったら――
「心配するなよ」
ぎゅう、とカルセの手が、カルツの手を握り返した。
「おれが、守ってやるから。おれは、カルツの兄ちゃんだからな」
カルセが自らのことを「おれ」と言ったのは、そのときが初めてだった。カルツは泣きたいのを堪えて熱くなった頭で、父さんみたいだ、と思った。
カルセはにこっと笑って、礼拝堂のドアを開けた。子供の手には重いドアだったが、彼はそれを一人で開けた。まだ怯えていたカルツは、手を引かれるままに、兄の背中を追いかけて入っていくことしかできなかった。
背後でドアが軋んで閉まる。
「先にうたうよ」
祭壇へ向かって、まっすぐに歩き、カルセはそう言って目を閉じた。父の歌声を思い出しながら、なぞるように歌っていく。どれくらい歌ったらいいのか分からなくて、分かるところだけ歌った。
すぐにカルツの番が来た。さあ、と促されて、何度か口を開いたり閉じたりしながら、恐る恐る声を出した。
カルツは目を閉じなかった。正面に飾られた大きな聖杯を、涙で揺らめく目で見つめていた。このまま何事もなく歌が終わって、外に出たら母が立っていて、何事もなかったように家に帰って、すべてが流れてしまえばいいのにと思った。何も変わってほしくなかった。父を失い、ただでさえ毎日が悲しみの底にあったのに、これ以上なにを望まれているのか分からない。
父が帰ってくる以外の変化なら、ほしくない。
そう願いながら歌を終えた瞬間、見たこともないほどの眩しい光が聖杯に降り注ぎ、大きく弾けて辺りを包み込んだ。
「今うたったのは、どちらだ」
声がはっきりと聞こえた。
「どちらが、うたった?」
息を呑んでいると、答えを急かされる。瞼を閉じても開けても眩しくて、何も見えない。照り返す雪よりも眩しいものなど知らなかったカルツは、目が焼かれるような痛みに混乱して、何も言うことができなかった。
「ぼく……、おれがうたいました!」
カルセの声が、光を押し返すように答えた。
「いつわりはないか」
「おれがうたったんだ!」
「聴かせてみよ、もう一度」
大きく息を吸って、カルセが再度、歌をうたう。瓜二つの声で、先刻よりも恐る恐る、慎重に。カルセはカルツを真似てうたった。灯神は静かに耳を澄まし、口を開いた。
「……よかろう。そなたを灯守と認める」
光が急速に縮小し、聖杯の中に納まっていく。鳥の羽根ほどの大きさになって舞ってくると、カルセの頭の上に降りて、ぱっと弾けて消えた。
それは祝福のような光景だった。呆気なくて、綺麗で、恐ろしいことなど何一つなかった。
でも、カルセの未来が大きく捻じ曲げられた瞬間だった。立ち尽くしたままぼろぼろと涙をこぼしたカルツに、カルセはとびきり明るく笑って手を伸ばした。両手で髪をかき回して、カルツの頭を撫でる。
そうしておまじないのように、軽やかに言った。
「忘れちゃいな、カルツ。灯守はおれだ」
それはすべてを騙す、まっすぐで堂々とした声だった。
騙した神様の聖杯に向かって、満面の笑みを浮かべて、カルセはもう一度カルツの髪をくしゃくしゃと撫でた。
*
――カルセは、逃げない。
最初にそう思ったのは、四歳のときだったのだ。灯守になった日、あの教会で。カルツにとって何をするのも一緒の、分身のような双子の片割れだったカルセは、強く眩しい兄に変わった。ドアを開けて礼拝堂を出ていくとき、その背中には永遠に追いつけないのだという錯覚を覚えた。
カルセは、いつもと同じように手を引いてくれていたのに。ドアをくぐる前とは、すべてが大きく変わっていた。
笑顔で帰ってきたカルセを見て、神父も母も、カルセが選ばれたことを疑わなかった。カルツが泣いているのは選ばれなかったからだと思われて、大丈夫、灯神様は灯守でなくてもきみを見放しませんよと、神父になぐさめられて帰路についた。
「僕は……」
何もかも、思い出した。その晩、泣きすぎて熱を出して、病院に運ばれたことも。高熱にうなされて夢と現をさまよい、三日が経って、熱が下がったときにはほとんどの真実を忘れていたことも。
カルセが、それを聞いて「そっか」と笑ったことも。
何もかも、今、思い出した。
「……教員室に、彼を運びましょう。手を貸してくれますね」
ミシェーラの声に、うつむいていた顔を上げる。彼女が言葉を失った自分に助け舟を出したのだと気づくまで、少しの時間を要した。
スリンジャーがカルセを背負うように担ぎ上げ、無言で手伝いを促す。カルツは冷たくなったカルセの腕を肩に回して、教師二人に囲まれて逃げるように礼拝堂を去った。数えきれない視線が、ドアを閉めても背中を追いかけてくる。
――灯守は、僕だったんだ。
頭の中で噛みしめるように、真実を言葉にする。破られた氷の奥から、冷たい水が血流のように溢れてくるのを感じていた。目を開けていても、景色がぐらぐらと眩んで、自分がどこを歩いているのか分からない。
百合の匂いがする。カルツは唇を引き結んで、ミシェーラの髪に挿した一輪の花の、淡い香りを辿って歩いた。