8. スタミナがないので得意なのは短距離だけです
「ほらのり子見てみろ、父さん頑張ってアサリの味噌汁も作ったんだぞ」
死んだはずの父・梅座衛門が、エプロン姿でいそいそとテーブルに配膳をしていた。
その姿は最後に見た二年前と何も変わっていない。
「どうしたんだのり子、ぼーっとして。父さんの顔に何かついてるか?」
すらりとした長身、少しクセのある柔らかな黒髪、春の陽射しのような笑顔。
ご近所の主婦にとても評判の良い、のり子にとっては自慢のお父さんだ。
日曜参観では担任の女教師が父を見て頬を赤らめ、クラスメイトには「御握さんのお父さん俳優さんみたい」と褒められたこともある。
小学校低学年の頃はよく父に遊んでもらっていた。夕暮れの公園で一緒に泥んこになるまで走り回り、帰宅して母に怒られるのが日課だった。
――その大好きな父が、今、のり子の目の前にいる。
「……ね、ねえカケル君。あれってお父さんの幽霊かな?」
「いや……どう見ても生きてるっぽいけど」
「だよね」
のり子とカケルがひそひそと話し合っていたら、父が二人に向かってにこりと微笑んだ。
「そっちの子はのり子の友達かな? 良かったら君も食べて行きなさい」
「え、いいんスか? ラッキー」
「味噌汁のアサリは平気かい?」
「全然大丈夫ッス」
「良かった。貝類は好き嫌いがあるからね」
「俺好き嫌いないんで」
「余ったアサリでバター醤油焼きも作ったんだけど、それも食べる?」
「うわマジッスか超食べますよ」
「ちょちょちょっと待ってお父さん!」
なごやかに食事を始めようとする二人の間にのり子が割って入った。
「どういうことなのお父さん」
「何が?」
「だって、こんな、お父さんが、うちで料理作って……」
「ああ驚かしてごめんな。電気代節約のために日没ギリギリまで電気点けずに頑張ってたんだよ。家の中が暗いから誰もいないと思ったんだろ?」
「いやそういうことじゃなくて……」
「ただいまー」
玄関から母の声が聞こえた。
「あら、のり子帰ってたの」
新聞社に勤めている母・マヨ子がリビングに姿を見せた。「今日は珍しく仕事が早く片づいたのよ」と上機嫌であったが、
「――なにコレどういうこと?」
梅座衛門の姿を見つけると途端に眉間に皺を寄せ、持っていたハンドバッグを床に投げ捨て、ずかずかと夫の傍まで詰め寄った。
「ちょっとあなた。昨日も豚の生姜焼きだったのよ。これじゃ二日連続になっちゃうじゃないの」
「お母さんツッコむとこそこじゃないよ!」
「ごめんなのり子、昨日が豚の生姜焼きって父さん知らなかったから……」
「お父さんも謝るとこそこじゃないよッ!!」
「御握さん落ち着いて」
興奮するのり子の背中を、カケルがぽんぽんと優しく叩いた。
「――まあみんな、とりあえず食べようよ冷めちゃうから」
梅座衛門の一声で、全員が食卓に着いて生姜焼きを食べ始めた。
カケルの頭にある獣耳を見ても特に動じることなく夕飯を食べる父と母を、さすがだなとのり子は思った。
「おいマヨ子、生姜焼きに大量にマヨネーズかけるのやめろみっともない」
「何言ってんの。生姜焼きにはマヨネーズでしょうが」
「マヨかけなくてもいいくらいに俺が美味い味つけしてあるんだから」
「いちいちうるさいわね。のり子、冷蔵庫から漬物出してきて」
「昨日もらったやつ?」
「そうそう。お隣さんから戴いたべったら漬け美味しいのよ~。良かったらカケル君もどんどん食べてね」
「ありがとうございまーす。御握さんのお母さんがこんな美人だなんてマジびっくりッスよ。お姉さんかと思いました」
「あらやだカケル君て正直な子ね! おほほほほほほほほほ!」
「御握さんのお父さんも若いッスねー。もっといかつい感じの人かと思ってたのに超イケメンッスね」
「いやあー俺ももうすぐ四十七なんだけどいつも三十代に見られちゃうんだよねあはははははははははははは」
ダンッ! と力強くべったら漬けの器をテーブルに置いたのり子は腕を組み、
「お父さん、二年間もどこ行ってたの」
半ばキレ気味で質問を投げかけた。
梅座衛門は味噌汁をずずずとすすりながら、
「海」
と、しれっと答えた。
――海ってなんだ。どういうことだ。
のり子が睨みつけていると梅座衛門はポリポリと頭を掻いた。
「まあその、アレだ、父さんちょっとした手違いで借金を作っちゃってな」
「借金? なんで?」
「んー、まあー、何て言うか、麻雀だ」
「はあ?」
「麻雀に負けてな、借金背負っちゃったんだよ」
「なんで麻雀? 二年前にお父さん、血坂霧之助を殺しに行ってくるって言ってたよね?」
「うん、だから、血坂霧之助に麻雀で負けたの」
「はああ?!」
霧之助君て麻雀するの?!
のり子はとっさにカケルの方を見たが、カケルは夢中で生姜焼きを頬張っていた。
「でな、借金返済のために一年ほど海でお魚を獲ってたんだけど、まだ返し切れなくてな。今は飲食店に住み込みで働いてるんだ」
借金返済のために海に出ていたとは。
何も知らなかったのり子は頭の中が真っ白になった。
「……私、てっきりお父さんは死んだと思ってた……」
のり子の言葉に、梅座衛門はケタケタと笑った。
「おいおいのり子、縁起でもないこと言うなよ。お父さんは見ての通りピンピン生きてるぞ」
「だってお母さんが、一年くらい前に『お父さんのことは忘れなさい』って……」
のり子がマヨ子の顔をちらりと見ると、
「オカマバーで働くお父さんのことなんて忘れたいでしょ?」
妻マヨ子の冷たい一言に、梅座衛門は笑いながら一筋の涙を流した。
梅座衛門の言う飲食店とは、どうやらオカマバーのことだったらしい。
「で、なんで今頃のこのこ帰ってきたのよ?」
べったら漬けをバリバリ食べながらマヨ子が聞いた。
「最近はもう仕事も覚えたし、出勤形態に余裕ができてきたから、ちょっと家の様子でも見ようかなーと思ってさ」
「余裕が出てきたってそれ、あなたの人気が無くなったってことじゃないの?」
「違うよ結構人気あるよ俺。トイレ掃除とかそういう雑用をしなくて良くなったんだよ。固定客多いんだぞ俺」
「客って全部男なんでしょ?」
「いや実際はそーでもないんだよ。それにかなりの大物も出入りしてるぞ。お前が泣いて欲しがるようなネタも結構仕入れてるんだからな」
「本当に? 今度お店に取材に行ってもいい?」
「ちょっと二人とも!」
のり子が両手でテーブルを叩いたので、父と母は驚いた。
のり子の全身がわなわなと震えている。怒りなのか何なのか本人にも分からない。
混乱するのも当然である。だってのり子は父が死んだと思っていた。
そして父の仇を討とうと決意し、恐ろしい魔界の学園へと足を踏み入れたのだ。
何の特殊能力も持ち合わせておらず、父の仕事を見たのもただ一度だけ。そんなのり子が魔界に潜入するのにどれほど苦労したか。
なのに父は生きていた。
しかもオカマバーで働いているらしい。
目の前でべったら漬けを食べながら夫婦で呑気な会話をしている。
無事で生きていたことは嬉しいけれども。
嬉しいんだけどなんだかもう。
このモヤモヤした気持ちを一体どこにぶつければいいのだ。
「……私、私っ、お父さんの仇を討とうと思って綾菓子学園に潜入までしたんだよ!」
「すごいなのり子、さすがお父さんの娘だ」
「でも全部無駄な努力だったじゃない!」
「無駄じゃあないぞ。全ての元凶はあの血坂霧之助だからな。ガツーンと仇を討ってくれ」
「しないよそんなの! 霧之助君何も悪くないじゃんただの八つ当たりじゃん!」
「あ、そうだのり子、お前綾菓子学園に通ってるならこいつを頼む」
梅座衛門が一枚の紙切れを出してきた。
そこには「誓約書」という三文字が書かれているだけで、あとは真っ白だった。
「何これお父さん。何の誓約書? 内容が全く書かれてないけど」
「いいんだ、とにかくその紙に血坂霧之助のサインをもらってこい」
「へ?」
誓約書をちらりと横目で見たカケルが、一瞬何か言いたげな目をしたが、すぐに目を逸らしてアサリのバター醤油焼きを食べた。
「サインってどういうことお父さん?」
「いいからもらってこい。それでお父さんは借金地獄から逃れることができるんだ」
「え、そうなの……?」
「そうだ。サインでも拇印でも血判でも何でもいいからもらってきてくれ」
よく分からないが、借金がなくなるならそれに越したことはない。
でも、こんな真っ白な紙切れにサインしてもらっただけで、本当に借金が片づくのだろうか?
「――すまんなあ、のり子。お前には昔から寂しい思いばかりさせて」
飲み干した味噌汁の器をコトリと置き、ため息混じりに梅座衛門がつぶやいた。
「小さい頃はお前とよく遊んだよなあ。でもそれも九歳くらいまでだったかな。その頃から俺の仕事が急に増えてしまって……」
「……そうね、私ものり子が高学年になった頃から仕事が忙しくなっちゃったから……」
しょんぼりと項垂れる両親を見て、のり子は急にいたたまれなくなった。
「ちょ、ちょっとやめてよ二人とも今さらそんなこと……」
確かに同世代の子供と比べると、一人で過ごす時間が多い方だったと思う。
だがしかし、親からの愛情が薄いと感じたことは一度もなかった。
父も母も、のり子を一番大事に思っている。それは直接言葉にしなくても、いつものり子に伝わっていた。
「借金が全部返せたら、家族で温泉旅行にでも行こうか!」
梅座衛門が嬉しそうに言った。マヨ子も「いいわね!」と賛成する。
家族で旅行なんて何年ぶりだろう。のり子も思わず胸が高鳴った。
「どこの温泉がいいかな。定番は熱海かなあ」
「草津もいいわよねえ。のり子はどこがいい?」
「私はどこでも……」
「父さんはやっぱり箱根がいいなあ」
「俺は湯布院行ってみたいっス」
ぴた、と会話が止まった。
家族水入らずの食事風景に、明らかに余計な人物が混ざっている。
「そうそう忘れてた」
梅座衛門がゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に行くと、
「――尾野カケル君だっけ?」
日本刀を持って戻ってきた。
「ちょっと何の冗談ッスか?!」
カケルが反射的に椅子の上に飛び乗った。
獣耳が後ろ向きにねじれて、警戒モードに入っている。
「いや、よく考えたら年頃の女性の家に男がこんな時間に上がり込むとか超非常識だなあと思ってね」
「だからってなんで日本刀?!」
「ちょっとそこに正座しなさい気合い入れてあげるから」
「気合いっていうか斬る気満々じゃねーか!」
「やめてよお父さん!」
「なんだのり子、お前まさかこんなのとつき合ってるのか? 化け犬の彼氏なんてお父さん認めないぞ!」
「化け犬じゃねーし! 俺は人狼……」
風を切る音が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはもうテーブルが真っ二つに割れていた。
梅座衛門が伝説の剣・米一文字をガッツリ振り下ろしていた。
カケルの悲鳴と母の怒号が家中に響いた。
逃げたり追いかけたり取り押さえたり、全員がもみくちゃになっているうちに、満月の夜は更けていった。
***
「――今日は体力テストをやります。そこに順番に並んで下さい」
朝からだるいわねーとぼやく咲子に続いて、のり子も列に並んだ。
今日の一時間目は体力テストのようである。
クラス全員がジャージに着替えて、グラウンドにぞろぞろと整列した。
「うぃッス」
後ろから声を掛けられて振り向くと、カケルが立っていた。
顔のあちこちに青あざがあり、右頬には白いガーゼも貼ってある。
「カ、カケル君……昨日はすみませんでしたうちの父が……」
「いやー全然平気っていうかもうむしろ何のこと? 昨日何かあったっけ? みたいな感じだよね楽勝だよね。全然怖いとかなかったから。マジ怖くなかったから」
昨夜のことを思い出しているのか、カケルはちょっぴり涙目だった。
「……すみませんでしたとにかく」
「でも良かったじゃん。オヤジさん生きてて」
「まあ……そうですね。借金だらけですが」
「誓約書にサインしてもらえばチャラなんだっけ?」
「はい。でも本当なのかな……」
ジャージのポケットから例の紙を取り出す。
こんな一枚の紙切れに、効力は本当にあるのだろうか。
「――次、御握さん」
「あ、はい」
呼ばれて慌てて前に出た。
本日最初のテストは百メートル走である。
実はのり子は、足にはかなり自信があり、高校では学年一位になった経験がある。
「――信じられない……ッ!!」
測定係をしていた生徒が驚愕の声を上げた。
「御握さんのタイム、11秒05!」
「遅すぎるッ!!」
クラス全員がどよめいた。
それもそのはず、綾菓子学園ではほとんどの生徒が、百メートルを1秒ほどで完走するのだ。
「11秒なんて遅いタイム生まれて初めて見たよ!」
「どうしたの御握さん体調が悪いんじゃない?」
「後日改めてテストし直した方がいいよ!」
「ストップウォッチの故障かも!」
「靴がおかしいんじゃない? 私のスニーカー貸してあげようか?」
「そうよちゃんとした靴で走り直せば大丈夫よ!」
「い、いえ、あの私は……」
みんなに詰め寄られてのり子は焦った。
何回やり直したところで、のり子はこれ以上のタイムは出せない。てゆうか1秒で走るとか普通の人間には無理に決まってる。
(――そうだ! こんな時はカケル君!)
のり子が人間であることを知っているのはカケルだけだ。この場を乗り切るために、彼に助け舟を出してもらおう。
「……って、いないし!」
グラウンドのどこを見てもカケルの姿はなかった。
その頃カケルは、霧之助を校舎裏へと連れ出していた。
「わりーな霧之助。こんなとこ呼び出して」
「別にいいけど授業中だよ」
「ちょっと聞きたいことあってさ」
「どしたのカケル。真剣な顔して」
「お前さあ、麻雀ってする?」
「麻雀はやったことないなあ。ルールを知らないし。チェスならたまに父さんとするけど」
「だよねー」
それがどうかしたの? と霧之助は聞いたが、カケルは「いや別にー」と言いながらグラウンドとは違う方向へ歩いて行った。この後の授業はサボるつもりらしい。
同時刻、のり子は百メートル走を二十回ほどやり直しさせられていた。