3. タルトタタンも大好きです
御握のり子は気づいた。
心臓に杭を打ち込むとか怖すぎて絶対できない。
転校初日はテンション上がってたからアレだけど、冷静に考えたらできっこないって言うか心臓に杭とか吸血鬼じゃなくても死ぬわ。
「というわけでネットでこんなの買ってみました」
のり子が胸元から取り出したのは、銀色に光る十字架のペンダント。
吸血鬼は十字架が苦手なのは有名だ。映画なんかでもよく、十字架を見せられてギャーッとなってるのを見たことがある。十字架を見せただけでは死なないのだろうけど、多少のダメージは与えられるはずだ。
血坂霧之助にこの十字架ペンダントを見せて、ギャーッとなったところを、上手い具合に、なんかこう、グワッと、できるんじゃないかな。
「御握さん一人で何ぶつぶつ言ってるの。こっちだよ」
「あ、はい」
呼ばれてのり子は慌てて追いかけた。
今日はこれから、髪を切りすぎて不登校になった落ち武者亡霊の無念君の家に、千羽鶴と今週のプリントを届けに行くのだ。それも――
「今日は日射しが強いよね。御握さん日傘ないけど暑くないの大丈夫?」
「いやまだ四月になったばかりでむしろ肌寒いって言うかもう夕方ですし薄暗いですし」
――血坂霧之助と二人で行くのである。
今朝、日直当番である霧之助が放課後に無念君の自宅に行くというのを聞いて、のり子も同行を名乗り出た。二人きりになれば復讐のチャンスもあるに違いないと思ったのだ。
隣を歩く霧之助の顔をそっと盗み見る。
日傘をさして歩く彼の顔は青白く、そしてどうにもつまらなさそうな無表情だ。
こうして見るとただの不愛想な色白少年だが、赤く光る瞳が、彼が吸血鬼であることを証明している。
じろじろと眺めていたら、ふと目が合ってしまい、のり子は慌てて、
「む、無念君、元気ですかね?」
と、話しかけて誤魔化した。
「どうだろうねー。元気だといいねー」
「あの……無念君て、どんな感じの人ですか?」
「うーん、どんな感じと言われてもなー」
「やっぱりこう、おどろおどろしい感じですか?」
「あー、まあねー、暗いとかはみんなによく言われてるよね」
「マジですか」
のり子は思った。もしかしたら落ち武者の亡霊の家ってめちゃくちゃ怖いんじゃないかな。
昔ながらの日本家屋で、恐ろしげな雰囲気が漂うお化け屋敷のような家を想像して、やっぱり帰ろうかな……と後悔し始めた時、
「着いたよ御握さん」
霧之助に声をかけられて、思わず顔を上げた。
そして見上げて驚いた。
無念君の自宅はなんと、四十八階建て高層タワーマンションだった。
「――あらまあ霧之助君久しぶりね! うちの子のためにわざわざありがとうね」
たっぷりとした金色の巻き髪、ふわふわレースワンピースにふわふわレースエプロンの愛らしい女性を見てのり子は驚愕した。
マンション最上階まで高速エレベーターで上がり、無念君の自宅である四九八九号室のインターホンを押したら、ドアから出てきたのは、何と言うか、例えるならまるでキャンディキャンディみたいな女性だった。
これが無念君のお母さんなのか?
落ち武者亡霊の母親がなんでこんなアーリーアメリカンなお母さんなんだ。
さあ上がってちょうだいな、とリビングに案内された。ふかふかのソファーで待っていると、キャンディキャンディがお盆を運んできた。
「熱いうちにどうぞ。お口に合うといいんだけど」
落ち武者亡霊の家で、紅茶と焼きたてのアップルパイが出てきた。
どうしよう。これは予想外だ。
しかもアップルパイはサックサクでとろけるように甘くて、今まで食べたことないほどに美味しかった。
「霧之助君はトマトジュースの方が良かったかしら?」
「やだなおばさん、俺トマトジュース飲めないって前にも言ったじゃん」
「うふふ、そうだったわね。霧之助君を見るとついトマトジュース出したくなっちゃって」
「おばさんいつもそれ言うよね」
キャンディキャンディに向かっておばさんとか言っちゃう霧之助を、心の中でちょっぴり尊敬した。
てゆうか吸血鬼のくせにトマトジュース嫌いなのか。
いやでも別に間違っちゃいない。吸血鬼の好物は本来トマトジュースではない。
一番最初に吸血鬼とトマトジュースを印象づけたのはどの作品だっただろうか。
「――のり子ちゃんは今週からうちのクラスに転入してきたんですってね?」
おばさんがにっこりと向日葵のような笑顔を見せた。
「あ、はいそうです。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。学校にはもう慣れた?」
「はい、まあ……」
「うちの子もねえ、早く学校に行けるようになってくれればいいんだけど」
「……部屋から出てこないんですか?」
「そうなの。今さっきも『霧之助君が来てくれたわよ』って声かけたんだけどねえ」
不登校の息子を思ってため息を吐くその姿は、どこにでもいる普通の母親だ。背後にヒトダマとかも浮かんでないし、足だってちゃんとある。とても落ち武者亡霊の母親には見えない。と言うかそもそも亡霊の母親って何だろう。
「――ああそうだわ、二人ともあの噂知ってる?」
「何ですか?」
「近頃、魔界人のふりをした人間が、学校なんかに忍び込んでることがあるらしいの」
ぶっほおぉぉ! と、のり子は紅茶を噴き出した。
「それマジで? 人間が忍び込んでるとか超怖いじゃん」
無言でアップルパイを頬張っていた霧之助も目を見開き、驚きを隠せないらしい。
「ほんと怖いわよねえ。魔界も物騒になったものだわ」
「てか、何のために忍び込んでくるの?」
「さあねえ。人間は何を考えてるか分からないから怖いわ。のり子ちゃんも夜道とか一人で歩いちゃだめよ?」
「は、はい……」
「でもさ、人間かどうかなんてすぐ分かるよね」
霧之助の言葉に、のり子はカップを落としそうになった。
「そうよね、どんなに変装しててもすぐにバレるわよね」
「うん。食事の仕方を見ればすぐ分かるよね」
食事の仕方で分かるとはッ?!
のり子は全身から冷や汗が噴き出した。
食事の仕方で人間かどうか判断できるなんて、そんなのは聞いたことがない。今ここで呑気にアップルパイを食べているが、この食べ方でバレるのか? どう食べればバレないんだ? もしかしたらもう既にバレているのか?
「……そろそろ来る頃だと思っていたけど、どうやら来たみたいだわ」
ふいにインターホンが鳴った。
おばさんがゆっくりと立ち上がって玄関の方へ向かう。
霧之助と二人、リビングに残されたのり子はドクドクと脈打つ鼓動を抑えるので精いっぱいだ。
なんだろうこの緊張感は。
やっぱりバレているんじゃないだろうか。
今、玄関に誰か来ている。
もしかしたら、魔界に潜入した人間を捕らえる、特殊部隊みたいな奴らかも知れない。
のり子は胸元から十字架のペンダントを取り出した。
やるなら今しかない。
息の根は止められなくとも、十字架でひるませた霧之助を人質にして、ここから脱出するくらいはできるかも知れない。いや、やってみせる。やるしかない。人間であることがバレて捕まれば、恐ろしい目に遭うのは確実なのだから。のり子が意を決して立ち上がったその時、
「まあ、のり子ちゃん!」
ゴトリ、と回覧板が床に落ちる音に振り向けば、悲鳴を上げるおばさんと目が合った。
次の瞬間、とんでもない速さでおばさんが駆け寄ってきてのり子のペンダントを握りしめた。
「これ霧之助君と同じペンダントじゃない!」
「あ、ほんとだ」
霧之助が自分の胸元から、のり子と全く同じ十字架のペンダントを取り出した。
ぶっほぉぉぉ! と、のり子は見えない何かを噴き出した。
「おそろいのペンダントだなんて、もしかしてお二人はそういう関係なのかしら?」
「やめてよおばさん偶然だよ。御握さん転校してきたばかりなのに、からかったりしたら学校に行きづらくなるよ」
「ああそうよね。ごめんなさいねのり子ちゃん」
「このペンダントは去年の俺の誕生日に、D組の三途野川太郎君がくれたんだよ。俺のイメージだとか言って」
「分かるわ。霧之助君て十字架のイメージあるもの」
「そうかなー。こういうのは優也の方が似合うと思うんだけど」
――スデニ自分デ十字架ヲ身ニツケテイタ……。
のり子はへなへなとソファに座り込んだ。
どうやら十字架は、霧之助にとって何の効果もないらしい。
「……どうしたの御握さん、具合でも悪いの?」
ぐったりと項垂れるのり子を、霧之助が心配そうに覗き込んだ。
「おばさん、俺たちそろそろ帰るわ」
「あら、もう?」
「うん。無念の奴に声かけてっていいかな」
「もちろんよ! あの子きっと喜ぶわ!」
おばさんは嬉しそうに声を弾ませた。
「髪の長さなんてちっぽけなこと、いちいち気にするなって、のり子ちゃんも叱ってやってくれる?」
廊下の奥にあるドアの前に案内された。
ここが無念君の部屋らしい。
どんな髪型でも大丈夫だよって言ってあげてね、とおばさんは小声で言い、キッチンの方へと姿を消した。
静かな廊下に霧之助と二人でぽつんと佇む。
霧之助を見ると、相変わらず何を考えてるのか分からない表情で、ただドアをじっと見つめて突っ立っている。言葉が出てこないのだろうか?
(……ここはひとつ、私が無念君に声をかけてあげなくては!)
と思い、のり子は咳ばらいをした。
髪のことなんて気にしないで、どんな髪型でも君であることに変わりはないよ、だから早く学校に来てね、と元気づけてあげるのだ。
「――無念、俺だよ、霧之助」
ふいに、霧之助がしゃべり出した。
驚いたのり子は出かかっていた言葉を引っ込めた。
霧之助はどんな風に無念を励ますつもりなのだろう。のり子は黙って霧之助の話を聞くことにした。
しかし待てど暮らせど次の言葉はなく、ひたすら沈黙が続いた。そして静寂が三分を過ぎようとした頃――
「――待ってる」
霧之助の声が、誰もいない廊下に響いた。
「待ってるから」
三分の静寂を経て霧之助の口から出たのは、たった二言だけだった。
ドアの前に、みんなで作った千羽鶴とプリントを置いて、無念のマンションを後にした。
「あ、あの、霧之助君」
無念のマンションを出てしばらく経った頃、のり子は思い切って霧之助に疑問をぶつけてみた。
「さっきの、無念君に……、あんな一言だけで良かったんですか?」
「なんで?」
「だっておばさんが、髪の長さなんて気にしないでとか、言ってあげてって……」
「あー……」
霧之助は頭をぽりぽりと掻きながら、横断歩道の赤信号で足を止めて、
「――何が大切かなんて、本人にしか分からないことだから」
のり子は、はっとして、思わず霧之助の顔を見た。
霧之助は目の前を行き交う車の流れをぼんやりと眺めている。
「他人から見ればどうでもいいことでも、本人には重大なことって、あると思うし」
確かにそうだ。
のり子は幼少の頃、固形石鹸の空き箱を集めるのが大好きだったことを思い出した。
石鹸の箱はメーカーによって色んなデザインがあって華やかで、石鹸の良い香りがほんのり染み込んでいて、高く積み重ねた空き箱を眺めるのが至福のひとときだった。しかしその空き箱はある日、ゴミと間違われて捨てられてしまった。あれは宝物だったのにと涙ながらに訴えても、誰も理解してくれなかった。
「――青だよ御握さん」
気づけば信号は青に変わっていた。
霧之助の後に続いて、のり子も横断歩道を渡る。
〝待ってるから〟
あの一言は、きっと何よりも無念君の心を強くしたに違いないとのり子は思った。
しばらく歩くと三叉路が見えてきた。
俺はこっちだから、と背を向ける霧之助に「あの」と、のり子は声をかけた。
「もうひとつ聞いてもいいですか」
「なに?」
「さっき言ってた、人間かどうかは食事の仕方で分かるってどういうことですか?」
「ああ、御握さん知らないの? 人間って、全種類食べるんだよ」
「……は?」
「肉とか魚とか植物とか乳とか卵とか」
「はあ」
「人間は自分が一番偉いと思ってるから、地球上の生命を全部食べなきゃ気が済まないらしいんだ」
それは大きな誤解だ。
栄養のことを考えてバランス良く食べているだけなのに。
「俺たちはそういうのないもんね。B組の狐島九兵衛君なんて、朝昼晩ずっと油揚げだし」
「そ、そうですか」
「いけね、早く帰らないとドラえもん始まっちゃう。じゃあ御握さんまた学校でね」
足早に歩き去ってゆく霧之助の後ろ姿を、のり子は見つめ続けた。
――人間は自分が一番偉いと思ってるから、地球上の生命を全部食べなきゃ気が済まないらしいんだ。
霧之助の言葉を頭の中で反芻する。
あながち間違ってはいないのかも知れない、と、のり子は思った。
米粒ほどに小さくなった霧之助の後ろ姿に向かって、
「……今夜はMステ三時間スペシャルだからドラえもんはお休みなんですよ……」
と、小さな声でつぶやいた。
――その夜、のり子はベッドに入ってから、無念君に『戦国ハニー☆マーマレード組』のCDを渡すのをすっかり忘れていたことを思い出し、カボチャ男の報復が恐ろしくて一睡も出来なかった。