恐慌対策 木津川造船
銀河社の指導により、いち早く最新技術の導入と重工業化にシフトしていた木津川造船会社は、不況の中貨物運送の合理化と効率を上げる為に、コンテナ輸送を提案して、新造船の開発に乗り出していた。
この新造船は、なにわ汽船へと引き渡された。
これは、兼松商店がオーストラリアから羊毛と鉱石を運ぶ時に、どうしても貨物船の運行の都合上同じ便の船に積む事になるので、荷揚げ荷降ろしの時に船倉で鉱石が羊毛を汚してしまう事の対策から生まれたものだった。
当初は、仕切りを設けたり鉱石も木枠梱包していたが、鉱石の重さの為壊れやすく、その時に粉塵が舞い
羊毛に埃のように鉱石の粉がかかって、取り除くのに手間がかかるので、何とかしてほしいと言った苦情が続発したため、そこで考え出されたのが、コンテナ輸送だった。
羊毛を運ぶのに従来の麻袋や木枠梱包に比べて、気密性が高く湿気汚れに強いことから、羊毛の品質の劣化が少なく、羊毛は汚れないし、鉱石はバラけないで荷揚げも楽になり管理も簡単と良いことづくめだったため、兼松商店とも話が進み、日本初のコンテナ船が生まれたのであった。
木津川造船にとっても、コンテナを作るのは初心者や中級者の電気溶接の練習課題としてちょうどよかったのである。
しかしこの時代、港にコンテナ用のガントリークレーンがあるわけじゃないので、コンテナの積み下ろしは船に着けられたクレーンによって行われた。
それでは効率が悪いので現在、コンテナ埠頭としてシドニーと神戸港にはガントリークレーンを建築中だった。
フェリーの造船より先に、フェリー埠頭をどこに作るかで考えた結果、大阪築港と神戸青木港と
高松築港、大分港の4か所に作ることに。
理由は、本州と九州四国を結ぶ道路が無いため、直接貨物自動車で乗り付けれない場所を考えた結果だった。
九州の場所を大分にしたのは、國光商店の石油精製所があるためだった。
まずは高松港と神戸青木港に、なにわ汽船が自前で作ったフェリー埠頭を見せ、フェリー運用で
物流の改革と公共事業にもなるということで、大阪府と大分県からの助成金をもらい、大阪築港と大分港にも整備した。
これらの新造船を見ていたひとりの男性が、木津川造船の元にやってきて、新型の駆逐艦の造船を依頼してきた。
その男性というのは海軍艦政本部に籍を置く海軍造船少将 藤本喜久尾だった。
知り合いの紹介で、新しい技術に新しい発想で、今までに無かった船を作り出している造船所があると教えられ、コンテナ船とカーフェリーを視察してから、木津川造船所に新しい設計の新型駆逐艦を作らせてみようとやってきて、契約していったのであった。
しばらくは、軍関係の仕事は無いと思っていたので、現場は大騒ぎになってしまった。
軍の要望に応える形で新型の丁型駆逐艦を岡山発動機株式会社とともに造船するのであった。。
受注した丁型駆逐艦は、排水量1300トンの小ぶりな駆逐艦で、主に潜水艦や航空機からの脅威から艦隊を守るための護衛駆逐艦で、藤本の希望であった、船体は全電気溶接にて造船し、主機関としてディーゼルエンジンを2基備え付けた、今までとはまったく違うコンセプトで設計された駆逐艦だった。
しかし藤本が指示した設計図では、設計強度上に無理が有った為、かめちゃんが一部設計図を勝手に改修して、低重心で復元性を高めた艦として、生まれ変わっていた。
その事を聞かされていない藤本は、造船現場を視察した時に設計変更箇所に気付き、社長と現場責任者を呼びつけ激怒した。
しかし、社長も現場責任者も動じず
「電気溶接のなんたるかをご存知ない方の設計でしたので、このままでは、船体に無理な力がかかり
最悪転覆の危険性が有りましたので、僭越ですが一部改修させて頂きました。もし、それが原因で
何かあれば、全て責任を我が社が被りましょう。」
と社長が言い切ったことで、
「よし、その言葉を忘れてるな!横須賀と佐世保で同型艦を造船させている。その二艦に比べ少しでも性能が下ならば、今回の造船費用は一銭たりとも払わん!良いな!」
激昂した藤本とは対象的に木津川造船の社長は、落ち着いて静かに
「かまいません。もし、我が社の方が性能が上でしたら、どうお考えでしょうか?」
と問いただした。自分の設計を馬鹿にされたと思い、頭に血が上っている藤本は
「ふん!そのようなことはあり得ないが、もし、万が一有ったとしたら、この支払い額を倍にして、新たに5隻発注しようではないか。」
と、言い切った。すかさず社長が
「わかりました。では、言った言わないになってはいけませんから、証文を作成しますが宜しいですかな?」
その言葉に藤本は、
「自分の首を締める様なものだが良いのか?」
「自信がありますので。」
と、木津川造船の社長は、微笑んだ。
署名は、藤本と社長、立会人として木津川造船側は現場責任者の斎藤、軍側は、藤本に同行して来た憲兵隊中佐が証文に署名し、公試の日が楽しみだ。と言って藤本は帰って行った。
その姿が消えるまで、見送り微笑みを崩さなかった社長と現場責任者の斎藤が、何も言わず社長室に入るなり真っ青な顔になり、頭を抱えて床に座り込んだ。二人は顔を見合せ
「どうしよう。あんなこと言って大丈夫だったんでしょうか。社長!」
「だ、大丈夫だ。と思う。たぶん」
「たぶんって!ぜんぜん大丈夫じゃないでしょう!」
斎藤は、絶叫した
「あの方の言われるまま言ったんだ。大丈夫なはずだ。それより、工程は間違いなく進んでいるか?」
「それは大丈夫です。作業している職人達は、全て熟練工で固めましたから。」
「それでいい。溶接強度は非破壊検査を入念な。」
「解っています。」
二人が落ち着きを取り戻し社長室を出たのは、それから三時間後のことだった。
半年後、新型駆逐艦三艦が艤装も終わり、並んで御披露目され同日に3艦同時の公試が行われた。
初の民間造船所で造船された駆逐艦が、どれだけの出来か見てやろといった軍関係者が集まった。
木津川造船の社長と現場責任者も参加させられていた。
公試が始まる前は、軍艦の構造も知らない民間造船所が出れ程のもんだ?今まで通りに貨物船を
作っていればいいのにと言った陰口を叩かれていたが、結果は木津川造船製の圧勝で終わった。
同じエンジンを積んでいたのにもかかわらず、他の2隻は30ノットなのに対し、木津川造船製の艦だけ、速度は最高40ノットを記録。
高速旋回時の安定性。旋回半径の小ささ。どれを取っても負けなかった。
この結果を見て藤本は、木津川造船の設計変更の効果と、認めざる得なかったのだか、負けた他の造船関係の関係者は、
木津川造船は昔から岡山発動機と付き合いがあり、木津川造船だけに馬力の大きな特別なエンジンになっていたと訴えた。
この訴えを受けて海軍艦政本部は、徹底的に木津川造船と岡山発動機を調べた。
半年にも及ぶ調査の結果わかったことは、
1,エンジンは同型で同出力だったこと。
(エンジンを取り外し載せ替えて試験をしても速度については、変わらなかったことで証明された)
2,エンジンの配列が違ったこと(木津川造船製はシフト配置方式を採用)
3,動的復原性を考慮しての、低重心にするための工夫がされていたこと
4,船体の排水量が設計時1300トンが1600トンに増大していたこと
5,スクリューの形状が変更されていたこと
の5点が判明して、エンジンによる優劣による差ではなく、外洋高速貨物船を手掛けてきた木津川造船の蓄積された技術と経験を盛り込んだ結果、性能に差が出たものとされた。
この評価を受け、訴えた各社は木津川造船の技術の高さにど肝を抜かれたのであった。
実際には、播磨製鋼から最新の鋼材を使用したのも大きかったのだが、その事に付いては社外秘とされていた。
しかもその後起きた第四艦隊事件で、木津川造船製の駆逐艦はどこにも歪みが発生しなかったのに対して、他社の駆逐艦には歪みどころか亀裂、寸断、破損していた。
原因は、三菱、川崎を含む軍艦造船に関わった企業の電気溶接技術が未熟であったため起きた事件であった。
電気溶接は弱く使えないという風潮になりかけたが、木津川造船製の艦が異常がなかったことを踏まえて海軍は、造船各社に対して今回の事件は、『電気溶接技術の未熟が原因である』と断定した内容の文章を各社に通達し改善を要求した。
それにより各社は電気溶接の技術向上の為に、木津川造船に技術交流という名目で、自社の溶接工を数人預けて教育してもらい、木津川造船からも数名が各社に出向き、溶接技術を講習していくことになった。
この木津川造船が建造した造船した丁型駆逐艦は、速度は39ノット(公表)、高速で小回りが利き、
長期の艦隊行動もとれるが、主武装が、12センチ連装高角砲2基 25ミリ3連装対空機銃4基
爆雷射出機前後に2基づつと言う、特型駆逐艦に比べ貧弱な武装だが、水中深信儀や電探装備が充実しており、艦隊防衛に特化した駆逐艦だった。
その為か当初は、水雷屋と呼ばれる駆逐艦乗りには評判の悪い船だった。
理由は、魚雷発射菅が一つもなく、敵大型艦に対して対艦攻撃できず、ただの護衛勤務しかできない苛立ちからだったが、大戦中後期にかけて、護衛の重要性が増すと、敵潜水艦からはシャークキラーと恐れられて、空母や戦艦からしてみればありがたい存在と成っていった。
後に秋月型防空駆逐艦へと進化する護衛駆逐艦の先駆けだった。




