15. タコは苦手だけどたこ焼きは大好きなんです
「どういうことか説明してよお父さん」
のり子は父親の眼前に一枚の紙を突きつけた。
その紙には「私は生涯死ぬまでずっと閻道冥子を妻として愛することを誓います。神多真司」と書かれてある。
「いやー、まあー、説明すると長くなるんだが……」
「すいませーん、たこ焼き八個ください」
「へい、らっしゃい!」
のり子の父・梅座衛門は慣れた手つきでたこ焼きを焼き上げていく。
「――あいよ、たこ焼き八個お待ち!」
「ありがとーおじさん!」
小学校高学年と思われる男児はたこ焼きを受け取り、嬉しそうに走って行った。
ここは人間界にある、緑に囲まれた大きな森林公園の一角。「たこ焼き梅ちゃん」というのぼり旗を掲げた屋台で梅座衛門は働いていた。ねじり鉢巻きに藍色の作務衣を着て、額に汗を光らせながら次々にたこ焼きを焼いている。
「……ところでなんで当たり前のようにたこ焼き焼いてるのお父さん。オカマバーで働いてるんじゃなかったっけ?」
「副業だよ副業。オカマバーだけじゃ借金返せないからなあ。どうだのり子、お前も食うか?」
「そりゃ食べるよ。食べるけど先にこれを説明してよ」
のり子が誓約書を今一度梅座衛門の前に出した。
ここに霧之助のサインを書いてもらえば借金が全て清算される、と言って父から託された誓約書である。
「ちょっとした手違いで神多君が名前書いちゃったんだけど。冥子さんを愛するとか何これどういうこと?」
「神多君て誰だ」
「大学の友達」
「そりゃ大変だ。いいかのり子、よく聞け」
梅座衛門はたこ焼き用ピックを手元に置き、急にシリアスな顔つきになった。
「魔界では誓約書は絶対だ。一度署名してしまえば逆らうことは決してできない。従いたくないからと言って誓約書を燃やしたり破いたりした者は、恐ろしい罰を受けることになる」
「だからそんな恐ろしい誓約書になんでこんなフザケタ内容が書かれてあるのかを聞いてるのよ」
のり子が怒りに任せて梅座衛門の耳を強く引っ張ると、梅座衛門は「イタイイタイ」と悲鳴を上げた。
「……実はな、閻魔大王に頼まれたんだよ」
梅座衛門は涙目で耳をさすりながら言った。
「閻魔の娘が、魔界のフェンシング大会の中継をテレビで観てて、試合に出場していた吸血鬼の血坂霧之助にひとめ惚れしたんだとさ」
そうとは知らなかった。
霧之助が「面識がない」と言っていたのに冥子が転校初日に猛アプローチしていたのは、そういうわけがあったのか。
「でな、娘と吸血鬼の仲を取り持ってほしいと閻魔大王に頼まれたんだ。閻魔とは古いつき合いだから断われなくてな」
「古いつき合いなんだ。知らなかった。お父さん結構すごいね」
「で、吸血鬼の館に行ったんだけど……」
梅座衛門が言いにくそうに頭をぽりぽり掻いた。
「どうしたのお父さん。霧之助君の家に行って何をやらかしたの?」
「何もやらかしてないよ! ただほら、二人とも面識ないのにいきなり『閻魔の娘と結婚してやって下さい』とか頼むのおかしいだろ?」
「まあ……そうだね」
「だからまず初めにお互いをよく知る必要があると思ってさ、『閻魔の娘と一週間密室で過ごしてみませんか?』って言ったらソッコーで断わられてな」
「そりゃ断わられるよ」
のり子は深くため息を吐いた。我が父ながら情けない。
「そしたら閻魔大王がえらく怒ってなー。破談になったから違約金払えって。別に俺、結婚相談所とかじゃないんだけどなあ」
梅座衛門がぶちぶちと文句をたれながら、自分で作ったたこ焼きを食べ始めた。
「ていうかお父さん、なんで麻雀で負けたとか嘘ついたのよ」
「だって……キューピッド役を失敗したから借金背負ったとかカッコ悪くて言えないだろ」
「麻雀で負けて借金背負った方がカッコ悪いよ」
「だからその誓約書で、閻魔の娘と血坂霧之助を無理矢理結婚させたら、閻魔大王の機嫌も直るかなーと思ってさ」
「そんなのひどいよ。冥子さんはともかく霧之助君がかわいそうじゃん。サインさせなくて良かった」
「まあでも神多君とかいう子がサインしたんなら良かったじゃないか。冥子ちゃんめでたくお嫁さんだね」
「ちっともめでたくないよッ!」
のり子は人目もはばからず大声を張り上げた。
死んだと思っていた父が実はオカマバーで働いていたという事実だけで大衝撃だったというのに、わけの分からない誓約書まで押しつけられて同級生が地獄へ婿入りの大ピンチである。梅座衛門の呑気すぎる対応にのり子の堪忍袋の緒もついにブチ切れた。
「冥子さんは絶対神多君のこと好きじゃないと思うし、神多君だって熱血キャラがかなりうっとうしいけど普通の人間なのに閻魔大王の娘と結婚なんてハードすぎてかわいそうだよ! なんとかしてよ! 全部お父さんのせいなんだからね! 責任取ってよ!」
「まあまあ、ちょっと落ち着きなさいのり子。これでも食べなさい」
できたてアツアツのたこ焼きを差し出されたので反射的に受け取ってもぐもぐ食べてしまった。すると、徐々に気持ちが落ち着いてきた。温かくて美味しい物を食べると誰でも心が豊かになるものである。
「――あのなのり子、近いうちにお父さんも魔界へ行こうと思ってたとこなんだよ」
梅座衛門が穏やかな声で言った。
「黄泉の鳥居付近で行方不明者が多発してるの、お前も知ってるだろ?」
「うん。神多君から聞いたよ」
「案外、お前が原因かも知れんな」
「んぐっ……」
のり子はたこ焼きがのどに詰まりそうになった。梅座衛門が出してくれたほうじ茶を一気に飲み干した。
「――びっくりした。なにそれお父さん。なんで私が原因なの?」
「お前が人間界と魔界を頻繁に出入りしているのを、誰かに見られたのかも知れんと思ってな」
「見られたからって……、それと行方不明者と何の関係があるの?」
「そりゃあ、魔界に興味ある奴なら、自分も行ってみたいと思うもんだろ」
神多が言っていたことを思い出した。
ここ百年ほど、魔界の住人が人間を連れ込んだ記録はないと。
なのでもし行方不明者が魔界に入り込んでいるとしたら、それは魔物にさらわれたのではなく、人間が自主的に魔界へ入っているのだ。
「……魔界に行きたい人なんているのかな。怖いとか、魔物に殺されちゃうかもとか考えないのかな」
「世の中には色んな人間がいるもんさ」
「確かに。神多君すごく楽しそうだもんね。私なんて最初は死ぬ思いで黄泉の鳥居をくぐったのに……」
のり子は、黄泉の鳥居を初めてくぐった日のことを思い出した。
あの時は父が吸血鬼に殺されたと勘違いしていて、復讐のために魔界へ足を踏み入れたのだ。仇討ちの目的がなければそんな危険な行為は絶対にしなかったと言い切れる。なので自ら進んで魔界に行く人間がどうしても信じられない。そんな命知らずな冒険野郎が神多の他にもいるのだろうか?
「――魔界ツアー参加者の方はこちらにお並び下さーい!」
たこ焼き屋台のすぐそばに、突如として人がたくさん集まり始めた。
「今から黄泉の鳥居に向かいますので、はぐれないようについてきて下さいねー!」
三十歳前後と思われるスーツ姿の男性が、「魔界ツアー御一行様」と書かれた旗を持ちながら歩き出した。彼の後ろには旅行バッグやスーツケースを持った旅行者らしき人たちが二、三十人、ぞろぞろとついて歩いている。
「魔界ってどんなとこかな」
「デジカメ持ってきた?」
「もう人間界には未練なんてないしな」
「今月クビになってさ」
「また浮気されちゃってさ」
「俺には魔界の方が合ってると思うんだ」
「人間界に私の居場所はないの」
「魔界で新しい人生をスタートさせるんだ!」
「向こうで修行すれば魔導士とかになれるのかなあ?」
年配の男性から学生服を着た女の子まで、幅広い層の人たちがみな、期待に満ち溢れた瞳で列をなして歩いている。
「……お、お父さん、あれ……」
「うん、あれだな」
梅座衛門が鉄板の穴に生地を流し入れ、再びたこ焼きを作り始めた。
「ちょっとお父さん! 止めなくていいのっ?! 今から黄泉の鳥居に行くみたいだけど!」
「まあー、本人が行きたいって言ってるんだからいいんじゃないかなー」
「そんな無責任なこと言ってないで止めようよ!」
「でもまだたこ焼きの仕事が残っているし――」
スッ、と梅座衛門の空気が変わった。
のり子はこの父の姿を幼い頃からよく知っている。
「――いかん! 邪悪鬼だ!」
梅座門が突然走り出した。手には刀を握っている。のり子も慌てて後を追いかけた。
噴水の広場を抜けて、バラ園を通り、その奥にある林の中へ飛び込んだ。木々が鬱蒼と生い茂っていて薄暗く、人気もない。
「――助けてえ!」
さらに奥へ進むと少年が倒れていた。さっきたこ焼きを買った男の子だ。
「のり子! 手をつかめ!」
父に言われるがまま、のり子はとっさに少年の手をつかんだ。
よく見ると少年の膝から下が、ブラックホールのような黒い渦の中に飲み込まれている。
「悪鬼退散っ!!」
梅座衛門が素早くブラックホールに刀を突き立てた。
「うわあっ!」
黒い渦が四方に弾け飛び、衝撃でのり子と少年の身体は吹き飛ばされた。
「――大丈夫っ? 怪我はない?!」
のり子が泣きじゃくる少年を抱え起こした。幸い、どこにも怪我はないようだ。
「……今日はこれで三度目だ。悪鬼の数が多すぎる。いくらなんでもおかしい」
梅座衛門が刀を鞘に収めながらため息を吐いた。
こんな恐ろしいことが今日だけで三回も起きているなんて、のり子は思わず少年の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
黒い渦があった場所を無言で見つめる父の背中に、のり子は何と声をかければいいか分からない。静かな林の中に、少年の鳴き声だけがいつまでも響いていた。
「――そろそろ潮時かも知れんなあ」
男の子を自宅まで送り届けた後、夕暮れの大通りを歩きながら梅座衛門がぽつりとつぶやいた。
「これまで人間界と魔界はそれなりに共存してきた。だが最近バランスが大きく崩れてきている。ここらで手を打たなければならない」
「手を打つって……どうするの?」
不安そうに訊ねるのり子の顔を、梅座衛門はじっと見つめて、
「黄泉の鳥居を壊すんだ」
少し寂しそうな笑顔で言った。
「鳥居を壊してしまえば、魔界と人間界を行き来することは一切できなくなる。……表向きはな」
「表向き?」
「魔界の住人は、人間と違って様々な特殊能力を持っている。鳥居がなくてもあの手この手で人間界へ来ることができるだろうさ。まあ、今までのように簡単ではないだろうがね」
「人間は……どうなるの? 人間が魔界へ行く方法は……」
「鳥居がなけりゃ、人間が魔界に行く術はゼロだ」
――魔界へ行く方法はゼロ。
そりゃそうだ。
そりゃそうに決まっている。
私ってばどうかしてる、とのり子は自嘲気味に笑った。
「――お前にとっては今まで通りの生活に戻るだけだよ」
何も心配しなくていい、と梅座衛門が優しく言った。
のり子は何とも言い難い気持ちになった。この気持ちを言葉で表せと言われても、複雑すぎてできそうにない。
ただ一つ言えるのは、決して楽しい気分ではない、ということだけだった。
***
「――こんなとこで何してるんですか」
翌日、綾菓子学園へ登校すると、鞄はあるのに閻道冥子の姿がどこにも見えない、とクラスのみんなが心配していた。
昼休みにのり子が屋上へ来てみれば、隅の方で膝を抱えてうずくまっている冥子の姿があった。
「冥子さん、朝からずっとここに一人でいたんですか?」
のり子が訊ねると、冥子はこくりと小さく頷いた。なにやらいつもと様子が違う。普段の冥子なら「なんであんたにそんなこと話さなきゃいけないのよ」なんてキレながら言いそうなものだ。
「私もここに座っていいですか?」
冥子がまたこくりと頷いた。なんだか調子狂っちゃうなあと思いながら、のり子は静かに腰を下ろした。
「……あの誓約書のこと、パパに話したの」
冥子が小さな声でぽつりと言った。
あの誓約書というのは、神多が署名した例のアレのことか。
神多が黒板に貼りつけたあの時、浮かび上がってきた文章を見て、冥子はただ青い顔をして立っているだけだった。冥子の性格からして「なによこの誓約書は!」と激怒して破り捨てるかと思いきや、それをしなかったのはやはり魔界の掟を知っているからなのか。
「お父さんは、何て言いました?」
「パパは……、『嫁にしてくれるんだったらもう誰でもいいじゃん明日にでも結婚しちゃいなよ』って言うの……」
閻魔大王が自分の娘の結婚に投げやりである。
いや、投げやりではなくこれはむしろ娘の将来を心配する親心かも知れない。相手は誰でもいいからとにかく一日も早く結婚して欲しいという父親の思いがビシビシ伝わってくる。閻魔大王はなぜそんなに早く娘に嫁いで欲しいのだろうか。
「で、でも、ほら、冥子さん若いし、結婚なんてまだ早いですよね」
「……実は冥子ね」
冥子がゆっくりと空を仰いだ。
「……実は冥子、今年で八万三千三百歳なの」
相手を選んでる場合じゃないのかな……と、冥子は項垂れた。
八万三千三百歳が結婚適齢期を過ぎているのかどうかが分からないのり子は何も言えなかった。