四
ノスフォール地方の初雪は十月の頭で、雪解けは例年、翌春の四月の頭くらいである。実に一年の半分が雪と共にある。
灯神祭のころは特に雪が深く、毎日のように降っては積もり、解ける暇もない。町は人も建物も列車も、すべてが雪の谷に点在しているような光景だ。ガス灯が蓋の上にとっぷりと雪を積もらせながら、白銀の隙間に細く赤煉瓦の覗く石畳の路を照らし、建物の明かりが街路の左右に押し分けられた雪山に黄色く落ちる。
子供たちは土で遊ぶよりも、雪で遊んで大きくなる。冬のノスフォールには、家々のあいだで遊び回る子供の姿が多く見られた。
その光景は、学院という門の内側でも変わらない。
「あ、またやってるよ」
寮から続く渡り廊下を曲がって校舎の中庭に差しかかったところで、マレが前方を示して言った。図書館で借りた植物図鑑の表紙に落としていた視線を上げて、カルツもああと慣れたものを見る眼差しを向ける。
級友たちが十人余り、雪合戦に興じていた。冬の昼休みにはよくある光景だ。今日は人数が少ないほうだなあ、と白い息を吐く。
相手になっているのは、一組の生徒たちだ。いびつな雪の壁から飛び出した横顔に、カルツは思わず、眼鏡の奥の目を丸くした。何かを察知したのか、横顔がふいにカルツのほうを向く。
よう、とカルセは片手を上げた。
その仕草に気づいた数人が、カルツたちのほうを振り返った。
「お前たちも入れよ」
「一組が多くて、苦戦してるんだ。手伝って」
「いや、僕は……」
本持ってるから、と。断ろうとしたカルツの視界が、白く染まって弾ける。誰かが雪玉を誤ってカルツの顔面に投げつけたのだ。ごめん、と遠くで詫びる声が聞こえたが、眼鏡をはらったときにはもう、試合が再開していて誰にやられたのか分からなかった。
「カルツ?」
渡り廊下にかばんを下ろし、その上に本を下ろしたカルツを見て、マレが首を傾げる。友人が何かを訊ねるよりも早く、カルツは中庭に飛び出して雪を掴んだ。
真っ白なその塊を、向かい合った生徒に向かって投げる。
「カルツが入った!」
「いいぞ、やってやれ!」
わあっと、二組の生徒たちが沸き立った。相手になっている一組の生徒たちも、カルツの姿をみとめると、期待ともの珍しさに輝いた眼差しを浮かべる。カルツは一気に狙いの的になり、紺色のコートがあっという間に白く染まった。投げ返す球はほとんどが壁さえ越えなかったが、盛り上がった級友たちの球が、カルツの分まで相手の陣を脅かしてくれた。
遅れてマレも加わり、人数が拮抗した二組は壁を壊して、中庭は乱戦状態になった。もう敵の球だけではなく、味方の球さえ当たってくる。遠くに生き生きと合戦場を駆けるカルセの姿が見えた。数人に追われて崩れた壁を飛び越え、膝の上まで沈みながら、雪に埋もれた花壇のあとを見つけて高台を取り、すかさず攻撃に転じる。
水色の眸が、薄氷のように煌くのを見た。
カルツは離れた場所から、悴んだ手に雪玉を作り、カルセを目がけて力いっぱいに投げた。
「あ」
球は想定より遥かに、左へと逸れていく。当たらないや、と諦めたのも束の間、飛んでいった先に目を向けて、カルツは思考が停止するのを感じた。
渡り廊下の曲がり角から、百合を挿したハニーブロンドが現れたのだ。
雪玉はまっすぐに、星のような軌道を描いて飛んだ。そして数人の生徒が息を呑む中、ミシェーラの横顔に当たって、粉々に砕け散った。
「ミシェーラ先生!」
誰かが叫んで、ぎょっとしたように中庭が静まる。何が起こったのか分からなかったのだろう、驚きのあまり悲鳴と共に腰を抜かしたミシェーラに、その場の全員が一歩、逃げるように後ずさったのが空気で分かった。
違ったのは、二人だけ。
カルツは身動きが取れなかった。初等部からの学院生活で初めて犯したかもしれない派手な失態に、心臓が止まってしまったみたいに動けなかった。
駆け出したのは、カルセだった。彼はただ一人、寸分の躊躇いもなく動いて、ミシェーラに駆け寄った。雪にまみれた制服もそのままに、渡り廊下に膝をついて、ミシェーラに手を差し伸べた。
「誰ですか、一体」
「申し訳ありません、先生。俺が投げました」
目元についた雪を振りはらい、カルセの顔を見たミシェーラは、まあ、と悲痛な声を上げた。信じられない。そう言いたいのがありありと聞こえてくる声だったが、カルセは畳みかけるように口を開く。
「遊びに夢中になりすぎて、周りが見えていませんでした。本当にすみません」
「ええ、まったく……まったくですよ。生徒会長ともあろう貴方が」
「以後気をつけます。……あ、荷物が」
転んだときに取り落としたのだろう。ミシェーラの足元に、ノートと紙が散らばっている。カルセは手早くそれらを集めて、少し濡らしたことを詫びると、順番通りに並べ直してミシェーラに返した。
「元気なのは良いことですが、もう元気なだけの子供ではないのですから、気をつけなさい。皆さんもですよ」
はい、と雪のあいだから返事が上がる。カルツはそのときになって、自分以外の生徒が皆、いつのまにか雪の陰に身を潜めていたのに気づいた。
「貴方は礼拝堂に来てください」
「掃除ですか」
「いいえ、灯神祭の件で用があります。先に行っていますから、この雪だらけの渡り廊下を掃除してからいらっしゃい。いいですね」
はい、とカルセは素直に返事をする。ミシェーラは立ち上がり、ワンピースの裾をはたいて礼拝堂のほうへと歩いていった。
危なかったな、焦ったな、と口々に言い合いながら、雪の陰からいくつもの頭が姿を現す。ぼんやりとその中心に立ち尽くしているカルツのもとへ、カルセがやってきて、心臓の上を拳でとんと叩いた。
「ばか、何やってんだよ。ああいうときは、周りと一緒に逃げとけって」
「え……」
「まとめて叱られたら、庇ってやった意味がないだろ?」
あ、と言葉にならない返事を吐き出す唇から、漏れる息は白い。箒持ってくる、と誰かが言い、頼むわ、とカルセは笑った。
「そんなこと……」
「ん?」
「君に押しつけて逃げるなんて、そんなこと、僕には」
できないよ、と。言いかけて、カルツは口を噤んだ。ふと、本当にそうだろうか? と頭の奥で自分の声が言葉を阻んだ。
カルセがどうしたと言いたげに首を傾げる。目線の高さがぴたりと重なると、やはりその顔は、毎朝鏡の中で見ている眼鏡を外した自分の顔とよく似ていた。
「嘘をつかせてごめん。灯神様が君を怒らないといいけど」
ようやく絞り出せた言葉に、カルセが一瞬、拍子抜けしたような表情を浮かべる。眸の底に言い知れない揺らぎが覗いて、血色のいい唇が、薄く弧を描いた。
「灯神? あんなもん、怒ったって別に」
「持ってきたぞ」
はっと、我に返ったようにカルセは続きを飲み込んだ。自分が驚いた顔をしているのが、カルツは嫌というほど分かった。
「ありがとう。よし、さっさとやるぞ」
箒を掲げて帰ってきた級友に、カルセはいつもの口調で答える。雪をかき分けて歩き、二本の箒を借りて帰ってくると、一本をカルツに差し出して問答無用で握らせた。
「お前も手伝えよ」
「……もちろん。そうだ、カルセ」
話はもう終わったと、言外にはっきりと伝えてくる態度だった。最後まで聞かなくて済んだことに、どこかほっとしている自分に気づいて、カルツは愕然とする。
ノスフォールにうまれて、灯神を軽んじることは、命を軽んじることと同義だ。口にされたら、なんと返したらよいのか見当もつかない。カルセがなぜそんな発言をしかけたのか、それだけが頭の片隅にこびりついて離れない疑問だったが、問い直す勇気は出なかった。
せめて、彼が灯神の怒りに触れて、この大切な時期に罰を受けないように。コートを脱ぎ、下に着ていたジャケットを差し出す。
「交換しよう、制服が濡れてる」
「え? でもお前は」
「僕はコートがあるからいい。灯神祭まであと一週間なんだ、いま君が風邪を引いたらだめだよ」
ね、と微笑んで手渡せば、カルセは少し迷ったものの、分かったと言って受け取った。カルツは代わりに濡れたジャケットを受け取る。教室に戻って、ストーブの傍に置いておけば、放課後には乾いているだろう。
「カルセ、礼拝堂に行くんだろ? 掃除ならおれたちがやっとくから、行けよ」
一組の生徒たちが集まってきて、カルセの手から箒を取り上げた。悪いな、と礼を言って、渡り廊下を歩き出す兄の背に、カルツは視線を向ける。
昔から。
いつもそうだ。カルセは逃げない。逃げずに立ち向かうカルセの後ろ姿が、自分の前には昔から、ずっと立っている。
……いつから?
「カルツ? どうかした?」
「あ、いや。ごめん」
「いいけどさ。掃除やっちゃおうよ」
マレに覗き込まれて、カルツはびくりと肩を跳ね上げた。その反応に驚いた顔をしながらも、自分を促してくれたマレに気づいて、小さく礼を言った。
一組の生徒たちにまじって箒を動かしながら、思う。
カルセは逃げない――最初にそう思ったのは、いつの記憶なのだろう。幼心に焼きついたことだけは覚えているのだが、いつ、どうしてそう思ったのか、まるで思い出せない。
頭の奥に厚い氷が張っているみたいだ。カルツは下を向いて、カルセの目を思い返した。あれも、氷のような目だった。逃げずに割ったら、何か溢れたのだろうか。
礼拝堂に着くと、ミシェーラが花瓶の花を入れ替えているところだった。雪のように白い百合の花が、白に瑠璃色をまぜたガラスの器の上で、凛として首を持ち上げている。
当日の立ち位置を決めたくて呼んだのだが、式典の進行を書き記した紙を教員室に置いてきてしまった。取ってくるからここで待っているようにと言い残して、ミシェーラは足早に礼拝堂を出ていく。
後に残されたカルセは、乾いたジャケットの下で肩を竦ませ、白い息を吐き出した。礼拝堂では特別なとき以外、ストーブを使わない。左右の壁に高く並んだ明り取りからこぼれる光は薄く、陽だまりに腰を下ろしても、感じられる温もりはほとんどなかった。
「灯神、ねえ……」
姿を描くことを禁じられているその神のため、祭壇には大理石で彫られた聖杯が掲げられている。灯神祭の日、そこに薪を入れ、灯される火は赤々と温かい。聖杯は灯神の椅子だ。説教台に飾られた百合の花を見上げて、は、と褪せた笑いを漏らし、カルセは脚を組んだ。
灯神の存在を、否定はしない。
でも、それを純粋に拝み、跪いて尊び敬うことは、もう十年も前の遠い昔にやめた。