恐慌対策 その他
何とか、大手3社の道筋を作った幸一達だったが、残るベンチャー企業の位置付けで銀河社の100%子会社として起業した、大阪精錬所、浪速電気精密加工株式会社が低迷していた。
大阪製錬所は、開業当時は平均年齢22歳と言う若い社員5人から始めた会社だった。
しかし大阪製錬所の業務内容からしてこの時代向きではなかった。
業務内容:ゲルマニウム鉱石、珪素精製
すなわち半導体チップのベースであるゲルマニウムやシリコン材料の純度を100%にする業務内容の会社であり、真空管全盛期で半導体の基礎研究や原理が解ってなかった時代に、あまりにも先取りしすぎた企業だった
流石にそれだけでは、企業収入が無く企業としてやっていけないので、当時の主な商品は
純酸素 純水素 ドライアイス 純銅、純錫で売り上げは多いが経費がかかり利益が少ないと言った商品で、いつ赤字転落し倒産するかわからない危うさがあった。
それでも、試行錯誤しながら金属の塊を、溶解させながら加熱位置を動かすことにより不純物を取り除く方法に行きつき、ゲルマニウムの純度を上げることに照和2年に成功する
出来たゲルマニウムやシリコンを大阪商工技術高等学校に持ち込み、物理研究者達の好奇心を大いに刺激してトランジスターやダイオードの研究を加速させていった。
浪速電気精密加工株式会社も低迷していた会社だった。
この会社の主な業務内容は、
半導体部品・真空管開発及び製作、電気回路製作
この会社も大阪製錬所と同じく、開業当時は平均年齢22歳と言う若い社員5人から始めた会社だった。
こちらの会社は大阪製錬所に比べて少し恵まれていたのは、持ち前の電子回路作製技術と、真空管の開発技術で、当時流行りだしたラジオを作れたことである。
独自設計の電子回路と自社製真空管により、最初の試作機はとんでもない物だったが、改良が進み音質の良い高感度のラジオを製作したところ、ノイズが少なく音楽を聴くのに最適なラジオとして、音楽業界と放送業界に口コミで広まり有名になり、注文が相次いだ事が会社の経営危機を救っていた。
しかし、この会社の本来の業務内容は、半導体開発製造だった。
大阪商工技術高等学校で研究が進み、トランジスターやダイオードの特性がわかると、それを元に真空管に代わる部品として、独自のトランジスターやダイオードを製作し、新たな電子回路を作り電子機器の可能性に挑戦していった。
手工業的なダイオードやトランジスターの生産だったが、ある程度の歩留まりで良品の生産が安定すると、幸一達は高性能なトランジスターラジオの製作と、車載及び航空機用無線機の作製を指示。
この無線機が軍の目に留まり、最初は司令部間の無線機器として採用され、小型化に改良されて航空機や戦車の機載無線機に採用されていくのだが、十二試艦上戦闘機、後の零戦11型には開発が間に合わず機載することが出来なかった。
戦車には、四式中戦車が最初に搭載し、航空機には艦上攻撃機『天山』が最初となった
大阪製錬所は、材料となるゲルマニウムやシリコンの純度を高め、出荷前に円筒形に加工した物を薄くスライス、ウエハー状に加工し、表面を鏡面研磨することにより、半導体の作製が可能な材料供給会社として技術を高めていった。
浪速電気精密加工株式会社は、大阪製錬所から納入されたゲルマニウムやシリコンのウエハーを、大阪商工技術高等学校で研究開発されたトランジスターやダイオードを量産し、自社開発の電子回路に組み込んで、無線機の開発にあたった。
その派生で、大阪商工技術高等学校内でマグネトロンで電波の研究をしていた学者と、電波の送受信に関するアンテナ研究していた学者が共同開発として、電波による精密距離測定の実験に成功した。
そこに使われていた機器には、当初は真空管を使用されていたが、半導体を研究している学者に、トランジスターやダイオードで作れば精度も消費電力も格段に良くなるのでは?と言うアドバイスと研究協力を受け、小型高出力高性能な電波探査機が開発された。
世界恐慌から4年がたち、金本位制度を日本が辞め、為替相場制に切り替えたことにより、円安になり輸出量が増えて経済的に安定してきた。
銀河社では、活動の場が広がり、全員が出張で日本全国を飛び回る忙しさで、銀河社としての内勤を、美由紀が全て引き受けていたが、流石に多岐に亘る書類の整理精査、問い合わせ量の増大で、美由紀1人でする仕事量とは思えないほどになり、銀河社でも社員として男女3名づつ合計6人を雇用をした。
これにより、銀河社の社長 サファイヤ、営業部長 津田幸一 技術部長 村山政史 企画部長 橋本正 総務部長 仲野美由紀 人事部長 藤川拓哉 外商部長 石井明美となって、新たな社員6名と銀河社の経営がスタートした。
そこへ約6年ぶりに、さよりが日本に帰国してきたのであった。




