中編
薄く積もった雪を踏みしめるたびに、キュッキュと小さく音がする。道路を覆った白い道の上に、フィンのスニーカーの靴跡が残されていく。
少年が教えた住所は、クリスマスツリーの広場から歩いて二十分程の小さな裏通りの一角の家だった。表通りの華やかさに比べ、ひっそりと寝静まった住宅街の雰囲気がある。昔風の煉瓦造りの壁、淡い緑色のドアにクリスマスリースが飾られている。そこがホーリーという少女の家だった。初めて来た場所なのに、フィンは一目見てそこがホーリーの家だと分かった。玄関先に備え付けてある郵便受けには、少年が言ったのと同じ住所が書かれてあった。
「ホーリー・ロリス」
郵便受けに書かれている名前を、フィンは口に出して読んでみる。名字は聞かなかったのによく分かったものだと、フィンは今更ながら自分で感心した。それと同時に、書かれている名前が少女一人の名前だと言うことを疑問に感じる。
──もしかしてホーリーというのは年上の大人の女なのか? いや、それならこんな赤い帽子なんか……それに、彼奴は、ホーリーって子に、とか言ってたし……。
首を捻りながらも、フィンはドアのチャイムを鳴らす。二、三度慣らして、しばらく待ったみたが、中から人が出てくる気配はなかった。家の電気は消えたままだ。
「こんな夜中に起きてはないか……」
フィンは帽子を郵便受けの中に入れようとした。と、その時、真っ暗だった家の窓に灯りが灯る。そして、ガチャガチャと鍵を開ける音がした後、リースが小さく揺れ緑色のドアがゆっくりと内側に開いた。
「……」
お互いの顔を見合わせ、しばらく沈黙が続く。
フィンが想像していたホーリーは、あの少年と同い年くらいの幼い少女だった。
「……あの、ホーリー・ロリスさんは……?」
おずおずしながら、フィンは口を開いた。
「ホーリー・ロリスは私ですよ」
彼女はにっこりと微笑みかける。顔中しわだらけにして、メガネの奥の目を細め、嬉しそうにフィンを見上げる。ホーリーは八十は超えていそうな老婆だった。
「あら、その帽子は……」
言葉を失って突っ立っているフィンが手にしている帽子に気付き、ホーリーは目を丸くする。
「もしかして、イネスに頼まれたのですか?」
「イネス……?」
「小さな男の子です。多分、雪の結晶の柄のマフラーと手袋をしていたはず……さっき、イネスの夢を見たばかりなのですよ」
口をポカンと開けたまま、フィンはホーリーの言うことを聞いていた。どうやらさっきの少年の名前はイネスのようだ。ホーリーは彼の服装まで言い当てた。自分は夢でも見ているのだろうか? 不思議なことばかり起きる。
冷たい風が吹いてきて、粉雪が開いたドアから家の中に入り込んできた。
「さぁ、さぁ、中に入って暖まりなさい。ココアでも飲みながらお話しましょう」
優しい目をして、ホーリーはフィンを招き入れる。年をとり少し腰も曲がっていたが、彼女はレディのような品があった。
「あなた、お名前は?」
ゆっくりとした足取りで歩きながら、ホーリーはフィンにたずねる。
「あ……フィンです」
フィンは誘われるまま、家の中に入って行く。暖房のよく効いた温かい家。氷のように冷たくなっていたフィンの体は、次第にほかほかと暖まっていく。
「さあ、どうぞ」
ホーリーはテーブルの上にココアの入ったカップを二つ置いた。カップからは白い湯気がたっている。暖炉のある部屋に案内され、フィンはふかふかのソファに腰掛けていた。
「ありがとうございます」
ホーリーはフィンに微笑みかけると、ゆっくりとした動作で、向かいのソファに腰を下ろした。フィンは陶器のカップに口をつける。温かく甘いココアが、フィンの喉元を通り過ぎる。
「フィン、あなたはイネスに会ったのですね?」
暖炉の火とココアの暖かさで緊張の弛んだフィンに、ホーリーはたずねた。
「え? えぇ、ちょうどさっき小さな男の子に、この帽子を届けて欲しいと頼まれて……」
テーブルの上に置いた小さな縞模様の帽子にフィンは目を落とす。
「そうですか……イネスは元気そうでしたか?」
ホーリーは両手で包み込むようにカップを持ち、フーと息を吹きかけた。その時ホーリーのガウンの裾がめくれて、手首にしているブレスレットがフィンの目に入った。それは、フィンが彼女に買った木彫りのブレスレットと同じ柄をしていた。
「あの……そのブレスレットは?」
フィンは思わずホーリーにたずねた。
「ああ、これ。昔、私がデザインして作ったものなんですよ」
ホーリーは穏やかに笑った。
「木彫りのアクセサリーを作る仕事をしていたのです。もう、随分前のことになりますけれどねぇ。雪の結晶の柄が大好きなんです」
「雪の結晶柄……」
フィンは自分が捨てたブレスレットのことを思う。そう言えば、イネスという少年も雪の模様のマフラーと手袋をしていた。
「イネスという男の子とあなたはどういった関係なんですか?」
フィンは顔を上げ、ホーリーを見る。
「あっ……」
ホーリーが座っているソファの向こうの棚に目がいったフィンは、そこに飾ってあるフォトスタンドの写真を見て驚いた。セピア色をしたかなり古い写真。小さな男の子と女の子が並んで立っていた。楽しそうに笑いながら、手を繋いで寄り添うように立っていた。 男の子はさっきの少年、イネスだ。ほんの少し前に会った時と同じ格好で写っている。茶色いコート、グレーのズボン、雪の結晶模様のマフラー、さっきは被っていなかったが、マフラーや手袋と同じ柄の帽子も被っていた。
「イネスの写真ですよ」
フィンの視線の先をたどり、ホーリーは振り向いて言った。
「隣りに写っている女の子は私です」
「えっ……!?」
「あのクリスマスの日の朝に撮った写真です。私はこの帽子を被っているでしょう」
唖然としているフィンに、ホーリーは優しく微笑みながら 答えた。
「けど、あなたはまだほんの子供……僕はさっきイネスに会ったんですよ?」
フィンはまじまじと写真を見つめた。年老いたホーリーがおかしなことを言っているとも思えない。確かに写真の女の子はホーリーの面影を残し、頭にはテーブルの上にある縞模様の帽子を被っている。
「神様がクリスマスの日にフィンを地上に降ろしてくれたのですね……」
ホーリーは遠い目をして微笑む。その瞳は子供の頃と同じようにキラキラと輝いていた。
「じゃ、イネスは……彼はもうこの世にはいないと」
「イネスは永遠に子供のままですよ。イネスは私の大切な友達でした……」
ホーリーはココアのカップをテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「今日はクリスマス。私もイネスに届けてもらいたいものがあります」
「え? けど、もう彼は──」
イネスは姿を消してしまった。また現れるかどうかも分からない。だが、ホーリーは嬉しそうに微笑みながら、奥の部屋へと歩いて行った。
「これを……これをイネスに届けて欲しいんです」
ゆっくりと戻って来たホーリーは、緩慢な動作でテーブルの上に何かを置いた。
「これは……」
フィンは食い入るように、ホーリーの帽子の隣りに置かれた物を見つめた。
それは手編みの帽子だった。ちょうどホーリーの帽子と同じくらいの小さな帽子。白い毛糸に雪の結晶の柄、帽子の先には赤いぼんぼんがついている。かつては真っ白だったであろう帽子は、すっかりくすんで色あせている。
「雪の結晶柄の帽子……」
「イネスの帽子でした」
ホーリーはヨイショとかけ声をかけ、もう一度ソファに腰を下ろした。
「イネスが私に貸してくれたんですよ。私の帽子が風で飛んで湖に落ちてしまったものですから……イネスは優しい子でした」
ホーリーはまた昔を懐かしむように遠い目をする。微笑んでいるような悲しんでいるような瞳をして、瞬きを繰り返す。
「イネスは氷の張った湖まで降りて、私の帽子を探しに行ってくれました。直ぐに帽子を見つけてくれて、私に手を振って合図してくれたのですが……湖に張った氷が割れて、イネスは湖の底に落ちてしまったんです」
「……」
フィンは目を伏せる。
「直ぐに助けを呼びに行ったのですが……イネスの遺体も私の帽子も見つかりませんでした。でも、イネスはずっと私の帽子を持っていてくれたのですね 」
ホーリーは頬にこぼれ落ちた涙を拭い微笑んだ。
「私もずっと、イネスの帽子を大切に持っていました。こうして、イネスに届けてもらえることが出来て良かったです。今まで帽子がなくて、頭が寒かったでしょうから」
ホーリーは笑顔で言うと、テーブルの上に二つ並んだ帽子を愛おしそうに眺めた。
「イネスに届けてくれますか? 今日はクリスマスですから」
「あ、えぇ……」
フィンは曖昧に頷いた。年老いたホーリーが、幼子のようなキラキラした瞳をしてフィンを見つめている。何十年も大切に持っていた幼なじみの帽子。ホーリーの頼みを断ることは出来なかった。フィン自身も、もう一度イネスに会ってみたいと思った。
イネスはフィンの元に現れてくれるだろうか? クリスマスの奇跡は、また起こってくれるだろうか……?
──もう一度、サンタクロースになってみるか──
ホーリーに手渡されたイネスの帽子を持ち、フィンは夜明けの近いクリスマスの街へ再び戻って行った。